「宮本常一」 木村哲也
宮本常一という方は佐野眞一の「旅する巨人」で初めて知った方である。僕自身は大学で民俗学関係も扱うゼミに所属していた割には、宮本を知らなかった。これは浅学の至りであると反省している。この本は良く売れていると聞く。今の時代に宮本常一が再度脚光を浴びているということ自体が興味深いので本書を読んだ次第だ。
読んでいて強く思ったことは宮本の学問の持つ懐の深さである。宮本の民俗学は「理論が無い」ということで軽んじられていた時期が永かったという話だ。但し、本書はそんな宮本に影響を受けた人達の面々の「豪華さ」を良く活写している。司馬遼太郎、安丸良夫、網野義彦、本多勝一、石牟礼道子、鶴見良行等の様々な分野での第一人者達が宮本の求心力に引き付けられたという事実は重いと言わざるを得ない。個人的には安丸、網野、司馬、鶴見各位の本を漠然と読む機会があっただけに、本書を読んでいて感動すら覚えた。「理論の有無」といったアカデミズムからの批判の虚しさと無力さを感じても良い場面である。
歴史は支配者の行為を追いかけることが多い。それはそれで「政治史」という面では正しいのかもしれないが、歴史とは政治だけということでは全くないということが本書を読んでの最大の感想である。政治史では拾えない無数で無名の人々というものがあり、彼らがその各々の時代で創ってきている「歴史」というものがある。そういう視線を持つことの重要性を嚙みしめるということが本書を読むということであると僕は思った次第だ。
「新書 世界現代史」 川北省吾
今の中東の状況もあり、評判を聞く本書を読む機会とした。
本書は今の世界を「レコンキスタ」という言葉で整理している。レコンキスタをウィキペディアで
調べると以下記載である。
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レコンキスタ(スペイン語: Reconquista レコンキスタ、ポルトガル語: Reconquista レコンキシュタ、ヘコンキスタ)とは、定義にもよるが、おおむね、8世紀初頭から1492年のグラナダ開城まで、イベリア半島において展開されたキリスト教領域とイスラム教領域との抗争をいう(日本大百科全書参照)。
レコンキスタはスペイン語及びポルトガル語で「再征服」(re=再び、conquista=征服すること)を意味し、ポルトガル語では同綴で「レコンキシュタ」または「ヘコンキスタ」という。日本語においては意訳で国土回復運動や、直訳で再征服運動とされることもある。
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本書では現代において各国が「各々のレコンキスタ」を始めたことが、今の世界の混乱を招いているという主張になっている。非常に分かりやすい一冊だ。
僕の理解では、これは良く言われる話だが、「第二次世界大戦後の世界の体制」が終焉を迎えつつあるということが今の状況である。今の国境や国連を中心とした世界の体制が綻びを見せてきた時代だということである。
いま「国境」と言ったが、歴史を振り返っても国境などは何度も変更されてきている。従い今の「国境」が未来永劫不変であると考える方がおかしいとも言える。
また国連の無力さは、一つには「常任理事国の拒否権」という設計にある訳だが、その制度を作った際には想定していない状況がその後発生してきたことを考えると、当たり前といえば当たり前である。相次ぐ議題が拒否権の応酬で進まない訳であり、むしろ拒否されなかった案件が出てきたとしたら、そちらの方が不気味な話なのかもしれないというところまで来ていないだろうか。
「世界の体制が綻ぶ」ということはいままで何度も有った話だから驚いていてもしょうがない。但し、昔は棍棒と石しか持っていなかった人間の手は、今はもう少し危なっかしい武器を握っている点で過去とは違うのだろう。昔、田中角栄という人が「戦争を知っているやつがいるうちは日本は安心だ。戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い」と言っていたそうだが、その戦争を「第二次世界大戦」と書き換えると日本だけの話ではないのだと思う。
