私たちはこの世得たあらゆるものに我をつける。我をつけるとは、自分のものにするということ。
そして、自分のものにしたものに価値を置く。それは自分のものにしたものに価値を置くことで、それを持っている自分も価値のある人間だと思えるからです。
私たちはそうやって価値のあるもの、つまり、自分が価値を置いているものを集めることで、価値のある人間になったと思って、自分の自信にしています。
なぜ価値のある人間になりたいのか?
それは価値のある人間になれば、まわりの人から大事にされると思うからです。
だから、私たちは人生をかけて価値のあるものを集めてゆきます。しかし、そうやって得たものは、無常のもの。
無常だから、失う時が来ます。でも、失うということは、それにかけた時間やお金が無駄になるということ。だから、人生の多くの時間をかけて得たものを失うと、自分の人生は何だったのかとなります。
だから、多くの人は、自分の人生が無駄だったと思いたくないから、自分が得たものを失っても失ったという現実を認められず、執着を起こします。つまり、何とかすれば、失う前に戻ることができるのだと思うことです。
例えば、お金を失った人、失ったお金に執着する。そして、失ったお金を取り戻そうとします。それはお金を失ったことが認められないからです。だから、早く取り戻して安心しようとするのです。
人生を知るとは、どんなに価値のあるものを手に入れても、最後にはすべて失うことを知ることでもあります。
それは今まで失うことなんてないと思って、価値のあるものを集めてきた人にとっては、自分の人生は何だったのだろうと思うことでもあります。
でも、一度人生は無駄だったと認めなければ、本当の人生は始まりません。
私たちが価値を置いていたものは、それが自分だと思っています。例えば、お金に価値を置いている人はお金を持っているものが自分だと思っているし、正義に価値を置いている人は、その正義こそ、自分の存在を証明するものだと思っています。そして、価値を置いているものに時間やお金を使うことは、なんの苦もなくできてしまうのです。でも、真実から言えば、自分が価値を置いているものは自分では無い、やがて失う時が来る無常のものなのです。
だから、無常のものに価値を置いても意味のないことであり、それで自分の存在は証明できない。でも、それはたとえ失っても認めることはできません。なぜなら執着を起こすからです。
私たちは自分の人生は無駄だったと認めたくないものです。でも、それを認めなければ、本当に価値のあることに目を向けることはできません。
だから、そういう意味で、無駄を無駄と認めることは大変意味のあることであり、本当の人生を歩む第一歩になると思いました。