「対話」の機能
「わたしの場合、自分を探しているところに、自分が見つからないといったことも起こる。自分の判断力によって探りをいれていくよりも、出会いがしらに自分が見つかるのだ」
モンテーニュ「エセー」の第一巻第十章から。
人と色々と話している際に「自分が思っていること」を言う訳だが、時々自分が「自分でも思っていなかったこと」を話すことがある。つまり自分で「自分の話していること」に驚くというような事態である。モンテーニュが言っている「出会いがしらに自分が見つかる」という話は、そのような状況を指しているのかなと思っているところだ。
僕は「対話」の一つの機能は、そのような点にあると思う。自分とは違う他者と対話していく中で「自分がまだ言語化出来ていなかった考え」を言語化するというプロセスはあるのだと思う。
当たり前のことながら「考え」とは言語化されることによって「考え」になる。言語化されていない段階では、「漠然とした気分」ということなのだろう。無意識という沼の中で形成される「ばくぜんとした気分」が次第に水面に浮かんできて、ぷくりと言語化されること で「意識」されるというようなことは誰もが経験している話だろう。そんな「意識」をモンテーニュは「自分」と名付けたのではあるまいか。
映画「ジョーズ」の原作を読んで
映画「ジョーズ」の原作を通読する機会を得た。「ジョーズ」に関しては、まず原作が大ベストセラーとなり、スピルバーグが映画化したという順番である。映画をノベライズした訳ではない。但し、映画があまりにヒットしてしまった為に、原作の地位はやや弱められたような気はしないでもない。但し、流石にベストセラーになっただけの一冊である。映画とは違った魅力があることに驚いた。感想は二点である。
一点目。言うまでもないが、本作はメルヴィルの「白鯨」を踏まえている。本作に登場するサメは「白鯨」なみの存在感である。即ち、「ある種の神」であり、かつ「ある種の悪魔」である。神と悪魔が共存する話は古今いくらでもある。「白鯨」もその一例であり、「ジョーズ」もその延長上にある。サメ漁師のクイントは「白鯨」のエイハブ船長同様に足にロープが絡まったことで海中に没してしまうという展開は、正しく「ジョーズ」の系譜を示していると言える。
但し、著者は最後にサメに死を与えた点は「白鯨」とは違っている。著者はサメを活かしたままにすることも出来たにも関わらず、である。著者がなぜ、サメが死ぬ展開にしたのかは明らかにはされていない。主人公のブロディに勝利を与えたかったと考えることは次の二点目から導き出されるのかもしれない。
二点目。スピルバーグが原作からばっさり割愛した部分をどう読むかである。それはブロディの妻エレンが、海洋生物学者のフーパーとの行う浮気というストーリーである。その火遊び的な浮気譚は、一見安っぽいロマンスにも見えてしまうが、実は結構読み応えのある話なのだと僕は思う。
物語の舞台は海沿いの観光地である。その観光地には夏になると二種類の人間がいる。一つは、その地元で年中働く比較的経済的に苦労している人達であり、もう一種類は都会から訪れた金銭的に不自由しない観光客である。当たり前ながら、この両者は夏の間、同じ空間にいるものの、全く違った心性を持っている。
エレンはかつては都会側であったが、地元側のブロディと結婚したことで、彼女自身も地元側に「移動」したという経緯である。地元で三人の子供を育てるという地に足の着いた生活に馴染んでいるものの、「都会」を忘れることは出来ない。そこに登場した「都会」から来たフーパーと不倫に陥るのは、そんな彼女の複雑かつシンプルな思いに因るものだと言って良い。
このエレンの混乱ぶりは本作にもそれなりに深みを与えている。ブロディはエレンとフーパーとの情事に直感的に気がついており、そのいらだちは本作にも遺憾なく彩りを与えている。
映画と違い、原作である本作ではフーパーはサメに殺される展開である。フーパーに死を与えたサメも、サメに死を与えたクイントも、共に死んでいく。ブロディだけが勝利者として生き残った場面で原作は唐突に終わり、例えばエレンがその後どうしたのかは著者が描いてくれていない。外部から来た異人達であるサメ、クイント、フーパーが居なくなったあとのブロディとエレンの物語がどうなるのかは十分余韻が残るような気がする。しかし、そこは描かれていない。その「深み」は映画には無い点である。
予想以上に面白い一冊だった。
