AIと神とパンドラの箱
最近のAIの進歩の速さを巡って、「人智を越えたAIを怖れる」という議論が活発になってきた。議論が活発になること自体は大いに結構なのだが、どうもAIの進歩の速さに、議論の方が追い付いていないようにも見える。AIを創っているのは人間自身である。にもかかわらず、そのAIに人間が追い付かないという事態は、ある種の喜劇である。しかし、喜劇と悲劇は紙一重だ。
人間が「人智を越えるもの」を作るのは、今回が初めてではないのではないか。一回目は、「神」という概念だったと僕は考えている。
「神」とは何か。おそらくは、その時々の人間が「理解できないもの」を理解するために創り出した、一つの「人工装置」だったのではないか。「人智を越えた」存在として神を設定することで、人間は自分の周りで起きる様々な理解できない事象を説明できるようにしてきた。
人間は、「理解できないもの」があることに耐えられない気性の持ち主なのだと思う。だから、分からないことを「神」に持っていき、それによって理解したことにすると、ほっとする。
そんな素朴な「神」の概念は、やがて暴走した。「神」は時を経るに従って複雑怪奇なものへと進化していった。様々な解釈を通じて「物語」が付与され、聖典が作られ、規範がまとめられていった。
それらは、すべて人間自身が創ってきたものだ。にもかかわらず、それらはやがて人間自身を縛るものにもなった。宗教が原因となって発生した悲劇や喜劇は、枚挙にいとまがない。21世紀の今でも、「神」がらみで命を失う人はいくらでもいるではないか。
AIにも、同じようなストーリーが見えてきている。
「理解できないもの」には耐えられないという性質を持った我々は、AIをここまで創り上げてきた。ところが、AIにはどうやら暴走するリスクがあることが見えてきた。そして初めて、人間は自分が創り出したものを怖れるようになり始めたわけだ。
「神」と同じように、我々はこれからAIに対しても、物語を与え、聖典を作り、規範をまとめようとするに違いない。しかし、そのような「まとめ」が何をもたらすのかは、まだ誰にも見えていない。
「パンドラの箱」の怖ろしさは、ひとたび開いてしまうと、閉じることができない点にある。箱の中身がすべて出てくるのを待つしかない。
昔の「パンドラの箱」では、最後に「希望」が出てきた。
では、次の箱からは、いったい何が出てくるのだろうか。
倫理や道徳が剥落しはじめてきてはいないだろうか?
最近の世界や日本の政治状況、そして政治家たちの言動を見ていると、「倫理」や「道徳」というものが人間社会から少しずつ剥落しつつあるのではないかと思わざるを得ない。そう感じるのは、果たして僕だけだろうか。
では、「倫理」や「道徳」の歴史を考えてみたい。文字として記録されている限りでは、その源流は紀元前二〇〇〇年頃まで遡るのではないだろうか。そうだとすれば、「倫理」や「道徳」はおよそ四〇〇〇年の歴史を持つ考え方ということになる。
四〇〇〇年という歳月を長いと見るか短いと見るかは、人によって意見が分かれるだろう。地球の歴史と比べれば一瞬に過ぎない。しかし、人間の精神史という観点から見れば、決して短い時間ではないとも言える。
では、「倫理」や「道徳」はなぜ生まれたのだろうか。僕は、人間が「信用」というものを社会の基盤として重視するようになった結果、それを支えるための知恵として「倫理」や「道徳」が形成されたのではないかと考えている。僕は倫理や道徳の本質は『信用を成立させる社会的装置』にあると考えたい。
人間は、他人を信用することによって社会的なコストを大幅に下げ、そのことによって発展してきた。例えば、飛行機に乗る際、僕らはパイロットや航空会社を信用して搭乗している。もし彼らを信用できず、常に疑い続けなければならないとしたら、とても飛行機には乗れないだろう。そして、飛行機を利用できないことによって失われる時間や機会というコストもまた小さくはない。
あるいは、商取引には「与信」という基本的な仕組みがある。後払いを認めることは、その代表例である。後払いという制度があるからこそ成長してきた業態は数多い。これもまた、他人を信用することを前提とした社会の仕組みである。
