人間の知的活動はパターン認識と類推でこと足りる
「人間の知的活動はパターン認識と類推でこと足りる」
「私たちは過去の経験や知識から似た問題や状況を探し、解決策を見つけている。ほとんどがパターン認識や類推
でしかない。その為に知識や解法を学んで蓄え、本を読み、考えを巡らしてきた」
今朝(2025年8月17日)の日経新聞から。上記は「AIの優位性」を言うために「人間の知性の限界」を
反証として出そうという言説である。上記に異論は無いが、それらは人間固有ではなく、あらゆる生物に
言える話であり、地球での進化の経緯であると僕は思う。
AIが「パターン認識と類推」において、人間を遥かに凌駕する能力を持ち始めていることは「アルファ碁」
等を見ていても否定しえない。それに対して人間の「独創性」を主張するのも理解できる。なにぜ、そのAIを作って
きたのはほかならぬ人間でもあるからだ。
で、どうなのかと考えても別に結論も出てくる話でも無かろう。人間がパンドラの箱を開いたと は言える気が
するが、パンドラの箱とは、そもそも開かれる為にあるに違いあるまい。
「彼岸花」 小津安二郎
30年ぶりに本作を見直した。
本作は娘の結婚を巡る喜劇である。小津の選ぶ「娘の結婚」というテーマは、小津の他作品
である「晩春」「麦秋」「秋日和」を考えてみると、大定番の話である。因みに今気がついたが、
本作の「彼岸花」を加えて、僕の思いつく「娘の結婚」映画の題名にはいつも季節感を持たせ
ている訳でもある。
主人公は知り合いの娘に対しては「結婚は自分で決めればよい。親の意向は聞かなくても
良い」と言ってリベラルさを見せる。一方で、自分の娘の結婚となると「親に相談しないとは論外で
反対だ」と全く違う主張をする。その「ダブルスタンダート」具合が喜劇である。主人公は家を出る
と大会社の重役のようで、なまじ社会的及び経済的地位の高さがあるだけに、更に喜劇具合が
増してくる。この辺りは小津の職人芸である。
本作では主人公の妻である田中絹代が抜群に良い。凛としている。主人公を立てながらも
言うべきことは確りと言っている。結局主人公が「負けた」のも、この田中絹代のじわじわと
した「攻め」にある。これも観ていて気持ち良い。そのような展開の中で、映画は予定調和的に
完結していく。
ということで端然として隙が無い映画である。纏まりすぎているという指摘もあるのかもしれ
ないが、本作の鑑賞はそれで良い。
「彼岸花」が題名だが、花としての彼岸花は出て来ない。但し、代わりに赤が良く使われている。
赤い薬缶等が代表例だろう。本作は小津の初のカラー作品である。
「芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚」
芥川龍之介が学生の為に編んだ英米短編のアンソロジーである。本書は二通りの
読み方・味わい方がある。実に豊かな読書となった。
一点目。まず取り上げた作品そのものを読むことが楽しい。作品名はおろか作者も今まで
知らなかった方も多かった。本邦初めての作品も多数あり、新鮮な気分で読了した。いずれも
怪奇譚という事なのだろうが、改めて「怪奇譚」というジャンルにおいて欧米の多くの作家が多数
の傑作を出していた事を思い知らされた。
日本はどうかと考えてみると、僕が寡聞という事なのだろうが、余り多くを思い出さない。
考えてみると芥川龍之介は、僕の知っている数少ない本邦での怪奇譚の作者であるということも
改めて思った次第だ。
例えばアメリカのスティーブン・キングという作家を考えてみる。彼はホラーの帝王などと呼ば
れている訳だが、彼の作品は単なるホラーに留まらない作品も多い。ホラーという特殊な設定の
中で時として驚くほど人間に迫る物語も結構多いのだ。若しくはホラーや怪奇という設定は実は
「人間」を描き出すにも向いている設定なのかもしれない。それを日本の作家たちが今一つ
見逃してきているということはないだろうか。そんなささやかな問題提起が僕の中に起こった。
二点目。本書の作品群を芥川が何を考えて選んだのかという点は本書の死活的な面白さ
