くにたち蟄居日記 -3ページ目

「定年後の日本人は世界一の楽園を生きる」 佐藤優

 佐藤優の著書は、この20年間に折に触れて読んできた。今回は自分自身も還暦を迎えたこともあって読んだ一冊である。

 

 佐藤は前書きで本書に関して「これまでの人生の集大成だと考えている」と言っている。であるとしたならば、やや期待外れであったことが読後感である。

 

 佐藤の特徴は神学をベースとした、やや「形而上学」の視点で、下界を見る点にあると思ってきている。それは別に「上から目線」を意味してはいない。僕らが日々追われている自らの「日々の目線」に疲労や限界を感じる場合に、佐藤の視点が時としてとても新鮮であり、かつ時として救いになるということである。これは全く僕個人の印象なので、他の方に賛同いただけるかどうかは全く疑問ではあるのだが。

 

 そんな個人的な思いがある僕としては、本書には、やや「下世話」な部分が多かった気がする。無論、佐藤は従来も十分に「下世話なもの」を描き出してきてはいるが、どこかに形而上学が香っていた。そんな香りが今回は若干薄かった。それが感想である。

 

 では、なぜそうなのか。一つには僕自身の問題ではないか。

 

還暦を迎え、日々の生活も少しずつ下世話な部分が減ってきているのかもしれない。「下世話が減ってきた」ということは必ずしも良いことだけではない。むしろ、「下世話」の中には本音だとか真実だとかが多く含まれている可能性が高いのだと思う。下品な話が時としてとても面白いのは、そこに含まれている自分にとっての真実性があるからだ。

 

 そんな自らのエセ上品さ(というような言葉があるかどうか分からないが)が出てきているとしたら、ついついエセ形而上学みたいなものを憧れる気持ちが強くなってきたのかもしれない。

 

 ということでやや反省する気持ちも出てきた。反省を強いてくる読書も時として大事である。

「ビブリア古書堂の事件手帖」

古本屋に行くことは趣味の一つである。といっても神保町に終日入り浸るというようなマニアではないし、古本市に出かける程の熱意がある訳でもない。古本は好きでも、古本との距離感は結構大事なのではないかとも思っている。

 

 本書は軽い読み物仕立てではあるものの、情報量はかなりのものである。本シリーズで開陳される各種の本の話が正しいのかどうかは僕には到底判断はつかないのだが、そういう時は素直に作者を信じてしまうほうが楽である。上手に騙されるというのも人生の知恵ではあるのだ。

 

 「軽い読み物仕立て」と言ったわけだが、実はそこにビブリアシリーズの味噌があるのかもしれない。扱われる本の面々を見ていると、これが「重い小説」だったとしたら中々読者がついてこないのではないかと思ったからだ。そもそも古本に興味がある方は凄く多い訳でもない。その中で更に「読者を選ぶ」ような「重さ」があったら、読者は限定的になってしまったであろう。あのエーコも古本を扱うにあたって、探偵小説自体にしたことも思い出す。「薔薇の名前」は、哲学者エーコが書き上げたミステリー娯楽小説であると僕は思っている。

 

 ということで、やはり古本と自分との距離感は大事である。下手に古本につかまってしまったら、いくらお金があっても足りないという事態も有りえる。そもそも本を置く場所からして、夫婦喧嘩のネタになることも再度思い出した。

事実と論理を振り回すスキル  原田知世の「くちなしの丘」

 

「『合理性よりも共感を重視』から始めよう。事実と論理を振り回すスキルしか持ち合わせていなければ労働市場で早晩、機械に取って代わられるだろう。AIはパターン認識と冷徹なデータ処理に限ってはいかなる人間をも凌駕している」

 

 本日(2025年11月7日)付けの日経新聞のラナ・フォルーハー寄稿記事からである。

 

 「論破」という言葉を見かけることが多くなった。但し考えてみると、ディベートというような語句は昔からある。論破とディベートが同じものかどうかは微妙なのかもしれないが、ある種の「格闘技」である点ではかなり一致していると僕は思っている。

 

