EMINA 昇 癒しびと
EMINA 癒し人 Ⅰ 瀬川 昇は、神奈川にある大学を卒業すると、日本の大手の商社に就職した。 が、その後派遣され5年近くを勤めた東欧での駐在員を辞め、今は遠くブラジルに住む新人時代の親友 尾崎 孝之に手紙で別れを告げ、そのまま放浪の旅に出た。 ひとりになって、アジア、アフリカ、そして中東、中南米と第三世界の国々を歩いてみたかった。 エリートの会社勤め時代の自分の目には見えていなかった、素朴な人どうしの新しい出会いがそこにはあった。数年して、瀬川は旅の途上から、東欧の支社で世話になった上司に当て便りを送った。 " ご無沙汰しています。お元気でしょうか。 当地では、お世話になりました。 駆け出しで緊張する僕を気遣い、先輩は今では懐かしいあのロマンチックな苔むした街外れのカフェによく連れ出していただきましたね。この店のワインはうまいんだ、などと言いながら、先輩らしい深みのある語り口で、あの美しい東欧の小国の苦難の歴史をお聞かせいただきました。いつしか空には銀色にきらめく星が流れていました。 そして、その後の二人でする大きなプロジェクトのこと、ご親切にアドバイスくださいました。 いつかお酒が進んだとき、たった一度ですが、先輩の若いころの’5月革命’のパリでのお話きかせていただきました。 美大留学中の奥様と出会い、改革を求める学生や労働者のデモのエネルギーの奔流の中、ともに過ごした日々のこと・・。 ひとつひとつのエピソードがまるで映画のシーンか詩の一節のようで、思わず聞き入ったものです。 結婚されてお二人で過ごされた、この中欧の穏やかで美しい街での心温まるお話、若かりし日のこの地への思いが伝わってくるようでした。 そしてその後の愛する奥様のご不幸・・、確かおひとり、日本に残した高校生のご子息がいらしたのでしたね。 寂しいお話でしたが、僕にはとても素敵で身近に感じられるお話でした。いつか僕も先輩のようなそんなドラマテイックで、ちょっとほろ苦い生きざまをしてみたいとも思いました。 星降る夜、山のふもと、古城の傍らにあるその、奥様ともよく通われたというカフェ・・。 何かもったいなくて少し場違いなたとえなのかもしれませんが。・・あの頃は、まるでいにしえの大陸の’水滸伝’に登場する義兄弟たちの契りのように、男どうし美酒を傾けましたね。 僕には、いつもかけがいのない先輩でした。 様々な歴史に翻弄された東欧の小国の歴史と伝統、そしてそうした異邦にいるからこそ改めて目覚める我々日本人としての自覚、何か広く普遍的な何ものかへの志を、静かに語ってくださいました。 先輩は、僕の懐の奥にひそかに温めていた理想や夢をそっと察すると、いつの間にかオブラートに包み込んだ’メタファー’(たとえ)で、僕にとっての最善の進むべく方向を指し示し、語ってくださいました。 そして、いつか僕が自分の前から一人去っていく日が来るかもしれないな・・、とおっしゃってましたね。でも、それが本当は君らしいとも・・。 いつかの先輩の言葉、おぼえてます。’・・ 外国の異質な歴史と風土が醸し出すその空気を嗅いで、異邦人としてこの街の石畳の上にひとり立ったとき、初めて自覚できる日本人の魂というか、特殊性に気づく・・。 そう、我々の遺伝子のどこかに眠る和(輪)を尊び、弱者を思いやる惻隠(そくいん)の情は、言われずとも一度目覚めれば、忘れはしない・・。 ヨーロッパの歴史は、どれも新旧の対立と破壊抹消、そして新生による体制の交代劇だった。その背後に、いつも決まって両陣営に巣食う巨大な独占的な富と金の流れが伴っていたはずだ。多くの知恵が陰謀と詭弁に用いられた。 一方、何万年の古えより江戸に至るまで、明治で欧米化される以前は、我々の祖先は古い価値や文化、時代の精神を統融合しつつ、新たに次の体制に引き継いでいった。そこには不思議と抹消廃絶の観念は希薄だったといわれる。それが遺伝学的に特異な日本人の染色体構造に反映されているといわれている。そこでは多様な種族の遺伝子が混合している。即ち我々の中には、抹消殺戮の’血’は元来流れていない。そして魂はそれを意志として表現し行動しようとする。博愛という名の詭弁は必要としない。 