「本なら売るほど」 児島青
「古本屋」を主人公や舞台とする小説や映画や漫画は結構多い。本書もその一角を占めている。とりあえず第三巻まで出たので再読したところだ。
本屋には色々な種類がある。
普通の本屋と古本屋を比較してみた。両者ともに「本を売る」という点では同じだが、全くの別物ではないかということが僕の印象である。一体何が違いなのかと考えることは案外楽しい。
普通の本屋に行く場合には、なんとなくではあるが、まず新刊本のコーナーに目が行く。新しく刊行された本を眺めていると、その時々の流行や興味のありようの一面が見える気がする。それはそれで勉強になる。新刊本だけを見にいく訳ではないものの、そういう新奇性を覗きに行くという気持ちが起こることは、僕の場合には、否定しようがない。またそれはそれで悪い話でもない。
勿論「普通の本屋」にもいろいろある。独自の路線や好みを出している本屋も少なくない。但し、どの本屋にしても「新刊本」という香りは漂っている。専門書にも当然「新刊本」があるからだ。
一方で古本屋はどうか。ごく一部を除くと新刊本を前面に打ち出している古本屋は無い。従い、古本屋に入る際にも、僕は新刊本を意識することは無い。では何を意識しているのか。僕の場合には「受動的に本と出会う」が大きな目的となっている気がしている。
受動的とは何か。言葉にしにくいが、「僕が本を見つける」という能動ではなく、「本が僕を見つける」というような、僕にとっての受動というような話だ。書いていて我ながら分かりにくいのだが。
古本屋を巡る大概の物語では主人公は「やってきたものを迎える」という受動的な姿勢から始まっている。「やってくるもの」とは「古本」であったり「古本屋の主人」である。「日常」に埋没してきた主人公に対して「非日常」がやってくるというストーリーだ。その構造は「ゴジラ」と基本的には変わらない。ゴジラと違って、やってくる「古本」や「「古本屋の主人」は一見静かではあるものの、「非日常性」という点ではゴジラと同じである。
本書もそんなゴジラの一つの変奏曲ではあるまいかと考えると読んでいて、なお楽しくなった次第だ。
「グレイクリスマス」 劇団民藝
三越劇場で劇団民藝による「グレイクリスマス」を鑑賞した。この劇は初めて知った次第である。実におそろしいぐらい今の日本と世界の状況に重なる内容で驚いた。
「グレイクリスマス」とは敗戦後の日本が舞台だ。戦前に伯爵家であった家族が、華族制度の廃止、財閥解体、戦犯、朝鮮戦争等の大きな時代の流れに翻弄されていく物語である。詰め込まれたテーマとしては新憲法、民主主義、在日、後の自衛隊になっていく警察予備隊、などである。
驚いたことに、それらのテーマはまさに現在の状況と響きあう点だ。「憲法改正」、「保守の在り方」、「在留外国人関連」、「武器輸出」という今この瞬間の課題とは敗戦直後から既に胚胎されていたことが良く分かった。この劇がいま上演されることの意義は極めて大きなものがある。
パンフレットに因ると、この劇は1983年、つまり40年以上前に初演されている。民藝では
2018年から定期的かつ数多く上演されてきている。従い、この劇の「今日性」は今になって生まれてきたものでもなんでもなく、永い年月の中で常に「今日性」を維持してきたのだろうと思う。そのようなことに気づかされて、はっとした。それは即ち自分自身が今まで「平和ボケ」してきただけなのだなと強く反省させられたからだ。
考えてみると、上記の課題は常に我々の目の前に在った。在ったにも関わらず、それを直視してこなかった。直視しなくてもなんとなく済む時代も永かった。但し、それらをついに直視せざるを得ない環境になってきたのではないか。本当の意味で第二次大戦以降の時代が世界的に終わるのは今ではないのか。そのように考えるとなんとなく腑に落ちた気がした。
ということで、グレイクリスマスは是非多くの方にご覧になってほしい。
「ヤンキーと地元」 打越正行
本書を知ったのは何かの書評だったの思うのだが、それが何だったのか思い出せない。本書を読了した今、どなたから本書を教えて頂いたのかを知りたいのだが、ちょっと難しい。感想は二点である。
一点目。「参与観察」という言葉と内容について本書を読んで初めて知った。ノンフィクションにおいて著者が観察対象とするものに直接的に参加するという手法である。本書においては著者は沖縄におけるいわゆる「ヤンキー」とされる若者集団の中に「パシリ」として参加するという、僕にとっては前代未聞な方法で取材を行っている。
