くにたち蟄居日記 -12ページ目

「マイニューヨークダイアリー」

 

 

原作を読んだことで本作を鑑賞する機会となった。

 

 原作からかなり離れた映画となっている。全く違った別々の作品と言ってよい。特に「ハプワース」

を巡る出版中止の話は原作の大きな「事件」だったが、それが全く映画に出さなかったという点は

映画を製作する側のある種の「決意表明」だったのではないかと思った。

 

 原作と違うからといって映画がダメであるという積りは毛頭ない。原作通りではない映画は

山ほどある訳だし、むしろ原作通りの方が稀であろう。その意味では本作は原作の設定を借りて、

原作とはまた別の作品を仕立てているだけである。その点は違和感は無い。では別の作品と

なっている本作は僕にとってはどうだったか。

 

 全体に薄味であると僕は思った。いくつかのエピソードが出てくる訳だが、一つ一つをもう少し

深堀できる余地が残ったままで終わっている気がした。映像はシャープで非凡だっただけに

語られる「物語」をもう少しブラッシュアップされていればと勝手に思った次第である。原作者の

本作に対する感想も聞いてみたい。

 

 シガニー・ウィーバーは堂々たる存在感を示していた。もはや大女優である。

映画「北の果ての小さな村で」 

 

住んでいる国立市の公開講座「多文化共生」に参加した。教材が本作であったということで

本作を鑑賞する機会を得た。自分で鑑賞する映画を決めてばかりいると限界がある。他者から

勧められる作品を観ることはかような限界を少し広げてくれるものだ。

 

 本作は基本的には「父と息子」の物語である。主人公は父親からデンマークで営んでいる農場

を継ぐことを強く期待されている。主人公は迷いながら、取り合えずグリーンランドに行って

短期的な教職に就くことにする。グリーンランドで教職の需要がある町はいくつかあったが、

主人公は一番過疎が進んだ場所を希望する。かような選択の背景には、主人公の強い好奇心も

あったろうが、父親との間のある種の確執もあったと僕は想像した。

 

 人口が80人しかいない赴任地は主人公にとっては過酷な社会であった。殆どがイヌイットである

住民の中にデンマーク人が溶け込むことは容易ではない。むしろ無視される存在であった。

 

 そんな主人公がイヌイット社会に溶け込むきっかけを得たのは猟師になることを宿命としている

一人の少年との交流を通じてである。祖父を亡くし、父親が不在である少年に対して主人公は

「父親」という役割を果たしている。そこに生まれてきた「父と息子」の物語が、住民たちの

心を「解凍」していく様子が本作の筋立てとなっている。

 

 本作は基本的にはノンフィクションであるという。若干のエピソードにはフィクションがあるものの、

本筋はドキュメンタリーといって良い。しかも本人達が本人を演じているという点は強い説得力

を産んでいる。本作を観ていて小川伸介のいくつかの作品も思い出した。かような迫力の中で

前記した「父と息子」の物語は若干薄味である気もしないでもない。但し、本作が描き出す

グリーンランドの自然と、自分で自分を演じる登場人物のリアリティーがあれば、十分味付けは

濃くなっている。

 

 登場人物全ての方の今後の幸せを祈った次第だ。

カクレンボや知らんぷり

 アメリカのいまの大統領の言動を見ていると、ある意味ではその登場が役に立っている面も

あるとも言えるのではないかと少し考えた。端的に言うと、世界が口には出さないものの心の底

で思っているかもしれないことを分かりやすく具現化して頂いている気がするということだ。具現化

されることで各アジェンダが明確化され、従いそれに対する賛成・賛同・批判・批難・非難も

分かりやすく出来るようになる。

 

もっと言うと、具現化されたものに対して、「何か意見を表明しなくてはならない立場の方々」

が、具体的に表明をはじめることになる。更に言うと「表明することを強いられる」ことにもなる。

要は知らんぷりが出来なくなるということだ。

 

