くにたち蟄居日記 -2ページ目

ドラマ「不適切にもほどがある」 

評判だったドラマを漸く観る機会を得た。大変笑えた。

 

 このドラマを一番笑える世代は2025年現在で50歳後半から65歳だと思う。理由としては舞台の半分を占める1986年をリアルタイムで体験した上で、2025年の現在にそれなりに組織に参加していることで今の組織の状況が分かる方が、一番このドラマを切実に観ることが出来るからである。僕もその一人だ。

 

 このドラマの主人公は1986年の「昭和の教師」である。従い、このドラマは「1986年の男が2024年にタイムトリップする」という話である。それを観ている我々観客は、1986年の男の「視点」や「行動」を、過去の記憶のおかげで、懐かしさを込めて理解出来る。但し、容認は出来ない。従い我々と主人公はいわば対立関係にあると言って良い。

 

ところが主人公は2024年での生活が長くなるにつれて、マインドが2024年に変容していく事になる。最終回で自分の時代、すなわち1986年に戻った主人公は、2024年のスタンダードで1986年を眺めているようになってしまっている。

 

ここにおいて、実はこのドラマは「2024年の男が1986年にタイムトリップする」という話に真逆に転換してしまっている。主人公と我々の目線はぴたりと合うようになり、対立は解消されることになる。この我々と主人公との関係の転換の「軽やかさ」と「鮮やかさ」が本作の面白みなのだと思う。我々が感情移入する相手も、かような「軽やかさ」に従って、ころころと変わってしまう。もしくは主人公に対する感情移入の中身がころころ変わってしまうと言っても良い。

 

それにしても昭和は遠くなってきた。1986年から2025年の現在を想像する事は難しかったと今でも思う。1986年以降、バブルもあり、大震災も2回あり、原発事故まで起こしてきたのが日本である。2024年の我々の視点には、かような経緯が既に含まれているということにも気がつかされた。

映画「ちひろさん」 

 なんとなく鑑賞する機会があったので、鑑賞した次第である。

 

 観ていて強く思わされたのは、カーソン・マッカラーズの「心は孤独な狩人」という本である。その本は1940年に発表されたアメリカの小説であり、2020年には村上春樹が翻訳した。その本では耳が聞こえない男性が主人公である。小説の様々な登場人物は耳が聞こえない主人公に自分の話を語り続け、主人公は主に読唇術でそれを理解する。その繰り返しの中で主人公は「聞き手」として、様々な登場人物の心を癒していくという話だ。「ちひろさん」の中で、ちひろという主人公はそれに近い存在に見える。映画においても様々な登場人物が彼女に接することで救われていく場面が繰り返される。

 

 但し本作は決して「癒し」をテーマにしている訳ではない。むしろちひろという方が深めていく「孤独」がテーマであり、その「深めていく」様が映画を成立させている、そんな厳しい映画である。そう観ることが本作を鑑賞するということだ。

 

 ちひろは幼少期から孤独が始まっている。孤独であることに慣れている。「馴れている」という言い方の方が正しいのかもしれない。映画の終盤でちひろは「あなたならどこに居たって孤独を手放さずに済む」と人に言われてしまう。ちひろが「孤独」なしには生きていけないということを、さらりとえぐりだす優れたセリフだ。

「孤独なしに生きていけない」ということは僕にはとっては皮膚感覚でよく分からない。ばたばたと人と関わってきた自分の来し方を振り返っても、なんとなく「孤独」から逃げてきたような気もしないでもない。そんな「逃げ」の姿勢では、「孤独」の苦味と深みは分からないということだろう。

 

「心は孤独な狩人」の耳の不自由な主人公は最後は自殺してしまう。「ちひろさん」の最後は、酪農の農場で明るく働くちひろの姿で終わる。ちひろが死んでしまいそうな気がしていただけにほっとさせられたが、それでもちひろの「孤独」が終わった訳でもない。燦燦とした太陽の下で牛の世話をするちひろが抱える孤独はきっと続くのだろう。なにせ「孤独」なしには生きられない方であるのだから。