ということで世界全体を片手でわしづかみしたような一冊である。この本で展開されている各種インタビューの内容がどこまで世界を正確に射抜いているのかは浅学の僕には解らないものの、大変勉強になった。勉強だけしていてもいけないとも思いながら。
「市場」という第二の民意
ここにきて「市場」の力が言及されることが多くなってきた。政策や軍事行動に対して市場が拒否に廻ることで一定以上の牽制機能となるというような話である。その一例が英国のトラスショックである。好例といっても良い。
トラスショックとは2022年に英国で発生した事象である。時のトラス首相が財源無き大規模減税を発表したのに対して市場が拒否反応を見せ、長期金利高騰、通貨及び株の暴落を起こし、結果としてトラス首相は就任後44日で退陣せざるを得なくなったという話だ。
「市場」とは、政治への影響力を見ていると「第一の民意」である「国民の民意」に続いた、「第二の民意」と言えるような気もしてきた。時の政治が市場を忖度せざるを得ず、結果として政策を変えるということだとしたら、「市場を気にする政治」は第二のポピュリズムとも言える。
市場は経済原理だけで動くというシンプルなものだ。「経済原理」というと何やらいかめしいが、要は「お金儲け」という話である。
トラスショックとは、僕の素人考えでは、市場が「お金儲けどころかお金を失いかねない英国」から逃げるということに尽きている。トラスを追いやった「第二の民意」とは「英国を見限って逃げ出そう」という話にしかみえない。そこに第一の民意と第二の民意の決定的な違いがあると僕は思っている。
第一の民意である国民が「自国から逃げる」ということは最後の選択なのだと思う。一方で、その国の国民でもない不特定多数で構成されている「市場」とは、儲からなくなったら、いつでもさっさとその国から逃げるはずだ。
市場とは昔は「見えざる手」という言い方もあったと思う。但し、市場がかように強大になった現在は、少なくとも「見える手」くらいにはなっている。この10日間の世界情勢を見ていると、特にそんな気がしてきた。
「魔法使いの弟子」を聴きながら世界を憂うということ
散歩の際に音楽をシャッフルで聴いていると「魔法使いの弟子」になった。久しぶりに通して聴く機会となった。
「魔法使いの弟子」はディズニー映画の「ファンタジア」で有名になった交響詩である。
魔法使いが弟子に自分の留守中に水汲みを命令する。
弟子は覚えたての魔法で箒に水汲みを指示する。箒は忠実に水を汲み続ける。もう十分に水が溜まったので弟子は箒に水汲みを止めるように指示するが箒は止めない。
焦った弟子は箒を斧でバラバラにする。するとバラバラになった箒は更に水汲みを続け、部屋は洪水となってしまう。
そこに魔法使いが戻ってきて魔法で箒の水汲みを止めさせ、水を消滅させる。そして弟子を叱責し、再度水汲みをやらせる。
こんな話だ。この物語から、今日の情勢を踏まえて、何を学ぶべきなのかを考えた。
未熟な弟子が魔法を使うことの危うさというものは直ぐに思いつく話だ。今日の世界を見ると、その魔法を「兵器」であるとか「核兵器」と置き換えることも出来そうである。今の世界のいわゆる指導者たちの横暴ぶりの一つの原因が「核」という危うい「魔法」をもてあそぶことが出来る点にあると言っても良いだろう。
但し、僕としては更に次のような教訓を「魔法使いの弟子」は語っていると思う。即ち「一旦解き放たれた魔法とは止めることがとても難しいものだ」というような話である。
「始めることは簡単だが、上手く終えることは案外難しいものだ」という話はよく聞く話である。日本の場合であると、太平洋戦争等も典型的な例だろう。「日本の一番長い日」といった本や映画を観ていても、いかに太平洋戦争を敗北という形で終えることが難しかったかは良く伝わってくる。
もしくは企業経営においても、いかに事業撤退が難しかったかというような例はいくらでもある。
