「アバター2」
遅まきながら地元に近い立川でアバター2を観た。メガネをかけて3Dでの鑑賞である。3D
で映画を観るのは初めてだっただけに、その画像には驚いた。
映画の魅力は「物語」と「映像」にあると思っている。「物語」だけなら本のようなメディアもあるが
「映像」を伴うことで映画には説得力が増す。一方で「映像」だけで「物語」が無いとすると、その
「映像」が何を意味しているのかが解らない。勿論「物語」を排除した「映像」も有るのだが、
物事に「物語」をつい求めてしまう我々としては、なんとなく消化不良に陥る気がしている。
アバター2はどうか。物語の本筋はシンプルな話だ。一作目のヒーローに敗けたダークサイドが
逆襲するという話である。よくある展開だ。
本筋以外の細部は工夫が凝らされているが、観ていると本作が踏まえている過去の映画が
しっかりと見える。アバターシリーズは例えば「風の谷のナウシカ」と「天空の城ラピュタ」の設定
を強く借りてきている。また今回のアバター2においては、メルヴィルの「白鯨」を援用し、
かつ「父と息子」という新テーマに関してはどうしても「スターウォーズ」を思い出してしまう。
誤解を恐れずにいうなら、アバターシリーズには際立った新しい「思想」や「哲学」は無い
と言い切ることも可能ではないだろうか。細部の工夫が目立つ分、大きな「物語」は案外と
読み取りにくいと個人的に思う。
一方で「映像」はどうか。これは文句なく凄まじい出来栄えである。アバターシリーズの最大の
見どころは「映像」にある。これは今更僕が言うまでもない話だが。
本作を観ていて、ふとタルコフスキー映画を思い出した。案外と似ている部分がないだろうか。
タルコフスキー映画の魅力も圧倒的な「映像」にある。また、作品に込められている「思想」
や「哲学」にも案外独創性は無い。「ソラリス」や「ストーカー」等は原作者が創った物語を
借りてきた訳であるし、「鏡」、「ノスタルジア」、「サクリファイス」といった作品にもどれほど
の「物語」があるのかは議論の余地があると僕は思う。
但し「映像」はどうか。これまた圧倒的な「映像」がタルコフスキー映画にはある。強い
中毒性と、更に強い「催眠性」を持つ「映像」はタルコフスキーしか創れていないと今なお
思っている。
と考えるとアバターシリーズとタルコフスキー映画とは、とことん「映像」にこだわるという
点では実は裏表の関係に無いか。「目指す映像」は全く異なるものの、「映像を目指す」
という点では似たもの同志ということはないだろうか。それが僕の全く個人的な印象である。
アバターは5作目まで予定されているという。タルコフスキーは既にこの世を去っている。
タルコフスキーがアバターを観たら何と言ったのかは興味がある。あっさりと否定する
かもしれない。人間はともすると自分に似た人を煙たがることもある。
「八ヶ岳南麓から」 上野千鶴子
上野千鶴子というと「スカートの下の劇場」等のエキサイティングで尖がった論争強者という
印象だった。それと比較すると本書で開陳される「上野千鶴子」という方の人間像はかなり違う。
勿論、その「比較する」事自体が正しいのかどうかにも議論の余地はある。但し読んでいて
僕にとって、その比較が楽しかった。それだけと言えばそれだけであるが。
読んでいると上野らしいきらりと光る指摘は随所にある。但し、それ以上に上野という方も
僕らと同じ一人の人間なのだとほっこりさせられる部分も多かった。節度を持ったズルさである
とか、他人を見つける下世話な視線であるとか、自分自身との共通点も散見されたからだ。
勿論、かような感想は僕自身のものであり、著者にとっては迷惑な話なのだと思う。
上野が本書を書いた動機については以下のようにあとがきで語っている。
「本やエッセイをたくさん書いてきた。だがプライベートな暮らしについては、これまでほとんど
書いてこなかった。請われて情報誌に連載を持つことになり、この20年ばかりの経験
を書いてみたくなった」
上野は「この20年ばかりの経験」というが、その経験とは「自らの老いを感じ始めること」で
あったのではないか。そして、本書において上野は自身の「老い」を率直に語っていると僕は
読んだ。元気な語り口から語られる内容は、実は十分に「老い」についてである。
自分の「老い」を語ることは、老人の特権である。これは若者や中年には絶対に
