くにたち蟄居日記
くにたちでぼんやり蟄居しながら書いてきたブログです。
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「学問と『世間』」 阿部謹也

 阿部謹也の著作は「ハーメルンの笛吹男」など、西欧を扱ったものをいくつか読んできただけである。僕にとって本書は阿部の異なる角度からの一冊となった。大変興味深く読めたことを初めてに申し上げたい。

 

 阿部によると「世間」とは日本人が持つ伝統的な社会であり、そこでの社会規範である。近代化に伴い、日本はやや盲目的に西欧の学問を取り入れてきたが、「世間」が消え去るまでには至らなかったと言う。外形的には西欧を真似し、自分自身も西欧の一部であるかのような錯覚をしつつも、プライベートになった途端に「世間」に表象される伝統的な思考になるという話は興味ふかい。これは方言で育った方が、オフィシャルな場面では共通語で話す一方、同郷の人と話す場合には、無意識に方言に戻るという、よく見る風景にも重なるものがある。

 

 そんな「世間」に対する分析や考察は従来なされてこなかったと阿部は本書で断言していると僕は読んだ。そんな断言から、阿部自身の強い自負心が透けて見える。阿部がどのようにして「世間」を考察対象として「発見」したのかを考えることもなかなか刺激的なテーマなのだと思う。安易に想像すると、西欧社会の研究を通じて日本を異国から眺めた際に「世間」というものが、急にくっきりと見えたのではあるまいかというところだが、あまり意味のある想像でもないのかもしれない。

 

僕らは日ごろから「世間」にすっぽりと包まれてしまっている。従い「世間」とは空気みたいなものになってしまっている。「空気を読む」という言葉があるが、読んでいるものとは阿部の言う「世間」に他ならない。西欧が「自立した個人」を社会の基盤に置いていると言われる一方で、日本の社会の基盤は「世間という集団」にあるのかもしれない。それは西欧が日本に対して優位性があるという意味でもない。「違う」というシンプルな話なのだと僕は思う。

 

大切なことは、自分が自分の所属する「世間」の一員として包まれてしまっているということを自覚する点にあるのではないか。自覚しているかいないかで、世界や他人を理解する深度が変わってくるのだということが本書を読んだ際の最後の感想である。

 

「兵庫県告発文書問題」 奥山俊宏

 イラン戦争や日本国内の憲法を巡る議論等で、兵庫県知事問題がやや話題にのぼらなくなった中で本書が刊行された意義は大きい。本書を読んでいて改めて兵庫県知事問題が齎した問題提起の深刻さと広さを強く感じた。感想は3点である。

 

 一点目。兵庫県知事問題は「公益通報保護制度」の重要性を炙り出した。

「 公益通報」という考え方は、例えば江戸時代の目安箱等にも見られるものであり、決して新しいものではない。新しいものではないにも関わらず、それが決して社会に定着したとは思えない状況を見ると、「公益通報」というものは人間の本性にやや反していると考える方が合理的かもしれない。従い、「公益通報」をする方を「保護」するという制度を作って、人間の本性を牽制するというスキームには納得性はある。

 

 但し、そのスキームが正しく運用されるかどうかはまた別の話だ。兵庫県の場合には、その入り口で運用が間違えられた可能性が高い点を本書は描き出している。初動の重要性はあらゆる事例にも共通する話だ。兵庫県が正しい初動を行っていたかどうかは引き続き解明されるべきである。

 

 二点目。兵庫県の出直し選挙はSNS等の新しい情報ツールの持つ問題性を炙り出した。その問題性とは、ツール自体に留まらず、またもや人間の本性に迫る話に展開する。具体的にはヘイトスピーチ、陰謀論等である。

 

