「JAMJAM日記」 殿山泰司を読んで
書評の雑誌での日記特集を読んだ際に本書の紹介があった。殿山という俳優はいくつもの映画での登場を観てきている。バイプレイヤーとして非常に好きな俳優であることもあり、本書を読む機会となった。
殿山は性格俳優であり、特殊な役柄が多い。どちらかというと悪役が多いのではないかと思っている。そんな役柄を本書にも活かしている。すなわちある種の偽悪的な立ち位置と語り口で自身の日々を綴っている。但し、その「日々」を見ていると、非常にスマートで教養溢れるダンディーな姿が見えてくるということが本書の醍醐味である。
これは僕の思い込みなのだと思うが、「断腸亭日乘」を思わせるものがあった。世に対して、少し斜に構えながらも、自分自身の嗜好と志向と思考を確固として持ち続ける勁さとでも言えば良いのだろうか。自分自身を世の中に対して「傍流」に置きつつ、その「傍流」から切り取れる「世の中」のある種の実像をしたたかに示していると僕は読んだ。そういう方は映画監督にとっても得難い存在だったのだと思う。それが本書に出てくる溢れんばかりの多数の作品に表れて いるということなのだろう。
殿山泰司という方は残念ながら他界されてしまっている。こういう俳優はそうざらにはいないと考えると強い喪失感に陥るしかない。
荘子、孫子、モンテーニュの「エセー」、コスパ、AI
モンテーニュの「エセー」の第一巻第五章には勝利の種類について述べている。「武力による勝利」と「奸計による勝利」を比べる場合、「狡猾なギリシャ人」や「抜け目のないカルタゴ人」は「奸計」を良しとする一方で、ローマ人は「武力」を良しとしたという話だ。
これを読んでいて「孫子」も思い出した。孫子は戦わずして勝つことが最上であり、戦って勝つことは勝利の最下等としていた。その意味では孫子はギリシャやカルタゴに軍配を挙げる訳だろう。
これらは平たくいうと「コスパ」という話に収斂するのかもしれない。つまりコストをどうやって削減するのかという話だとすると、これは僕らが普段やっている話と同じとも言える。
ここで僕の敬愛する荘子について、コスパという考え方と荘子との関連をAIに訊いてみた。AIの答えは「荘子的にはコスパ重視の生き方はむしろ不自由である」という話である。
コスパが目指すものは「判断基準は効率・成果、価値とは有益であること、生き方は最適化」である。それに対して、荘子は「判断基準は自然・自由、価値とは無益もまた良し、生き方は解放」である。両者は対立的であるという分析だ。
となると荘子と孫子はかなり違う地点に立っていると考えれば良いということか。面白い話ではある。
「80年代90年代 新しい日本映画の始まりと終わり」 山田耕大・高鳥都
題名の1980年代から90年代に邦画を観ることが多かった。2026年になって本書を読む機会を得た。言及される多くの映画に心当たりがある一方、それ以上に初めて聞く題名の映画も多かった。それなりに邦画を観てきた積りだったが、小さな「お山の大将」だった訳だと反省した。本書を読んでいての感想は二点である。
一点目。ジブリを始めとしたアニメ映画は一切言及されない点に驚いた。素人の映画観客という立場から80-90年代の邦画を考える場合、ジブリのいくつかの作品は外せない。ナウシカやトトロが日本の映画界に齎した影響はとても大きいと個人的にも思っている。それに対して本書ではアニメは素通りである。それは何故かと考えることは頭の体操になる。
実写映画とアニメ映画は創り上げる過程が全然違うのだろうということが僕の結論であった。本書を読んでいる分かることは、対談をされているお二人は「映画」を語っているのではなく、「映画を創っている人間」を語っているという点である。鬼籍に入られた多くの映画人への限りない愛情が本書のテーマと言って良い。その意味では「アニメを創っている人間」とは、全く別の国の人達という整理がお二人の間に為されているのではないか。それはそれで良く解かる気もした。
