くにたち蟄居日記 -84ページ目

「想像ラジオ」

 
大分の空港で購入した。羽田までの機内で読み通した。

東北大震災の話である。

個人的な話だが、僕は震災で死んだわけではない。家族や友人で震災で亡くなった方も居なかった。更に言うと、2011年3月は
僕はインドネシアに住んでいた 。あの瞬間の日本の状況を全く肌身で感じていない。従い、本書の読者としての資格は
極めて低いと判断せざるを得ないとは思っている。あの震災を色々な意味で経験しなかったことは案外大きい。僕には
いまなお幾つか理解出来ないことがある。そうたまに感じる。

但し、そんな僕であるからこそ本書を読む意義があるのかもしれないと考えるところから始めないといけない
のかもしれない。

小説の力というものがある。小説を読むことを通じて僕らは想像力を強化することが出来る。想像する力が
強くなれば、擬似であるかもしれないが、震災を体験することも可能かもしれない。ここにおいて僕の
個人的な状況と本書の題名である「想像」という言葉が重なってきているのだ。

本書の「想像ラジオ」とは、一体誰が「想像」しているのか。やはり生き残ったものが「想像」している
ということなのだろう。少なくとも著者は生き残ったものの一人だ。
では同じく 生き残ったものの1人である僕はどう 「想像」 すれば良いのか 。それが僕の個人的な本書を読む課題
であり、意味であるということなのだろう 。

タブーとは



  「タブーは それがタブーであるからタブーである」  と書いてみた。

     若しくは「タブーはタブーである間はタブーである」とも言えるのか。どちらにしろ
同じような話なのだとは思うが。
 
    タブーを口に出すことはトリックスターの一つの役割なのだろうと思う。若しくは、それがトリックスターの最大の役割とも言えるのかもしれない。
      
   

色と音


  「彼女=(染織作家志村ふくみ)にとって 『色』は、文義通りの意味で、音のように『奏でる』もの
    だった」       =「池田晶子 不滅の哲学」 若松英輔  96頁


    色とは確かに単色でみるものだけではなく、他の色との位置関係で見るものだ。虹の七色とは
   決して色の線引が出来ず、グラデーションの中で 七という数字を拾ってくるに過ぎない。

   音も同じだ。他の音との位置関係や共鳴ないし不共鳴の中で 把握するしかない。

   

「キャプテンフィリプス」 

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 ソマリアの海賊の話は新聞で良く見ていたが、実態がどのようなものか知らなかった。実話
に基づくという本作を観てある程度のイメージを持つことが出来た。

 本作のテーマを考えることは案外難問である。主人公のリーダーシップということに見えるが
本当か。

 主人公は比較的無策に海賊の侵入を許した人物であるとも見える。航路上のリスクを
理解しつつも、防御においては弱い。例えば映画の冒頭で海賊除けの門の鍵をしっかり掛ける
ような指導をしていたが、その鍵は掛けられていても海賊の機関銃で一瞬にして破壊されて
しまっている。これには観ていた僕もちょっと茫然としてしまった。要は海賊の持っている
であろう武器の威力を全く過小評価していたということだ。

 次に主人公は単独で人質になる。自分が人質になったことで他の船員を守ったことになる。
この点はある程度は確かかもしれないが、観ている限り、海賊の要求でそうなっただけとも
見れる。従い、主人公が決して能動的に自らを犠牲にしようとしたとまでは見れない気もする。

 要は、非常に正直な映画なのだと思う。主人公もヒーローの様で、結構アンチヒーロー
なのだ。その正直さは実話から来ているのかもしれないし、トムハンクス自身の意向でも
あったのかもしれない。従い、逆にある種の信頼性を本作に感じた次第だ。

 本作を信頼した上で海賊の造型をどう見れば良いのか。多くの方が言われている通り、
本作の海賊には大変リアリティーを感じる。俳優も実際にソマリアの方がおやりになった
とのことだが、彼らがどのような想いでハリウッド映画に出演したのかを考えることには
意義があると思う。本作で描かれるソマリアが本当の姿なのかどうか。それを
まさに彼らに聞いてみたい。

佐村河内 守 という議論

 佐村河内 守という方が話題になっている。
 
 主な論点は彼が作曲したという曲にゴーストライターがいたという点と、聴覚障害があるとされてきた
彼は実は耳が聞こえていたという点と二点が問題となっているという。
 
 一点目と二点目は本来別の論点なのだと思う。しかし、結論としては同時に議論されている。この議論の有り様に違和感を感じる方は、例えば「誰かがどのようにして作ったのかは分からないにしても、そもそも作品としての音楽の価値自体に対する議論がないのではないか」という第三の論点を出されている。誠に、今回の問題は案外と奥行きがあるのだと思う。
 
 ゴーストライターがいたという一点目とは何か。要は「佐村河内 守」というブランドがあったにも関わらず、実際には下請け業者がいたという話だ。これはある意味驚くべき問題ではない。ファッションにおいても、デザインはともかくとして製造は下請けがやっている。その話と余り変わらないのではないか。
 勿論反論としては「製造はともかく、デザイン部分を誰が創るのかという点がブランド価値だ」というもの
も想定される。では、そのデザイナーとは何なのか。Aというブランドでデザインしている方がヘッドハントされてBというブランドに移籍したら何が起こるのか。これも決して簡単な質問ではないかもしれない。
 