 

職場の身だしなみ  遠心力と求心力

 今朝(2025/12/1)の日経に「職場の身だしなみ 自由の風」という記事があった。従来、ともすると厳格だった「身だしなみルール」を見直す組織が増えてきたという話である。記事では従来の考え方について以下のような整理も行っていた。

 

「チームワークや協調性を重視する日本では、身だしなみについて目立たないことをよしとする保守的な風潮がある。『黒髪は真面目』といった固定観念も根強い。『自分がどう見られたいか』より、『人からどう見られるか』を重視することは積極性や自主性を損なうことにもつながる」

 

僕には身だしなみが自由になると本当に積極的になったり自主性が増したりするのかどうかは今一つ良く分からない。それは僕自身が昭和62年に会社員となり、当然のように背広とネクタイを着用してきた永い時代があったからだなと思って苦笑しているところだ。

当時、カジュアルデーが導入されて、服装に困っていつもゴルフウェアーで来ていた会社の先輩も思い出した。自由な服装は、「自分で服装を考えなくてはいけない」点でおじさん達には面倒だったのだ。但し、そこで「考える」という癖をつけることも大切だったのだろうとは今にして思う。

 

 一方で「制服」や「ユニフォーム」を喜んで着用する場面もある。サッカーや野球のファンは競技場や、時には飲み屋で、ユニフォームを着て大応援している。同じ人が、平日の昼間は自由な身だしなみを楽しみ、夜や休日になると統一されたユニフォームを着て、一体感に浸っているという訳だ。

 

 「自由な身だしなみ」を「組織からの遠心力」としてみると、「ユニフォーム」は「組織への求心力」とされるのかもしれない。要は、人間とは時に遠心力が働き、時には求心力に従う。そんなブレやゆらぎがある生物なのかもしれない。

 

 遠心力が積極性や自主性を齎すという良い面があるにしても、遠心力の危険性というものも常にある。組織が遠心力でバラバラになってしまうという事態は、会社等に限らない。国というレベルでも有ったのが人間の歴史である。加えて、現在では地球レベルで遠心力がはたらき始めていないだろうか。「格差社会」というのも遠心力によって、更に格差が開いて行っているのではないかと僕は思う。

 

 一方で求心力とはどうなのか。遠心力の定義を裏返すと「消極性や他律性を齎すもの」なのかもしれない。それが正しいとしたら、それは何に繋がるのか。

求心力に取り込まれる際に怖いのはえてして思考停止になりかねないという点だと思う。強い力で引っ張られている時には何も考えなくても良いわけだ。制服を強要されればカジュアルデーの際の服選びの面倒も無くなる訳である。ぼんやりした一体感に包まれてなんとなく気持ちが良いのかもしれない。

それが求心力の危険性なのだと僕は思う。

 

遠心力と求心力は繰り返し交互にやってくる。どちらも良い面も悪い面もある。避けて通れない話だ。だとするなら、少なくとも「悪い面」を良く踏まえていることが大事なのだと思う。おそらくはこれからは求心力が強く働きかねない時代になるのではないか。その際の思考停止をどうやって避けることが出来るのかが人間に問われていくのだと僕はぼんやり考えている。

食料自給率と電力自給率

本日(2025/11/28)の日経新聞のコラム「大機小機」に以下を読んだ。

 

「人型ロボットが人類と一緒に働く世界に関して、何がイメージできるのか・それは人類にとってのユートピアへの入り口かもしれないものの、ロボットを含めた『人口』の急増を招き、深刻なエネルギー問題に結びつく。この危機的状況に対応するには、核融合技術の実用化が必須だろう」

 

 興味を感じたのはロボットは「人口」の一部を構成するという見方である。人口に関して考えてみると、多くの国が人口減が問題になっている割には世界全体で見ると人口増が色々な将来的な課題を突き付けつつある。人口減が良いのだか悪いのだかも俄かに判断しにくい時代になってきたと個人的には思っている。