このように考えると、人類の発展を支えてきた重要な基盤である「信用」が、いま揺らぎ始めているように思える。その背景には、「倫理」や「道徳」が弱まりつつあることがあるのではないだろうか。
もっとも、なぜ「倫理」や「道徳」が弱まり始めたのかについては、さらに考えを深める必要がある。この点については、まだ自分の中で十分に整理できていない。いずれ改めて考えてみたいと思う。
「衣食足りて礼節を知る」
「衣食足りて礼節を知る」という中国古典の言葉がある。『管子』という書物に収められている言葉だ。『管子』が今日の日本でどの程度読まれているのかは知らないが、この言葉自体は非常によく知られている。
有名な言葉だけに、何となく意味を理解したつもりでいた。しかし改めて考えてみると、現代社会においても極めて切実な意味を持つ言葉であることに気づいた。
この言葉は、衣食に満ち足りた人が、衣食にも事欠く人に向かって「礼節が大事だ」と説いている場面を想像すると、その本質が見えてくる。例えば、先進国が途上国に対して地球環境保護の重要性を説く姿と重なる。長年にわたって大量の二酸化炭素を排出してきた先進国が、温暖化防止を理由に途上国へ厳しい排出制限を求めても、議論が容易にかみ合うはずはない。
あるいは、近年のリベラリズムの後退も同じ構図ではないだろうか。衣食に恵まれたエリート層が「正義」や「倫理」をどれほど唱えても、格差社会の中で生活に苦しむ人々の心には届きにくい。そうした状況が世界各地で見られ、それが今日のポピュリズムの広がりを支える一因にもなっているように思える。
では、そのエリートたち自身の「衣食」が脅かされたとき、彼らはなお同じように正義や倫理を語り続けられるだろうか。僕は、その点に一抹の不安を覚える。
『管子』が成立したのは、おおむね春秋時代から戦国時代にかけてとされる。その時代、衣食に不自由しない人々がどれほどいただろうか。大半の人々は日々の暮らしに追われていたに違いない。そう考えると、「衣食足りて礼節を知る」という言葉は、「礼節を知る」ということがいかに困難であるかを語っている言葉のようにも思えてくる。
それにもかかわらず、二千数百年前に礼節の重要性を説いた人々がいたことには驚かされる。そして二千数百年を経た私たちも、人間という存在について、当時より格段に賢くなったとは言い難い。二千五百年という歳月も、歴史という長い時間の流れの中では、ほんの一瞬に過ぎないのかもしれないのだが。
「戦士の休息」 落合博満
「いつの時代も、戦争とは人間の能動的な意思だけで起きるものではなく、反対した人も少なからずいたはずだ。それでも、時代の流れや国家を動かす大きな力には抗えなかった。つまり、物事を考える際にイエスかノーかという二者択一しかできなくなり、『行くしかない』と信じ込んだ先に戦争がある、とも言えるのだろう。実は、それを止められるのは、イエスとノー、すなわち白と黒の間にあるグレーな考え方ではないか。白黒をはっきりさせず、『まあまあ間を取って』と考える姿勢は、日本人の特徴であり、ある意味では欠点ともされてきた。しかし、契約や裁判によって白黒を明確にする欧米型の社会の価値観に触れてみると、グレーな部分を許容する日本の文化にも必要な場面があることに気づかされる。そして、あまり声高にグレーな考え方を否定すべきではない、とも感じている。」
以上は、プロ野球選手・監督として活躍した落合博満の『戦士の休息』からの引用である。本書は、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーの依頼を受けて落合が執筆した映画評をまとめた一冊だ。
グレーゾーンという言葉がある。文字どおり、白とも黒とも判然としない領域や物事を指す言葉である。一般には「違法すれすれ」といった意味合いで使われることが多く、「ずる賢い」やり方を連想させる。しかし、さらに考えてみると、「ずるい」と「賢い」との間には、実は共通する部分が少なくないようにも思える。「賢い」という言葉には、ときに一抹の影が感じられる。それは、「ずるさ」の匂いをどこかにまとっているからかもしれない。
「まあまあ間を取って」という解決の仕方は、ある意味では「ずるい」解決でもある。対立する双方が、それぞれ「自分が勝った」と思える余地、つまり「出口」を残しているからだ。戦争や外交の世界では、まさにこうした手法が繰り返し用いられてきた。そう考えると、落合が言うほど「日本の専売特許」ではないのかもしれない。