 もともとは「日本人は欧米人に比べてディベートが弱い」であるとか、それの発展形として「自己主張の強弱から見える民族の違い」のように話が膨らむような傾向があったと僕は理解している。従い、当時は「事実と論理を振り回す」ことに対する「肯定」、もっと言うと「憧憬」みたいなものが僕ら日本人の中に有ったのかもしれない。であるとするなら、上記引用文は、ある意味まるで逆の話である。

 

 「共感」を英語訳するとSympathyとなる。Sympathyの語源を調べるとギリシャ語のSYN PATHOSらしい。SYNは「一緒に」であり、PATHOSとは「感情」や「苦しみ」という意味とのことである。「一緒に苦しむ」というような意味合いが濃いのかもしれない。

 

 一方で「共感」という日本語の語源を調べると明治以前には無い言葉で、むしろSYMPATHYという言葉の和訳として出来た新しい語句のようである。確かに「共感」という言葉には幾分ごつごつした響きがあり、こなれていないものがある。そう考えると日本人は「共感」というような発想が無かったのかという安直な結論にもなりかねない。但し、昔からの和歌や俳句一つを取ってみても人々の間の「共感」なしでは成立しない伝統があったことも確かだ。むしろ、「共感」というような硬い言葉を必要としなかったのかもしれないと考える方が正しいのかもしれない。

 

 AIは宣伝コピーの場でも活躍し始めたと聞く。宣伝コピーから俳句や詩は案外遠くない。言葉を使うものは早晩AIの方が有利なのかもしれない。但し、僕らは言葉に由らないもの、言葉に出来ないものも、結構自分の内に抱え込んでいるのだと思う。このような時は原田知世が歌っていた「くちなしの丘」の歌詞の一節をどうしても思い出す。

 

言葉にしたら すぐに壊れて きっともう戻らないから

花の向こうに 君が見えたら 何をはなそう

 

 

 ウィトゲンシュタイの言った「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な言葉は上記の原田知世とも響きあう。「事実と論理」を越えたものは、常に存在してほしいし、きっと存在するのだとも思っている。

 

言葉に出来ないだけなのだ。

「ある男」 石川慶

 

 

 

 

 

 自宅でぼんやりしている時に、なんとなく鑑賞した一本である。原作を読んでいないので以下の感想がフェアーなのかどうか分からない点を予め自己申告しておく次第である。

 

 本作の主人公は妻夫木が演じる弁護士であり、本筋としては妻夫木が「自分が在日である」という出自を、どう消化して受け入れていくのかという点だと僕は理解した。従い、「安藤サクラが自分の結婚相手の真相を探る」という筋立ても、上記本筋を強化するためのサブストーリーという位置づけであるべきである。この点において、本作は今一つ本筋が徹底されていないと僕は個人的に感じた。

 

 何が不徹底なのか。安藤サクラの夫は自分の父親が凶悪な殺人者であり、その血筋を引いている自分というものを消化できない状況にあった。妻夫木は安藤サクラの夫を探索していく中で、自らの血筋について強く意識させられていくことになる。この段階で安藤サクラの夫と妻夫木はほぼ同じ地平線に立っているように見える。

 

 但し、そこから妻夫木の「消化するための努力」や「消化できたのかどうか」が見えてこない。

 

 安藤の夫は安藤と結婚し家庭を為し、安藤の連れ子とも父と子の関係を作り、自分の血筋を引く子供も一人もうけるという積極的な努力を重ねた。その過程で自らの苦悩を消化して受け入れることに成功したのだと僕は思う。彼が思わぬ事故で死んでしまったということは彼自身や妻の安藤、二人の子供にとっては悲劇以外のなにものでもないが、彼のそれまでの人生を勘案すると、ある意味では幸せの絶頂の中での大往生だったという気もしないでもない。

 

 それに比較すると妻夫木の「努力」は未だ全く見えてこない。映画の結末では、むしろ妻夫木の家庭がこれから大きな困難を迎えるのではないかという予感があるだけである。従い、妻夫木の物語はこれから始まるだけに見える。その意味では話は全く尻切れトンボではあるのだ。

 