 

 AIが人間の仕事を奪い始めているという趣旨が、今回のコラムの趣旨であり、その意味でロボット=AIを人口にカウントすることには頷ける。AIの課題は電力需要である訳だが、となると、電力問題は食料問題と同じ地平線に出てきたと考えるべきにも見える。従い、核融合という、新しい農業なのか養殖なのか培養肉なのか、が必要という話な訳だ。「食料自給率」と同様に「電力自給率」が更に議論されるようになるだろう。偶然かもしれないが、同じく今朝の日経新聞に核融合の記事があった。2035年に実証発電開始を目指しているとのことだ。

 

 食料は直ぐに食料安保という話に結びつく時代である。となると、「電力安保」という話も今後増えていくと考えるべきなのだろう。既に(AIに限らず)人間はあまりに電力に依存した生活になってしまっている。200年前までは電力無しでやってこれたのも人類であるのだが。

 

 それにしてもAIのエネルギー効率とはどの程度なのか。よく「牛を1kg太らせるために穀物は○○kg必要である」という話を聞く訳だが、同じような指標がAIなり電力なりに導入される日が来るのだろうか。

「孤独な散歩者の夢想」 ルソー

 決して分厚い本ではなく、むしろ少な目のページ数なのだが、読み終わるまでに結構時間と労力を要した。これは第一義的には僕の読書力の後退を意味していると思っている。但し著者のルソーにも責任の一端はあると言いたい。

 

 本書は題名通りルソーの散歩時の色々な思索を纏めた一冊である。当時の60歳台は十分に老齢だったろう。人生の最終盤を迎えた老人の郊外の散歩は穏やかなものであろうと想像していると本書を読んで面喰うと思う。本書でのルソーの語り口は時に粘着質丸出しで有り、自分の性格に関する自分なりの分析に満ちている。3百年前の孤独な老人の「自分語り」を現代の僕が理解できるとも思えない。但し、それでもかような語りを読んでいるとルソーの落ち込んでいた自意識という名前の監獄のありようが見えてくる。

 

 

 本書を読んでいて、徒然草を思うことがしばしば有った。例えば徒然草の有名な冒頭である「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかいて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とはルソーの心境に似ていそうな気がしないこともない。

 

 若しくは徒然草75段冒頭の「つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるるかたなく、ただひとりあることのみよけれ」というような言葉はルソーが聞いたら大きく頷くのではないか。

 

 そんな親和性をルソーと兼好との間に感じなくもない一方で、ルソーが時に見せる自意識過剰の嵐に兼好が共感したのかどうかを考えることは面白いものだ。兼好も一見は枯淡の心境を見せている一方で、その旺盛な知識欲や下世話さはルソーに近いものも感じると個人的には思った。

 

 東西を問わず、或いは時代の前後を越えて、自意識人は自意識に苦しむということなのかもしれない。兼好の「ものぐるほし」とルソーの本書でのいくつかの「呪い」は同じ地平に立っていると考えると、本書によってむしろ徒然草に対する見方が少し変わった気がする。

読書関係の特集雑誌や自己啓発本の多さとは

 それにしても読書関係の自己啓発本や雑誌の特集は常に多いと書店に行く度に感心する。それほどまでに本を読むということに対する関心や、もはや「憧れ」と言っても良い程の熱意がなぜあるのかを考えることは、一つの頭の体操になる気がしている。

 

 読書関係の一大路線は「優秀な経営者の読書」である。ビジネス雑誌等で、著名な経営者が自分の愛読書を開陳している風景は良く見るものだ。優れた経営者ほど読書にも時間を割いているというストーリーである。

 

 優れた経営者が本当に読書家なのかどうかは僕にはよく分からない。一方で「優れた経営者は読書家である」という、やや謎めいたコンセンサスが漠然と形成されているような気はしている。

 