ではなぜ「上手に終えることは難しい」のか。僕の会社のかつての上司は「慣性」という言い方をしていたのを思い出す。要は物事が動き出すと、動き出した方向に対して「慣性」が発生し、止めようとすると相当のエネルギーが必要になってしまうという話である。
今の世界には「むきだしの力」を志向する強い「慣性」が発生してしまっているのではないか。未熟な魔法使いの沢山の弟子達が、コントロールの効かない「魔法」をかけ合い始めていないだろうか。そうだとしたら、我々は弟子達を抑え込む「大魔法使い」を待望し始める日も近いということはないか。デュカスの軽快な交響詩を聴いていて、そんな想いに囚われた。
「凪の人 山野井妙子」 柏 澄子
沢木耕太郎の「凍」という本で登山家の山野井夫妻の話を読んだのはかなり前の話ではある。それ以来、山野井夫妻関係の記事や番組があると割と見るようにしてきた。その延長上で本書を知り、読んでみた。
これは僕の偏見なのかもしれないが、山野井夫妻に関しては夫の泰志のほうが妙子に比べて少し有名さでは優っていると思ってきた。但し、例えば「凍」を読んでいても妙子に関する記載に際して沢木がなみなみならぬ敬意を払っている点は伝わってきた。従い今回は妙子にFOCUSした本作を読んで、かような沢木の敬意の背景が良く分かったと個人的に納得した次第だ。
本書において妙子は登山家として描かれている以上に、生活者として書き込まれている。僕は登山をする訳ではないので妙子の登山家としての才能は良くわからない。但し、生活者としての、もっと大げさに言うと人間としての、妙子の凄まじい「腹の据わり方」は伝わってきた。あれだけの困難や負傷に出会いながらも平然に振舞える人間の有り様は、もはや「異形」という言葉すら似あってしまう気がしてならない。
しかも、それらがごく「自然」に見えてくる点が凄みである。スーパーマンのユニフォームに着替えるのではなく、クラークケントのままで物事を処理していく姿とでも言えば良いのだろうか。いや、そんな表現もあざとすぎると反省した次第だ。
そんな彼女がなぜ山に向かうのか。それは僕も読んでいて正直良く分からなかった。若しくは本書の著者も登山家としての妙子を描こうとはしていないのかもしれない。あくまで飛びぬけた一人の人間を表現したいという野心が著者にあったのではないか。誤読かもしれないが、そう読む事が僕にとってはすがすがしい思いである。
チームみらいの本を読んで
先般の衆議院選挙を受けて、今更ながらとも言えるが、チームみらいの党首の安野という方の著書を二冊読んでみた。次世代の選挙の在り方の一つとして大いに勉強になった次第だ。
僕にとってAIというものはごく最近出てきたばかりのものであり、おそるおそる触っている程度である。一方で安野の著書を読む限り、AIという技術の持つ能力が今後の政治や社会に齎す可能性が豊かにあることを強く感じた。特に、膨大な情報を感情や先入観を交えずに処理して整理できる事が可能である点は非常に魅力的である。
勿論「感情や先入観」をAIに恣意的に与えることも出来るのだろう。但し、そんな恣意性を更に覆す技術もきっと出て来るに違いあるまい。若しくは感情と先入観を排した先の価値観や善悪の判断は別の問題であり、そこは人間が担いたい。但し、人間こそ感情と先入観の塊であるので、大きな課題にはなるに違いあるまい。
安野の本を読んでいると「政治的な理念」というよりは、その手前の「技術論」において、その斬新さがあるのだと僕は思った。例えば、乱暴に言うと、「民意を汲む」というための方法論としてAIを中心とした「技術」があるというという切り口である。
言い方を少し悪くすると、「理念」ではなく「手段や道具」という話でもある気はする。
例えば、メディアを見ていて、今回のイランへの攻撃について安野党首のコメントが頼りないというような話も出ている。それは当たっているようで当たっていない批判なのだと思う。チームみらいは、かような複雑な地政学をいきなり語れる段階ではないし、そもそもそれ以前の国内におけるコミュニケーションのシステムを目の前の課題としているのだと僕は理解している。その意味でチームみらいが目指しているものは今すぐの政権ではなく、まずはきちんとした技術や道具作りにあるのだと思う。ある意味では地道な話ではある。