 ヘイトスピーチや陰謀論等も新しい話ではない。関東大震災の際に発生した朝鮮人虐殺等も同類であり、昔からあった事象である。但し、SNSというツールを得たことで、とてつもなく膨張する状況になったことが兵庫県の選挙であったという本書の指摘は僕にとっては納得性が高い。同様にごく最近報道された自民党の総裁選等でのSNS報道も、現時点でどこまで正しいのかは分からないながらも、話としては兵庫県の延長上にあるのであろうかと想像している。

 

 ここでも人間の本性が試されることになりつつある。「言論の自由には言論する内容への責任が伴う」という兵庫県県議の意見は至極真っ当だと僕は思う。それも人間の本性には、やや反するものに見えてきたということも本書で強く感じた。

 

 三点目。各種制度は、案外と人間の性善説に因って組み立てられていることが見えてきた。本書では、「兵庫県の問題は今なお違法状況が続いているにも関わらず是正されない」という姿を強調している。要は「是正されえない」ということが可能になっているという話だ。組織のトップには一定以上の倫理性があるものとして作られた制度やルールは、倫理を欠いたトップには極端に弱いという話だ。これは米国の今の状況を見ても良く分かる話ではないか。

 

 となると、性悪説の基づいた制度やルールの必要性が出てくるという話である。人間の本性が性悪だとしたらやむを得ない軌道修正という話になるだろう。

 

 ということで、本書は良い時期に刊行されたと強く思う。本書は万人が読むべき一冊と言えるのではなかろうか。

「星の古記録」 斉藤国治

 

 1982年刊行の本書が2026年に増刷され、評判となっていると聞いて早速読んだ。普段は特に星に興味が無い僕は、流行に流されやすい読者であると苦笑しつつも楽しく読了した。感想は三点である。

 

 一点目。これは全ての読者に共通する感想だと思うが、古代の人々が実に正確に星の記録を取っていたということに驚いた。日本のみならず、中国、韓国、欧州などでの話である。当時の星に対する考え方は、占いに結びついており、政治の点で重要度が高かったという背景はある。最終的に星で未来を占うという目的自体は非科学的であった訳だが、星を観測するという行為においては極めて科学的であったことが良く理解できた。目的が間違っていても、その目的を目指すということで物事が進むという好例なのだと思う。占星術から産まれてきた「科学」を調べてみると、天文学は当然として、数学(三角法)、暦学、医学、心理学などが挙げられるらしい。心理学についてはユングが占星術に強い興味を持っていたとのことである。

 

 二点目。その「記録を取る」という行為自体も、人類の進歩の大きな原動力となったと判断される。中国、中東、欧州は紀元前から文字に因る「記録」が始まっていた訳だが日本においても日本書紀や古事記が出来たのは7世紀という世界史的にみても早い段階だった。そこから万葉集、源氏物語等が派生してきたことを考えても、意義深い話である。

 

 三点目。本書の後半に描かれる明治時代の日蝕を巡る物語は、なかなか「読ませる」ものになっている。日蝕観測は当日の天気に大きく左右される点はやむを得ない。幸運を祈りながら日蝕観測の準備をする科学者たちのドラマは中々人間臭い話である。時として日の目を見ない無数の努力が今日の科学を支えてきた点を思い知らされた。

 

因みにAIに本書の魅力を尋ねたところ、「文系」の「歴史」と、「理系」の「天文学」を結び付けた点にあるとのことだ。なるほどと感心した次第である。

「おくの細道」 松尾芭蕉

芭蕉の「おくのほそ道」について議論する機会があった。

 

 同署は日本を代表する俳人による、日本を代表する紀行文であるので注釈本が多いという話になった。その注釈を比較すると各本の主張や分析がまちまち・バラバラである点が話題となった。特に「おくのほそ道」に出てくる俳句の解釈が本によって全く異なるという点の指摘が相次いだ。それはなぜなのかを考えることは愉しい話ではある。

 

 俳句は十七文字だけという極めて語句と表現を限定する詩である。その限定が何を齎すのかと考えると読む人の解釈が無限に存在できる余地を生んでいるということではないかという事が僕の現段階での理解である。