そうした歴史的価値の生成の過程の違いの中で、我々はおのずと代々魂に育まれ醸成されてきた’アイデンテティー’を密かに誇ってもいいのではないかとも思う。 そんな自負を懐に抱き、たとえ孤独であっても、地球上のどこにいても、それぞれの生きざまの中で、人知れず謙虚に天から課せられた道筋を、心の赴くままひとり黙々と模索していければいいんだと・・。 日本の遠い祖先の争いを回避する万民の共生の知恵でもあり、或いはまた、近世の’武士道’の質実で孤高な魂なんだと思う・・。’ と、先輩は僕にそうおっしゃってました。 確か、お父様は、終戦も近づいたころ、’零戦’に乗り南洋に一人飛び立っていかれたとか・・。先輩の寡黙なやさしさの背後に、そんなお父様の勇姿が僕の心の中では浮かびました。 ふたり一緒に、世界のビッグ・ファーマ/多国籍巨大製薬会社と渡り合い、日本人ビジネスマンとしての自覚とそれに寄せられる信頼と期待を一身に背負って、国際舞台で大きな商談を成功裏にまとめるのは、誇りでもあり快感でした。 若気の至りで、こんなダイナミックな生き方に生涯を賭けてみるのも面白いとも思いました。でも、傍らには冷静に情勢を分析し、私を見守る寡黙な先輩がいつもいてくれました。僕一人では何もできなかったでしょう。 いつだったか、’5月革命’の頃の、ゲバラにちなんだ社会学者ジャン・ジグレールの若き日の話を聞かせてくださいましたね。大きな仕事を何とか無事こなして、舞い上がりかけていた僕には、すこし衝撃的でもあるお話で、その後、幾晩もいろんな本を読んだり、自分なりに考えてみました。 そして出た結論は、自分でも意外なものでした。 まだやり直しのきく今のうちに一度外に出て、自分の生き方をもう一度見つめなおしてみようということでした。 先輩の好きだったゲバラが、若いころ中南米で見たものを、ぼくも、貧しい国々の空の下で見て考えてみようと思いました。 あの日いつものあのカフェで、雲に煙る緑の山の稜線をぼんやり見つめて、先輩は駱駝(らくだ)模様の紙葉巻を一本ぬきだし、パリで奥様から贈られたというColibriのライターを、指でいたわるように、目を細め着火すると、独り言でもいうように、こんな話を語ってlくださいました。 ’ ・・あなたの後についていきたい、・・純粋な若き研究者ジグレールがそう言うとね。例の髭づらのチェ・ゲバラは、あの魅惑的な透き通った印象的な目で、遠く背後の霧の中にゆらぐ白い巨大な建物を静かに見据えると、ジグレールの肩を抱き、こんなことを言ったんだ。・・いいや、いつか学者となった君がしなければならないのは、・・あの忌まわしい白い怪物に立ち向かうことだ・・、とね。やがて霧が薄れ、浮かび上がったその白亜の巨塔にはね、我々がこれから相手にしようとしているビッグファーマ(多国籍巨大製薬会社)の名が誇らしげに刻んであったんだ・・。’ 何か、少し寂しげに笑っていた鬢に白いものが少し混じった先輩の横顔から、パリでの先輩と奥様ふたりの若かりし頃の姿が浮かぶようで、不思議な感慨を覚えました。ロゼのワインのグラスの横に、灰皿の葉巻と伴に何気なく置いたcolibriと表記した茶の胴革のライターが、先輩の人生のなにがしかを語るようで、どこか孤独で印象的でした。でも、お話の中の、このジグレールとゲバラの逸話の背景にある巨大な現代の闇は、当時の僕にはまだ理解できていませんでした。 実は、旅をいったん切り上げて、少しお金を貯めてから、医者になる修行をしてみようかと思っています。 あの頃のお話に憧れ、少しづつ触発されていた様に思います。先輩と過ごした今は懐かしい東欧の地の、どこか古くからの医科大学に入るつもりでいます。 僕もこの東欧という素朴な土地で、ひとり地酒でも傾け、密かに志を温め、異邦人としての孤独にしばし酔ってみようかと思っています。 そして、先輩の敬愛するゲバラが医学生時代放浪先の中南米でみて思い描いたように、僕もいつかまた、諸国を歩き考えてみたいと思っています。きっと、先輩なら遠くから喜んで応援していただけるでしょう。では、お体にはお気をつけて、お元気に過ごされてください。 親愛なる 龍崎 徹 様 遠い旅の空より 瀬川 昇 ” 医学生 そうして、勤務時代のわずかばかりの蓄えを学資にあて、中欧南端にある14世紀創設の由緒ある大学の医学部に入り、瀬川は長い勉学を積むことになった。