Language Barrier | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

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英語のLanguage Barrierとは読んで字の如く、言語間の壁、言語障壁の事である。統計によれば99%の日本人は英会話にすら困難とされているので、おそらくほとんどの人は日本語が話せない外国人と遭遇した場合にランゲージバリアを実感するはずである。

 

もちろん、私もかつてはそのうちの一人であり、そしてそれこそがブルース・リーと同じく英語習得を決意させたきっかけのひとつでもあった。私が最初に外国人に遭遇したのははっきりとは覚えてはいないが、記憶にある限りでは、地元のキャンプ座間で当時のジャイアンツとホエールズの2軍の試合が行われた時に、露天で何か食べ物を購入した時が最初ではなかったかと思う。スタン・ハンセンのようなアメリカ人から購入した記憶があるが、言った英単語と言えばTWOだけだった。それは友人の分も同時に購入したからであるが、とにかくその小学生の時の体験が私にとって初めての外国人との対面だった。

 

中学生の時、英語の授業でネイティブのアメリカ人女性がやってきた事があったものの、そこで何をしたかは覚えてはいないし、もちろん話す事もなかった。それからしばらく機会はなかったが、1996年2月のある日の出来事が自分の人生に大きく影響を与える事となった。どこかで触れたかも知れないが、相模大野の駅で電車を待っていた時、突然白人の女性が話しかけてきたのだ。話した英単語と言えばIsetan Department?とThis station?の二つだけであり、ノンネイティブだったのか、はたまた日本人は英語が話せないためにわざと単語のみを話したのかは定かではないが、当然、英語を全く話せなかった私はフリーズして、はい、はいと答える以外はなかった。

 

それを非常に恥と感じた私は、その瞬間に「そのうち絶対に英語を話せるようになって、日本にいる外国人を助けてやる」と決意した。当時はネットも黎明期でPCも本格普及前、当然オンライン英会話やYouTubeなど影も形もなかった時代であったから、英会話の機会を得るには留学、もしくはNovaでお馴染みだった駅前留学にでもいくしかなかった。しかし、そんな余裕はとてもなかったがために、英会話集の本などを使用するしかなかったのであるが、大抵の本は暗記オンリーであり英語をマスターするノウハウなどはほとんど書かれていなかったため、2003年に「英語は絶対勉強するな!」と出会うまではほとんど事が進展する事はなかった。

 

それから、しばらくして、新宿のとあるお店で働く事となった。そこは業界ではそれなりに有名なお店であり、都内でも有数であったためか外国人の来客も少なくなかった。そこで、しばしば外国人への接客を行う機会を得る事が出来たのであるが、英語を勉強はしていても直接誰かと英会話の練習をした事は皆無であったため、なかなかスムーズには言葉は出てこなかった。ただし、それでも一応勉強の成果はあったため、全く対応出来なかった、という事はなく、以前に比べたら言語の壁は超える事が出来ていたとは思う。

 

それから数年後、再び英語の勉強を再開し、米軍住宅やオンラインでの英会話も開始、そして2010年にはフィリピン留学までも敢行するが、この辺りになるとさすがに英語圏における言語障壁はほとんど感じられなくなった。フィリピンの第一言語はタガログ語ではあるが、ある程度の教育を受けた人であればネイティブと遜色ないレベルの英語を話すため、こちらの英語が適当であってもあちらの脳内で都合よく変換してくれるので、少なくともある程度文法が適当であっても理解はしてくれるのである。

 

ここから一気に世界がひらけた訳ではあるが、前にも触れたように、この言語障壁の壁に遭遇する度に、それをどうにかして乗り越えようと努力する事も実は海外旅行の醍醐味のひとつでもあったりする。ほとんどの日本人は英語を話せないので、どこの国へ行こうとこの緊張感を味わう事が出来るのであるが、自分の場合は英語力の向上と引き換えに、始めての海外でありながらもそんな緊張感を現地で全く味わう事が出来ないまま帰国してしまったのだ。

 

実際、一度だけセブアノ語しか話せないタクシードライバーと遭遇してしまった事こそあるのだが、その時はすぐに乗車拒否をしたために事なきを得た。稀に先生に英語が通じない事もなくもなかったが、ほとんど意思疎通に苦労した事はなかったと思う。なので、最初の海外生活ながらそんな醍醐味の一つを味わえなかったのはなんだか皮肉でもあるのだが、しかしながら英語力なしで海外一人旅というのは無謀でしかないので、もちろんその後の体験もフィリピンでの経験があったからこそであった。