それにしても、落合の映画評は含蓄に富んだ言葉にあふれている。落合に映画評を書かせた鈴木敏夫という人物の眼力にも、改めて感心させられる。
「ガス人間」 ドラマ
ネットフリックスの「ガス人間」を全話鑑賞した。
ふだんはドラマをあまり見ない方なのだが、元になった「ガス人間第一号」が好きな映画なので、今回は放映開始とほぼ同時に観ることにした。感想は二点である。
一点目。「ガス人間第一号」が観られる契機になって良かった。今回の「ガス人間」を観るに当たって「ガス人間第一号」も観てみたというコメントをいくつか読んだ。「ガス人間第一号」は東宝の特撮映画である。おそらくはゴジラを中心とした怪獣映画や怪奇SF映画路線の一本として制作されたのだろうと想像はしているが、その中でもひときわ異彩を放つ一作である。ヒロインの八千草薫の絶頂期の美しさに加え、恋愛譚とも言えそうで言えない悲恋話は子供には難しかったはずだ。あの時期の東宝には「マタンゴ」であるとか不思議な傑作が多かった。これは今なお再評価が待たれると僕は勝手に思っている。そのためにも今回の「ガス人間」制作は良かった。
二点目。とはいいながらも「ガス人間」と「ガス人間第一号」は全く異なる作品である。何が一番違うかというと題名を飾るガス人間の意志がある・なしという点だ。
「ガス人間第一号」でのガス人間は明確な自分の意志があり、それに従って行動していっている。その結果が悲劇に終わる訳だが、その「意思」には多くの観客を感情移入させるものがある。つまりガス人間が「ガス人間第一号」での正当な「主人公」であると言える。
一方で「ガス人間」のガス人間には自分の意志というものは、とりあえずは全く見えない。「とりあえず」と留保したのはラストシーンの解釈が不明瞭であり、もしかしらガス人間の意志があったのかもしれないという可能性は捨てきれないからだ。但し、それ以外の部分においては、ガス人間は自分の意志を持たないただの殺人ロボットのような登場人物である。従い、主人公とは言えないと僕は考えている。
勿論「ガス人間」のガス人間をそのように造形した理由がはっきりとあるということだろう。「ガス人間」が描き出したかったものは悲恋などではなく、「ある種の社会の有り方」であり、かつそれは今の日本に状況に対する提言であり警報であると考えるべきなのだ。
そう考えて「ガス人間」を鑑賞していると、但し、若干の粗さも見えてしまう。ちょっと話の展開が性急であるし、もう少し登場人物の深みも描き込めたのではないかと思ってしまった。
いずれにせよ、「怪奇SF映画」のもつ可能性を現代に再度蘇させたいという意欲には共感する。「マタンゴ」などもシリアスにリメイクされても良いと思うのだ。
「エセー」 第一巻第十三章 つづき
第一巻第十三章を続ける。
「各国が、いや各都市や各職業が、独自の礼儀作法を有している。
わたしは子供時代に、そうした作法をみっちりと仕込まれたし、育ちもよい人々と日々を送ってきたから、わがフランスの礼儀作法はわきまえているし、なんなら先生だってつとまりそうだ。
だから、喜んで、それに従うけれども、わたしの生活がそれに束縛されるほど、おずおずと従いたくはない。そうした作法のなかにはめんどうくさいものもあるが、それを、うっかり忘れるのではなくて、見識を持って忘れるならば、それはそれで上品なのである。
なにしろ、あまりに礼儀が正しすぎて、かえって失礼な人とか、丁重さがすぎて、わずらわしい人もずいぶん見てきたのだ」
これもそのまま現代に適用できる話である。「慇懃無礼」という日本語だってあるではないか。エセーは1580年に初版が刊行されたらしいのでもう450年前の本だ。450年たっても人間の所作は変わらないと思うとおかしくなってくる。
「慇懃無礼」という言葉をネットで調べた。「表面上は極めて礼儀正しく見えるが、実は尊大で相手を見下している」ということらしい。要は相手に馬鹿されているという印象を持たされるということなのだろう。礼儀正しくすることが実は相手を馬鹿に出来るということは「礼儀」とはどういうものかを考えさせられる。