幸い、成績優秀で学費は免除され、生活に充てるための奨学金と快適な宿舎をも与えられた。やがて6年ののち、欧州の医師の資格を取得する。 かつて旅の途上にであって世話になった数多くの貧しい人たちの病を癒す技術をまずは身に着けること、そして、現在の資本主義下の、先のジグレールの話が象徴する近代西洋医療の闇と矛盾を超え、実は、大いなる生命の謎と真理を生涯にわたり求め続けることが、改めて彼が学生となり医学を学ぼうとする動機でもあった。 卒業して帰国し、日本の医師の資格を得て、大病院の勤務医や日本のどこかで開業して町医者になる気持ちはなかった。 商社時代、仕事がら医薬界とその周辺のおおよその世俗的な既得権益の構図は見えていた。瀬川は会社を辞めた今、それに魅力を覚えたことはなかった。むしろ、もっと素朴な部分で、思いのままに必要とされる場所に身一つで出向いて、そこで出会った病に苦しむ人々を自分の持つ技術と知恵で癒すことができればいい、とそう思っていた。 むしろ古今を問わず世界中に残る医術と生命の真理と技をも学びたかった。やがてはそれらを己の器の中に統合していきたかった。 でもまずは、その基本となる人体の仕組みと働き、近代医学の方法論を、誰にも邪魔されず、この美しい東欧の大学の街で、まだやり直しのきく若い今のうちに静かに学びなおしたかった。 龍崎とともに、二人で商社の駐在員時代を過ごした都市からは、数百キロも離れた東欧では何百年を誇る森の中の厳かな名門大学だった。 針葉樹林の森の中に広大な石レンガ造りの大学の建物が点在する。中央には時計台とゴシックの鐘楼があった。学生の身分を得た瀬川は、広い庭の大木の木陰のベンチで、ひとり医学書を読み、そして時間を惜しむようにしてまたドイツやロシア・東欧の文豪の著作をも読みふけった。 生命の神秘を掘り下げていくうちに、何故かいつの間にか、自然科学、中でも19世紀の仏独のカルタンやリーマンの微分幾何学などの多次元数学、宇宙論、それに量子情報科学、量子化学、分子薬理学から創薬に至るまで、近代物理学・化学の迷路のように入り組んだ複雑なミクロ世界にまで、好奇心に任せるままに分け入っていた。最初は数学の復習を交え、’relativity’,’Quantum Field theory’の独習教材に始まり、大著’GRAVITATION’、そして日本から名古屋大の栗田 稔博士のコパクトなテキストを取り寄せ、カルタン流の’リーマン幾何’を学んでみた。貴重な時間を自由に使える学生の身分を得た若い瀬川の知的好奇心は、留まるところを知らなかった。 そして瀬川は、その後の人生半ば以降の、世界中の戦地や無医村・僻地での貴重な医療のフィールド・ワークと学びを統合整理していった。東欧の大学で学んだ近代医学のその後の先進的な知見と、それとは方法論を異にする人の潜在能の実践的な開化に多くを依存する母国日本の伝統医療の繊細な鍼や手技療法を深めていった。旅で出会った原初的なシャーマンの癒し手たち。ひとの潜在能を長い実践で研ぎ澄ました象徴的な治癒の技の学びから,自身のインスピレーションでそれらをアレンジしていった。そして長い流浪の人生の旅を終え、瀬川は東欧の国の小さな村に一軒家を手に入れ、地元の癒やし手となり、夜はひとり書斎にこもる。 ひとの潜在的認知能と量子コンピュータの間の情報交換、構造生物学や量子化学への微細な世界への応用を足掛かりに、潜在意識とBCI(ブレイン・コンピュータ・インタラクショ)の融合という、人類のための未来医療の構築、のちの半生にわたる思考実験の場へと、やがて長きにわたる若き日々の思考とフィールドでの体験はひとつに収束していくことになる。 まだ若かった医学生瀬川の、仄かなインスピレーションと知的好奇心による横断的な自然科学への関心は、こうした人生終盤の深い思考実験の礎(いしずえ)になっていく。 当時の東欧では、ソビエトの自然科学の影響が医学の分野にも見られた。中でも若い学徒 瀬川の心を虜にしたロシアの物理学者たちによる’捩じれ場’(トーションフィールド)の理論は、将来、現代医科学をもそのダイナミックでミクロな物理学の原理で包み込んでいきそうな勢いだった。 