 

そんな私が、ようやくランゲージバリアに遭遇したのは2011年9月の初の台北旅行であった。英語教育に熱心な台湾ではあるものの、公用語ではないので当然そこらじゅうで英語が通じる訳ではない。しかし、さすがに空港はもちろん、台北駅周辺のホテルやファーストフード、そしてナイトマーケットでは購買程度の英会話なら苦労はしないので、ほとんど問題なく英語で済ませた。そして帰国日、空港へのバス停か何かを探している時に、十代の学生らしき女性に話しかけてみたのであるが、彼女は全く英語が話せず、それはまさに英語が話せない日本人と同じリアクションそのものであったのだ。

 

結局意味は通じなかったが、たまたまそれを見ていた他の女性が日本語が理解出来たようであり、親切ながら行き先を教えてくれた。ナイトマーケットに行けば分かるが、台湾の人たちはかなりの確率で日本人である事を見分ける事が出来る。中国語を話さない東洋人は日本人と韓国人しか居ないはずなのであるが、日本人旅行者はお得意様である事もあるだろうが、こちらが英語を話しても日本語でリプライされる機会が非常に多いのだ。英語話者としてはスリルが味わえないのが残念であるが、大抵の日本人であれば助かるとは思うので、そういうい意味からでもスリルが不要なのであれば台湾はお勧めな旅行先であろう。

 

それに対し、香港では英語の通用度が高い事もあり、少なくとも都市部であれば一般人でもかなり通じる。それに加えて治安も良く、交通も発達しているので便利な事この上ない反面、スリルなどは皆無でもあるのだが、尖沙咀や中環における多民族の行き来を目の当たりにする度に、なぜ香港が国際都市と呼ばれているか嫌というほど実感は出来るだろう。

 

しかし、そんな香港であっても、離島や新界北部などでは英語の通用度が一気に低くなる。簡単な英語も解さない人も多数なので、当然そんな場所ではランゲージバリアに遭遇しまくりである。そんな時にどうするかであるが、そういう時こそ本やアプリで学んだブロークン広東語を試す絶好の機会なのである。英語ではもう味わえない、自身の外国語が相手に通じた時の喜びを、ここぞとばかりに再び味わう事が出来るのだ。

 

しかし、当然旅行者は私のような香港マニアばかりではない。そんな時はどうするかであるが、幸い日本人も漢字を使う、しかも香港は繁体中国語なので日本のそれにかなり近い。なので最終兵器筆談である。私は滅多にないが、Lok Ma Chauの駅でSIMカードの期限が切れた時に、セブンイレブンのおばちゃん店員が英語を全く理解出来なかったので、最終的に「増値」という文字を見せたら理解してくれた。正確には値の文字は若干違うのであるが、まあその辺りは雰囲気で分かるのだろう。

 

そして、ランゲージバリアのとどめは大陸・深圳である。かなり絶望的に英語が通じない国であるので、まず大事な事はとにかくスリに遭遇しないように自身をしっかり守る事だ。正直、現地の人からしたら日本人であるという事はそう見分けられる事はないので、スマホなどを出しっぱなしにしないようにしなければまあ大丈夫なのであるが、それでも最低限の防犯には気を配る訳である。とにかく、英語が通じない、イコールトラブルを自身で解決するのは絶望的に困難なので、ランゲージバリア云々よりもまずはそこである。

 

もちろん、越境前には普通話会話集や、アプリで基本フレーズを学んだりもしていた。しかし、その程度で通じるほど普通話は甘くないので、とにかく英語が通じそうな高級デパートや高層ビル以外ではボディランゲージ一本で通した。かなり力技であるのだが、不思議とこれだけでもなんとかなるものである。もちろん、東門食堂街も全てそれだけで通した。相手からすれば何故東洋人なのに無言なのか不思議で仕方ないだろうが、無愛想な人間などどこにでもいるし、金儲けにしか興味のない中国人の事、物を買ってもらえさえすればそれでいいのだ。

 

なので、深圳にいる間はずっとこんな調子なのであるが、さすがにこの緊張感が楽しいと感じるのは最初の数時間程度のものである。やはり、人種に関わらず、人間言葉が通じないストレスというのは尋常ではないものなのだ。そして、香港に再入境した時の安堵感も半端ではない。言葉が通じない緊張感も海外旅行の醍醐味、と言いながらも、やはり英語がどこでも通用する国が一番楽だな、と最終的には思わざるを得ないのである。