 考えてみると昔は何巻にもなる百科事典を買う人は多かった。百科事典のトップセールスマンという方も存在した記憶もある。一方で買った百科事典は往々にしてインテリアとしての飾りに終わったという話も多い。この話の本質を考えてみると「知的に優れる」ということのステータスの高さというものがあるように思われる。トップセールスマンはかような憧れにどのようにつけ込むのかということが腕の見せ所だったろうと僕は想像している。

 

 その昔からの流れが、いまの「経営者の読書」にも通じていると思う。経営者に「自らが知的である」ように見せたいという気持ちがあってもおかしくない。また、読者側はそんな「知」を手軽に身に付けることで出世や儲けに繋がると期待して、本を読む前にまずはかような特集雑誌や読書系自己啓発本を読むのかもしれない。

 

そんな姿を想像してなんだかおかしくなった。勿論僕もそのような読者の一人である訳だ。

ルソーと兼好法師

 

「わたしたちは生まれて競技場に入り、死んでそこを去る。競技の終わりになってからもっとよく車をあやつる術を学んでなにになる?いまはただどういうふうに退場すべきかを考えればいいのだ。老人の勉強は、老人にもまだ勉強することがあるとすれば、ただひとつ、死ぬことを学ぶにある」

 

 ―「孤独な散歩者の夢想」― ジャン・ジャック・ルソー

 

 ルソーがこれを書いたのは64歳くらいだ。読んでいる僕は2025年11月17日段階で60歳である。18世紀の欧州の60歳台と21世紀の日本での60歳台は到底同じではないだろう。ではあるが、一応親近感を持って、若しくは出来るだけ親近感を持とうとして、「孤独な散歩者の夢想」を読んでいるところである。本を読む際に、どれだけ親近感が持てるかどうかは結構大事なのだと思う。勿論、違和感だらけの読書というのもある訳だが、かような読書はしばらくたつと忘れてしまう。僕の場合には、であるが。

 

 人生とは競技場なのだろうかと思っているところだ。何の競技なのかというと、ルソーは車による競争を考えているようだ。映画「ベンハー」の中の戦車レースのような競技ということなのだろう。あの戦車レースは生命が掛かる危険な競技だと映画の場面を思い返した。人生も一応生命を掛けながら過ごしていくという面はあるわけだなと少し納得し、親近感を覚えた。

 

 「死ぬことを学ぶにある」と読んで、兼好法師を思い出した。実際、上記ルソーの言葉を、そのまま「徒然草」においても違和感が無いのではないだろうか。東西の老人たちが考えることはおなじようなものなのかもしれない。その中に僕もそろそろ入ってくる。

 

 まだ新参者ではあるが。

「殺人狂時代」 岡本喜八・仲代達矢

 

 

 

 

仲代達矢追悼の記事で本作を知った。監督の岡田喜八も特集番組で観た経緯もあり、本作を観るきっかけとなった。なるほど、カルト映画である。感想は二点だ。

 

 

 一点目。他の方の指摘もあったが、本作は衣笠貞之助の「狂った一頁」に強く影響されていると判断した。映画冒頭の監獄の場面は「狂った一頁」の病院の風景にそっくりである。

 

 なぜ岡田が「狂った一頁」を踏まえたのかを考えることは容易ではない。先ほど本作を「カルト映画」と言ったが、「狂った一頁」こそは日本のカルト映画の走りである。まだ「カルト映画」という言葉が無い時代に、衣笠や脚本を担当した川端康成が何を狙って「狂った一頁」を作ったのかは僕にして良く解らない謎である。但し、岡田は何か期するものがあって「狂った一頁」をなぞったのたということなのだろう。若しくは岡本は「本作の登場人物は全て狂人です」とでも言いたかったのかもしれない。それほど、「殺人狂時代」の登場人物は各々異常な人間ばかりである。

 

 

 二点目。仲代達矢の怪演ぶりは見ものである。

 