 もしかすると、かような尻切れトンボは戦略なのかもしれない。例えば僕は妻夫木のこれからの物語がきちんと続編として語られることを強く期待させられた。そういう期待を起こさせるということが本作の狙いであったとしたら、僕は十分に本作に乗せられていることは認めなくてはならない。是非、続編を観たいものである。

 

「老後とピアノ」 稲垣えみ子

 相変わらずの稲垣節もあり、読み始めるとそのまま読了までほぼ一気に読むことになった。

 

 僕はピアノを習ったことは無いので、本書で稲垣が開陳するピアノ関係の数々の困難さは頭では想像できても皮膚感覚で理解することは不可能である。但し、「数々の困難さ」に対する稲垣の対応や考え方に関しては理解しなくてはならない。何故ならピアノ以外の無数の事象に関して、僕らは常に「数々の困難さ」に出会う訳であり、かような困難に対して自分としての対応を迫られるという面では、稲垣が対応を迫られていることと基本的には同じであるからだ。

 

 僕のかつての上司は良く「自分で不安に感じることがあると、なぜ自分はそれを不安に思うのかを一生懸命考える。考えているうちに自分でも気がつかなかった『本当の自分』の一端が見えてくることが多い。従い、自分の不安というものはとても大事なのだ」と言っていた。

 

 稲垣という方の物事に対するアプローチはその上司のコメントに重なる部分が多い。稲垣も自分が面する困難をとことん突き詰めていく中で、「その困難がなぜ自分にとって困難なのか」を追求し、理解していっている。かような稲垣の「思考の辿り路」こそが、稲垣の著書を読む醍醐味である。

 

勿論、稲垣の「思考の辿り路」と、僕が通るであろう「僕自身の辿り路」とは違うだろう。但し、暗い小道をとぼとぼ歩く、その「歩き方」に関してはとても参考になる。もっと言うと、稲垣の歩調の「深みある軽やかさ」には憧憬の念を禁じえない。

 

稲垣にとってピアノを弾くということはゴールなのか過程なのか。一義的には前者であろうが、本書を読んでいると後者であることも良く解ってくる。ピアノを弾くという行為の先に稲垣が見つめているものを読むということが本書の僕にとっての正しい読み方であった。大変勉強になる一冊である。

 

 

 

手巻き懐中時計についてぼんやり考えたこと

 大学時代から腕時計ではなく懐中時計と決めてきた。15年ぐらい前からはセイコーの手巻き懐中時計を購入して使ってきている。手巻き懐中時計はそれなりに重い。内部の機械の数が多いからだ。

 

 手巻き時計の醍醐味は、若干ながら時間が狂う点にある。若干程度ゆえ、大勢に影響は無いものの、日々自分で修正する必要はある。この時間修正を通じて、「時間」というものを再度意識せざるを得ない。それが手巻き時計を使うということである。

 

 考えてみると人間が時計というものを発明したのはそんなに昔の話ではない。生成AIによると「太陽時計」という日時計の一種は紀元前3000年頃にエジプト等で出来たらしい。日本においては、『日本書紀』の記載によると671年に水時計が設置されたのが嚆矢のようである。従い、人類の歴史という点では圧倒的に時計という代物が無い時代が永かった。その一方で、「時間」というものは常に有った訳である。つまり人間は時計無しで時間をマネージしてきたという話だ。

 

 人間に限らず、植物にせよ動物にせよ、きちんと時間をマネージしている生物は多い。

 

例えば朝顔の咲く時間帯や蝉の鳴き方を見ていると1日24時間の中で、太陽に合わせて調整されていることは容易に分かる。

 

 若しくは、1年の四季の中で落葉樹が見せる移り変わりであるとか、冬ごもりする諸々の動物を見ていると、彼らがきちんと時間軸を持って生きていることも明白だ。

 

 従い、同じく生物である人間も自前の時間軸を持って生きてきたのだと思う。そこに時計などは存在してこなかった。そのようなものは不要であった。時計は歴史的にも「新参者」であるのだ。

 