彼は、ロシアの物理学者のShipovの著書’The theory of phisical vacuum'の複雑な方程式の流れの中に、諸々の基礎医学で学んだ人体の生命エネルギーの躍動原理を当てはめるよう夢想してみた。 大陸の向こう側アメリカでは、その頃、物理学者のハル・パソフが、’ゼロポイント・フィールド’のアイデアにたどり着いていた。同様、建築家バックミンスター・フラーの構造幾何学は、瀬川の体感的なインスピレーションを大いに刺激した。 だが、歴史的集積の上に確固として重鎮する20世紀近代医学の生命観は、唯物的かつ頑強緻密で、異端の’神秘の水’の染み入る隙はなさそうにみえた。 何世紀も前の古(いにしえ)のペルシアの医学生は、修辞学、哲学とラテン語に加え、まずは音楽、幾何学と天文学を学んだという。 瀬川は、何故か、そんな流れの中で、人を癒す道である医学を見ていくことの意義と合理性を感じていた。 自然の深遠な摂理の中にこそ人の命の営みがあり、常に精神は宇宙と共観すべきものであると彼はひとり考えた。瀬川の学び舎の大学では、ラテン語が必修となっていた。まずは解剖学で、人体の細部の構造をラテン語で記憶していくことから始まった。 自然科学の学問がかくも深遠で美しいものであることに、そして医学はかつての文豪が思い描いた壮大な’自然哲学’のひとつでもあり、すべてを網羅した大自然の叡智がそこには結集されるべきだと医学生の瀬川は信じた。 東欧の大自然の風情の中、風のそよぎに身を任せ、優しく微風に頬を撫でられながらキャンパスの片隅の庭でひとり日が暮れるのも忘れ、黄色く色づいた枯葉が舞い、ガス灯の明かりがいつしか自分を静寂の中で見守るように照らしだしてくれているのに気づく。コートの襟を立て空を見上げると、零れ落ちんばかりの銀色の満天の星々だ。瀬川は不思議な充足感に、伸びをして大きく息を吸ってみた・・。 こんなに数多くのきらめく星を、旅の途上、親切にしてくれた貧しい家族の家の庭先で、よくひとり見上げたものだった。 自分は何のために広大な宇宙の中の、この美しい地球という星に生まれてきたんだろう。貧しい生活の人々、でも旅人に身の丈以上の精いっぱいの宴を笑顔でふるまってくれる。朽ち果てかけた屋根の上には、どこの家にも例外なく美しい大自然の宝石がちりばめられて、子供たちの行く末を慈しみをもって星々は見守ってくれている。 彼らはそんな大自然の摂理のもと、いつのまにか足ることを知り、生きることに謙虚になり、家族を守り、ともに質素に幸せに生きているように思えた。瀬川は旅を通して、人の優しさに触れた。そんな彼らの素朴で幸せな生活をも、貧しさゆえに根本から打ち砕いてしまう病魔から彼らを救い出してあげられる技術を学びたかった。 授業は、解剖学・生理学・生化学そして細菌免疫学、そうした基礎医学から始まった。緻密で、膨大な知識の習得が学生に要求されていた。単元ごとに試験が繰り返された。 人体解剖では、一人の遺体に、6人ほどの学生でグループになって教官の指導を受けながら、4か月ほどをかけて、表皮から神経、筋肉、臓器、そして骨までくまなく解体していった。瀬川たちのグループにあてがわれたのは、まだ比較的新しいホルマリンに浸した長身の老人だった。初めてメスを入れるときは、手が震えた。当たり前のことながら、ことごとく、ラテン語表示された解剖書の描くとおりに実態の人体は精巧に構成されていた。生前は、一人格としての人生の喜びや悲しみ、そして愛する人との出会いと別れがあったはずであった・・。生命への深い尊厳を思った。 学寮では運よく暖かな個室を与えられ、寝食を忘れるほどに勉学に深夜まで夢中になった。 大学では、人間として深く尊敬できる深い教養をもつ教授陣に恵まれた。やはり彼らは医科学者というよりはどこか古色豊かな自然哲学者といった趣であった。彼らは、苦学に疲れ、ともすると人間を物質・生体部品の統合としての機械的機能のみを見ることに慣れてしまいがちな若い学生たちに、自然科学の美しさと、怜悧な精巧さ、そして何よりも分断された生物としての肉体のメカニズムより、魂の目で血の通った人としての病者を見ることの大切さを教えようとしていた。 