真にみずからのものとは 「エセー」 第一巻第七章
「他人の財産をわがものとしたことにやましさを覚えながら、遺言によって、自分の死後にそれを返却しようと決めている人々を、わたしはたくさん見てきた。ろくでもないことである。これほど差し迫っていることを先延ばしにして、心の痛みも、ふところの傷みもほとんどないところで、みずからのあやまちを正そうとしても、なんの価値もない。真にみずからのもので支払わなくてはいけないのである。」
モンテーニュの「エセー」第一巻第七章からの引用である。
人間は自分を正当化する動物である。間違ったことをしていて、そのこと自体を自分で認識していても、「将来的にはそれを正すのだ」という形で将来の免罪符を「先約」することで、間違った現在を正当化する。そんなことは自分を振り返ってもいくらでもあったような気がする。「問題先送り」という言葉は良く使われている訳だが、その言葉の本質は「現状を変えない」ことの正当化であると考えると、個人的には腑に落ちた。
「真にみずからのもので支払わなくてはならない」という言葉もなかなか重い。「真にみずからのもの」とは一体何なのか。上記文脈で考えると「自分のお金」という話なのかもしれないが、それを更に考えていくと、そんな簡単な話でもないのかもしれない。無から生まれて無に帰っていく我々は、いかほどの「みずからのもの」を持ち得るのだろうか。そもそもそんなものはあるとうぬぼれていてよいのだろうか。
モンテーニュが語る戦争
「戦争というものはそもそも、良識をそこなっても理屈がとおる、多くの特権を有しているのであって、ここには『他人の無知につけこんで利益を得るようなふるまいはしてはならない』(キケロ)という規則は存在しない」
モンテーニュの「エセー」第一巻第六章の一文である。この第六章の題名は「交渉のときは危険な時間」となっている。和平交渉をしている中で突然奇襲をかけられたというような話をモンテーニュはいくつも例として提示している。
モンテーニュ自身が、かような「戦争には何でもあり」ということに関して同意しているとは思わないものの、「戦争の現実としてそうなっている」ということを淡々と述べているとは言えそうだ。
今の中東だのウクライナだのを見ているとモンテーニュの時代から人間はなにも変わっていない点に驚く。もう少し僕らは学んできたことがあるのではないかと思うことは実は能天気な楽観だったということなのだろう。但し、それがもはや人間の本能なのだとしたら、中々将来は絶望的であるという気もしないでもない。それこそAIに支配して貰った方がよいのではないかという議論に辿り着いてしまうのではないか。本能を超克することはとても難しいからだ。人間のDNAのコードを書き換えないといけないという話でもあろうし。
「JAMJAM日記」 殿山泰司を読んで
書評の雑誌での日記特集を読んだ際に本書の紹介があった。殿山という俳優はいくつもの映画での登場を観てきている。バイプレイヤーとして非常に好きな俳優であることもあり、本書を読む機会となった。
殿山は性格俳優であり、特殊な役柄が多い。どちらかというと悪役が多いのではないかと思っている。そんな役柄を本書にも活かしている。すなわちある種の偽悪的な立ち位置と語り口で自身の日々を綴っている。但し、その「日々 」を見ていると、非常にスマートで教養溢れるダンディーな姿が見えてくるということが本書の醍醐味である。
これは僕の思い込みなのだと思うが、「断腸亭日乘」を思わせるものがあった。世に対して、少し斜に構えながらも、自分自身の嗜好と志向と思考を確固として持ち続ける勁さとでも言えば良いのだろうか。自分自身を世の中に対して「傍流」に置きつつ、その「傍流」から切り取れる「世の中」のある種の実像をしたたかに示していると僕は読んだ。そういう方は映画監督にとっても得難い存在だったのだと思う。それが本書に出てくる溢れんばかりの多数の作品に表れているということなのだろう。
殿山泰司という方は残念ながら他界されてしまっている。こういう俳優はそうざらにはいないと考えると強い喪失感に陥るしかない。
荘子、孫子、モンテーニュの「エセー」、コスパ、AI
モンテーニュの「エセー」の第一巻第五章には勝利の種類について述べている。「武力による勝利」と「奸計による勝利」を比べる場合、「狡猾なギリシャ人」や「抜け目のないカルタゴ人」は「奸計」を良しと する一方で、ローマ人は「武力」を良しとしたという話だ。
