くにたち蟄居日記 -7ページ目

映画 「ロング グッドバイ」 ロバート・アルトマン監督

 

 

 脚本はリー・ブラケット女史であると聞いて驚いた。

 

 リー女史は古くは「三つ数えろ」や「ハタリ」の脚本で知られている。僕は彼女の遺作となった

「スターウォーズ 帝国の逆襲」で彼女を初めて知った。遺作当時は彼女は癌を患っており、

ご自身の死を見つめながら書いたのだと想像している。そんな背景もあってか「帝国の逆襲」

は一連のスターウォーズ作品の中でも異色の作品である。彼女の脚本が最終的にどのくらい

採用されたのかには諸説あるらしいが、取り合えず出来上がった「帝国の逆襲」は妙な暗さが

あり、シリーズの中でも「人間味」が飛びぬけて有ると僕は思っている。村上春樹の「帝国の

逆襲」が一番気になっていると書いていた。

 

 さて、そんな脚本家を擁して出来上がった本作はどうか。

 マーロウは、それこそ「三つ数えろ」で演じたハンフリー・ボガードのイメージが強かっただけに

本作のマーロウは新鮮である。冒頭のキャットフードに苦労しているマーロウには笑ってしまい

ながらも、そのうらぶれた立ち振る舞いには妙なリアリティーがあった。

 

 映画の筋もチャンドラーの原作の設定こそは借りているものの、独自の展開である。ラスト

シーンに至っては、話の筋においてチャンドラーの原作と全く異なっている。従い、これは

チャンドラーとは関係ないマーロウの物語だと理解せざるを得ない。

 

 チャンドラーから離れて再度本作を考えるとどう見えるのかが問われる映画なのだと思う。

個人的には前記した「うらぶれ感」が常に通奏低音のように響いていて、ある種の心地よさも

あった。カルト映画に分類したら、監督のアルトマンは怒ったのだろうか。

「おいしいとはどういうことか」 中東久雄

 

先日銀閣寺近くの「草喰 ながひがし」にお伺いしたことで本書を読むきっかけとなった。

二十年来行きたいと思っていたお店の昼食は大変楽しかった。

 

 本書を読んでいて「草喰」という言葉の意味が良く分かった。端的に言うと、メインディッシュは

あくまで季節の野菜であり、時折食材として使われる肉や魚は野菜を引き立たせるための脇役

であるということだ。ここにおいて「季節の食材」というものを強く考えさせられた。

 

 「季節感」というものがある。僕らは何に「季節」を感じているのか。気温、風、空気の匂い等の

変化から僕らは季節を読み取るすべを持っている。加えて、食材の変化という「舌で感じる

季節感」も非常に重要である。特に季節の食材が揃っている野菜類から感じる季節感は

今なお強いものがある。

 

 「季節感」は何の為に生じているのか。「風流」等の暢気な話ではないと思う。人類にとって

季節感を持つ事は死活的に重要だった時代が過去に永くあったのだと思う。四季の変化の中

で人は「次に来る季節」に対する準備を常に強いられていたはずだ。本書においては植物が

いかに次の季節の準備をしているのかについて言及されているが、それは人間も同様

だったのだと思う。その意味で季節感を確りと持つ能力は大事だったろうし、野菜をきちんと

味わえる能力も不可欠だったろう。従い、野菜を味わう事は本当に重要だったに違いあるまい。

 

 というような事を考えさせられた「なかひがし」での昼食であり、本書であった。大変勉強

になった。

「野いちご」 イングマール・ベルイマン

 

 

 

深夜バスの時間待ちの間に映画をダウンロードしたIPADで鑑賞した。便利な時代ではある。

 

 アマゾンの他の方のレビュー等を拝見していると、本作に対して明るめの感想が多い気がした。

孤独だった主人公の人間性が復活していくようなご意見である。それらに対して僕はやや

違和感を覚えているところである。僕にとっては本作は終始不気味なイメージを受け続けたからだ。

 