 仲代はシリアスな役が多いということが僕の理解である。彼の作品を多く観た訳ではないので、僕の思い込みだとは思うのだが、それでも一連の黒澤映画での仲代を観ていると、そのように思わざるを得ない。従い本作のような、かなりの乱調な映画の中で、かなりに乱調な主人公を演じている仲代はとても新鮮であった。

 本作は、しかし、公開後すぐに上映打ち切りとなったという。僕としてはかような映画会社側の判断には頷けるものはある。当時の観客が本作をどう観たのかは興味深いが、いずれにせよ否定的な観客も多かったのではないかと素直に思うからだ。カルト映画というものは、えてしてそのようなものである。早すぎた映画であるとも言えるだろう。

 

 但し、残念なことは仲代がこの後にどのくらい「怪演」をする機会があったのだろうかということだ。これも僕は知見が少ないので解らないのだが、これ以降仲代の「怪演」はさほどなかったのではないかと想像している。

 

 

 ということでかような映画が1967年に制作されたということには驚いた。60年近い前の話であるのだ。

 

 

座禅会にて   心の暴力性とは

 地元の禅寺では月に一回、日曜朝の座禅会をやっている。僕も昨年から参加している。一年の春夏秋冬の早朝に座禅をやっていると、季節の移り変わりを感じることができるものである。ともすると季節感を見失いがちな日々の中で貴重な時間になっているのかもしれない。

 

 座禅の後は10分程度「法話」を聴くことになっている。先日の会では「安心」がお題であった。「あんじん」と読む訳で、仏教における心の有り様という法話である。

 

 仏教や、荘子などの道教では「安心」であるとか「無心」という言葉が良く使われると僕は思っている。それらを見ていると「心」とは「安んじる」だとか「無い」ことが肝腎なもののように思えてくる。逆に言うと、安んじていない「心」だとか、消せない「心」というものへの、ある種の怖れのようなニュアンスも読み取れる気がする。端的に言うと「心」とは非常に猛々しいもので、なんとかその心を抑えなくてはならないという話ではないだろうか。

 

 「心」だとか「こころ」と綺麗に字で書くと取り合えずは「大切なものだ」というような気がする。但し、なぜ大切にしなくてはならないのかということを考えていると、やはり「心」の持つ暴力性という見方にも繋がるのではないか。

 

 自分の「心」というものは自分でコントロールすることは案外難しい。「案外」といま言ったが「当然」という言葉に代えても良い気もする。大多数の人は「自分の心」がままならない事に苦しんでいるのではないか。それはいわゆるメンタルヘルスだけの問題ではなく、もっと大きな範疇において、そうではないかと思っている。シェイクスピアであるとか、もっと古いギリシャ悲劇等は皆、「ままならない自分の心に苦しむ人々」で食ってきているではないか。仏教の「煩悩」という言葉も同じ話だ。

 

 動物にも「心」はあるだろうが、人間という動物は特に強く「心」を持った生物だと僕は思う。その「心」によって驚くほどの進化と繁栄を得た一方で、諸刃の刃として、人間に強く突き刺さるものにもなっている。時には致命傷にもなるような刺さり方で。

 

仏教や老子や荘子は、それに早い段階で気がついたという話なのではないだろうか。

ルソーにとっての邪魔もの

「肉体はわたしにとってはもう邪魔ものにすぎず、障害となるばかりである。だからわたしはもういまから、できるかぎり肉体から離れていく」

 

  ―「孤独な散歩者の夢想」― ジャン・ジャック・ルソー

 

上記言葉をルソーは64歳ごろに書いている。歳を取るということは、自分の体が自分の意に反するということなのかもしれないと思ったところだ。言い換えると、歳を取って色々と体にガタが来ているという現実があるにも関わらず、それを認めようとしない心の動きがあり、従い両者の間で齟齬が生じるということなのだろうか。

 

 言い換えるとこうなる。

 

「心はわたしにとってはもう邪魔ものにすぎず、障害となるばかりである。だからわたしはもういまから、できるだけ心からはなれていく」

 

仏教の言う「無心」とはかような心境なのかもしれない。