二点目。その「映画を創っている人間」の群像劇が本書だとすると、実際に描き出されている「群像」とは、見事にどこか破綻している人間模様である。実際、それなりの年齢になっても社会通念からはみ出ているような映画人が多かったことが本書を読んで改めて良く理解した。一体、いい歳した大人が新宿のゴールデン街で殴り合いなどをするものだろうか。
「それが芸術家というものだ」と言ってしまうことは美しい話だ。但し、それが日本において映画をビジネスとして成り立たせることの難しさにも繋がってきたのだと思う。勿論、映画をビジネスとして捉えることの「貧しさ」という考え方はあるし、僕自身もそう感じることも多い。但しサステイナブルに映画を創っていくことも中長期的には大事であることも確かだろう。
「欧米」という死語
ウェブでも出てきている話だが「欧米」という言葉はそろそろ死語になってもおかしくない状況になってきた感がある。「欧」と「米」の違いが鮮明になってきたからだ。「欧」という言葉も、やや十把一絡げである。但し、それはとりあえず脇に置いて、「欧米」という言葉が無意味になってきたことを考えることは、「欧米」という言葉を発明した日本にとって、とても重要になってきたと考えるべきである。
平たく言うと「欧米」とは「白人国家」という意味だったのではないかと思う。「白人であれば考え方や文化、文明が同じだろう」という大雑把な整理の仕方が、長い間日本にとっては有効であったのだろう。もっというと、かような大雑把な整理でもやってこれたという事も示している。
地政学を考えると、マクロとミクロという二つの切り口があるのだと思う。「欧米」とは「マクロ」な切り口だったのかもしれない。但し、マクロな意味でも「欧」と「米」が異質なものになってきたという事が、現在の状況である。ここで試されるのは日本が世界や地政学を今後はどのような視点で切り取るのかという「 知性の創造力」だと僕は思う。その意味でも、そろそろ「欧米」という言葉を死語に追いやらなくてはならないという時期に来てはいないだろうか。
「観客論」とは何か?
「少しかたい言い方をすると殿山泰司はしっかりとした観客論をもっていて、そういう人は東京に少なかったというのが、1970年代だったのではなかったか。」
上記は殿山泰司「JAMJAM日記」のあとがきで大友良英というギタリストの方が書いている一文である。言うまでも無く「観客論」という僕にとっては聞きなれない言葉にはっとしたという話だ。
自分が観客になっている際に「自分はどのような観客であるべきか」ということには案外無意識だった気がしている。勿論、時と状況で「自分の観客としての立ち振る舞い」はころころ変わる訳だが、それにしても、「どのようにころころ変わるのか」という点は一本の筋が通っているべきかなと反省させられたということである。
それにしても「観客でいること」の場面は結構多い。映画やコンサートや劇の観客だけではない。色々な場面で実は「観客」となっていることはあるのだ。例え ば、今の世界情勢に対しても僕は十分に「観客」である。どんな観客になっているのかは我ながら分からないのだが。
映画「主戦場」
先日読んだ「歴史は『強者ファースト』か?」にて本作が紹介されていたので鑑賞することにした。この映画のことは全く知らなかった。従軍慰安婦に関するドキュメンタリー映画である。
この映画を観ていると、「『事実』というものは、結局ある種の『虚構』でしかあり得ない」と強く思わされた。従軍慰安婦という歴史に関して、これだけ「解釈」「理解」「思い込み」が分かれる様に驚かされた。
本来「歴史」というものは「無味無臭な事実」で出来ていてしかるべきだと思うのであるが、そんな自分自身の「思い」は、「想い」でしかあり得ず、しかも能天気で滑稽すぎるくらい楽観的な「想い」なのだなと反省せざるを得なかった。当たり前のことではあるが、ある一つの事象を巡る「事実」とはその事象を見る見方によって全く異なる「事実」となっていく。中国に「群盲、象を撫でる」という古い言葉がある。まさに本作は「自分には物事が見えている」と思っている多くの人達が「従軍慰安婦」という巨象を撫でている様を描き出す映画だとも言える気もしないでもない。