 まず冒頭の主人公の夢が不気味なイメージに満ちている。多くの方がダリの絵を思わせる

ようだとコメントされていたが、全く同感である。秒針の無い時計や死体の出方は、実際にダリが

参加したとされるブニュエルの「アンダルシアの犬」やヒッチコックの「白い恐怖」を思わせるものが

あった。ダリは本作に直接関与していないと解しているが、ベルイマンが影響されていたとしても

おかしくない。

 

 それ以降のエピソードも素直に観ることは僕にとっては難しかった。敢えて言うなら主人公の

家政婦だけは、逞しくて健康的なイメージを受けたが、後の登場人物は全て妙な影を背負って

いる。旅の道連れとなった三人の若者も、一歩引いて観ていると案外とこの世の人ではない

ようにも見える。そもそも、主人公が本当に生きているのかどうかも分からない。冒頭の段階で

主人公が死に臨んでおり、その前の「胡蝶の夢」が本作ではないかと考えることも出来ない

だろうか。

「ナイン・ストーリーズ」 サリンジャー  柴田元幸訳

 

 

40年ぶりにサリンジャーを読み返している。還暦になってサリンジャーを読んでいる人という

のも、やや気持ち悪いと思われる方もいる気がする。但し僕自身が面白く読んでいることは、

少なくとも僕にとっては事実であり、真実である。

 

 本書を読んでいて感じたことが一つある。9つの短編の中で感情移入出来る作品と感情移入が

難しい作品とに分かれているのではないかという事だ。

 僕が感情移入が難しいと思った作品は冒頭の「バナナフィッシュ日和」と最後の「テディ」である。

つまり感情移入出来た作品は残りの7作であるということだ。

 

 感情移入出来る作品は中々多岐に渡った内容ではあるが、共通している部分があると僕は

感じた。言葉にすると安っぽいのだが「人の哀しみに寄り添った作品」であるという点である。

洒落てウィットに富んだ会話を煌めかせながらも、じわりと底光りしている人間の哀しみという

ものをサリンジャーはとても上手に掬い取っている。その掬い取る「手さばき」に見とれてしまい

がちだが、より大事なのは「掬い取っているもの」であることは言うまでもない。サリンジャー自身

の戦争体験を含めた「豊かな哀しみ」が漂っている。

 

 一方で感情移入が難しかった2作はどうなのか。これに関しては読んでいて「突き放される」

ような思いしか僕は感じなかった。2作ともに主人公の死で終わる「突き放し」は読者に対して

不親切であるとさえ言えると僕は思う。但し、そんな「不親切さ」がサリンジャーの選んだ

隠遁生活に繋がったのかもしれない。その程度の感想しか僕には持てなかったのだが、

それはあくまで僕の読み込みの力のせいでもあるとは思っている。

「わたし、山小屋はじめます」 小宮山花

 

 

著者及び本作が紹介されている記事を新聞で読んだことで本作を手に取るきっかけと

なった。

 

 著者は山小屋の管理人である。僕自身は山登りは殆どやった経験がなく、山小屋に行ったことは

僅かに富士山登山の際にあっただけである。従い知見が極めて乏しい中で本作を読んだ訳

だが、十分に面白く読めた。

 

 本作を読んで山小屋での生活は苦労も多いだろうが、それを超える良さがあるのだろうと

思う方は多いと想像している。それは「下界」での日常生活を暮らしている大多数の人にとって、

山小屋という「非日常」に憧れるであろうというシンプルな話である。この「日常」と「非日常」

という補助線は本作を読むに際して非常に重要だと僕は思う。なぜなら著者にとっては、山小屋

の管理と生活は既に十分に「日常」であるからだ。書き手と読み手の「日常」と「非日常」の

違いが本作を読むということだと僕は考える。ここで「書き手」を山小屋の管理者とし、

「読み手」を登山者だとすることも可能である。僕らは本書を読むことで、登山者と同じ視点と

視線で著者を眺めることになるからだ。

 

