「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」
若松という方の著作を初めて読んだ。地元の本屋で平積みされていた本を手に取ったことがきっかけだ。そういう本との出会いが出来る場所が本屋の絶対的な魅力である。
本書での題材は多岐に渡っているが、主題は一つである。「死者とは何か」ということだ。
僕にとっての死者とは何なのか。全く見知らぬ場所にて亡くなられた無数の方は、僕にとっての死者ではない。僕にとっての死者とは、何らかの形で知っている方に限定される。
本書での題材は多岐に渡っているが、主題は一つである。「死者とは何か」ということだ。
僕にとっての死者とは何なのか。全く見知らぬ場所にて亡くなられた無数の方は、僕にとっての死者ではない。僕にとっての死者とは、何らかの形で知っている方に限定される。
「何らかの形で知っている」という「知り方」は必ずしも面識を必要としない。例えば僕の誕生前に既に亡くなっていた祖父も僕にとっての死者である。更に言うと、夏目漱石も僕にとっての死者である。
それは何故か。それを考えることが僕にとっての本書を読むという作業になった。
著者は「死者は生きている」と繰り返し説く。おそらくは「生きている」という言葉の定義から考え直す必要がある。
僕にとって夏目漱石が「生きている」と感じることで、夏目漱石は僕の死者になっているはずだ。僕らは死者と心の中で話し合うことが容易に出来る。会うことがなかった祖父と話が出来るのも心の中だ。その会話こそが「生きている」という意味なのだろう。これはトートロジーに近い気もするが、そうではないと僕は思う。
著者は若くして奥様を亡くしたと書かれている。本書で紹介される上原専禄という方も奥様を亡くされたことで死者論にたどり着いたとある。おそらくは「亡くなられた奥様との会話」から、本書が生まれてきたのだろうと想像する。奥様との共著といっても良い。従い、亡くなられた奥様は生きていると言えるし、著者自身も奥様との共著という作業の中で生を受けているとも言えるのではないか。
それは何故か。それを考えることが僕にとっての本書を読むという作業になった。
著者は「死者は生きている」と繰り返し説く。おそらくは「生きている」という言葉の定義から考え直す必要がある。
僕にとって夏目漱石が「生きている」と感じることで、夏目漱石は僕の死者になっているはずだ。僕らは死者と心の中で話し合うことが容易に出来る。会うことがなかった祖父と話が出来るのも心の中だ。その会話こそが「生きている」という意味なのだろう。これはトートロジーに近い気もするが、そうではないと僕は思う。
著者は若くして奥様を亡くしたと書かれている。本書で紹介される上原専禄という方も奥様を亡くされたことで死者論にたどり着いたとある。おそらくは「亡くなられた奥様との会話」から、本書が生まれてきたのだろうと想像する。奥様との共著といっても良い。従い、亡くなられた奥様は生きていると言えるし、著者自身も奥様との共著という作業の中で生を受けているとも言えるのではないか。