真似が出来ない「芸当」である。上野が「書いてみたくなった」のは、かような芸当が出来る
時を迎えて、ある種の高揚感がモチベーションだったのではないか。
僕自身も還暦を迎え、だいぶ老人になってきた。従い、かような「特権」を振り回す事が出来る
年齢になってきたのではないかと思う。せっかく、言葉通り「年月を掛けて」獲得してきた「特権」
である。使わなくてはどうするのか。そんな「尖り」も本書から読み取れると僕は思う。
「死の貝」 小林照幸
コロナ前から病気関係の本を読む機会はなんとなくあった。スペイン風邪やペスト関係である。
なぜ、かような本を読む事に自分が興味を覚えてきたのかについては無自覚であった。コロナを
経験する中で、病気とは優れて社会や人間の一部をくっきりと浮かび上がらせる面があると
考えるようになった。本書を読んでいても同じ思いが続いた。
本書で著者が描き出しているものは多い訳だが、一番考えさせられたのは、日本住血吸虫を
宿すミヤイリガイへの著者の複雑な思いである。
ミヤイリガイは山梨、広島、九州といった日本住血吸虫症がかつて猛威を振るった地域に大量
に繁殖していたという。大量に繁殖していながら、その命名は日本住血吸虫症の議論の中で
同貝を宿主であると発見した宮入という方の名前から漸く行われたということである。それほど
までに「そこらにいくらでもいる、どうでもよい普通の貝」だったということなのだろう。
そんな貝が日本住血吸虫症の撲滅の為に、言い方は悪いが、「ついでに」撲滅されかかって
いる。
「自然保護及び環境保全が時代のキーワードとなった中、甲府盆地と千葉の小櫃川のみに
ミヤイリガイの棲息が限定されることから天然記念物に指定される可能性もあるのだ」
上記指摘を1998年の段階で著者は出している。この視点は現在さらに普遍性を持って
きている。例えば今年になって続発している熊の被害に関する議論にも同じ響きがある。
人間の都合だけで熊を駆除することの是非は今後とも正解のない問いとして続くのだと僕は思う。
生物の進化の過程で生まれた人間というものが地球に対してどのような影響を及ぼすのか
は、壮大な実験である。「神の実験」とでも表現する方が正しいのかもしれない。本書は
「人間と疾病との闘い」を描いている訳だが、最近は「人間同士の闘い」が本格的に顕著に
なってきた。人間同士の闘いは有史以前からある珍しくもない話だが、昔使っていた手に持つ
棍棒も、「ついでに」だいぶ進化して人間を容易に絶滅できるような武器に育った。「神の
実験」もなんとなくもうすぐ結果が出るのかもしれない。
「ボクの音楽武者修行」 小澤征爾
1960年に当時27歳の小澤征爾が書いた自伝を2025年に還暦の僕が読む機会を得た。
自伝というのはいささか若すぎる年齢であり、いささか短すぎる経歴ではある。但し、とても
面白く、かつ、楽しく読む経験となった。
絵にかいたような冒険譚である。貨物船で欧州に渡り、バイクを買ってパリに出かけて音楽
修行が始まる。あっという間にブザンソン音楽祭で優勝し、レナード・バーンスタインやカラヤンの
指導を受け、ニューヨークフィルハーモニーの副指揮者に出世してしまう。「出世」というと
やや臭みがある言葉ではあるが、小澤の「出世」は清々しい。本人の自己申告が「自伝」である
だけに、どこまで正しいのか分からない訳だが、「これは正しいのだろうな」と思いながら読む方が
本書を読む正しい姿勢なのかもしれない。
振り返ってみると、このような本は当時は他にもあった。小田実の「なんでも見てやろう」
あたりが代表格である。ある意味で天真爛漫に欧米を眺め、挑戦し、自分の成長に繋げる
という幸福な話である。本書の書かれた1960年や「なんでも見てやろう」が出版された1962年
頃はそんな空気が充ちていたのだろうと想像する。高度経済成長の真っただ中とはいえ、
まだまだこれからという時期だったに違いない。
それから2025年の今日まで何が起きたのかは僕らの記憶に新しい。バブルを迎え、それが
潰れ、長い低迷期に日本は入っている。世界はどうかというと、これまた各種のバブルが
弾け、牧歌的なグローバリゼーションへの疑問が起こり、結果として昔ながらのナショナリズム
やポピュリズムが跋扈する時代が来ている。そんな中で再度本書のような「明るい」本が出てくる