 結局「山小屋」とは何か。異なる「日常」を持つ人たちが一瞬すれ違う通過点の一つではない

のか。であるがゆえに、そこには「一期一会」という言葉が似合う「場」が現出しているのはないか。

そんなとりとめの無い事を、下界にいる僕はぼんやりと思っているところだ。

「ベイビーガール」 

 

本作の監督は本作を「アイズワイドシャット」に対するANSWERだという言い方をしていると

聞いた。1999年のスタンリーキューブリックの遺作に対して25年後にANSWERを作ろうと

考えた監督の「息の長さ」や「執念」には恐れ入るしかないが、いずれにせよアイズワイド

シャットの主演だったニコール・キッドマンの存在と意向が無ければ本作は成立しなかったに

違いない。

 

 かような経緯にも惹かれるが、一方でニコール・キッドマンが自分の「老い」をさらけ出している

点は、アイズワイドシャットには有りえない要素である。アイズワイドシャットでのニコール・キッド

マンの美貌振りは今見ても凄いが、それを打ち壊すような本作への出演は、ある種の女優魂

の在り方を示唆している。個人的には原節子にアイズワイドシャットと本作を見せて、どう思う

のかを聞きたいくらいだ。原節子が自分の老いを完全に「封印」したのに対し、ニコール・キッド

マンの「開封」ぶりは極めて対照的である。

 

 ニコール・キッドマンはアイズワイドシャットの際には当時結婚していたトム・クルーズとの共演

だった。二人はその後離婚した訳だが、そういえばトム・クルーズも1986年公開のトップガンの

に出演し、その34年後に続編に主演を再度張った。トム・クルーズは決して自分の老いを

出しておらず、引き続きのタフガイを謳っていたと僕は解している。かつての夫婦がお互い

別々の方向に歩んで行っていると、ちょっと感慨を覚えた。

 

 ところで一つ言い忘れた。ニコール・キッドマンの美貌振りはまだまだ健在である。

「銀河鉄道の父」 

 

 住んでいる国立市で開催されたバリアフリー映画会で本作を鑑賞した。バリアフリーとは例えば

邦画であっても日本語に字幕が付き、かつ画面の状況をナレーションで伝えるという上映の方法

である。初めての体験であったが、特に違和感は無かった。

 

 ところで本作である。各種のレビューを見る限り肯定的なものが多かった。但し、僕としては

若干期待外れであった。

 

 出演者はいずれも好演している。特に宮澤賢治の妹のとしを演じた森七菜はかなりの迫力

を持って迫ってくるものがあった。誰しもが言うが、彼女が認知症を患った祖父役の田中泯と

対峙する場面は本作の中の白眉である。

 

 問題は上記が白眉になっている点だと僕は思う。本作では、そのとしが亡くなる場面や、

ほかならぬ賢治自身の最後等、際立った場面が多いのだが、実は多すぎるきらいがある。

賢治の臨終に際して役所広司が「雨ニモ負ケズ」を唐突に暗誦する場面等も、ちょっと感動

の押し付けがましさを僕は感じてしまった。かような「感動的な場面」の連打が、結果として

本作の本来の感動性を薄めてしまったのではないか。加えてエンドタイトルの主題歌も

僕にとっては余計である。折角、その前に銀河鉄道の綺麗な場面を静かに映し出した

だけに、エンドタイトルは極めて静かな音楽、ないし無音の方が余韻が残ったのではないか。

 

 繰り返すが俳優は好演している。従い、僕としては惜しかったとしか言いようがない。僕の

この意見は多分に個人的なものであり、違和感を覚える方も多いとは思うが、正直に

述べた次第だ。

「アンネフランクと旅する日記」 

 

 住んでいる国立市のイベントで本作を鑑賞する機会を得た。自分で探す映画にはどうしても

自分の知見の限界がある。従い、他人が選ぶ映画を白紙の状態で観ることには結構意義が

あると思うようになってきた。

 