厳しい勉学に痛み疲れた孤独な学究たちを陰で見守り、最大限の応援を贈ることを惜しまなかった。 学生の間でも、自ずと、互いに学友を思いやるこころが、医師の卵としての素性を醸成していっているようであった。 彼らはいろんな意味で環境に恵まれ、荘厳でこの美しい学び舎から生涯にわたり人を癒すための天職を、ほんの少しの苦学という試練を代償にして、授けられようとしていた。彼らにとり、今の勉学の苦難は、人生の途上の若いある頃から熱に浮かされるようにして乞い憧れてきたもの、人を救う道、天職への道程であるが故に、’至上の誉れ’でもあった。教えるものと学ぶものが共感する、美しき理想への憧憬がそこにはあった。彼らは誰もが自己の尊厳を保証され、苦しくとも、至上の使命感に燃える心地よい疲れに酔うことができた。 静かな森を前にして、美しい四季の樹々の色の移り変わりを勉学の合間に部屋の窓から眺めていると、いつの間にか、前に見たと同じ季節の風景が3度、4度とめぐるのが当たり前のように感じられていた。確かに季節の変化に時は流れ、幾星霜を経ているようだった。 海外から留学しているものどうし、青春時代を不思議な共感をもって過ごした。互いに励ましあいながら、苦しいながらも美しい自然の懐で、医学を学べる自らの恵まれた境遇と人生の門出に誰もが感謝していた。彼らはいつの日か、それぞれ使命感に突き動かされるようにして膨大な医学の知識をひとつひとつ習得し、厳しい試験をクリアしていった。 留学生の中には、ほかの学位を取得した後の年長者も何人かいた。ブラジルのリオデジャネイロからきているジュリオもそのうちの一人だった。彼は、リオの大学で工学の修士号を持っていた。瀬川の自然科学の話にも共感して、理論の補足やいろんな文献のアドバイスもしてくれていた。ジュリオも、リオっ子で底抜けに陽気ながら、瀬川にまけずロマンテイストであった。何故か、ロシアの物理学者と、あの真理の暗い深淵を探るようなドストエフスキーの作品のファンだった。 時々、夕暮れ時、ジュリオたちと街はずれの小さな古くからのパブ、’ソピアネ’に繰り出した。静かな石畳の街道のわきに、苔むした煉瓦に、窓から黄色い灯が外に漏れていた。 異なる人生を経てきた若い学生同士、そこで、時を忘れアッぺコーン(リンゴ酒)のグラスを傾け、夢見るように、文学や自然哲学のはなし、さらには世界の民族に伝わる地球創生神話にも話が及ぶこともあった。そして何より、医学生として、ひとの命の本質を論じあった。 パブには、同じ大学の女学生たちのグループもきていた。土地出身の美しい若い女性たちに交じって、片言の現地語や英語で一緒に、勉学を忘れ、気の利いた冗談をひねっては笑い、心地よいひと時を過ごした。ジュリオは伊達男で陽気で女性の人気者だった。そんな若い異邦人の医学生たちの中には、孤独も手伝ってか、ほのかに古都での美しいロマンスが芽生える者もいた。 この情緒あるパブ’ソピアネ’で、瀬川も親しくなった地元の娘がいた。彼女の名はEvaといい、同じ大学の社会科学部だった。美しい青い瞳を持つ、静かで知的な女学生だった。このパブの同じ席で何度も二人で会い、やがて親密になった。瀬川の思いにEvaは誰よりも共感してくれた。互いを理解し合い、やがて仄かな愛が芽生えていた。 ジュリオはエバがやってくると彼女にハグをして、瀬川の肩をたたきウインクすると、別の女性のグループのところに去っていく。 週末になるとやがて瀬川は彼女のアパートにも通うようになり数年が過ぎた。大学では、中庭の瀬川のお気に入りの緑の薫りする木陰のベンチに、こんどは二人で腰掛ける。黙って瀬川は医学書を広げ夏の試験勉強をする。その横でエバは邪魔をしないよう何かの文学書を読んでいる。時々、エバが瀬川の目を見て語り掛ける。瀬川は一言二言微笑んで答える。授業開始の鐘とともに、二人はキスをして自分の教室へと別れていく。 紅い枯葉が舞い、やがて静かに白い雪のちらつく中、二人はこの中庭の同じベンチで待ち合わせては、互いを温め合うように時間を忘れ何故か辛抱強く身を寄せあっていた。互いの絆を確かめ合うかのように・・。 でも、Evaは先に大学を卒業すると、やがて瀬川からひとり離れていった。ふたりの間に何があったのかはわからない。