僕個人としては、本作を観ていると、歴史修正側(もしくは歴史否定側)の発言を聞いていて、とても居心地が悪かった。もっと言うと、とても腹が立った。
但し、告発しているリベラル側の発言が全て正しいのかどうかについて判断が出来るだけの知見と材料を僕が持っているわけでもない。従い、自分のそのような「想い」は、情緒に流されたものではある。本作の登場人物は自分にとっての「事実」を語っているのだろう。但し「自分にとっての事実」は、時として「他人にとっては虚構」であるということの繰り返しが本作の異様な緊張感に繋がっている。
この映画には賛否が激しく分かれることは予想できる。「中道」にいることを許さない映画であると言ったら言い過ぎなのだろうか。
「歴史は『強者ファースト」か?」 岩波ブックレット
考えてみると歴史修正や歴史否定を巡る議論は教科書検定など1970年代から起こってきており、決して新しい話ではない。にも拘わらず本書が本年(2026年)1月に改めて発刊されたということは何故かを考えるところから始めることが本書を正しく読むということだと解した。
ここ数年の世界を見ていると、第二次世界大戦終了後の世界の体制が決定的に綻びてきたことはもはや明白ではないだろうか。特に全く機能しなくなった国連を見ていると、そう思わざるを得ない。国連が機能しない理由は、国連に埋め込まれてきた「前提」が間違っていたからである。安保理の意思決定において常任理事国の全会一致を基本として定めた、その当時は、「常任理事国が戦争を始める」というような想定は無かったということなのだろう。
勿論、その後には東西冷戦が始まり、その段階で既に国連の限界が見えていたのだと思うが、その限界を「修正」することは出来なかった。「修正」できないにしても、その時々の世界はなんとか取り繕って来れたということなのだろうが、とうとうここにきてそれが破綻しつつあるのではないか。その「破綻」は色々な現象を産んできているが、「歴史否定」も、その大きな現象の一つとして膨らんできており、従い本書が上梓されたのだと考えると個人的には腑に落ちた。
世界が「ジャングルのルール」になる中で、どこまで人間が理性的でいられることが出来るのかが試されている時代になった。歴史を見返す「眼」も試されているものの一つである。それが本書を読んでいて最後の感想である。
「ねじの回転」 ヘンリー・ジェイムズ 土屋政雄訳
「ねじの回転」というゴシックホラー小説では「解かれない謎」を堪能することが出来る。いくつかの翻訳もある名高い本作を、土屋政雄訳で今回きちんと読了した。なるほど長年話題や議論になるのも無理はないと感心させられた。
本作には色々な「謎」が出てくる訳だが、その大半には答えは提出されていない。今風にいうと「回収されていない」謎だらけである。一つ一つの謎が魅惑的であるだけに、答えが無いまま最後に放り出されてしまう読者は当惑するばかりである。もっと言うと、読者は当惑の余り自分なりの解釈を並べ始めてしまう。百家争鳴となるわけだ。結果として議論は百花繚乱になるのかもしれない。
例えば一番有名な「回収されていない」謎は本作のラストシーンである。マイルズが死んだのは亡霊の呪いの為なのか、若しくは語り手である家庭教師によって窒息死させられたのか。その点だけでも色々な議論となったと聞いている。本書の解説で松本朗は作者のヘンリー・ジェイムズに関して
「謎に対する回答を与えないことによって、ジェイムズが、ただひとりすべてを知っている作者
としての権威を揮いつづける物語だ」
と語っているのも頷ける話である。
ここで一歩引いた地点で上記状況を眺めてみることは肝要である。考えるべきは「回収されない謎というものに耐えられない我々とは何なのか」という課題設定ではあるまいか。
人間は「結論」や「答え」が好きな動物である。「白黒つける」であるとか「正解は何か」というような言葉は日ごろから普通に使われるし、僕も当然その一人である。但し、実はそこには見逃している点がないだろうか。つまり「結論」や「答え」を求めることが引き起こしている悲喜劇は案外多いのではないかということだ。