だと思う。
本書の解説で紹介される芥川は英語においても「博覧」であることを今回理解した。今までは
ついつい今昔物語や聊斎志異等の東洋の古典の圧倒的な知見にばかり注目していたが、かよう
に芥川が欧米文学にも詳しかったとは、恥ずかしながら、知らなかった。考えてみると彼は英語の
教師からキャリアを始めていたことをすっかり失念していた訳だ。
そんな博覧の目で芥川が選んだ話の多くが怪奇譚であった事は注目すべきである。僕は
先ほど怪奇譚に関して自分の勝手な意見を述べた訳だが、芥川が怪奇譚を好んだ理由は
何だったのか。これに関しては僕も答えは持ち合わせていないということが正直なところ
である。
それにしても芥川は本当に才気煥発な方だった。もっと言うと才気走る方だったのだと思う。
言うまでもなく「才気走る」という表現にはややネガティブな響きもある。芥川の才能はカミソリ
のように鋭かったが、不幸な事にそのカミソリ自体が芥川自身を切り刻んだのだと僕は思っている。
上記で挙げたスティーブン・キングが持っている「鉈のような切れ味」ではなかったという
事なのだ。従い、芥川が切りとった「人間像」にはもう一つ深みが無いのではないか。
「深みが無い」というよりは「人間の業の深さが無い」と言う方が僕にとっては正確かもしれない。芥川の作品をやや偏愛してきているうちに僕も還暦になったが、いまそんな風に少し思っている。
「機械時代のダーウィン」 サミュエル・バトラー
「時代が下がるにつれ、人類はみずからが機械よりも劣等の種になったことを覚るでありましょう。
力で劣り、みずからをみずからで律するという倫理的特質においても劣る人類は、誰よりも
善にして賢なる人といえどもおよそ及びもつかぬ宝鑑として機械を敬し奉ることになるでしょう。」
ー「機械時代のダーウィン」サミュエル・バトラー ー
サミュエル・バトラーは1835年生まれである。上記文章を読んでいると、まさに最近見られる
人類の倫理の危機を思うし、AIの今後も考えてしまう。大変予言的な文章だ。
「今日の空が一番好き。とまだ言えない僕は」
河合優実がヒロインであり、主演である。彼女の演技は毎回感嘆してきている。本作においても
彼女の彼女でしか可能にならない特別の存在感はいかんなく発揮されている。にも拘わらず、
本作で最も印象に残ったのは彼女の妹であるさっちゃんを演じた伊東蒼であった。
本作は冒頭から「死」が語られることが多い。ヒロインの場合は父親の死であり、主人公は
祖母の死である。主人公は祖母の死の衝撃でしばらく大学に行けなかったという。ヒロインも
(そうとははっきり語られていないが)おそらくは父親の死もあり、高校時代に一年間引き
こもった様子だ。
そんな主人公とヒロインの心の傷が本作の主題として冒頭に提示され、それを基調として
本作は進み、傷心を抱えた二人が心を寄せ合っていく筋である。
かような展開の中でさっちゃんだけが生き生きとした存在感を放つ。銭湯での彼女のアルバ
イトとしての働きぶりの明るさは、曇天や夜も多い本作の中で際立つ。特に彼女が長セリフで
主人公に自分の思いを告げる場面は迫力に満ちる。夜間で彼女の顔をあまり見せないという
演出が彼女のセリフを強く立ち上げる。本作の白眉のシーンである。
そんなさっちゃんが事故死してしまう。彼女の死が登場人物と、それから僕ら観客に与える
衝撃度の凄まじさというものがある。ここに至って本作の主役は彼女なのではないかと僕は
思わされた。
残された二人が彼女の死をどのような克服していくのかは本作では語られない。河合優実は
自分を守る為に結っていたお団子の髪を切ったところを見ると、「外に出ていく」決意をした
ようだ。一方主人公はどうなのか。映画の題名の通り「まだ」なのだろうか。
「マイ バック ページ」 川本三郎
1944年生まれの著者はあとがきでこう書いている。
「たしかに私(たち)にとって、あの時代はかけがいのない“われらの時代”だった。ミーイズム
ではなくウィーイズムの時代だった。誰もが他者のことを考えようとした。ベトナムで殺されてゆく