朝露に春の陽が差すように、仄かな心温まるひとときの出会いがあり、そして秋に色づいた枯葉が舞うようにして、静かな別れがあったのだろう。 瀬川は、それまで通り、宿舎で無言で勉学に打ち込んでいた。また時々、以前のように、大学の中庭のベンチで街灯の下で、ひとり本を開いて座るようになった。友人のジュリオからすると、その頃から、喪失感と孤独が彼の様子には付きまとっているようであった。中庭でそんな瀬川を見つけると、寮の自分の部屋にジュリオはチェスに誘った。瀬川は時として放心して、以前より負けが多くなった。 ジュリオは、いつもの様に瀬川の肩をそっとたたくと、サイフォンで温かな自慢のブラジルコーヒーを入れてくれた。瀬川にカップを差し出し、ブラジルのドトール(医者通り)のコーヒー屋の話をした。そして続けた。”・・いつか情熱の街 リオにおいで。どこまでも深く美しく謎の目をした’ナスターシャ’のような女を紹介するよ。・・ムイシュキン君。(ドストエフスキーの小説’白痴’の主人公)” そう冗談を言って微笑んだ。ジュリオは、エバのことはそれ以上聞こうとしなかった。それがおとなの男どうしの作法の様だった。 さて、多くの大学の講座の中で唯一、ほかの一貫した近代医学とは毛色の異なる、古代中国の伝統医学と鍼(はり)の講座があるのに、瀬川は東洋人としての不思議な懐かしさを感じていた。 そんな講座を選択科目として置いてくれている、歴史的に東西の中継地点でもあったこの古くからの由緒ある大学の懐の深さを、瀬川は日本人として嬉しく思っていた。 それは医科学というより古代の天文歴をも含む呪術にも似た哲学であった。そこに描かれた人体には、いまなじみの解剖図はなく、幾多のエネルギーポイントをつなぎ合わせるルートである経絡(けいらく)のシンプルな平面図が描かれていた。針術は中国の漢文の古典’黄帝大経 素問・霊枢’、そして生薬の古典’傷寒雑病論’がそのテキストだった。 ほかにもヨーロッパの伝統的同種療法(ホメオパシー)や、医学史の講座もあった。彼は、数百年の歴史を負う大学の図書館で、古書の棚の中に、茶色に古びたパラケルススやハーネマンの著書のラテン語やドイツ語の復刻版をみつけだした。それを寮の自分の部屋に借りてきて、近代医学の勉学の合間に辞書片手に読んでみた。 波乱にとんだ彼らの同時代を駆け巡っているような錯覚と興奮をもって、手に取った古書の世界の中に没入した。いつの間にか窓の外からは暖かな朝陽が射して、興奮した脳をくすぐるように小鳥のさえずりが響いていた。そのまま、急いで着替えて大学の医学書を抱えて講義棟へ向かう日々が続いた。 老教授 眠気にもうろうとする中、医学部の古くからの講義棟に座った彼は、中世の医学生と現代の医学生の二役を夜と昼で演じているような不思議な錯覚を覚えていた。彼の目の前で白衣を着て教鞭をとる教授は、ときとして16世紀のバーゼル大学の医学部教授パラケルススであり、近世ドイツの同種療法の医師・ハーネマンであった。” 諸君は、神から授けられた言葉に従って医術を学ばねばならぬ。 修辞学や弁論学は、医術を語るべき言葉ではないのだ。 諸君の机の周りを取り囲む万巻の書物も、暗闇に埋もれ築き上げられた形式的な論理の集積にすぎぬ。迷宮で光を見出せぬまま、盲目の人間が後生大事に、幾世代にもわたり、それこそが医の真理であると信じて守ってきただけのものなのだ。 いまだに人間は迷宮の闇から一歩も抜け出せないままでいる。 神の導きは、大自然の中の光のなかにこそある。 諸君は、天体や生きた樹木・鉱物の中に神の息吹が嗅ぎ取れるか。医の修行の旅に出て、万物にの中に自然からの光を見い出すのだ。人は、天と地の運行の中でこそ生きている。病者を苦しみから解き放つ術は、慈しみと愛をもって大自然の光の中にこそ求められねばならぬ。 さあ、諸君、今こそ君のいる迷宮から抜け出して 大自然の元、真理に向けての旅に出るのだ・・・。 ” 何世紀も前の、銀色の顎ひげを蓄えた眼光鋭いこの壮年の教授は、古い医学部の階段席の同じ教壇から時空を超え、遠く東洋からやってきたひとりのi異邦人の医学生に向かって、そう説いているようだった。 