 

 俳句の作者は十七文字をぽんと読者に提示するだけである。それ以上のことを作者自身が語ることもあると思うが、いずれにせよ読者はその十七文字と対峙するだけだ。各々の言葉の意味も大概は一つだけではないことは辞書を見ていても誰しもがわかることである。

 

読者はかような多くの「意味」の中から、何か一つを自分で選んでその句を再構成し、理解することになる。その「選択」に際しては、圧倒的に恣意性が働く。要は「自分の好きなように解釈する」ということが出来るという話だ。その各人の勝手な恣意の先に、その人にとっても、その句の解釈が立ち上がる。従い、バラバラになることは当然の帰結というものだ。

 

 俳句は文字だけで描かれたロールシャッハテストだ。読者が十七文字から何を見つけるのかはその読者の能力を試すものと言っても良い。そう考えると、少し怖い話でもないだろうか。

「本なら売るほど」 児島青

 「古本屋」を主人公や舞台とする小説や映画や漫画は結構多い。本書もその一角を占めている。とりあえず第三巻まで出たので再読したところだ。

 

 本屋には色々な種類がある。

 

 普通の本屋と古本屋を比較してみた。両者ともに「本を売る」という点では同じだが、全くの別物ではないかということが僕の印象である。一体何が違いなのかと考えることは案外楽しい。

 

 普通の本屋に行く場合には、なんとなくではあるが、まず新刊本のコーナーに目が行く。新しく刊行された本を眺めていると、その時々の流行や興味のありようの一面が見える気がする。それはそれで勉強になる。新刊本だけを見にいく訳ではないものの、そういう新奇性を覗きに行くという気持ちが起こることは、僕の場合には、否定しようがない。またそれはそれで悪い話でもない。

 勿論「普通の本屋」にもいろいろある。独自の路線や好みを出している本屋も少なくない。但し、どの本屋にしても「新刊本」という香りは漂っている。専門書にも当然「新刊本」があるからだ。

 

 一方で古本屋はどうか。ごく一部を除くと新刊本を前面に打ち出している古本屋は無い。従い、古本屋に入る際にも、僕は新刊本を意識することは無い。では何を意識しているのか。僕の場合には「受動的に本と出会う」が大きな目的となっている気がしている。

 受動的とは何か。言葉にしにくいが、「僕が本を見つける」という能動ではなく、「本が僕を見つける」というような、僕にとっての受動というような話だ。書いていて我ながら分かりにくいのだが。

 

 古本屋を巡る大概の物語では主人公は「やってきたものを迎える」という受動的な姿勢から始まっている。「やってくるもの」とは「古本」であったり「古本屋の主人」である。「日常」に埋没してきた主人公に対して「非日常」がやってくるというストーリーだ。その構造は「ゴジラ」と基本的には変わらない。ゴジラと違って、やってくる「古本」や「「古本屋の主人」は一見静かではあるものの、「非日常性」という点ではゴジラと同じである。

 

 本書もそんなゴジラの一つの変奏曲ではあるまいかと考えると読んでいて、なお楽しくなった次第だ。

「グレイクリスマス」 劇団民藝 

三越劇場で劇団民藝による「グレイクリスマス」を鑑賞した。この劇は初めて知った次第である。実におそろしいぐらい今の日本と世界の状況に重なる内容で驚いた。

 

「グレイクリスマス」とは敗戦後の日本が舞台だ。戦前に伯爵家であった家族が、華族制度の廃止、財閥解体、戦犯、朝鮮戦争等の大きな時代の流れに翻弄されていく物語である。詰め込まれたテーマとしては新憲法、民主主義、在日、後の自衛隊になっていく警察予備隊、などである。

 

驚いたことに、それらのテーマはまさに現在の状況と響きあう点だ。「憲法改正」、「保守の在り方」、「在留外国人関連」、「武器輸出」という今この瞬間の課題とは敗戦直後から既に胚胎されていたことが良く分かった。この劇がいま上演されることの意義は極めて大きなものがある。

