くにたち蟄居日記 -83ページ目

「さよなら渓谷」 吉田修一

映画「さよなら渓谷」を鑑賞したことで本書を読むきっかけとなった。

映画はかなり気に入った作品となった。題名にある「渓谷」も美しく描かれており、主人公のカナコが
渓谷を「去った」ことへのリアリティーが生まれていた。一方、原作は「暑さ」が際立っている。常に主人公は汗だくになっている印象を強く受けた。

「汗臭い」作品はいくつかある。例えば中上健次 のいくつかの作品は行間から正に汗の臭いが立ち上っていた。
においを漢字変換すると「臭い」と「匂い」が出てくるが、まさに「臭い」に当てはまる作品群であった。けもの
臭とすら言って良い。
それに比べると本作は汗まみれながらも、「匂い」という言葉が相応しい気がする。これは主人公と
カナコにある妙な透明感によるものだろう。

主人公とカナコの透明感が何から齎されているのか。

本書が設定しているシチュエーションは透明感から程遠い。但し、そのシチュエーションに対峙している
二人の「対峙の有り様」が不思議と透明なのである。ある意味では「他人事」のように状況を眺めている
かのような描き方だ。その意味で、現実感がそこにはない。いや、少なくともカナコが現実感を持つことを
恐れていた点は描かれている。

その意味ではカナコが最後に家を出て行ったところから現実感が動き出したのかもしれない。
本書はそこで終わっているので、その後の二人がどうなるのかは各自想像するしかないわけだが。

「歩いても歩いても」 

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 amazonのレビュアーの方の間では何も起こらない映画であるという見解が多い。但し、僕には
むしろ観ていて余りに色々な「事件」が詰め込まれている気がしてならなかった。観ていて
息苦しくなったりハラハラする場面がいかに多かったか。見終わって大きく溜息をついた
次第だ。

 本作にはハリウッド映画のような「大事件」は何もない。アクションシーンも無ければ、派手な
ロマンスも描かれない。異星人が攻めてくるわけでもない。考えてみるとハリウッド映画とは、
そういう「非日常的な出来事」をファンタジーとして鑑賞し楽しむものなのかもしれない。

 一方本作に出てくるのは「本当にありそうな事件」である。本作を観て身につまされたという
ご意見は他レビューをざっと読んでも多い。「日常的な出来事」が展開されるだけに、ファンタジー
としてではなく、仮想ではあるものの、「現実」として鑑賞せざるを得なくなる。そこが辛い。

 但し、と考え直して見る。本作にはアクションシーンもロマンスもあれば、異星人も出てくること
にも気が付いた。

 主人公が母親と歩いて行く墓地までの道程や黄色い蝶を追いかける様は充分アクションシーンである。
 ロマンスに関しても同様だ。夏川が言い放つ「誰にでも一人だけで聴く音楽はある」というセリフ
に秘めたロマンスを感じない人はいないだろう。
 異星人に至っては、登場人物全員が異星人であると言える。

 従い、「息苦しくなったりハラハラする」ことは本作を鑑賞する正しい姿勢なのではあるまいか。

 小津映画に似ている点はいうまでもない。小津映画が欧米で評価される理由は、彼らにとって
小津映画はある種のハリウッド映画だったからかと考えたところだ。

「SWITCHインタビュー 達人達 小山薫堂 × 佐藤可士和」 

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 まったくタイプの異なる二人のクリエイターの対談である。

 工夫している箇所と言えば、お二人の事務所をお互いに訪問して対談している点
である。お二人の違いがそのまま事務所の有り方に反映されていて楽しい。

 お二人の違いは何か。端的に言うと、小山という方は過剰な遊び心の
中から出てくるものを狙っているのに対し、佐藤という方は贅肉をそぎ落として
本質に迫るというスタイルということかと読んだ。

 「そんな二人が案外共通している」という点を探すことがこの手の本の基本
だと思う。この本でもそれを狙っている節はあるが、結局そこまでに至って
いない。というかお二人に敢えてお互いの共通点を見出そうという興味が
無かったという事だと思う。その点で編集者の意図は失敗しているのかも
しれない。しかし、それはそれで良い。

 あっさりした本だが楽しく読めた。二人のどちらにシンパシーを感じるのか
を考えることも楽しい。

桜の時期

 
 今年もくにたちの桜が咲き始めた。
 
 桜という花には奇妙な静けさを感じる。いくらその木の元で人が酔いしれていようとも
花だけは冷静に、もしくは冷徹に、咲いているような気がする。花屋で売られている花と
桜は同じ花とはとても言えない。梅の盆栽は想像できても、桜の盆栽は想像がつかない。
 
 桜は「死」を想わせる。と、僕は思ってしまう。
 
 西行が桜の咲くころに死にたいと詠んでいたそうだ。西行は華やかな桜の花に包まれて死にたいと思ったのだろうか。そうではない気がする。桜が持つ死のイメージの中でこの世を去りたいと思っていたのではないか。遠い昔の歌人の心境を推し量るには、桜を眺めるしかない。
 