「参加」するに当たって著者は極めて倫理的に突き詰めて考えたということが更に凄みがある。即ち自分自身のポジションの置き方に関して「つかえる内部関係者」「つかえない内部関係者」「つかえる部外者」「つかえない部外者」という4つの可能性を整理した上で、「つかねない内部関係者」こそが「参与観察」であるべきだとする考え方である。内部関係者を選ぶことは「参与観察」者として必要条件であろうが、その上で十分条件として「つかえない」を選ぶという話だ。これは「つかえる」という立場を取ることで発生する「傲慢さ」に対して著者は倫理的に警戒しているからである。その態度の潔さがパシリを選んだ著者である。
二点目。これは解説の岸政彦の指摘であるが、著者は沖縄のヤンキーを通じて「沖縄と内地」との間に歴史的に発生してきた非対称に切り込む視点に感銘を受けた。
本書で展開されるヤンキーの言葉を見ていて「時計仕掛けのオレンジ」での話し言葉を思い出したのは僕だけではないはずだ。方言以上に異質な言葉が連発されている。「文化の異質性」ということだけでは済まされないものが沖縄にはあることが良く分かった。いうまでもなくヤンキーの言葉をそのまま収録した著者の意図も、沖縄と内地との違いをくっきりと描き出すことにある訳だが、その「違い」とは平等に並んでいるものではない。沖縄に大きな負担を押し付けている内地の在り方を読者に考えさせるものがある。
著者は若くして白血病で亡くなられたという。実に惜しい方を喪ったものだ。
「ソニー神話を壊した男」 児玉博
本書に描かれる出井という方は2005年にソニーの会長CEOを退任、2012年には同社のアドバイザリーボード議長も退任した方である。ソニーにおける晩節では非常に評価されず、当時のソニーの経営難に関する批判を一身に浴びたことを今でも覚えている。そんな出井に関する評伝が20年後の2026年に刊行された訳である。
本書を読んでいると、まずはソニーという会社の異常性が強く伝わってくる。「異常性」と言ったが、これは批判や非難を意味した訳ではない。「異能性」とでも言う方が適切かもしれない。但し、「常と異なる」という意味を持つ「異常」という語句のほうが適切だと感じるので、その言葉を使った。
本書で描かれる盛田、大賀の立ち振る舞いはまことに「常と異なる」としか言いようがない。それは良し悪しという話でもない。本書でIIJの鈴木が繰り返している通り「ソニーとはそういう会社なのだ」という話なのだろう。
その異常な創業者メンバーからソニーを引き継がされたサラリーマンの出井の苦労という話では全くないところもソニーという会社の凄みである。出井は自身が信じた将来のあるべきソニーの絵姿から逆算してソニーの現在位置と現在価値を算定し、それを基に創業者が創り上げてきたソニーの神話を破壊していったという事が本書の趣旨であり、その「破壊者」としての出井を2026年に世に問うということが著者の野心である。地に落ちていた出井を再評価することが、即ち、今のソニー像を描き直すことになるという物語も納得性は高い。
個人的にはその後のソニーに現れた異能者たちへの出井の評価も聞きたかった。例えばプレイステーションで名を挙げた久夛良木健などは、その異能振りを見ていると、十分にソニーの異能列伝の系譜を引いているようにも思える。そんな久夛良木を出井がどう見ていたのかには興味があるが、既に出井が鬼籍に入ってしまったので叶わない話なのかもしれない。
本書を現在ソニーで働いている人、つまりインサイダーが、どう読むのだろうか。その感想も是非聞いてみたい。「出井を美化しすぎている」という意見もたくさんあるだろう。「棺を蓋いて事定まる」というが、棺を蓋いて4年たった今、再評価の機運がソニーの中にも起こるだろうか。
「スターリングラード攻防戦」
本書は1976年に角川文庫で刊行された経緯がある。50年後の2026年に再度単行本として刊行される背景を考える事は本書を読む一つの切り口である。
本書が描き出すのは第二次世界大戦におけるスターリングラードの攻防戦である。言うまでも無く、スターリングラード攻防戦は第二次世界大戦の転換点となった戦いである。即ち、ドイツの敗北がこの戦いから始まったということが歴史である。本書で描かれるドイツの兵士たちの有様は戦争の悲惨さを通り越している。現場を理解しようとしないヒトラー総統からの戦争継続の支持を墨守せざるを得なかった姿は「喜劇」の域に達している。
