「ねじの回転」 ヘンリー・ジェイムズ 土屋政雄訳
「ねじの回転」というゴシックホラー小説では「解かれない謎」を堪能することが出来る。いくつかの翻訳もある名高い本作を、土屋政雄訳で今回きちんと読了した。なるほど長年話題や議論になるのも無理はないと感心させられた。
本作には色々な「謎」が出てくる訳だが、その大半には答えは提出されていない。今風にいうと「回収されていない」謎だらけである。一つ一つの謎が魅惑的であるだけに、答えが無いまま最後に放り出されてしまう読者は当惑するばかりである。もっと言うと、読者は当惑の余り自分なりの解釈を並べ始めてしまう。百家争鳴となるわけだ。結果として議論は百花繚乱になるのかもしれない。
例えば一番有名な「回収されていない」謎は本作のラストシーンである。マイルズが死んだのは亡霊の呪いの為なのか、若しくは語り手である家庭教師によって窒息死させられたのか。その点だけでも色々な議論となったと聞いている。本書の解説で松本朗は作者のヘンリー・ジェイムズに関して
「謎に対する回答を与えないことによって、ジェイムズが、ただひとりすべてを知っている作者
としての権威を揮いつづける物語だ」
と語っているのも頷ける話である。
ここで一歩引いた地点で上記状況を眺めてみることは肝要である。考えるべきは「回収されない謎というものに耐えられない我々とは何なのか」という課題設定ではあるまいか。
人間は「結論」や「答え」が好きな動物である。「白黒つける」であるとか「正解は何か」というような言葉は日ごろから普通に使われるし、僕も当然その一人である。但し、実はそこには見逃している点がないだろうか。つまり「結論」や「答え」を求めることが引き起こしている悲喜劇は案外多いのではないかということだ。
「結論」や「答え」を追求することは人間の進化と進歩に大いに役立ってきたと思う。別にそれ自体、悪いことではない。但し、その際には「何かを省く」、「何かを捨てる」という作業も不可欠である。かような作業が無意識に行われたことで「省かれ」「捨てられ」たものの多さにも思いを寄せることも大事なのではないか。もっというと「結論」や「答え」等が存在しえない問題や課題もいくらでもある。その際にどのように我々は問題や課題に対峙すべきなのか。
「ねじの回転」は「答え」を書かない本だ。「答え」がないことの不安を感じること自体が本作を読むということの醍醐味の一つである。居心地の悪さとでも言えば良いのだろうか。