 時計の歴史は「時間の再発見」ということなのかもしれない。時間を定量化し、可視化したことで人間の生活は大きく変わったのだと僕は思っている。もっと言うと、時間のマネジメントを時計にアウトソーシングしたようにも見える。要は元々持っていた「時間の感覚」を使うことを止めて、時計に依存するような転換があったのではないか。そこで得たものと失ったものがあるのか、ないのか。

 

そんなことを懐中時計のネジを廻して時間調整を行いながら考える次第である。「時は金なり」という格言には、なんとなく時計のイメージが湧かないなと思いながら。

「ケルト 再生の思想 ーハロウィンからの生命循環ー」  鶴岡真弓

 

 

 ハロウィンが近づいている一方で、ハロウィンのことを良く知らないことに気がついた。加えてハロウィンについての本も知らなかった。生成AIに本書を教えて貰って読む機会を得た。生成AIに教えを乞うのもご時世ではある。

 

 本書は副題にハロウィンを謳っているものの、決してハロウィンに特化した本ではない。本書はハロウィンの起源であるケルトの四季感を豊富な資料を挙げて解き明かしている一冊である。とはいえ僕の興味は上記通りハロウィンの起源ではあったので、そこを重点的に読むことにはなった。

 

 読んでいて理解したことは、ハロウィンは日本のお盆にかなり似ているということである。ハロウィンにおいて、10月30日は祖先の霊がこの世に戻ってきて現世の子孫の歓迎を受け、その上で翌日に再度あの世に戻っていくという行事であると僕は理解した。その行事は、季節の交替も同時に意味している。即ち、秋から冬への移行である。日本の場合、立秋が8月7日であり、お盆が8月13日あたりなので、季節の移行としては夏から秋という点でハロウィンとは異なっている面はあるものの、祖霊の取り扱いという点はほぼ同じではなかろうか。

 

 ここでハロウィンとお盆の風習が似ているのは偶然なのかどうかを考えるべきなのかもしれない。世界各国に共通する物語や行事は結構あると聞く。例えば、大洪水伝説やシンデレラ物語は広範囲に渡って共通している。ハロウィンやお盆のような行事は、(これまた生成AIによると)東南アジア、メキシコ、アフリカ等にもあるとのことだ。

 

 これらが全て偶然ということも無いだろうと考える方が素直である。人類の持つ古層の記憶ということなのかもしれないし、人によってはそこに「神の意図」を見出す方もいるだろう。

 

 ということで勉強になった。「ケルト」という文化が、それこそ「古層の文化」として、我々のあちこちに姿を変えながら生きているということは、豊かな話なのだと思う。ハロウィンを大騒ぎして愉しむ我々を、祖霊たちは笑って見ていてくれているのだろうか。

「小林秀雄の眼」 江藤淳

 

 

 

 地元の古書店で購入した。中東に専門性を持つ、志の高い古書店である。移転直後の新装開店には客がつめかけていた。

 

 本書は著者の江藤淳が小林秀雄の著作の中から数文を選び、それに対して江藤自身のコメントや解説を付すという作りになっている。そう言うと別に普通のありがちな本なのだが、読んでいるとそんな簡単な話ではないと思わされた。

 

 江藤は各解説の結末を「・・・と小林秀雄は言うのである」という言い方でしめくくっている。小林が言おうとしていることを江藤が整理して我々に提出しているという体なのだが、そもそも江藤が行っている整理が本当に小林が言いたかったことなのかどうかは保証が無いはずだ。小林の文章を江藤が勝手に解釈して、その解釈を小林の意見であると勝手に断言するという、勝手な一冊なのである。そんなことが許されるのだろうか。

 

 「誤読」という言葉がある。誤読という言葉にはややネガティブな意味があるように思えるが、良く考えなくてはならない。

 

 先人の書いた本を誤読無しで理解することは可能なのだろうか。僕は不可能だと考える方が正しいとしたい。先人がそれを書いた時代、環境、状況というものは後世の僕らには所詮理解不能であるからだ。それらが解らない以上、「先人が書いたもの」から「先人が理解してほしい」というものを正確かつ精緻に汲み取る事は無理に違いあるまい。従い後世の僕らは「誤読」せざるを得ない。そう考えることの方が謙虚というものではないか。

 