 本作ではアンネフランクの日記を題材とした第二次世界大戦の際のホロコーストと、現代の

欧州の難民問題を上手に重ねている点が僕には新鮮だった。僕にとって「アンネの日記」とは

過去の歴史の「証言」だとしか理解していなかったが、現代の難民問題に重ねると「アンネの

日記」とは「過去の証言」などではなく、「現代の叫び」であると読めることが初めて解った。

 

 特に本日(2025年6月)段階で、ユダヤ人国家であるイスラエルが行っているガザやイランとの

紛争を観ていると、本作を観る角度も色々と変わってきたと思わざるを得ない。本作が主張する

とてもストレートな問題提起は、いまやユダヤ人にも突き刺さりつつあるのではないか。いずれ

にせよ、日本にいると見えてこないものは多いのだろうとため息が出てきてしまう。

 

 こういう映画を造るだけの歴史素材は日本にもあると思う。過去の振り返りを現代の問題に

結びつけるような作品が、もう少し日本で制作されても良いのではないかということが最後の

素人感想であった。

「フラニーとズーイ」

 

 

久しぶりに読み返した。サリンジャーの作品の中でも僕にとっては一番手に取る機会が多かった

作品である。手に取っていた時期は随分前であり、そうこうしているうちに僕も還暦を迎えた。還暦

の男が本作を手に取っている風景は二十歳代だったころにはピンと来なかったことも思い出して

苦笑した。

 

 「フラニー」について。フラニーとその恋人レーンとの間の話の噛み合わなさは相変わらず

見事である。レーンのスノッブ振りは読んでいて笑ってしまう訳だが、対するフラニーのスノッブさ

も相当なものだ。そのスノッブな二人の違いは読みどころであるし、かつ「ズーイ」へと渡る

「橋」である。

 レーンは自分に素直であるし、おかしいくらい鈍感である。一方でフラニーは一筋縄では行か

ない。彼女は自分がスノッブであるという明確な自覚があり、かつ「スノッブであるという明確な

自覚がある」ことが更なるスノビズムに繋がることも確りと理解している。そんな「無間地獄」に

落ちていくフラニーの姿に読者は大いに共感させられる訳だが、「共感している自分はどうなのか」

という問いかけも突き付けられることが本作を読むという事である。かような感情移入が

本作の仕掛けだ。

 

 一方で「ズーイ」はどうか。「ズーイ」ではややキリスト教を中心とした宗教に傾いた話の

展開ゆえ、少なくとも日本人にとっては感情移入は簡単ではないと僕は思う。但し、本作は

「シーモアの喪失」がテーマであり、そこに立ち位置を据えれば案外と素直な作品なのかもしれ

ないと今回思った次第だ。特にシーモアという長男を亡くした母親であるベシーの心の有り様

は本作の読みどころである。

 

 それにしても21世紀の現在の若者が本作をどう読むのだろうか。それが最後の興味点

であった。

 

 

 

「マイニューヨークダイアリー」

 

 

原作を読んだことで本作を鑑賞する機会となった。

 

 原作からかなり離れた映画となっている。全く違った別々の作品と言ってよい。特に「ハプワース」

を巡る出版中止の話は原作の大きな「事件」だったが、それが全く映画に出さなかったという点は

映画を製作する側のある種の「決意表明」だったのではないかと思った。

 

 原作と違うからといって映画がダメであるという積りは毛頭ない。原作通りではない映画は

山ほどある訳だし、むしろ原作通りの方が稀であろう。その意味では本作は原作の設定を借りて、

原作とはまた別の作品を仕立てているだけである。その点は違和感は無い。では別の作品と

なっている本作は僕にとってはどうだったか。

 

 全体に薄味であると僕は思った。いくつかのエピソードが出てくる訳だが、一つ一つをもう少し

深堀できる余地が残ったままで終わっている気がした。映像はシャープで非凡だっただけに

語られる「物語」をもう少しブラッシュアップされていればと勝手に思った次第である。原作者の

本作に対する感想も聞いてみたい。

 

 シガニー・ウィーバーは堂々たる存在感を示していた。もはや大女優である。