手段と目的という言葉がある。「技術や道具」と言うと、「それは手段だ。しかし、目的である理念や哲学は無いのか」という批判する向きもあるだろう。但し、それは手段である「技術や道具」の持つ爆発力や怖ろしさを軽く見た、気楽な批判でもあると思う。人類の歴史を見ても、「技術や道具」がいかに「理念や哲学」を変えてしまってきたのかという点は否定できない。「手段」が思いもかけぬ「目的」を産み出していくような場面も有ったのだと僕は思う。
例えば核兵器とは戦闘に勝つための一つの「道具」に過ぎないはずだった。しかし、気がつくと「保有するしない、保有させるさせない、も含めて、核を世界的にどう管理するのか」が世界の「課題」であり、それを平和裏に行うことが世界の「目的」の一つになってきてはいないだろうか。原子力発電等も、そのAGENDAの一つになっていることも含めて。
その意味でチームみらいの今のAIを中心に置くという「志向」(「嗜好」といっても良いかもしれない)が全く新しい地平線を齎す可能性には注目し瞠目すべきなのだと思う。
多元的無知とは
新聞で「多元的無知」という言葉を習ったところだ。「自分自身が持っている考えは、他の人の大多数の支持や同意を得られないのではないか」という考え方を多くの人が持ってしまう状況を指すらしい。
具体例は以下のような局面である。
「女性の活躍」に対しては多くの人が個人的には賛同しているものの、その賛同している人達に「女性の活躍は他の人も賛同していると思いますか?」と聞いてみると「自分は賛成しているが、世間一般的には必ずしも賛同しない人も多いと思います」というような返事が来る場合である。そのような返事をする人が多くなる状況を「多元的無知」というとのことだ。この状況はある種の「忖度」と言える気がしてきた。要は「世間一般」という捉えどころのない物への「忖度」ではないだろうか。
おそらく、この議論は「世間とは何か」という話に発展させることが出来る。「日本における世間と個人との関係」というように変化させると、十分に「一つの日本人論」になるに違いない。但し、それは思考実験だけで終わってはいけない危うさを秘めた話でもある。日本という社会では、いわゆる「同調圧力」が強いと言われる。同調圧力が齎した悲喜劇は、日本の歴史でもある。悲喜劇はこれからも続くに違いないから、いまなお危うさがあると僕は思う次第だ。
「最後は自分が責任を取る」とはほんとうに可能か?
よく「色々な意見を聞いた上で最後は自分が決断する」という言葉がある。社長などの決定権者が言う言葉だ。大体この言葉の続きは「従い責任は自分が取る。社長は孤独なんだ」というような、いささか感傷的なフレーズになる事が多い。決定権者は、大概悲壮な顔つきで語るものだ。
但し、よく考えなくても本当に決定権者が一人で取れる責任などたかが知れている。大体は辞任する程度の話だ。決定権者が個人的に辞任するということは「自分に罰を与えた」だけであって、それはよく言っても個人の美学や自己満足、自己弁護に過ぎない。その決断で、迷惑なり被害などを蒙った他人にとって意味があるとも思えないし、救いにもならない。つまり責任は取れないと言う事だ。
決定権者なのだから一人で決断する事には違和感は無い。但し決断に際して、そう決めた理由や背景はすぐに公表するようなアクションがあるべきではないか。勿論何らかの真っ当な理由で、その段階で公表できない理由があるなら、それもしっかりとその旨を言うべきだ。そうでもしてくれないと、納得感も何もないだろう。
大雪の翌日に「戦前」は始まる
総選挙は終わり、大方のメディアの予想通り与党の歴史的勝利となった。昨晩のTVの特番がおしなべて通夜のような雰囲気であったことは印象的だった。通夜の翌日からは総括が始まるのだろうが、どのような整理と総括が行われるべきのか。