そんな本書を2026年に再刊した角川の意図があるものと考える。ウクライナや中東で起こっている戦争を見ていると、スターリングヤードの時代から人間は少しも進歩していないのではないかと思う人も多いに違いあるまい。そのような思いを出来るだけ多くの人にさせることが角川の狙いであるとするなら、それは本書の大きな価値の一つだと言えよう。
車中の携帯通話
たまに列車の車中で携帯電話で通話している人を見かけると腹が立つものである。「うるさいな」と思う訳だが、一方で考えてみると列車が動いている音や、列車の中で話している声のほうがもっと大きい場合がある。それらの音については(話し声は余りに大きいと別だが)特に気にならないのだが、それより小さい携帯電話の話し声のほうが気に障るのは何故かと考え始めたところだ。
おそらくは音量の問題ではなくマナーの問題なのだろう。但し、「車中で携帯通話をしない」というマナーが出来た第一義的な理由は「他の人にとってうるさいから」なのだと思う。但し、上記の通りもっと大きな音があっても気にならないこともある。従い、音の問題ではなく「マナー違反」という点に関して腹が立っているような気がしてきた。
ここで気をつけなくてはならないのは、マナーの本質を考えないままで、そのマナーなるものを盲信してしまうという危険性なのだと思う。マナーという言葉を「ルール」という言葉に置き換えてみると、なお危険性は高まる。世の中には色々なルールがある訳だが、その一つ一つを突き詰めて考えることは難しい。考えること が難しいので盲信してしまう方が簡単で楽である。「ルールであるから守らなくてはならない」と安易に言い切ることで起こった悲喜劇はいくらでもある。ルールとは「権力側」が作ることが多いからだ。
「対話」の機能
「わたしの場合、自分を探しているところに、自分が見つからないといったことも起こる。自分の判断力によって探りをいれていくよりも、出会いがしらに自分が見つかるのだ」
モンテーニュ「エセー」の第一巻第十章から。
人と色々と話している際に「自分が思っていること」を言う訳だが、時々自分が「自分でも思っていなかったこと」を話すことがある。つまり自分で「自分の話していること」に驚くというような事態である。モンテーニュが言っている「出会いがしらに自分が見つかる」という話は、そのような状況を指しているのかなと思っているところだ。
僕は「対話」の一つの機能は、そのような点にあると思う。自分とは違う他者と対話していく中で「自分がまだ言語化出来ていなかった考え」を言語化するというプロセスはあるのだと思う。
当たり前のことながら 「考え」とは言語化されることによって「考え」になる。言語化されていない段階では、「漠然とした気分」ということなのだろう。無意識という沼の中で形成される「ばくぜんとした気分」が次第に水面に浮かんできて、ぷくりと言語化されることで「意識」されるというようなことは誰もが経験している話だろう。そんな「意識」をモンテーニュは「自分」と名付けたのではあるまいか。
映画「ジョーズ」の原作を読んで
映画「ジョーズ」の原作を通読する機会を得た。「ジョーズ」に関しては、まず原作が大ベストセラーとなり、スピルバーグが映画化したという順番である。映画をノベライズした訳ではない。但し、映画があまりにヒットしてしまった為に、原作の地位はやや弱められたような気はしないでもない。但し、流石にベストセラーになっただけの一冊である。映画とは違った魅力があることに驚いた。感想は二点である。
一点目。言うまでもないが、本作はメルヴィルの「白鯨」を踏まえている。本作に登場するサメは「白鯨」なみの存在感である。即ち、「ある種の神」であり、かつ「ある種の悪魔」である。神と悪魔が共存する話は古今いくらでもある。「白鯨」もその一例であり、「ジョーズ」もその延長上にある。サメ漁師のクイントは「白鯨」のエイハブ船長同様に足にロープが絡まったことで海中に没してしまうという展開は、正しく「ジョーズ」の系譜を示していると言える。
但し、著者は最後にサメに死を与えた点は「白鯨」とは違っている。著者はサメを活かしたままにすることも出来たにも関わらず、である。著者がなぜ、サメが死ぬ展開にしたのかは明らかにはされていない。主人公のブロディに勝利を与えたかったと考えることは次の二点目から導き出されるのかもしれない。