地合いがまだ残っているのか。
著者の小澤征爾は昨年88歳で亡くなった。本書を書いた27歳から88歳まで60年間もの
更なる「冒険」が有った事を考えると、なおさら本書の天真爛漫さが思われてならない。
「南京事件」 笠原十九司
「戦争の記憶を風化させてはならない」という言葉がある。蝉が鳴く頃になると良く聞く
言葉だ。蝉の鳴き声をきく中で、本書の新版を読む機会とした。南京事件の本を読むのは
初めてである。知らないことばかりだった。
夏に冒頭の言葉が語られるのは広島と長崎の原爆と15日の敗戦記念日を意識している
からだと理解している。端的に言うと「被害者としての記憶」を忘れてはならないという趣旨
なのだろうと想像している。
一方で、「加害者としての記憶」についてはどうなのか。戦争とは被害者と加害者に綺麗
に分けられるものでもない。日本が加害者であった局面についての記憶はどうなのか。
いわば「不都合な記憶」である。それも「忘れてはならない」とされているのだろうか。本書は
それを問いかける一冊なのだと思う。
当たり前の事ながら、戦争の記録というものは確りと残るものではない。そもそも混乱が生じて
いる中で、関係者もそれなり以上に情報統制や情報秘匿に走るからだ。南京事件も同様
だろう。従い死亡者の人数一つをとっても、諸説入り乱れる。若しくは南京事件は無かったという
言説すら現れてくる。
そんな中で著者の情報収集への執念が本書に良く表れていると僕は思った。日本、中国、
諸外国での情報を丹念に集めている姿には「ライフワーク」というような陳腐な言葉では
表せられない。それは著者が「忘れてはいけないこと」を確りと見据えているからだと思う。
勿論本書が全て正確だとも思ってはいけないだろうが、それでも細部の書き込みから
うっすらと立ち上がってくる全体像を個人的に認識したところだ。
記憶が風化することは避けられないだろう。その中で「忘れてはいけないこと」をどうやって
維持できるのか。それは歴史家の大きな課題だろうが、かといって歴史家に丸投げにして
いるだけでもいけないだろう。そこは本書の読者にも迫る問いなのだと思う。
積読の言い訳
「本というものは、一見役立たずのように見えようとも、その中に
自分と無関係でないと思われる一行があるなら 本棚に並べておく価値が
あるものだ。そうした本は、何年か経って、はじめはなにげなく
読み過ごしてきた他の行が、その個人にとってどのように変貌
するのかわからないのである」
北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」から。同書は中学時代からの
愛読書であり、上記一文こそ積読を正当化するロジックだった。
昨年末から今年の初めにかけて蔵書の大半を処分した。今でもまだ
寂しいものではある。大した量でもなかったのだが。
エッセイとは
「エッセイは、一般的には小鳥の囀りのような小さな物事を納める文章のカゴであって、
猛獣の巣のような小説や、広大な野原のような詩の世界とは違う」
ー「ウォークス」 レベッカ・ソルニット ー
最近は囀り(TWITTER)の方が声が遠くまで届くのかもしれない。
人間の知的活動はパターン認識と類推でこと足りる
「人間の知的活動はパターン認識と類推でこと足りる」
「私たちは過去の経験や知識から似た問題や状況を探し、解決策を見つけている。ほとんどがパターン認識や類推
でしかない。その為に知識や解法を学んで蓄え、本を読み、考えを巡らしてきた」
今朝(2025年8月17日)の日経新聞から。上記は「AIの優位性」を言うために「人間の知性の限界」を
反証として出そうという言説である。上記に異論は無いが、それらは人間固有ではなく、あらゆる生物に
言える話であり、地球での進化の経緯であると僕は思う。
AIが「パターン認識と類推」において、人間を遥かに凌駕する能力を持ち始めていることは「アルファ碁」
等を見ていても否定しえない。それに対して人間の「独創性」を主張するのも理解できる。なにぜ、そのAIを作って
きたのはほかならぬ人間でもあるからだ。
で、どうなのかと考えても別に結論も出てくる話でも無かろう。人間がパンドラの箱を開いたとは言える気が
するが、パンドラの箱とは、そもそも開かれる為にあるに違いあるまい。