消費減税や憲法改正等は、いずれも大きな話ではあるものの「各論」の域を出ない。各論と言ったが、それは矮小化している積りもない。「神は細部に宿る」というが、各論の積み上げが全体像を作っていることはジグソーパズルに似ているとも言える。但し、各論は各論として大事であるが、より大きな視点で論点を設定することが中長期的に重要だと思う。
まず今回の選挙の結果をどう見るのか。僕は今回で「戦後の昭和」が終わったと考えるべきではないかと思う。社会党を引き継いだ社民党が議席を失い、昭和から平成にかけての狂言回しであった小沢一郎が落選し、民主党が壊滅的な状況に陥った姿を見ているとそう感じて止まない。「戦後の昭和の終わり」とは「戦後の終わり」と僕の中ではイコールである。従い「戦後」が終わったということになる。「戦後」の次の時代とは何か。「人間は戦争を止められない動物だ」とすると、「戦後」の次は自動的に次の戦争の前であり、すなわち「戦前」である。僕らは今日から「戦前」の時代に生き始めている。
次に「民意」という言葉の意味を再度考え直す必要が無いか。
ともすると今回の選挙に関してはSNSの効果であるとか、Zだとかアルファという言葉で語られることが多かったが、年代別の支持層を見ても高齢世代の与党支持の高さを考えると、本当にかような「新しい言葉」で分析することが正しいのか疑問もある。
「民意」とはきれいな言葉ではあるが、その中身は見えない。民意という「箱」があったとして、蓋を開けて中味を覗いたら「ドロドロの液体みたいなもの」なのかもしれないし、実は何もない「からっぽな空間」なのかもしれない。そもそも「民意」というものがあるのかどうかも分からない。今回の選挙期間中において、色々な方が当惑、混乱していたように見えたが、煎じ詰めると「民意」というものが分からなくなってきて、自信を失ってきているという話ではないだろうか。だとすると「民意」という言葉を使わないで論理を構築するということも考えなくてはならないのではないか。
というようなことを大雪の次の日にとりとめなく、ぼんやりと、考えているところだ。
映画「処女の泉」 イングマール・ベルイマン
最近イングマール・ベルイマンの映画を少しづつ観ている。重い映画ばかりではあるが。
本作の粗筋は「娘をレイプされて殺された敬虔なキリスト教徒の両親がレイプ犯の三人を殺害する」とでも言えば良いのだろうか。話としては簡単なのかもしれないが、どうしょうもない「重さ」があった。
正確に言うとレイプしたのは二名であり、最後の一人は子供である。子供は犯罪には加担しておらず、かつその現場を見ていて強いトラウマになったことが描かれる。僕にしてみると、その子供は無実であり、もっと言うと無垢である。但し、娘の父親は激情に駆られて、その子供も殺害してしまう。罪のない無垢の子供を殺害した段階で、娘の父親は「娘の敵討ち」役を飛び越えて業の深い一人になってしまったと思った次第だ。
彼自身もそれを解かっており、最後の場面で神の許しを乞うている。但し、いくら彼が我に還って敬虔なキリスト教徒として悔い改めても子供は還ってこない。それは娘と同じであるのだ。
娘の死に関して自身を責める人が二人いる。一人は娘の母親であり、一人は娘の家に拾われていた妊娠中の娘だ。後者は、犯行現場に居ながらもレイプを止めることが出来なかった、北欧の神を信じる異教徒の娘である。この「異教徒」の存在とはきっと本作の要の要素なのだと思うが、残念ながらキリスト教に素人な僕としては、そこは肌で実感できなかった。
但し、僕にしてみると、結局この悲劇を起こしたのは殺害された娘の底抜けの無邪気さとしか思えなかった。全く見知らぬ三人を単純に信じたことで彼女は殺害された訳だ。その結果として無垢の少年が死に、父親には非常なる罪を犯させ、母親に立ち直れないくらいの悲嘆に追い込んだ。それは全て娘の無邪気さが原因ではなかったのか。そう考えると、本作はいよいよ救われない話でしかあり得ない。
結局ベルイマンが描き出したかったのは、そのような不条理さが時として存在するということなのだろうか。娘の屍の下から湧き出した泉は単純に何かの赦しであるとも思いたくない。若しくは、このような不条理も許すしかないという事をベルイマンは言っているのだろうか。