パワハ ラ親父の反省
最近のニデックの記事や以前の東芝の不祥事の記事を読んでいると、経営トップからの強いプレッシャーが不祥事の原因だとする話が多い。
プレッシャーの内容は概して予算やノルマの達成を強く命令されるパワーハラスメントであるという話が多いのであるが、記事を読んでいると、「罵倒」や「恐喝」に近い叱責等が良く出てくる。それらを見ているとつくづく人間というものはいくつになっても「叱られる」ということが恐怖なのだなと思った次第だ。
パワーハラスメントの源流はどこにあるかと考えていくと、幼少期に親からさんざん叱られた子供時代に、それがあるのではないかと思いついたところだ。
誰にとっても小さいころには「親」というものは絶対的存在であるし、その親から叱られることはとても怖いものだ。従い、「どうやって叱られることを避けるのか」という点は子供にとっての大きな「経営課題」でもある。そんな幼少期の記憶がいくつになっても残っていることで、会社における「叱責」を怖れる気持ちに繋がっているとはいえないだろうか。
パワハラの源流は親からの叱責ではないかと言った。もちろん親が子を思う気持ちは会社での上司が部下を思う気持ちとはかなり離れている。「親は子供に無償の愛情を持つ」ということなのだろう。
但し、と考えてしまう。僕自身も親であり、子供達を育ててきた訳だ。子育ての間にはいくども叱ってきた訳だが、その際にどのように叱ってきたのか。
よく会社では「部下を感情に任せて怒るのではなく、きちんと説明しつつ、部下の育成を思いながら𠮟るべき」と言われているし、僕もそんなことを言ってきた。では自分が親として子を叱っている際はどうなのか。明らかに感情に任せて怒ったことは無かったのか。そう考えると実に心許ない。十分に思うに任せて怒鳴ってきたことはいくらでもあった。それは実は親という立場からのパワハラだったのではないか。そう思って苦笑したところだ。
幸い、二人の娘はすくすくと育ってくれた。成人し、社会に出た今も、僕とは仲良くしてくれている。パワハラ親父だった僕としては少しほっとしている。いや、「パワハラ親父だった」と過去形で言ってもいけないのかもしれない。これからも、いつパワハラを発揮してしまうかもしれない。そんな戒めが最後の感想である。
月と指
世の中には「ヒントを欲しがる人」と「答えを欲しがる人」の二種類がいると考えることはできるのだろうか。ふと、そんなことを考えてみた。どこかに書いてあったわけでも、誰かから聞いた話でもない。ぼんやりしているときに、思いついただけの話である。
後者の「答えを欲しがる人」については、なんとなくわかりやすい気がする。というより、僕自身も含めて、大抵の人はこの後者に当てはまるのではないだろうか。
「答えを欲しがる」ということの前提には、「一つだけの正しい答えがある」ということを、無意識のうちに、あるいは盲目的に信じているということがあるように思う。もっと言えば、「正解はない」とか「正解はたくさんある」といった状況に、比較的耐えられない人たちなのではないだろうか。
そのため、何らかの納得できる「答え」が見つかると、今度はそれにしがみついてしまうことにもなりかねない。それは時に滑稽であり、時に恐ろしいことでもある。
では、前者の「ヒントを欲しがる人」はどうだろうか。これはなかなか難しい。というのも、僕自身、そういう人をあまり見たことがないからだ。もしかすると、これまで出会ったことのないタイプの人なのかもしれない。そもそも、出会ったことがないということは、「ヒントを欲しがる人」という概念自体が、僕の空想の産物なのかもしれないのだが。
想像するしかない。「ヒントを欲しがる人」とは、他者から安易に与えられる「一つだけの正しい答え」らしきものを拒む人なのではあるまいか。あくまでも自分なりの基準や枠組み、言葉を使って、「自分だけの答え」を探そうとする人なのではないか。そう考えると、なんとなく腑に落ちる気もしてきた。