これを読んでいて「孫子」も思い出した。孫子は戦わずして勝つことが最上であり、戦って勝つことは勝利の最下等としていた。その意味では孫子はギリシャやカルタゴに軍配を挙げる訳だろう。
これらは平たくいうと「コスパ」という話に収斂するのかもしれない。つまりコストをどうやって削減するのかという話だとすると、これは僕らが普段やっている話と同じとも言える。
ここで僕の敬愛する荘子について、コスパという考え方と荘子との関連をAIに訊いてみた。AIの答えは「荘子的にはコスパ重視の生き方はむしろ不自由である」という話である。
コスパが目指すものは「判断基準は効率・成果、価値とは有益であること、生き方は最適化」である。それに対して、荘子は「判断基準は自然・自由、価値とは無益もまた良し、生き方は解放」である。両者は対立的であるという分析だ。
となると荘子と孫子はかなり違う地点に立っていると考えれば良いということか。面白い話ではある。
「80年代90年代 新しい日本映画の始まりと終わり」 山田耕大・高鳥都
題名の1980年代から90年代に邦画を観ることが多かった。2026年になって本書を読む機会を得た。言及される多くの映画に心当たりがある一方、それ以上に初めて聞く題名の映画も多かった。それなりに邦画を観てきた積りだったが、小さな「お山の大将」だった訳だと反省した。本書を読んでいての感想は二点である。
一点目。ジブリを始めとしたアニメ映画は一切言及されない点に驚いた。素人の映画観客という立場から80-90年代の邦画を考える場合、ジブリのいくつかの作品は外せない。ナウシカやトトロが日本の映画界に齎した影響はとても大きいと個人的にも思っている。それに対して本書ではアニメは素通りである。それは何故かと考えることは頭の体操になる。
実写映画とアニメ映画は創り上げる過程が全然違うのだろうということが僕の結論であった。本書を読んでいる分かることは、対談をされているお二人は「映画」を語っているのではなく、「映画を創っている人間」を語っているという点である。鬼籍に入られた多くの映画人への限りない愛情が本書のテーマと言って良い。その意味では「アニメを創っている人間」とは、全く別の国の人達という整理がお二人の間に為されているのではないか。それはそれで良く解かる気もした。
二点目。その「映画を創っている人間」の群像劇が本書だとすると、実際に描き出されている「群像」とは、見事にどこか破綻している人間模様である。実際、それなりの年齢になっても社会通念からはみ出ているような映画人が多かったことが本書を読んで改めて良く理解した。一体、いい歳した大人が新宿のゴールデン街で殴り合いなどをするものだろうか。
「それが芸術家というものだ」と言ってしまうことは美しい話だ。但し、それが日本において映画をビジネスとして成り立たせることの難しさにも繋がってきたのだと思う。勿論、映画をビジネスとして捉えることの「貧しさ」という考え方はあるし、僕自身もそう感じることも多い。但しサステイナブルに映画を創っていくことも中長期的には大事であることも確かだろう。
「欧米」という死語
ウェブでも出てきている話だが「欧米」という言葉はそろそろ死語になってもおかしくない状況になってきた感がある。「欧」と「米」の違いが鮮明になってきたからだ。「欧」という言葉も、やや十把一絡げである。但し、それはとりあえず脇に置いて、「欧米」という言葉が無意味になってきたことを考えることは、「欧米」という言葉を発明した日本にとって、とても重要になってきたと考えるべきである。
平たく言うと「欧米」とは「白人国家」という意味だったのではないかと思う。「白人であれば考え方や文化、文明が同じだろう」という大雑把な整理の仕方が、長い間日本にとっては有効であったのだろう。もっというと、かような大雑把な整理でもやってこれたという事も示している。
地政学を考えると、マクロとミクロという二つの切り口があるのだと思う。「欧米」とは「マクロ」な切り口だったのかもしれない。但し、マクロな意味でも「欧」と「米」が異質なものになってきたという事が、現在の状況である。ここで試されるのは日本が世界や地政学を今後はどのような視点で切り取るのかという「 知性の創造力」だと僕は思う。その意味でも、そろそろ「欧米」という言葉を死語に追いやらなくてはならないという時期に来てはいないだろうか。
「観客論」とは何か?