 桜の樹の根本には死体が埋まっていると断言したのは梶井基次郎だ。萩原朔太郎は桜を憂鬱だと言った。いずれも、病んだ視線が花を見ているさまが浮かぶ。いや、桜が病んでいるのだと彼らは言うのだろうが。でもある
 
 桜の時期はくにたちに花見の方が押し掛ける。ゆっくり歩けない時期でもあるわけだ。
 
 

「甘い鞭」 石井隆

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  この映画に出演された方と話す機会があったことで鑑賞した。

 石井隆の映画は初めて見た。敢えて言うなら、以前鑑賞して結構好きになった相米慎二の「ラブホテル」は脚本が石井隆作であるので二作目であるとも言えるかもしれない。監督は違えど、脚本家が同じであるなら、やはりその方の色は濃く出てくるものだ。本作も「ラブホテル」に似ているとも言える。特に全編がほぼ夜という点などは。

 本作はどのように理解すべきなのだろうか。

 ほかの方も書かれていたが、本作を性的な期待だけで観ることは案外難しい。性的嗜好は実に多岐に渡っており、本作を極端に好まれる方も結構いらっしゃるかもしれないが、そうではない方も多いだろう。石井隆が表現したかったのは出演女優のヌードだけではなかったはずだ。

 母に拒絶された娘の話と言えるかもしれない。

 高校時代に監禁された主人公は監禁犯を殺害することで解放された
代わりに母親に拒否された。母親の代わりに女医に優しくされたことで主人公は不妊治療の女医になる。女医である間の主人公は子供に恵まれない夫婦に対して母親であるような対応を続けている。その場面の主人公は慈母と言って良い。

 但し、監禁時に受けた暴行により、主人公には結論的にはSMへの嗜好が生まれた。SM嬢としての主人公はまさに高校時代の監禁を追体験を求めている。本来なら自分の人生を捻じ曲げた不幸な体験を、再度求めざるを得ない所に追いやられたのも母親に捨てられたからのように描写されている。末期癌に苦しむ母親に対して主人公が見せる愛憎の混ざった表情は忘れがたい。

 このように考えていくと父親に関してはそもそも不在としか言いようがない。父親の出演場面は限定されている。監禁犯も彼自身がマザーコンプレックスの下にある、ある種のゆがんだ男性であると描かれる。SM客やSM店の店員も男性であるが、いずれも監禁犯と同じ立場と言って良い。その意味では「男性不在の映画」とも言えるのかもしれない。

 女優のきっぷのよさが際立った作品と言える。主演女優、助演女優ともに体を張った演技であり、その点には感銘を受けた。男優であそこまでやれる人はいるのだろうか。

「さよなら渓谷」

 
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  「歩く」映画である。主人公とヒロインはひたすら歩いている。北野武の「ドール」を思い出した。

 「歩く」といっても、それは例えば長渕剛の「乾杯」の歌詞のような歩き方ではない。

 長渕は「今 君は人生の大きな大きな舞台に立ち、遥か長い道のりを歩きはじめた」と歌った。
本作の主人公とヒロインはそんな希望に満ちた歩き方をしているわけではない。むしろ一緒に歩く相手に不幸を強要しながら進む、苦役である。主人公がヒロインの讒言にて強いられた留置場での生活も、そんな「歩き」の変奏である。

 「歩く」中で レイプの加害犯であった主人公と被害者であったヒロインの立場が逆転していく。
「歩く」なかで精神が荒廃していくのは加害者から被害者になっていく主人公だ。そんな主人公に逃げることを許さないヒロインの表情が圧倒的である。

 横に並んで歩かなかった2人が次第に横並びになっていく。お互いに不幸であるために歩いてきた2人が幸せになりそうな瞬間にヒロインは履いていたサンダルを渓谷に脱ぎ捨て、幸せを拒否する。ヒロインが去ったことで主人公は解放された。
 但し、解放されたことで初めて主人公は主体的にヒロインと幸せになろうと決意する。そこで本作は終わる。その2人がどうなっていくのかを教えてくれない。渓谷に流れ去ったサンダルを取り戻せるのかどうか。あとは想像するしかない。

 語り部の雑誌記者が良い。彼は主人公とほぼ同じ位置にいる。主人公とヒロインの物語に近い物語を彼自身が抱えている点で本作に深みとコクが出ている。

 最後にヒロインの真木よう子に感銘を受けた。目の力が非常に強い。久しぶりに「大女優」という言葉を思わせる方に出会った。彼女の今後が楽しみだ。 

「ジェフ ペゾス」

 
 
 アマゾンのレヴューを書くことが半ば趣味と化している。アマゾンで購入する本も多いし、本以外のものも買うようになってきた。従い、本書も読んでみようと思った次第だ。

 アマゾンを一番恐れるのは誰かと考えることは興味深い。本書を読む前は、当然ながら書店などを想定していたが読了後は意見が少し変わった。日本に限っての意見かもしれないがコンビニ業界こそがアマゾンを最も恐れているのではないか。