仏教に「痴者が、月を指すを見て、その指を観て月を観ざるがごとく」という有名な言葉があることも思い出した。誰かが月を指さすと、愚かな人は月ではなく、その指を見ているという話である。
月が「答え」だとすれば、指は「ヒント」ということなのかもしれない。
そう考えると、今度は「ヒントすら欲しがらない人」というのもいるのではないかと思えてくる。しかし、そこまで話を広げてしまうと、冒頭の思いつきから外れてしまうので、このあたりでやめておくことにしたい。
ぼんやりと考えごとをするのは、なかなか楽しいものである。まさに、蟄居という言葉にふさわしい過ごし方ではないか。
シンプルすぎるということ
「すべてはできるかぎりシンプルに、ただしシンプルすぎることのないように」
これはアインシュタインの言葉だという。短い言葉だが、いろいろと考えさせられる。もちろん、アインシュタインは人にいろいろと考えさせるために言ったのだろうから、僕自身もすでにアインシュタインの仕掛けた罠にはまっているということになる。
「すべてのことはシンプルに」という前段は分かりやすい。あらゆる物事や状況は、たいてい複雑に見える。それぞれに個別の事情があるからだ。それらを自分なりに整理し、理解しようとするならば、物事をシンプルにする必要がある。シンプルにするということは、自分なりの基準や定規を用いて、物事を再構成することなのだと思う。
そうすることで、物事や状況についての「自分にとっての本質」が見えてくる。ここで、あえて「自分にとっての」と言ったのは、「自分にとっての本質」と「他人にとっての本質」は、往々にして全く異なるからだ。人それぞれと言ってしまえば、それまでのことではある。
では、後段の「シンプルすぎないように」という部分はどうだろうか。言うまでもなく、むしろこちらこそが、アインシュタインの言いたかったことの核心なのではないかと思う。
シンプルすぎる考え方が、ときとして大きな力を持ち、それが悲劇や喜劇を生み出してきたことは、歴史が繰り返し示している。シンプルすぎると、「自分の基準や定規で物事を再構成する」必要すらなくなる。つまり、考える必要がなくなってしまうのだ。誰もが考えることをやめれば、そこに見えてくるのは、個々人にとっての本質ではなく、あらかじめ用意された一つの本質だけなのかもしれない。そこに生まれるのは、人それぞれの考えを持つ人々ではなく、均質化された人々の群れである。そして、それが悲劇や喜劇を生み出すことになる。
アインシュタインにとって、原爆の開発や使用もまた、「シンプルすぎること」の一つだったのかもしれない。そこには、科学の成果を追求することと、その成果がもたらす結果を考えることとの間にある、複雑な問題がある。そんな彼自身の反省も、この言葉の背景にあったのだろうか。最後に、そんなことを考えた。
「日本軍慰安婦」 吉見義明
著者の『草の根のファシズム』を読んだことがきっかけで、「日本軍慰安婦」を読む機会を得た。
著者によると、当時、日本軍が慰安所を設置した理由は、大きく四つあったという。第一に、侵略先で日本兵が現地の女性に対する強姦事件を起こすことを防ぐため。第二に、日本兵の性病を防止するため。第三に、日本兵の士気を維持するため。そして第四に、現地での情報漏洩を防ぐためである。第四の理由とは、日本兵が親しくなった現地の女性に軍事機密を漏らすことを懸念したというものだ。
僕自身、本書を読む前は、漠然と第三の理由程度しか思い浮かべていなかっただけに、少々驚いた。同時に、残る三つの理由についても、当時の軍幹部や日本政府が懸念したであろうこと自体は、理解できる気がした。ここでいう「理解」とは、「共感」や「賛成」という意味では全くない。「いかにも考えそうなことだな」と思ったという程度のことである。