子どもたちのことをわがことのように考えようとした。戦争に対してプロテストの意志を表示しようと
した。体制のなかに組み込まれてゆく自分を否定しようとした。そのことだけは大事に記憶に
とどめたいと思う。」
「あの時代」とは本書が描写する1960年代から1970年代初頭であり、著者の20歳台半ば
である。
著者より20年後に生まれた僕にとって1960年代から1970年代初頭は殆ど記憶に残って
いない時代である。当時の「社会」に関して覚えていることはいくつかのTV番組程度である。
従い、本書が描き出す時代の風景を理解することは難しい。
僕が高校から大学生活を送った1980年代初頭から後半までの時期には、それでも、
いくつかの場面で「あの時代」の残り香のようなものはあった。本書で紹介される高野悦子の
「ニ十歳の原点」は当時でも(そして今でも)読まれていた。奥浩平の「青春の墓標」は大学の
やや左がかった先輩の推薦で読んだこともあった。2025年の現在から自分自身の
1980年代を見返すと、かようにささやかな時代錯誤と時代遅れの自分が見えてきて、今に
なっておかしなものだと苦笑してしまう。「当時の時代と社会と人々はバブルへ向かって
まっしぐらだったのにな」、と。
川本が「大事に記憶したい」と言うウィーイズムはその後どうなったのか、その結果今はどう
なっているのか。それを考えることが本書をいまの時代に読むということなのだと思う。世界の
分断が顕著になりすぎてきた現在、本書を再度文庫化して世に問うという出版社と著者の志
をよく考えなくてはならない。
今思うと、「青春の墓標」は1980年代に当時大学生だった僕には理解出来るはずもない本
であった。当時は分かった積りだったが、それはただの自惚れであったことは今になって
よくわかる。申し訳ないが、僕に同書を推薦してくれた先輩も同じだったのではないか。
それでは40年後の2025年の今、還暦となった僕は、「青春の墓標」や本書を少しは
理解できるようになっているのであろうか。社会に出て、「体制に組み込まれてゆく」ことで
時間を過ごしてきた中でなにがしかの知見、見識、志を身に着けることは出来たのだろうか。
はなはだ心許ないとしか言えないが、心許ないと反省することは大事ではある。「あの時代」
にノスタルジーを持てない僕のせいぜいの読後感はそのようなものである。
いい日旅立ちを聴いていて
散歩しながら山口百恵の「いい日旅立ち」を聴いていた。
この歌詞は実は「病気で余命が限られている方」が語っている言葉だと考えたら、どのような
物語になるのかと、ふと思った次第である。歌詞は以下の通りだ。
1.雪解け間近の 北の空に向かい
過ぎ去りし日々の 夢を叫ぶとき
帰らぬ人達 熱い胸をよぎる
せめて今日から一人きり 旅に出る
ああ 日本のどこかに
私を待ってる人がいる
いい日旅立ち 夕焼けをさがしに
母の背中で聞いた歌を 道連れに
2.岬のはずれに 少年は魚釣り
青いすすきの小径(こみち)を 帰るのか
私は今から 想い出を創るため
砂に枯木で書くつもり “さよなら”と
ああ 日本のどこかに
私を待ってる人がいる
いい日旅立ち 羊雲をさがしに
父が教えてくれた歌を 道連れに
※ああ 日本のどこかに
私を待ってる人がいる
いい日旅立ち 幸せをさがしに
子どもの頃に歌った歌を 道連れに
映画「海角七号 君想う国境の南」
地元の公民館で本作の上映会が行われた事で本作を鑑賞する機会を得た。台湾映画というと
従来はホウシャオシェンとエドワードヤンの作品を観たことがある程度だった。新鮮な気持ちで
鑑賞した。
本作の出だしはスラップスティック調である。加えて話の展開がどんどん拡散され、なかなか
回収に向かわない。その中で時折太平洋戦争直後の「友子」を巡るエピソードが漠然と挿入
されていく。観客はある意味で散漫な状態にほうり投げられていくことになる。
ところがある地点を境に話はシリアスさを帯び始める。スラップスティック調は続いているだけ
に観客はシリアス度合いに気が付きにくい作りになっている。気が付くと物語の最終日を迎え、