礼儀というと「論語」を思い出した。孔子は礼儀を重んじ、その形式には拘っていたと思う。それに対して道家からは「そもそも礼儀が必要な状況自体がおかしいと考えるべきではないのか」という批判や嘲笑があったとも記憶している。「大道廃れて仁義あり」という老子の言葉も同じ路線にある。表面上を取り繕う「礼儀」は、本音のありようを隠すだけの便法であると老子や荘子は思っていいたということか。
と思っていたらモンテーニュは以下のように続ける。彼はなかなか現実的なのではある。
「そうはいっても、人々のあいだでのたちふるまいの知識は、非常に役立つ知識なのである。それは優雅さとか美しさと同じく、人づきあいや親交の仲立ちをしてくれる。そして結果として、われわれに、他人を手本として学び、さらには、自分のうちに、他人に教え伝えるものがあるならば、それを手本として示し、活用する道をも開いてくれるのである。」
エセー 第一巻 第十三章「国王たちの会談における礼儀」
この章は3頁程度の短いエッセイなのだが、中々笑わせて貰った。
「どのような集まりでも、人を待たせるのは目上の者の特権であって、身分の低い者が先に来ているのが共通のルールとなっている」
今の日本でもそのまま通じる話である。一種の常識なのかもしれないが、ではいったい何故なのかと考えると中々奥深い気もする。
「待つ側」と「待たせる側」という話なのだろうが、となると「待つ」という行為そのものに何か問題があるという話なのだろうか。「待っている間」という時間を考えてみると、それは「待たせる側」に自分の時間を委ねてしまっていることなのだろう。本来自分でマネージ出来るはずの「自分の時間」を他人に委ねるということはいかにも自分の自主性を放棄しているように見える。人と人とのパワーゲームにおいて、相手に自分の主張や自主性を放棄させることは紛れもなく「勝利の方程式」であろう。但し、そういうパワーゲームやマウントの取り合いとは本来の「待つ」という行為とは別物である。そんなゲームに興じているうちに、「待つ」ということ自体の意味を見失うことにつながらないか。
ベケットの高名な戯曲「ゴドーを待ちながら」という本を思い出した。主人公二人が行っていることは「待つ」ということだけであるという粗筋だったと記憶している。何かを「待つ」とはどういうことなのか。外からやってくる自分にとっての「未知」をどのように「待つ」のか。どれだけ自分を解放して「未知」を受け止める準備ができるのか。そんな話が「待つ」という行為の本質であるような気もしてきた。
タイパという言葉が誰の辞書にも載る時代になってきている。時間を効率的に使うということ自体に別に異論は無い。但し、時間をかけるしかない物事も少なくない。時間をかけて何かを「待てる」ということは豊かな話でもあるのだ。身分の低い者も「待たされている」間の時間の使い方次第では、そこに豊かさを見つけることも不可能でもないのではないか。
「待ち方」ということも結構重要なのかなということが最後の感想である。
「華麗なるヒコーキ野郎」
住んでいる国立市の公民館は日曜日の昼下がりに定期的に無料映画上映会を開催している。70名程度まで入れる部屋での上映だ。映画は一人で観るのも楽しいが、ある程度の人数で観ることも悪くない。従い、時間が合えば、例え配信等で自宅で観ることが出来る映画も公民館で観るようにしている。本作もそれで鑑賞した。初めての鑑賞である。
本作は「男のロマン」である等の比較的「明るめ」の感想を集めているようだ。但し、素直に観ると本作は相当に「暗い」作品なのだと思わざるを得なかった。
そもそも死者が多い。かつ、その死者に対してあるべき「敬意」なり「悼み」というものが感じられない。主人公たちは「飛ぶこと」に命を懸けている訳だが、命を落とした人々に対して大した想いがないように見える。そう思ってしまうと、主人公たちの「男のロマン」というものも、むしろある種の狂気であるように見えてくる。彼らにとって「飛ぶ」ということは「命の蕩尽」ということのようにも見えてくる。そんな狂人たちが大空を舞台にして、黒くて暗い情熱を燃やしているというようにも見えてこないだろうか。