当時のエリート層である軍幹部たちは、こうした四つの「課題」について真面目に考えた末に、その解決策として慰安所の設置を思いついたということなのだろう。著者は、結果として慰安所は課題を解決するどころか、むしろ問題をさらに深刻化させたと指摘している。しかし、その結果についての検証は、ひとまず後回しにしてもよいと思った。なぜなら、それほどまでに、そもそも真面目に検討した末の結論として、慰安所の設置を決定したという、その判断自体が恐ろしいからだ。
谷川俊太郎の詩に「まじめな人がまじめに人を殺す。おそろしい」という一節がある。僕はこれまで、この一節を、戦争そのものを表した言葉として大きく捉えてきた。しかし、本書を読んで、戦争を構成する一つの細部である慰安所の設置もまた、この谷川の一節と強く重なるものだと思った。
与えられた課題に真摯に向き合い、真面目に検討し、その時点で最善と考える対策を講じる。こうしたことは、いつでも、どこにでもある話だ。そして、その「どこにでもある話」の一つが、本書に描かれた地獄絵なのだ。
問題を突き詰め、よかれと思って取り組んだことが、とんでもない結果につながってしまう。そこには、人間の持つ業の深さというものがある。「まじめな人」とは、時として、恐ろしい人にもなり得るのだ。
この問題が日本だけに限られたものではないことも、本書の終盤で触れられている。日本人として、過去に引き起こした罪から目をそらすべきではない。しかし、同時に、日本だけに限らない、人間一般が持つ業の深さについても見据えなくてはならない。それが、本書を読み終えて、僕が最後に抱いた感想である。
主語の在り方
年配のご婦人と話す機会があった。ご主人が昨年亡くなられたらしい。その際に、「昨年、主人を亡くしまして」と言われていた。「主人が亡くなりました」という言い方と、「主人を亡くしました」という言い方。二通りあるのだなと思った次第だ。
言うまでもないが、その二つの言い方の違いは「主語」にある。「主人が亡くなりました」の場合は、「主人」が主語である。一方、「主人を亡くしました」という場合の主語は「私」である。
配偶者の死を語る際に、「私」を主語にするということには、どんな意味があるのだろうかと考えると、案外と面白い。
自分を主語にするということは、「自分語り」でもある。要するに、配偶者の死を「自分の物語」の中に織り込むということなのだろう。それを愛情ということだと考えれば、美しい話にも聞こえてくる。
ただ、「自分の物語」には、自分なりのデフォルメや飾り立ても出てくるはずである。そもそも、そうした微調整こそが、「自分の物語」の中に「織り込む」ということなのかもしれない。
一方で、「主人が亡くなりました」はどうだろうか。主人が主語である以上、淡々とした客観的な事実語りとでも言えるのだろうか。あっさりしているようにも見える。
ただ、「淡々とした」とか「あっさりとした」というものの奥には、結構いろいろな、語られない想いや味わいがあることも多い。食事において、「あっさりとした味付け」が案外と美味しいというのも、よく聞く話ではないか。特に和食においては。
ということで、主語の採り方一つでも、いろいろなものがあるのだなと思ったところだ。
どちらが良いとか悪いという話ではない。ただ、違うというだけの話である。
定点観測と本
本を繰り返し読み返すと、読むたびに新しい発見があるという話は、よく聞く話だ。
考えてみると、本そのものに書かれていることや文章は、不変であるはずである。それにもかかわらず、読み返すたびに新しいことに気がつくということは、要するに、読んでいる自分自身が変わったということなのだろう。
そう考えると、これはある種の「定点観測」と言えるのではないか。定点観測というと、場所を固定して、時が過ぎる中で、周囲の状況がどのように変わっていくのかを観測していくものだ。
一方で、上記の本の話は、「本を固定」して、時が過ぎる中で、自分自身がどのように変わってきたのかを観測するという話である。
これも、本の効用の一つなのだろう。ある意味では、柱の傷と同じような「刻み目」が、一冊の本の中に記録されていくようなものでもある。
読書というのは、人間が生み出した不思議の一つなのかもしれない。