そして彼の立つその厳かな黒光りする木製の教壇の上には、頭蓋骨の代わりに、天球儀と数冊の占星術書が積んであった。 瀬川は、まるで生きているかのような明晰な幻想からふと我に返り、目の前の分厚い英語で書かれた内科の教科書をめくってみた。 そこには、あのどこか懐かしい初老の教授の説く医術の水銀の調剤法や、星々の記号はなく、様々な病名診断と類似病症との鑑別、病態の生化学、そして治療法としての近代医薬の無味乾燥な化学組成式が所狭しと並んでいるばかりだった。 彼が今学ぼうとしている西洋近代医学は、人体を器官・組織・細胞そして分子レベルまで事細かに分解し、総合的に、かつミクロにその生化学的機能を解明しようとする。病という生理メカニズムの不備を、生化学的な薬理作用で代償補完、或いは解消し、また、変性した病的部分は外科的に排除することで、本来の生理機能を回復しようとしていた。 近代医学では、まず生化学的・生理学的に病状を分類・解析し、解剖的にそしてミクロな部分で変性した病理組織を同定する。 今度は生体機能を営む分子レベルでのミクロな生体の鍵穴に、薬剤の類似構造の人工的な化学組成のダミーのカギをはめ込むことで、生体分子の正常な連鎖的化学反応を復帰させ、病的停滞や暴走から恒常機能を取り戻す。 それでも常体に復すことができなければ、外科的に、或いは攻撃的に病的組織を破壊する薬剤を用いて、肉眼や医療検査機器を用いて同定された病的箇所を取り除こうとする。 瀬川が想うに、近代の化学の萌芽とその後の石油化学の進展、そして現代の薬理は何らかの相関性をもっていて、同時に多国籍資本となった製薬業界と大学の医学部の研究は何らかの抜き差しならぬ関係にもあるようだった。それが様々な巨大な世俗的な利権構造をも生んでもいた。 従って、手技や物理的療法、或いは、経験的に前世紀初頭に行われていた無機化学的薬剤による治療法などは、たとえ治癒という意味で非常にシンプルで有効なものであっても、前近代的で時代錯誤なものとして、研究の対象とならず、隅に追いやられているようであった。だが、ミクロの治癒の場面では、むしろ’シンプルイズベスト’であった。生体の外的な刺激を通じ、物理的・生化学的’スイッチング’による遺伝子レベルでの構造や動的システムの’優先順’の書き換えが行われ、細胞の脱分化が、本来の自然の設計図を参照するという、新たな創造の合目的化という筋道をたどり、インテグラル(統合的)な全生体での歩調を合わせた生理的・生化学的な治癒への動きが並行的に再構成されていく。そのクルー(きっかけ)は、シンプルな化学構造の分子でよい。体の治癒へ向けての脱構築と再構成は、フロンテイア軌道の電子や電磁周波数によるの量子的な情報のやり取りでよいはずであった。経験的に知られている或る病態に有効な薬草の分子組成の活性部位に基づき、生体関連組織や細胞膜内外のシグナル伝達系に働きかける組成の薬を分子設計により構成する。 近代医学の枠組みは、云わば、神聖な自然からの光を見失い、パラケルススの述べた迷宮の闇の中で、一つ目の怪獣に操られている無知な人間医者の永遠に続きそうな足掻きなのかもしれないと、医学生の瀬川にはそう思えていた。・・そこでの怪獣のエサは人間の欲とエゴイズムのようであった。 中世ラテン語で書かれたかの老パラケルススの著書は、一見迷妄とも映る、或いは古式蒼然とした天文や自然薬剤の数々、見方次第では象徴的体系による哲学書の趣であった。 ただ、古代の種族の残した天文学が現代のわれわれにはまだ読み取れぬ膨大な宇宙史の一部を映し出す洞察が細部に残されている可能性が否定できないのと同様、在野に自然の光を求めて飛び出した老練な医師パラケルススの超越的な観察眼は我々の理解を超えていたのかもしれず、そうした経験を経た後でなければ、その著書の象徴的な隠喩は読み解けないのではあるまいかとも、瀬川には思えていた。 彼は、かの偉大なる中世の老医は、神からの大自然の力の授受を、象徴的な薬物の媒介を通していわば記号的に表現していたのではないだろうか、と考えた。 片や、瀬川が大学の講義で副学的に学んだ鍼療法や生薬などの東洋の伝統医学は、共通して全体系の生体エネルギーという生気の局所での滞りを、外から薬剤や物理的な刺激を加えることで一時的に揺らぎをかけて、いちど’かく乱’し、その後に、大きな自然界の脈動に共振する生体の本来の生理的な脈動へと復帰させるものであった。 