「小林秀雄の眼」 江藤淳
地元の古書店で購入した。中東に専門性を持つ、志の高い古書店である。移転直後の新装開店には客がつめかけていた。
本書は著者の江藤淳が小林秀雄の著作の中から数文を選び、それに対して江藤自身のコメントや解説を付すという作りになっている。そう言うと別に普通のありがちな本なのだが、読んでいるとそんな簡単な話ではないと思わされた。
江藤は各解説の結末を「・・・と小林秀雄は言うのである」という言い方でしめくくっている。小林が言おうとしていることを江藤が整理して我々に提出しているという体なのだが、そもそも江藤が行っている整理が本当に小林が言いたかったことなのかどうかは保証が無いはずだ。小林の文章を江藤が勝手に解釈して、その解釈を小林の意見であると勝手に断言するという、勝手な一冊なのである。そんなことが許されるのだろうか。
「誤読」という言葉がある。誤読という言葉にはややネガティブな意味があるように思えるが、良く考えなくてはならない。
先人の書いた本を誤読無しで理解することは可能なのだろうか。僕は不可能だと考える方が正しいとしたい。先人がそれを書いた時代、環境、状況というものは後世の僕らには所詮理解不能であるからだ。それらが解らない以上、「先人が書いたもの」から「先人が理解してほしい」というものを正確かつ精緻に汲み取る事は無理に違いあるまい。従い後世の僕らは「誤読」せざるを得ない。そう考えることの方が謙虚というものではないか。
更に言うと、優れた本とは誤読される「権利」を有しているのではないか。著者が何を言いたかったにせよ、世に出た本には著者を離れて自由に読まれる権利がある。本を読むということは必ずしも著者の言いたいことを正確に理解することではない。その本を自分なりに自由に読んで、そこで自分が勝手に何を思うのかが「読書」なのではないか。本書の42章で紹介されている小林の「彼は書を読んだのではなく、書という事に当たったと言えるのだ」という言葉をここで思い出した。
ということで本書は清々しい放談集である。小林が勝手に行った言いっ放し」に対して、江藤が勝手に言いっ放しを行う。そんな二人の「言いっ放し」を僕らは自由に「誤読」する。そんな、ある種の躍動感のある読書になった。
正義と平和
「不正や闘争は眼に見える具体的な状態であるが、『正義』や『平和』は、よく考えてみると意味内容のはっきりしない観念であるから、『正義』や『平和』で武装した人間の集団は、逆にほしいままに不正や逃走をおこなうことができ、しかも良心の苛責を覚えることがない」
―『小林秀雄の眼』 江藤淳―
上記一文は1960年代末に書かれたものだが、そのまま現代にも通じる。若しくは、2000年前にも通じたろうし、2000年後も(人類がまだ生存しているなら)有効なのだと僕は思う。
上記の中で味噌が何かというと、言うまでもないのだが、「武装」という言葉にある。「正義」であるとか「平和」という概念や言葉は「武器」になりえるのだと江藤は言っている。
「武器」そのものには本来的には善悪も是非も無い。「武器の使い方」が問題であるはずだ。
但し、そもそも「善悪」だとか「是非」という言葉自体も実に意味内容のはっきりしない観念である。少なくとも、その時々によって「善悪」や「是非」はめまぐるしく変わってきたことが人間の歴史である。「変わってきた」というより「変えてきた」という方が正しいのかもしれない。かように、いかようにも恣意的に使える武器の中に「正義」と「平和」を語る言説がある訳か。
40年ぶりに麻雀を再開して、少し考えさせられていること
麻雀というものを40年ぶりにわりと本格的に再開している。「本格的に」といっても、月に1回程度だ。40年前の大学時代には毎日近く麻雀をやっていたので頻度は全く違う。但し卒業後は全くと言ってよいほど麻雀をやらなかったので、今の月1回ペースは新鮮である。加えて麻雀を通じて考える機会が出来てきたことは画期的であると言える。