 

パンフレットに因ると、この劇は1983年、つまり40年以上前に初演されている。民藝では

2018年から定期的かつ数多く上演されてきている。従い、この劇の「今日性」は今になって生まれてきたものでもなんでもなく、永い年月の中で常に「今日性」を維持してきたのだろうと思う。そのようなことに気づかされて、はっとした。それは即ち自分自身が今まで「平和ボケ」してきただけなのだなと強く反省させられたからだ。

 

 考えてみると、上記の課題は常に我々の目の前に在った。在ったにも関わらず、それを直視してこなかった。直視しなくてもなんとなく済む時代も永かった。但し、それらをついに直視せざるを得ない環境になってきたのではないか。本当の意味で第二次大戦以降の時代が世界的に終わるのは今ではないのか。そのように考えるとなんとなく腑に落ちた気がした。

 

 ということで、グレイクリスマスは是非多くの方にご覧になってほしい。

「ヤンキーと地元」 打越正行

 本書を知ったのは何かの書評だったの思うのだが、それが何だったのか思い出せない。本書を読了した今、どなたから本書を教えて頂いたのかを知りたいのだが、ちょっと難しい。感想は二点である。

 

 一点目。「参与観察」という言葉と内容について本書を読んで初めて知った。ノンフィクションにおいて著者が観察対象とするものに直接的に参加するという手法である。本書においては著者は沖縄におけるいわゆる「ヤンキー」とされる若者集団の中に「パシリ」として参加するという、僕にとっては前代未聞な方法で取材を行っている。

 

「参加」するに当たって著者は極めて倫理的に突き詰めて考えたということが更に凄みがある。即ち自分自身のポジションの置き方に関して「つかえる内部関係者」「つかえない内部関係者」「つかえる部外者」「つかえない部外者」という4つの可能性を整理した上で、「つかねない内部関係者」こそが「参与観察」であるべきだとする考え方である。内部関係者を選ぶことは「参与観察」者として必要条件であろうが、その上で十分条件として「つかえない」を選ぶという話だ。これは「つかえる」という立場を取ることで発生する「傲慢さ」に対して著者は倫理的に警戒しているからである。その態度の潔さがパシリを選んだ著者である。

 

 

 二点目。これは解説の岸政彦の指摘であるが、著者は沖縄のヤンキーを通じて「沖縄と内地」との間に歴史的に発生してきた非対称に切り込む視点に感銘を受けた。

 本書で展開されるヤンキーの言葉を見ていて「時計仕掛けのオレンジ」での話し言葉を思い出したのは僕だけではないはずだ。方言以上に異質な言葉が連発されている。「文化の異質性」ということだけでは済まされないものが沖縄にはあることが良く分かった。いうまでもなくヤンキーの言葉をそのまま収録した著者の意図も、沖縄と内地との違いをくっきりと描き出すことにある訳だが、その「違い」とは平等に並んでいるものではない。沖縄に大きな負担を押し付けている内地の在り方を読者に考えさせるものがある。

 

著者は若くして白血病で亡くなられたという。実に惜しい方を喪ったものだ。

 

「ソニー神話を壊した男」 児玉博

 本書に描かれる出井という方は2005年にソニーの会長CEOを退任、2012年には同社のアドバイザリーボード議長も退任した方である。ソニーにおける晩節では非常に評価されず、当時のソニーの経営難に関する批判を一身に浴びたことを今でも覚えている。そんな出井に関する評伝が20年後の2026年に刊行された訳である。

 

 本書を読んでいると、まずはソニーという会社の異常性が強く伝わってくる。「異常性」と言ったが、これは批判や非難を意味した訳ではない。「異能性」とでも言う方が適切かもしれない。但し、「常と異なる」という意味を持つ「異常」という語句のほうが適切だと感じるので、その言葉を使った。