つまり東洋の古典医学でいう瞑眩(めんげん)とは、そうした一過性の症状悪化で、生体の場を揺さぶり、その後、発汗や大小便となって過剰な生体内部の過剰なエネルギーが開放系として外部へと解き放たれ、本来の恒常的生体リズムへと復帰させるというダイナミックな方法論であった。 瀬川は、東洋人として、古代老荘の”無為自然”の教えに親近感を覚えていた。彼が読んだ古代中国の道家の医術は、それを命の場で実践しようとしていた。 彼は、いつか中東のイスラムや内奥チベット、そして中南米の少数民族に伝わる伝統医療をも、実際に現地に足を運んで学んでみたいと思い始めていた。 目覚め クリスマスの前になると、毎年、瀬川がすることがあった。 この国には、古くからの歴史ある木造づくりの修道院が大自然の森にぽつぽつと隠れるように点在していた。 雪がちらつく中、コートを着込んで寮から数時間かけて自転車で出かけて行っては、とある修道院を訪れるようになっていた。 苔むした石の門をくぐると、大きな木の扉が開かれ、そこに準備された僧衣に着替えると、そのまま質素な寝台と机に聖書以外何もない小さな部屋で2週間ほどを過ごした。この僧院には中世からの膨大な数の書籍を収める書庫があった。天蓋のステンドグラスの光に照らされ、中央の螺旋階段を取り囲むように、聖書の壁画の横に数階建ての木造の書棚が各階に並んでいた。そこに収められているのは、ラテン語で著されたキリスト神学や哲学、幾何学、修道院の薬草医学、天文学の類であった。そのうちの数冊を寝室に持ち帰り、ページを開いては、遠い時代に描かれた挿絵にイメージを膨らませた。ラテン語は、フランス語やルーマニア語と起源を同じくしており、辞書を参照し、幾分かは想像力を働かせれば理解することもできた。 祈りと読書、それに断食と瞑想の日々であった。日々の勉学で精神と体力が限界に近付いてきたこの年末の時期を選んで瀬川はひとり郊外のこの12世紀からのこの僧院を訪れるのが楽しみになった。世間から隔離され、中世に舞戻ったかのように、厳かで静寂な木の匂いのする僧院。修道僧たちと伴に瞑想世界で神に近づく貴重な時間を過ごすうち、やがて時々水だけを与えられる断食による空腹さえ乗り越えて、何故か心身は健康を取り戻し、より脳と精神には鋭敏さを際立たせていった。 瀬川は断食中の瞑想こそ、天に近付く道であり、弱者の飢えと病の苦しみを慈悲と愛をもってみずから経験し、その苦痛を克服して、次の精神的次元へと上昇する最も最短で合理的な方法だと理解していった。瀬川の読んだ修道院蔵書の古くからの薬草医学の文脈は、そんな瀬川の研ぎ澄まされた直感に、時代を超え象徴的な言葉で何かの生命の真理を語りかけてくるようだった。 あらゆる病は断食と観想、それにより活性化された心身を生薬でより健全な状態にすることが可能で、まさに最もシンプルな、自然の摂理と生命の神秘がもたらす最高の贈り物であり、まさにそれこそが医の原点であると確信するに至った。 2週間を経て、透き通った心と軽くなった体で僧院から大学の寮に戻り、再び、時間を見つけては観想をした。 それからは、睡眠時間は少なくとも、心身は冴えわたり、一人集中して学ぶ医学や幾何学、物理学は、いつしか脳裏で統合され、より構造的機能的に一貫性を持ち始めていた。まるで、絵に描いたように、研ぎ澄まされた記憶庫の中で、自然の摂理に矛盾なく理論が整合的に染み渡っていくようだった。 エバと知り合ってから、静かに雪の降りしきるクリスマスに、馬車に乗り、この教会にふたりで訪れたことがあった。エバは蝋燭(ろうそく)の光に浮かび上がる聖母マリアを仰ぎ、瀬川の腕にそっと身を預けていた。 青い目に涙を浮かべ、何か未来の情景を夢見ているようであった。自分の胸に委ねられたエバの命の温かさを、瀬川はじっと抱きとめていた。 モミの木と共に マラムレシュの木造教会群(ルーマニア)Amazon(アマゾン) #26 ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア 民族の十字路探訪の旅Amazon(アマゾン)