 コンビニの強みは実店舗の多さにあると僕は理解している。実店舗が多いことで訪問客も合計として増え、
従い、マスを前提とした各種サービスが可能になってきた。その結果更に来客が増え、その来客
増加を元に更にサービスを増やすことが出来る。かつ、実店舗ならではの細かい対応も可能だ。そんな
正のスパイラルを通じて 最強の小売となりつつある。日本のコンビニモデルは既に米国と東南アジアにも
逆輸出され始めているくらいだ。

 一方アマゾンはどうか。実店舗を持たない代わりに、圧倒的なロジスティックを築きつつあることが本書でも
いくどか描かれる。また、実店舗を持たず、在庫を基本的には持たずに済むことで、非常に柔軟な客先
対応が可能となっている。これはアマゾンだけの手柄ではない。ロングテール理論ではないが、ITが
齎した果実をアマゾンが手にしているとも言える。コンビニもITを駆使していることは同じ
だろうが、そもそも実店舗オリエントであろうDNAは案外変えられないと思う。そこが勝負に
なるという気がする。

 どちらが勝つのか。アマゾンは商品群という面ではコンビニで扱っている全ての商品を
扱いに来るはずだ。それこそがジェフペゾスのいう「顧客重視」であるからだ。
これに対してコンビニはどう戦うのか。アマゾンに対抗してネット通販の拡充に
走るのかもしれないが、それで良いのかどうか。コンビニは相手の土俵で戦うのでは
なく、相手を自分の土俵に乗せて戦わせることで勝ってきたはずだ。その戦法がアマゾン
相手にも使うのか、使えるのか。

 などと考えると、結構頭の体操になった。

「もっと面白い本」

 
 『面白い本」が面白かったので続編も読んだ。

 続編は概して面白くないものだ。映画がその典型だろう。映画の続編で感心したのは、ゴッドファーザーパート2
と、スターウォーズ 帝国の逆襲程度だけだ。エクソシスト2も好きだが、あれは前作とあまり関係が
なく、独立した作品だと理解している。

 本作はどうか。面白い本の紹介という作りにて、結論的にいうと一作目同様面白く読めた。買いたい本のページ
を折っていたが、折り目だらけである。

 考えてみると「読みたい本」が沢山あるという状態は僕にとっては極めて幸せな状況だ。まだ見知らぬ面白そうな
本が色々あるということ自体が生きがいになり得ると思う。これは著者も同じなのだと思う。

 最後の「余禄」が白眉である。著者が指摘する大会社の社長の「竜馬がゆく」好きの部分には爆笑した。
僕は余禄の最後で著者が言う「はっきりいえることは、今まで本をあまり読んでいなかった層が、本を手にとりはじめたということだ」という意見にはいささか疑問がある。但し 、著者がそうあってほしいと考えることはよく分かる
気がする。誠に本はある種の魔物だ。

「笑うカイチュウ」 

 寄生虫の話である。非常に興味深く読めた。

 本書を読む限り、人間を含む多くの動物たちは基本的には沢山寄生虫を抱えて生きてきている。現在の日本
では寄生虫はかなり限定されている様子だが、そうなったのはつい最近のことであり、むしろ特殊な
状況と言える。人間や動物にはそもそも寄生虫は普通にいるものだと考えることの方が自然である
ということかもしれない。本書では寄生虫のお陰でアレルギーや花粉症をまぬがれているという
例も紹介されている。それを読んでいると「寄生虫」ではなくて「 共生虫」 という言い方もあるのではないか
とすら思ってしまう。

 それにしても地球から見てみると人間とは寄生虫なのかもしれない。かつその寄生虫である人間は地球の主人の
ように振舞っている。寄生虫にとって宿り主が死ぬことは自身の死にも繋がる。寄生虫が案外致命的ではない理由は宿り主に死んでもらっては困るというロジックにあると僕は勝手に想像している。その意味で人間は宿り主の地球をどう考えているのかは、我々が試されている課題かもしれない。

「凍った地球」


最近議論されている地球温暖化に初心者的な疑問を常に抱いている。

僕の理解では地球温暖化による問題とは、要は「現在の地球の状態を維持すべきである」ということだと理解
している。ではなぜそう考えるのかということだ。例えば寒い地域に住んでいる方にとっては、温暖化
された方が生活が楽になるのではないか。若しくは熱帯の動植物にとっても自身の生息範囲が広がる
話なので温暖化は大歓迎なのではないか。

そう考えると「温暖化の何がいけないのか」が今ひとつピンとこないことがある。かつ、本書では、
かつて地球が丸々凍結されていた時代があったと主張されている 。その真偽を判断する知見は僕には
ないが、どうやら今の地球の状態も、たまたまこうなっているだけのことであり、恒常性という
面ではむしろ疑問であると考えるべきかもしれない。そのたまたまの状態を固定化し、維持するという
方向性は、基本的には儚い話なのではないか。

僕らは地球の歴史を余りにも知らなさすぎている。地球への知見が薄い僕らが、色々と地球に関して
考えること自体がきっとおこがましいのだろう。本書を読むこととは、そんな人間のおこがましさを
再認識することでもある。