 本書で描かれる盛田、大賀の立ち振る舞いはまことに「常と異なる」としか言いようがない。それは良し悪しという話でもない。本書でIIJの鈴木が繰り返している通り「ソニーとはそういう会社なのだ」という話なのだろう。

 

 その異常な創業者メンバーからソニーを引き継がされたサラリーマンの出井の苦労という話では全くないところもソニーという会社の凄みである。出井は自身が信じた将来のあるべきソニーの絵姿から逆算してソニーの現在位置と現在価値を算定し、それを基に創業者が創り上げてきたソニーの神話を破壊していったという事が本書の趣旨であり、その「破壊者」としての出井を2026年に世に問うということが著者の野心である。地に落ちていた出井を再評価することが、即ち、今のソニー像を描き直すことになるという物語も納得性は高い。

 

 個人的にはその後のソニーに現れた異能者たちへの出井の評価も聞きたかった。例えばプレイステーションで名を挙げた久夛良木健などは、その異能振りを見ていると、十分にソニーの異能列伝の系譜を引いているようにも思える。そんな久夛良木を出井がどう見ていたのかには興味があるが、既に出井が鬼籍に入ってしまったので叶わない話なのかもしれない。

 

 本書を現在ソニーで働いている人、つまりインサイダーが、どう読むのだろうか。その感想も是非聞いてみたい。「出井を美化しすぎている」という意見もたくさんあるだろう。「棺を蓋いて事定まる」というが、棺を蓋いて4年たった今、再評価の機運がソニーの中にも起こるだろうか。

「スターリングラード攻防戦」 

 本書は1976年に角川文庫で刊行された経緯がある。50年後の2026年に再度単行本として刊行される背景を考える事は本書を読む一つの切り口である。

 

 本書が描き出すのは第二次世界大戦におけるスターリングラードの攻防戦である。言うまでも無く、スターリングラード攻防戦は第二次世界大戦の転換点となった戦いである。即ち、ドイツの敗北がこの戦いから始まったということが歴史である。本書で描かれるドイツの兵士たちの有様は戦争の悲惨さを通り越している。現場を理解しようとしないヒトラー総統からの戦争継続の支持を墨守せざるを得なかった姿は「喜劇」の域に達している。

 

 そんな本書を2026年に再刊した角川の意図があるものと考える。ウクライナや中東で起こっている戦争を見ていると、スターリングヤードの時代から人間は少しも進歩していないのではないかと思う人も多いに違いあるまい。そのような思いを出来るだけ多くの人にさせることが角川の狙いであるとするなら、それは本書の大きな価値の一つだと言えよう。

車中の携帯通話

 たまに列車の車中で携帯電話で通話している人を見かけると腹が立つものである。「うるさいな」と思う訳だが、一方で考えてみると列車が動いている音や、列車の中で話している声のほうがもっと大きい場合がある。それらの音については(話し声は余りに大きいと別だが)特に気にならないのだが、それより小さい携帯電話の話し声のほうが気に障るのは何故かと考え始めたところだ。

 

 おそらくは音量の問題ではなくマナーの問題なのだろう。但し、「車中で携帯通話をしない」というマナーが出来た第一義的な理由は「他の人にとってうるさいから」なのだと思う。但し、上記の通りもっと大きな音があっても気にならないこともある。従い、音の問題ではなく「マナー違反」という点に関して腹が立っているような気がしてきた。

 

 ここで気をつけなくてはならないのは、マナーの本質を考えないままで、そのマナーなるものを盲信してしまうという危険性なのだと思う。マナーという言葉を「ルール」という言葉に置き換えてみると、なお危険性は高まる。世の中には色々なルールがある訳だが、その一つ一つを突き詰めて考えることは難しい。考えることが難しいので盲信してしまう方が簡単で楽である。「ルールであるから守らなくてはならない」と安易に言い切ることで起こった悲喜劇はいくらでもある。ルールとは「権力側」が作ることが多いからだ。

 

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