今までの色々な話が一気に回収されていく。その回収の手法は良く練られていて、観客は引き
続きのスラップスティックなコンサートの中で、ふと気が付くと泣かされている。実に巧妙な
作りとなっている点には舌を巻いた。
本作は戦争中の日本と台湾を基にした話を展開している訳だが、歴史問題に話を突っ込んで
いく訳ではない。誤解を恐れずにいうなら、舞台設定の一部を歴史から借りてきただけである。
そんな「イデオロギー臭の薄さ」が、逆に言うと本作の「純愛譚」を素直に観る事ができる背景とも
なっている。
本作は台湾で大ヒットした作品だと聞いた。僕ら日本人の見方と、台湾の方の観る角度は
また別なのだろうなと思ったことが最後の僕の感想であった。
徒然草 第七十五段
「徒然わぶる人は、いかなる心ならん。紛るる方無く、ただ一人有るのみこそ良けれ」
何もすることが無くて退屈であるという状態を嫌に思う人は、いったいどういう心なのだろう。
雑事に紛れることなく、ただ一人で静かに過ごすのこそが良いのに。
小林秀雄も引用した徒然草の名文句の一つである。
若いころには上記の言葉はなんとなく理解出来る気がしていた方も定年を迎えるころには
逆に上記に頷かない方も多いのだと僕は思う。仕事を引退して「何もすることがない」という状態
を怖れる声も良く聞く。定年延長で働く多くの方も経済的理由だけではなく、実はかような
状態を避けたいと思っている部分も多いのではないかと思う。
僕は吉田兼好が実際にかように達観していたかどうかは分からないと思う。枯れた事を
言いながらも、時代の新しい有り様に強い好奇心を働かせてきた兼好ではあるのだ。
但し、兼好の視線は現代にも余りに通用することも事実だろう。本段の後段で兼好は
以下を喝破している。
「惑ひの上に、酔へり。酔ひの中に、夢を成す」
こんな生き方は迷いの上に酔っているようなものであり、酔っぱらって夢を見ているようなものだ
まさに自分の毎日を指摘されている気がした。
「対馬の海に沈む」 窪田新之助
評判の本書は地元の図書館で借りて読んだ。評判作だけに予約した段階で16人待ちであり、
4カ月程度後に漸く手元に着いた。読み始めるとあっという間に読んでしまい、すぐに図書館に
返却したところである。
著者はJA対馬における粉飾・詐欺事件と首謀者の自死を丹念に調べていく。殆どの関係者
が口が重い中で粘り強く事件を追っていく姿には迫力が有った。但し、本書の凄みはかような
調査姿勢の先にある。
当初、著者は「JAにおける行き過ぎたノルマ偏重」が事件の主因だとあたりをつけて調査を
してきた。その「あたり」は間違っていなかったと言える訳だが、その先に見えてきたものは
「果たして本件は首謀者の単独犯行だったのか」というごく自然な疑惑である。このような
不祥事においては、関係者は往々にして首謀者単独犯としていこうとするものである。
本件もそういう流れで関係者が口を揃えたことにも別に驚きはない。著者は当然ながら
共犯者なり補助者がいるのではないかという視点で更に事件を追っていく。その中でいくつか
の人物が共犯者候補として固有名詞を持って浮かび上がってくる。そこも自然であり、誤解を
怖れずに言うなら、普通である。
但し、ここからが本書の怖ろしさであり白眉である。首謀者を悪く言わないJA対馬の組合員
の話を分析していくうちに、著者は極めて大きな塊の「共犯者」の存在の可能性に突き
当たってくる。かような塊は、むろん多くの固有名詞の塊であるが、もはや固有名詞を挙げても
意味がないレベルの話である。それを更に突き詰めて行くと、例えば「民意とは何か」
というような極めて大きく深くて、かつ、底なしの闇の世界にもなりかねない何かに辿り着いて
しまうのではないだろうか。
そう考えるとアガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」も似たような話だったの
かもしれない。もっともクリスティーの作品はフィクションであるし、豪華絢爛であるし、
従い遥かに長閑な作品ではあるが。