 聴覚障害が無かったという話はどうか。「聴覚障害が無くてよかったですね」という話は余り聞かない。
むしろ「聴覚障害が無かったら困る」という方向性のようにも見える。「佐村河内 守」というブランドの
価値が聴覚障害にあったということなのだろうが、それがそもそもブランドとして正しい有り方なのか。これもなかなか難しい。ベートーベンが本当に聴覚を失っていたのかどうかということすら気になってくる。
 
 音楽自体の価値はどうかという議論は一見とてもまともな議論の立て方に見える。但し、音楽
というものは、そもそもいくつかの周波数を帯びた振動だけで出来ているのかと考えると中々
これも難しい。音楽とは鼓膜の振動の仕方だけではおそらくないのだ。より大きな物語を含有した
総体としての音楽という考え方もあるのだと思う。その物語に聴覚障害というブランドが強く関与
していたことで、人々が喧々諤々とした議論をされているのだと思う。
 
 ということで中々一筋縄ではいかない話なのかなと思っているところだ。
 
 

立川 レインボウカレー

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   立川駅前のカレーである。独自のスパイスが効いていて面白い。そう、カレーという食べ物は
美味しいかどうかだけではなく、面白いかどうかも大きな要素ではある。

雪の日に

  
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    週末に連続しての大雪である。

    雪とは可視化された雨だ。雪ではなく雨であったとしたら ごく普通に降り、ごく普通に流れて行っておしまいだったのだろう。雪というある種の固形物となったことでその量というものが分かる。

    それにしても 積りに積もった雪を眺めていると、これだけの水分が大気にあったことに
驚く。こんなに重いものを抱え込める空というものがあるということだ。我々の頭上に。

     


    

「面白い本」

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著者は日本マイクロソフトの社長を10年程度おやりになった方である。想像するに、
先端産業にてビジネスマンとして第一線で活躍されていたのだろう。そんな方が、同時に
無類の読書家だったという点にまず興味を持った。

勿論読書家である経営者は多い様子だ。「様子」と言ったのは本当はどうなのかが分からない
からだ。例えば「新社長の紹介」というような新聞の記事では、多くの社長のご趣味が読書
であったり、クラシック音楽鑑賞であったりするからだ。特にオペラ鑑賞の多さも目に付く。
即ち、無難な趣味として本や音楽があるのだろう。広報部のマニュアルにでもありそうな
話なのだ。従い本当に読書がお好きなのかには留保をつけたい。大体なぜかように司馬遼太郎
ばかりが新社長の愛読書なのか。

そんな天邪鬼のような視点をもってしても、本作の著者の読書家ぶりには疑う余地が無い。
なにより、仕事に直接役に立ちそうもない本のオンパレードだからだ。読書家というより
は乱読家という言葉が相応しい。

乱読とはその人の興味の有り様を示す。集中ではなく拡散を選んでしまう精神のありようだ。
何を見ても面白がるという性向は、おそらくは赤ちゃんや幼児のそれに近いはずだ。本書で
著者が見せる躍動感に満ちた文章は、幼児が繰り返す「なぜ?」という無限に繰り返して来る
質問にも重なって見える。著者が幼児のような眼差しで世界を眺め、面白がっている姿が
浮かび上がってくる。

それにしてもマイクロソフトという会社も懐が深かったのだろうと思った。

「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」

  若松という方の著作を初めて読んだ。地元の本屋で平積みされていた本を手に取ったことがきっかけだ。そういう本との出会いが出来る場所が本屋の絶対的な魅力である。

 本書での題材は多岐に渡っているが、主題は一つである。「死者とは何か」ということだ。

 僕にとっての死者とは何なのか。全く見知らぬ場所にて亡くなられた無数の方は、僕にとっての死者ではない。僕にとっての死者とは、何らかの形で知っている方に限定される。

 「何らかの形で知っている」という「知り方」は必ずしも面識を必要としない。例えば僕の誕生前に既に亡くなっていた祖父も僕にとっての死者である。更に言うと、夏目漱石も僕にとっての死者である。

  それは何故か。それを考えることが僕にとっての本書を読むという作業になった。

  著者は「死者は生きている」と繰り返し説く。おそらくは「生きている」という言葉の定義から考え直す必要がある。
  僕にとって夏目漱石が「生きている」と感じることで、夏目漱石は僕の死者になっているはずだ。僕らは死者と心の中で話し合うことが容易に出来る。会うことがなかった祖父と話が出来るのも心の中だ。その会話こそが「生きている」という意味なのだろう。これはトートロジーに近い気もするが、そうではないと僕は思う。

  著者は若くして奥様を亡くしたと書かれている。本書で紹介される上原専禄という方も奥様を亡くされたことで死者論にたどり着いたとある。おそらくは「亡くなられた奥様との会話」から、本書が生まれてきたのだろうと想像する。奥様との共著といっても良い。従い、亡くなられた奥様は生きていると言えるし、著者自身も奥様との共著という作業の中で生を受けているとも言えるのではないか。

釜山の蛸鍋


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 韓国の釜山にて。タコの鍋である。