「麻雀を通じて考える」こととは何か。麻雀は優れて「運」に左右されるゲームであって「考える」余地は少ないように見える。勿論、その時々の彼我の状況を考えることは必要だが、それにしても「運」が圧倒的であることは否めない。
そんな中で突き詰めていくと、「自分とはどういう人間なのか」という地点に辿り着いていく。これは学生時代には思いつかなかった地点であり、それが還暦を迎えた今の僕の興味の在処である。
「自分とはどういう人間なのか」とは、麻雀においてどのように表れてくるのだろうか。それは例えば自分は「守り型」なのか「攻め型」なのかというような陳腐な問いかけである。
勿論、人は時には守り型であり、時には攻め型になる。但し、その「時」がどのような「時」なのか。どのような「時」に守りと攻めのどちらを選ぶのか。そこにその人の個性なり哲学なり出てくるものだ。そう考えると、麻雀とはむしろゲーム後に個人的な反省会でもやって、そこで自分が下してきた選択や決断を見直すことに面白みと深みがあるのではないか。
自分にとって自分は謎だらけであるということは言い古された話である。但し、「自分のことは自分でも良く分からない」と、初めから投げ出すだけが能でもあるまい。小さなヒントは日々の生活の中からも見つかるものだ。麻雀という唯の遊びのゲームにもヒントは潜んでいる。むしろかような「遊び」のなかに、思いがけないものが潜んでいるのかもしれない。無論、その為には、常に「問いかけ」をしていく基礎体力も問われる。かような知的体力だけは学生時代よりも今の方が優れていると思いたいものだ。
「聞く」と「聞こえる」
「聞く」と「聞こえる」の違いについて昨日からぼんやりと考えている。
「聞く」というと、自分から聞きに行くという「能動」である。一方で「聞こえる」というと「受動」だ。この二つは似て非なるものだ。
考えてみると僕らは無数の音に囲まれている。例えば、今この瞬間でも、室内の家電であるとか外の鳥の鳴き声であるとか、遠くの自動車の走る音があることに気が付く。但し意識しないと「聞こえている音」は「聞けない」。これはある意味では不思議な話だ。
確かに周囲の無数の音を全て僕らの意識が拾っていたら、収拾がつかなくなる。何も考えられなくなるに違いない。従い、意識はそこをしっかりとシャットアウトして、意識した音だけが本質的に聞こえているようにコントロールしている。かつ、それを無意識にやり遂げている。人間の「意識」の不思議さを改めて感じる次第だ。
「耳を澄ます」という言い方が日本語にある。英語で何というのかなと調べたところ
Strain one’s ears, Prick up one’s earsというような言い回しが出てきた。
Strainとは「力を込める」「無理に使う」「濾す」というニュアンスらしい。要は耳を無理して使うというような意味なのだろう。
Prick up earとは「耳をピンと立てる」という話らしい。動物が音に反応する姿が浮かぶ。
英語の表現は「聞く」「聞こえる」で言うと、「聞く」という能動に近い。一方で改めて日本語の「耳を澄ませる」という響きとは違いがある。それは「澄む」という言葉が「視覚的」だからではないか。「澄む」とは「清らかになる」「濁りがなくなる」であり、そこから「心が澄む」「声が澄む」というような横展開が出来ている。「耳を澄ませる」のもその一つのバージョンである訳だ。
ということで「聞く」「聞こえる」を考えていると色々な事に展開して楽しかった。物をぼんやりながらも考えている醍醐味は、そんなところにあると僕は思っている。
「独創」って何だったっけ?
