我が自分だと思う人生は最後、人生は何だったのかと知らされて終わる | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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人はどうしたら幸せになれるか。なぜ苦しまなければならないのか。お金や地位や名誉をどれだけ手に入れたかを問題にするよりも、自分がどうしたら幸せになれるかを問題にして生きてみませんか。

私たちは自分というのは、こういう人間だというイメージを持っています。仏教ではこれを我と言い、私たちは本当の自分が分からないから、自分を我だと思って、我の為にお金や時間をかけています。

そうすると、お金や時間をかけた分だけ、我に価値を置き、価値のある存在が自分だと思うようになります。これを仏教では我慢と言います。

私たちは自分は我だと思いたいから、我の為に時間やお金をかけただけなのに、かけたお金や時間が無駄だと思いたくないから、かけたお金や時間の価値の分だけ、我にも価値があるのだと思うようになり、まわりの人から価値のある存在として見てもらいたいし、扱って欲しいと思うようになります。

しかし、現実には我は自分ではないので、自分が思っている自分とは違う現実がやってきたりします。

でも、私たちはどうしても我が自分だと思いたいので、こんな現実を受けるような自分だと思いたくないので、現実を否定し、自分が思っている現実に執着します。これを仏教では我愛と言います。

人生とは、生きた分だけ、時間が過ぎてゆきます。だから、歳を取った分だけ、我の為にかけた時間やお金が多くなるので、自分は価値のある人間であり、こういうものが自分だと思う気持ちが強くなります。

そして、それに合わない現実を受け入れることができず、認めることができません。

だから、現実から目を逸らし、煩悩を起こして現実を誤魔化してしまうのです。

私たちは生まれた時から当たり前のように我が自分だと思って生きている。それが自分じゃないと知ることは、今まで生きた人生の否定に他ならない。

ある意味、死とは自分の人生は何だったのかと知らされる時なのかも知れませんね。