おそらくは上記のような鑑賞の仕方は「不幸な鑑賞」なのだと思う。「男のロマン」を感じてかっこよい映画だなと思える方が遥かに幸せな鑑賞だろう。但し、それが出来なかった僕としては素直に感想を述べるしかない。この映画はある種の狂気の在り方を描き出したフィルム・ノアールである。
僕にとっては。
「安岡正篤 昭和の教祖」 塩田潮
安岡正篤という方の名前を聞くことは幾度か有ったが、どのような方なのかを知る機会は無かった。従い本書は僕にとっては初めての安岡紹介本である。感想は二点だ。
一点目。本書は決して安易な「安岡賞賛本」ではない点が読んでいて心地よかった。安岡の漢籍に関する高い知見を描き出す一方で、安岡の下世話な部分も書き出している。最終章の細木数子の話は芸能ネタとしてのある種の余談だとしても、それ以外に本書でちらりちらりと出てくる安岡の野心や執着の話は面白かった。田中角栄が「政治とは人間の欲望の調整作業だ」と喝破した場面が本書にも出てくる。おそらくは安岡が嫌いそうな、身もふたもないセリフなのだと思うが、その安岡自身も十分に「欲望の調整作業」を行っていたであろうことは本書の一つの主張であると僕は読んだ。
二点目。安岡の力の根源は、上記の通り漢籍への造詣にあった点には考えさせられるものがある。安岡の大きな機能は「生き字引」であったと本書は言う。その字引とは何の為の字引かというと、文章等の「格調」を上げるための字引だったとしている。
「格調」とは何かと考えると案外と難しい。「格調が高い」という事を煎じ詰めていくと、「要は装いを飾る」という程度のことではないかとも思えてくる。漢籍から引っ張ってきた「キラキラ語句」で文章を飾ることが本質的かどうかは良く考えなくてはいけない。
但し、多くの政治家や企業家は、そのような「キラキラ語句」は好きであることは昔も今も変わらない。新聞や雑誌で見かける「新閣僚紹介」や「新社長の横顔」等にはえてして「座右の銘」というコーナーがあり、そこには大体は漢籍から引っ張ってきた言葉がとってつけたように並んでいるものだ。
つまり、それだけ日本人の美意識に漢籍が根付いてきているとも言える。但し、その「根付いている場所」は決して深部ではなく、表面的に過ぎない。これも本書の裏メニュー的な主張なのだと思う。
エンデ「モモ」
久しぶりに本書を読み返した。還暦を迎えた時期に本書を読むと、若い頃の読後感とはまた少し変わったものがある。仕事の現役を一歩退いた地点から本書を読むと、まさに自分自身が時間貯蓄銀行に囚われてきたことを痛感させられるからである。
本書は童話仕立てであるので、第一義的には子供が読むようになっている。但し、ここが面白いと僕は思うのだが、まだ大して社会に出ているとは言えない子供の世代が本書を味読することができるのかどうかは定かではない。還暦の自分から見ると、本書の怖ろしさは子供には分からないとしか思えない。作者もそれを分かった上で、敢えて童話にしているのはなぜなのかを考えることは本書を理解するにあたっての一つの切り口なのだと思う。
勿論、エンデは子供たちに物語を「刷り込もう」としているとも言える。本書は児童文学としては十分に面白い筋立てであるので、子供たちは喜んで本書を読むだろう。本書のテーマは実際には難解であるので子供たちがロジカルに理解する訳ではないと思うが、皮膚感覚として時間管理銀行や灰色の男達への懸念や疑問は刷り込まれるとも思う。そんな児童期の「刷り込み」が、子供たちの将来に何らかの影響を与えることが出来るというのは、一つの戦略であり戦術でもあると言える。
但し、エンデが本当に想定している読者は子供たちだけなのだろうか。むしろ、大人達ではないのか。日頃色々なものに縛られている大人達を油断させ、その胸襟を開かせるために童話という設定を採用し、迷い込んできた大人達に対して非常に厳しく痛烈なテーマを投げかけているのではないか。そう考えると還暦となって読み返した僕は、やや読み返しが遅かったのかもしれない。そんな反省を少し強いられたところだ。
本書でエンデは時間貯蓄銀行と灰色の男達を「抹殺」している。その「抹殺」に際しては十分な暴力性もあることは見逃してはならないと僕は思う。「モモ」とは色々な意味で暴力的な本だと考えることが本書を正しく読むことに繋がる。エンデが「暴力」を使わなければならなかった理由を考えることが次の課題となろう。