「模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離してしまったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣しないでみて、どうして模倣出来ぬものに出会えようか」
―「モオツァルト」 小林秀雄―
この文章を読んでいて案外と見つけにくいことは、「模倣出来ぬもの」=独創への無邪気な楽天さである。
独創という言葉にネガティブな響きを聞くのは難しい。こんなことを言っている僕自身の耳にも独創という二文字からは「厳しさをまとった甘美さ」のようなものしか聞こえてこない。但し、そこを一度疑うということも実は案外と大事なのかもしれないなと思いついたところである。
何が「独創」なのか。基準も規範もない話だ。そんなヌエみたいなものに踊らされて狂ってしまった物事も結構あるのではなかろうか。特に自分の中に「独創」なるものが見つけられなくて、自分に絶望してしまう人は結構多いという気がする。「絶望」とは一部の芸術家などのおおげさな独占物ではない。市井の普通の人びとの中にもひそやかに潜んでいる。自分で気が付かない自分の絶望というものもあるに違いない。
そんな思い付きみたいなことをちょっと考えさせられた。
小林秀雄は「お前のやっていることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ」と批判されたことがあったと聞く。それが正当な批判もしくは批評なのかは僕には解らないのだが、冒頭に引用した小林秀雄の一文を釣り竿にすることは、僕にとっては言葉通り「考えるヒント」になった。
「ユダヤ人の歴史」 鶴見太郎
イスラエルとパレスチナに知見が全くないまま、日々の報道だけを眺めているのも、自分に
対して無責任であるとふと考えた。従い、まずはユダヤに関して少し勉強しようと思い、評判の
本書を購入した。電子図書ではなく紙の本で、ひさしぶりに気になった箇所には付箋をつける
という読み方をしてみた。
本書は古代から現代までを扱うという極めて長期間を対象としている。その事自体は著者は
「謙虚な人間であれば身の程を知って断念しただろう」と言っている。かような認識を持ちながらも
ある種のアニマルスピリッツというべきか蛮勇というべきか、挑戦して纏め上げた著者の勇気には
拍手を送るべきである。本書で取り上げた各時代の専門家からあらゆる批判が来るリスクを
背負いつつも、ユダヤを理解するためには長期間を俯瞰する「天の眼」が必要だという事
なのだろうと僕は理解した。
本書を読んでの感想は二点である。
一点目。祖国を持たない民族というものの厳しさが本書を通じて少し理解したと思う。これは
日本という国に生まれた日本人である僕には、そもそも到底理解しがたい状況である。
「身すつるほどの祖国はありや」と寺山修司はかつて短歌に詠んだことがあり、それはそれなり
にパンチのある言い放ちだったと思うが、それにユダヤ人が賛同するとは僕は思わなくなった。
流れ着いた土地の法を遵守しつつも、ユダヤとしての法を守らなくてはならないというダブル
スタンダードを強いられることは想像もつかない。そこまでして自らの「民族」を守らなくては
ならない、若しくは守る事を強いられる、ということなのだろうか。これは本書を読み終えた今の
僕にとっても謎である。
二点目。ホロコーストというとナチスしか思い浮かぶことが出来ない日本人は僕だけではなく、
たくさんいるのだろうということだ。恥ずかしながら、ポグロムという言葉も本書で初めて知った。
なにもかもをナチスに背負わせて、手を洗ってしまった方も多かったに違いない。歴史を
単純化することがいつも間違っているとは思わないものの、単純化する過程で色々な不都合が
隠れてしまうリスクはいくらでもあるのだと思う。
それに対する極端な反証例としては、ハンナ・アーレントがアイヒマンを通じて「ホロコーストに
協力的であったユダヤ人が存在した」という指摘であり、それに対する彼女に対するバッシング
である。
そういえば本書においてアイヒマンへの言及はあるものの、その際にハンナ・アーレントへの
コメントが無かった点は少し気になった部分ではある。彼女を出すと焦点がぼけてしまうという
ことか。
かつてパレスチナにおいてアラブ人とユダヤ人が仲良く共存していた時代があった。確か
NHKの「映像の世紀」でも取り上げられていたと記憶している。それが戻ってくる時代は
いつ来るのだろうか。
「小林秀雄の眼」から
「価値の基準が自分の内側になくて外側にあることは、自己喪失のはじまりである。それは
当然『不安』のはじまりであるが、今やこの『不安』は常態と化し、『不幸』に馴れた我々は
何ごとにもおどろかず、何物をも真似、適応を強者の資格と考え、そうして日一日と狂って行く」
―「小林秀雄の眼」 江藤淳―
「価値の基準が自分の内側になくて外側にあること」と江藤は言う。それは「価値の基準は