「少しかたい言い方をすると殿山泰司はしっかりとした観客論をもっていて、そういう人は東京に少なかったというのが、1970年代だったのではなかったか。」
上記は殿山泰司「JAMJAM日記」のあとがきで大友良英というギタリストの方が書いている一文である。言うまでも無く「観客論」という僕にとっては聞きなれない言葉にはっとしたという話だ。
自分が観客になっている際に「自分はどのような観客であるべきか」ということには案外無意識だった気がしている。勿論、時と状況で「自分の観客としての立ち振る舞い」はころころ変わる訳だが、それにしても、「どのようにころころ変わるのか」という点は一本の筋が通っているべきかなと反省させられたということである。
それにしても「観客でいること」の場面は結構多い。映画やコンサートや劇の観客だけではない。色々な場面で実は「観客」となっていることはあるのだ。例え ば、今の世界情勢に対しても僕は十分に「観客」である。どんな観客になっているのかは我ながら分からないのだが。
映画「主戦場」
先日読んだ「歴史は『強者ファースト』か?」にて本作が紹介されていたので鑑賞することにした。この映画のことは全く知らなかった。従軍慰安婦に関するドキュメンタリー映画である。
この映画を観ていると、「『事実』というものは、結局ある種の『虚構』でしかあり得ない」と強く思わされた。従軍慰安婦という歴史に関して、これだけ「解釈」「理解」「思い込み」が分かれる様に驚かされた。
本来「歴史」というものは「無味無臭な事実」で出来ていてしかるべきだと思うのであるが、そんな自分自身の「思い」は、「想い」でしかあり得ず、しかも能天気で滑稽すぎるくらい楽観的な「想い」なのだなと反省せざるを得なかった。当たり前のことではあるが、ある一つの事象を巡る「事実」とはその事象を見る見方によって全く異なる「事実」となっていく。中国に「群盲、象を撫でる」という古い言葉がある。まさに本作は「自分には物事が見えている」と思っている多くの人達が「従軍慰安婦」という巨象を撫でている様を描き出す映画だとも言える気もしないでもない。
僕個人としては、本作を観ていると、歴史修正側(もしくは歴史否定側)の発言を聞いていて、とても居心地が悪かった。もっと言うと、とても腹が立った。
但し、告発しているリベラル側の発言が全て正しいのかどうかについて判断が出来るだけの知見と材料を僕が持っているわけでもない。従い、自分のそのような「想い」は、情緒に流されたものではある。本作の登場人物は自分にとっての「事実」を語っているのだろう。但し「自分にとっての事実」は、時として「他人にとっては虚構」であるということの繰り返しが本作の異様な緊張感に繋がっている。
この映画には賛否が激しく分かれることは予想できる。「中道」にいることを許さない映画であると言ったら言い過ぎなのだろうか。