二点目。スピルバーグが原作からばっさり割愛した部分をどう読むかである。それはブロディの妻エレンが、海洋生物学者のフーパーとの行う浮気というストーリーである。その火遊び的な浮気譚は、一見安っぽいロマンスにも見えてしまうが、実は結構読み応えのある話なのだと僕は思う。
物語の舞台は海沿いの観光地である。その観光地には夏になると二種類の人間がいる。一つは、その地元で年中働く比較的経済的に苦労している人達であり、もう一種類は都会から訪れた金銭的に不自由しない観光客である。当たり前ながら、この両者は夏の間、同じ空間にいるものの、全く違った心性を持っている。
エレンはかつては都会側であったが、地元側のブロディと結婚したことで、彼女自身も地元側に「移動」したという経緯である。地元で三人の子供を育てるという地に足の着いた生活に馴染んでいるものの、「都会」を忘れることは出来ない。そこに登場した「都会」から来たフーパーと不倫に陥るのは、そんな彼女の複雑かつシンプルな思いに因るものだと言って良い。
このエレンの混乱ぶりは本作にもそれなりに深みを与えている。ブロディはエレンとフーパーとの情事に直感的に気がついており、そのいらだちは本作にも遺憾なく彩りを与えている。
映画と違い、原作である本作ではフーパーはサメに殺される展開である。フーパーに死を与えたサメも、サメに死を与えたクイントも、共に死んでいく。ブロディだけが勝利者として生き残った場面で原作は唐突に終わり、例えばエレンがその後どうしたのかは著者が描いてくれていない。外部から来た異人達であるサメ、クイント、フーパーが居なくなったあとのブロディとエレンの物語がどうなるのかは十分余韻が残るような気がする。しかし、そこは描かれていない。その「深み」は映画には無い点である。
予想以上に面白い一冊だった。
真にみずからのものとは 「エセー」 第一巻第七章
「他人の財産をわがものとしたことにやましさを覚えながら、遺言によって、自分の死後にそれを返却しようと決めている人々を、わたしはたくさん見てきた。ろくでもないことである。これほど差し迫っていることを先延ばしにして、心の痛みも、ふところの傷みもほとんどないところで、みずからのあやまちを正そうとしても、なんの価値もない。真にみずからのもので支払わなくてはいけないのである。」
モンテーニュの「エセー」第一巻第七章からの引用である。
人間は自分を正当化する動物である。間違ったことをしていて、そのこと自体を自分で認識していても、「将来的にはそれを正すのだ」という形で将来の免罪符を「先約」することで、間違った現在を正当化する。そんなことは自分を振り返ってもいくらでもあったような気がする。「問題先送り」という言葉は良く使われている訳だが、その言葉の本質は「現状を変えない」ことの正当化であると考えると、個人的には腑に落ちた。
「真にみずからのもので支払わなくてはならない」という言葉もなかなか重い。「真にみずからのもの」とは一体何なのか。上記文脈で考えると「自分のお金」という話なのかもしれないが、それを更に考えていくと、そんな簡単な話でもないのかもしれない。無から生まれて無に帰っていく我々は、いかほどの「みずからのもの」を持ち得るのだろうか。そもそもそんなものはあるとうぬぼれていてよいのだろうか。
モンテーニュが語る戦争
「戦争というものはそもそも、良識をそこなっても理屈がとおる、多くの特権を有しているのであって、ここには『他人の無知につけこんで利益を得るようなふるまいはしてはならない』(キケロ)という規則は存在しない」
モンテーニュの「エセー」第一巻第六章の一文である。この第六章の題名は「交渉のときは危険な時間」となっている。和平交渉をしている中で突然奇襲をかけられたというような話をモンテーニュはいくつも例として提示している。
モンテーニュ自身が、かような「戦争には何でもあり」ということに関して同意しているとは思わないものの、「戦争の現実としてそうなっている」ということを淡々と述べているとは言えそうだ。
今の中東だのウクライナだのを見ているとモンテーニュの時代から人間はなにも変わっていない点に驚く。もう少し僕らは学んできたことがあるのではないかと思うことは実は能天気な楽観だったということなのだろう。但し、それがもはや人間の本能なのだとしたら、中々将来は絶望的であるという気もしないでもない。それこそAIに支配して貰った方がよいのではないかという議論に辿り着いてしまうのではないか。本能を超克することはとても難しいからだ。人間のDNAのコードを書き換えないといけないという話でもあろうし。