外側で出来て、それが自分の内側に入ってくる」ということと同じなのか違うのかをさっきから
考えている次第だ。前回の記事でも似たようなことを書いた記憶があり、たまたまではあるが、
物事の内面化を考える機会が増えている。
適応を強者の資格とするという話は今なおいくらでも転がっている。書店で山積みになって
いる自己啓発の本を無作為に開いても、きっと似たような話が見つかるに違いない。
考えてみると「自己啓発本」とは。何かの基準を外に求めたい僕らのニーズに合わせた
本だとも言える気がする。「何物をも真似」しなくてはならないことが人間の常であるとしたら、
真似すべき「価値の基準」を外に探しに行くということは「青い鳥」と同じ話なのかもしれない。
「青い鳥」では、自分の身近に幸せがあったというハッピーエンドだったのだが、江藤は
「狂って行く」というアンハッピーエンドを用意している。そういうものなのだろうか。
差別
「ユダヤ人差別というと、ユダヤ人を蔑む方向性ばかり注目が集まりがちだが、差別とは
必ずしも蔑むことばかりを意味するのではない。あるカテゴリの人びとが一様に同じ性質を
持つことを、当事者一人ひとりの固有性を無視して決めつけることに差別の基礎がある。
そこに蔑みを込めれば典型的な差別となる。しかし、褒めたつもりでも、社会のなかで
選択肢が限られた者に対して、特定の役割の押し込める方向で勝手な決めつけを行う
のであれば、典型的な差別と本質は変わらないことになる。例えば、ある人が女性
だからというだけで子育てに長けているとか料理がうまいと決めつけることが差別と
見なされるのは、このためである。」 ―「ユダヤ人の歴史」―
怖いのは「一様に同じ性質を持つこと」は、ともすると内面化されることになる点だ。
例えば上記を踏まえると、ある女性は「女性とは料理がうまい」ものだという点を自分の
中で内面化してしまうというようなことにもなりかねないという点である。その場合には
「料理が下手な自分」というような自虐にも繋がるのではないか。若しくは男性においては
「男性とは仕事ができるものだ」という内面化が行われ、それが引き起こす悲喜劇には枚挙の
いとまがないだろう。
プライドという言葉は日々使われているわけだが、案外と深く考えたことは無かった。
何にプライドを持つのか考えてみると、そこには必ず「自分の中に内面化された価値観」
が潜んでいると僕は思う。その潜んでいる価値観とは、自分の中で醸成されるというより
は外から与えられることの方が大きい気がする。自分が自分を差別するということは
単なる言葉遊びでもないのかもしれない。
人種主義の歴史
「肌の色にかかわらず血液型が同じであれば輸血可能だが、似た色同志でも血液型が
異なれば不可能だ。肌の色は生物学的には文字通り表層にすぎない。それが社会学的な
意味を持ってしまったのが人種主義の歴史である。」 ―『ユダヤ人の歴史』(鶴見太郎)からー
オリンピックの五輪は色の違う五つの輪で出来ている。その色は人種を表していると聞いた。
それが正しいとするなら、上記に従うとオリンピックも人種主義に基づいた人種の整理を
しているのかもしれない。オリンピック自体では競争は国ごとに分かれて行われる訳だが、
国境というものも常に変わっていく脆い物であるということが歴史である。国境に左右されない
象徴とは何かと考えると色でまとめてしまったほうが普遍性があるということなのか。
その意味ではあくまで国境に準拠せざるを得ない国連は五輪マークを掲げるわけにもいかない
のだろう。かくて国連の建物の前には加盟国各国の国旗を掲げるしかなくなる訳だ。
と、ここまで自分で言いながら、何を言いたいのか自分ながら未だ分からない。蟄居して
ぼんやりしているとそんなものではあるのだろうと、自分を慰めているところではある。
但し、上記の引用の中には何か心にへばりついて、そのまま流れて行かないものが
僕には有った。それだけではある。
大きな「主語」
「『○○人は××だ』式の議論は、つまるところ主語が大きすぎるため一向に議論が精緻化しない。」
ー「ユダヤ人の歴史」 鶴見太郎 ー
「主語が大きすぎる」という切り口に虚を突かれた思いがした。
何かを考えたり議論したりするに際して「主語」を何とするのかという事は、その考えや議論
において死活的に大事であるということだ。「日本人は。。。」というような主語を建ててしまうと、
全ての日本人を包括出来る大きな「述語」が必要になってくる。つまり「主語」の在り方が、「述語」を
規定するという話である。大きな述語とは、しばしばタマムシ色になってしまうのか、若しくは
極端なものになってしまう。
ヘイトスピーチと言われるものの一つの本質はそこにあるのかもしれない。主語を大きく取る
ことで、述語を極端なものにさせてしまう。「極端なもの」とは「分かり易いもの」である事が
多い。「分かり易さ」が持つ危険性とはそういうところにあるのではないか。