 更に言うと、優れた本とは誤読される「権利」を有しているのではないか。著者が何を言いたかったにせよ、世に出た本には著者を離れて自由に読まれる権利がある。本を読むということは必ずしも著者の言いたいことを正確に理解することではない。その本を自分なりに自由に読んで、そこで自分が勝手に何を思うのかが「読書」なのではないか。本書の42章で紹介されている小林の「彼は書を読んだのではなく、書という事に当たったと言えるのだ」という言葉をここで思い出した。

 

 ということで本書は清々しい放談集である。小林が勝手に行った言いっ放し」に対して、江藤が勝手に言いっ放しを行う。そんな二人の「言いっ放し」を僕らは自由に「誤読」する。そんな、ある種の躍動感のある読書になった。

正義と平和

「不正や闘争は眼に見える具体的な状態であるが、『正義』や『平和』は、よく考えてみると意味内容のはっきりしない観念であるから、『正義』や『平和』で武装した人間の集団は、逆にほしいままに不正や逃走をおこなうことができ、しかも良心の苛責を覚えることがない」

                                      ―『小林秀雄の眼』 江藤淳―

 

 

 上記一文は1960年代末に書かれたものだが、そのまま現代にも通じる。若しくは、2000年前にも通じたろうし、2000年後も(人類がまだ生存しているなら)有効なのだと僕は思う。

 

 上記の中で味噌が何かというと、言うまでもないのだが、「武装」という言葉にある。「正義」であるとか「平和」という概念や言葉は「武器」になりえるのだと江藤は言っている。

 

 「武器」そのものには本来的には善悪も是非も無い。「武器の使い方」が問題であるはずだ。

 

但し、そもそも「善悪」だとか「是非」という言葉自体も実に意味内容のはっきりしない観念である。少なくとも、その時々によって「善悪」や「是非」はめまぐるしく変わってきたことが人間の歴史である。「変わってきた」というより「変えてきた」という方が正しいのかもしれない。かように、いかようにも恣意的に使える武器の中に「正義」と「平和」を語る言説がある訳か。

 

40年ぶりに麻雀を再開して、少し考えさせられていること

 麻雀というものを40年ぶりにわりと本格的に再開している。「本格的に」といっても、月に1回程度だ。40年前の大学時代には毎日近く麻雀をやっていたので頻度は全く違う。但し卒業後は全くと言ってよいほど麻雀をやらなかったので、今の月1回ペースは新鮮である。加えて麻雀を通じて考える機会が出来てきたことは画期的であると言える。

 

 「麻雀を通じて考える」こととは何か。麻雀は優れて「運」に左右されるゲームであって「考える」余地は少ないように見える。勿論、その時々の彼我の状況を考えることは必要だが、それにしても「運」が圧倒的であることは否めない。

 

 そんな中で突き詰めていくと、「自分とはどういう人間なのか」という地点に辿り着いていく。これは学生時代には思いつかなかった地点であり、それが還暦を迎えた今の僕の興味の在処である。

 

 「自分とはどういう人間なのか」とは、麻雀においてどのように表れてくるのだろうか。それは例えば自分は「守り型」なのか「攻め型」なのかというような陳腐な問いかけである。

 

勿論、人は時には守り型であり、時には攻め型になる。但し、その「時」がどのような「時」なのか。どのような「時」に守りと攻めのどちらを選ぶのか。そこにその人の個性なり哲学なり出てくるものだ。そう考えると、麻雀とはむしろゲーム後に個人的な反省会でもやって、そこで自分が下してきた選択や決断を見直すことに面白みと深みがあるのではないか。

 

 自分にとって自分は謎だらけであるということは言い古された話である。但し、「自分のことは自分でも良く分からない」と、初めから投げ出すだけが能でもあるまい。小さなヒントは日々の生活の中からも見つかるものだ。麻雀という唯の遊びのゲームにもヒントは潜んでいる。むしろかような「遊び」のなかに、思いがけないものが潜んでいるのかもしれない。無論、その為には、常に「問いかけ」をしていく基礎体力も問われる。かような知的体力だけは学生時代よりも今の方が優れていると思いたいものだ。