さるべき業縁を催せば、如何なる振る舞いもすべしという親鸞聖人のお言葉があります。
これは縁さえ来ればどんな恐ろしいことでもする親鸞だという意味ですが、どうしてこんなことを思われたでしょうか?
それは親鸞聖人の脳裏に決してやりたいということでは無いけれど、他人が傷つくようなことだと分かっていながら、そんな発想が浮かんだからだと思います。
私たちはどんなに恐ろしいことが頭で浮かんでも、行動に移さなければ、悪くないと思っています。しかし、親鸞聖人は心で浮かんだということは、縁が来たらやってしまうものが自分だと思われたのです。
心で思うことはどうしようもできません。でも、その心の種まきさえも、反省して懺悔された方が親鸞聖人だと思うのです。
本当に清らかな人は、心で恐ろしいことを発想することさえもないという所に立って、自分は恐ろしい人間だと内省される親鸞聖人は本当に素晴らしい方だと思います。
見習ってゆきたいものです。