「結論」や「答え」を追求することは人間の進化と進歩に大いに役立ってきたと思う。別にそれ自体、悪いことではない。但し、その際には「何かを省く」、「何かを捨てる」という作業も不可欠である。かような作業が無意識に行われたことで「省かれ」「捨てられ」たものの多さにも思いを寄せることも大事なのではないか。もっというと「結論」や「答え」等が存在しえない問題や課題もいくらでもある。その際にどのように我々は問題や課題に対峙すべきなのか。
「ねじの回転」は「答え」を書かない本だ。「答え」がないことの不安を感じること自体が本作を読むということの醍醐味の一つである。居心地の悪さとでも言えば良いのだろうか。
「松本清張の昭和』
「松本清張の昭和」という本は酒井信という方の最近の著作である。松本清張の作品はいくつか読んできているが、本人について何も知らないことに気がついて本書を読む機会を得た。感想は2点である。
1点目。
清張は非常に経済的に困窮している中から出てきた「遅咲き」の作家であったという点を初めて知ってとても驚いた。
本書で描かれる清張の若かりし頃の苦境は経済的なものだけではない。貧困が齎した学歴の乏しさであり、学歴の乏しさが齎した「格差」である。特に「格差」の苦しさが骨身に沁みたことが清張の作品に強く影響を与えたという本書の指摘は説得力があった。清張が描き出す人物像、特に犯罪小説における犯人像にはそのような過去の「格差」に苦しむ経緯が多かったと個人的に思った。それが、犯人たちをただの悪役だけで終わらしていないという効果になってはいないだろうか。そこに清張の温かいまなざしというものが存在している。
2点目。
本書の題名は「松本清張の昭和」である。なぜ著者は「昭和」という言葉を入れたのかを考えることは考えるヒントになる。
上記で清張の困窮を言ったわけだが、それは実は昭和という時代における典型的な人生の一つだったと僕は思った。同じような苦境を無数の無名の方が通り過ぎたという時代が昭和の一時代だったのではないか。それが昭和の一つの本質であったのではないか。そんな問いかけを著者は読者に投げかけていると考えると腑に落ちるものが多かった。
既に昭和を全く知らない世代がどんどん増えていく中で、「昭和の記憶」も当然ながら薄れていく。松本清張を知らず、従い、読む機会を得ない世代も増加するであろう。その中で酒井信という本書の著者は、改めて清張の作品とその背景として聳え立っている「昭和」という時代を、令和の今に再度描くことの意義を強く感じておられたと僕は理解した。
「宮本常一」 木村哲也
宮本常一という方は佐野眞一の「旅する巨人」で初めて知った方である。僕自身は大学で民俗学関係も扱うゼミに所属していた割には、宮本を知らなかった。これは浅学の至りであると反省している。この本は良く売れていると聞く。今の時代に宮本常一が再度脚光を浴びているということ自体が興味深いので本書を読んだ次第だ。
読んでいて強く思ったことは宮本の学問の持つ懐の深さである。宮本の民俗学は「理論が無い」ということで軽んじられていた時期が永かったという話だ。但し、本書はそんな宮本に影響を受けた人達の面々の「豪華さ」を良く活写している。司馬遼太郎、安丸良夫、網野義彦、本多勝一、石牟礼道子、鶴見良行等の様々な分野での第一人者達が宮本の求心力に引き付けられたという事実は重いと言わざるを得ない。個人的には安丸、網野、司馬、鶴見各位の本を漠然と読む機会があっただけに、本書を読んでいて感動すら覚えた。「理論の有無」といったアカデミズムからの批判の虚しさと無力さを感じても良い場面である。
歴史は支配者の行為を追いかけることが多い。それはそれで「政治史」という面では正しいのかもしれないが、歴史とは政治だけということでは全くないということが本書を読んでの最大の感想である。政治史では拾えない無数で無名の人々というものがあり、彼らがその各々の時代で創ってきている「歴史」というものがある。そういう視線を持つことの重要性を嚙みしめるということが本書を読むということであると僕は思った次第だ。