 思想や哲学は時として一人の個人の登場によって分かりやすく「結晶」する。僕の素人理解

ではファシズムに関してはヒトラーやムッソリーニ、共産主義に関してはスターリンや毛沢東等だ。思想や哲学を

論じることは常に容易ではないが、それらが「結晶」された「個人」を論じることは比較的容易

なのだと僕は思う。僕らはヒトラーを論じることでファシズムを語ることが出来る。勿論

ヒトラーの主張したファシズムは極端な形をしていた。大きな意味でファシズムという思想を

体現化していたかどうかには議論があるだろう。但し、「極端な形」だとしても「形」があることで

議論するアジェンダ化が出来たと思う。今のアメリカの大統領も同じように「形」を分かりやすく

提出しているように見える。

 

 今のアメリカの大統領が提出している「形」はとても歪んでいるように思える。但し「

とても歪んでいる」と思うこと自体も世界にとって重要ではないだろうか。彼の登場の前までは

ポリティカルコレクトというカーテンに隠れて色々な本音が見えなかったとも思う。カーテンを

本物にしたいなら、時にはカーテンを開けて隠れているものを出さなくてはいけない。

カクレンボや知らんぷりでは立ち行かなくなりつつあるからだ。

「武蔵野をよむ」 赤坂憲雄

高校時代から国木田独歩の「武蔵野」を愛読してきた。愛読してきた積りだったが、今回本書

を読んで何もわかっていなかったことがわかった。そういう気づきが有る事も読書の醍醐味の

一つではある。何を今回学んだのか。以下二点である。

 

 一点目。「武蔵野」の底辺に独歩の当時の悲恋が流れていたことを初めて知った。「悲恋」と

言うと「非情な運命が恋人たちに襲い掛かるという」話なら分かるが、独歩の場合には

そうでもない。実態としては独歩のやや異常な愛情の在り方に妻が我慢できずに家を飛び出た

ということらしい。

 

 であるとすると「武蔵野」と並行して赤坂が読み解く「欺かざるの記」に独歩が書き連ねる苦悩や

失恋の話も、いささか独りよがりにも思えてくる。「独歩」というペンネームを選ぶ以上、「一人で

歩く」のを好んだ独歩は、言葉通り一方通行な愛情を佐々木信子という女性に向けただけ

なのかもしれない。

 

但し、かような文学者の勝手な恋愛観が、「武蔵野」の底辺に流れていること自体は、

文学としては別に悪い話ではない。「独り歩き」の感傷も、文学作品のスパイスとしては

十分成立する。「武蔵野」の中で孤独の良さを説く独歩の筆致は「武蔵野」を名作に仕立て

上げていることも確かだと僕は思う。

 

 二点目。独歩が発見した武蔵野の美に関しての理解が本書で深まった。もっと言うと独歩の

「発見の仕方」が良く分かった気がした。

 独歩は二葉亭四迷が翻訳したツルゲーネフの「あいびき」の中で、二葉亭が自分の言葉で

訳したロシアの林の描写に負っている。更に言うと独歩はロシアの林の美を学んだのでは

なく、二葉亭がロシアの林を描くのに起用した「日本語」に強く影響を受けたということなのだと

僕は理解した。独歩は二葉亭の日本語を発見した。武蔵野の美は日本語の延長上にあった

のだと思う。言葉を唯一の武器とした文学者である以上。

 

 本書の著者である赤坂の日本語も本書の特色である。独特の粘りのある語り口は本書を

研究書というより文学書に向かわせている。あとがきで赤坂は若いころには小説を書くこと

から始めていたと告白している。本書も、かような赤坂の志向の延長上である。「志向」と

「嗜好」はかなり近い言葉なのかもしれない。

「月の裏側」 レヴィ=ストロース

 

レヴィ=ストロースが日本に対して深い愛着心があるとは知らなかった。この本を紹介され、

読んで、それが良く分かった。

 

 一点目。彼の日本の古典に対する読書範囲の広さに驚いた。源氏物語くらいなら想定できるが

大鏡や栄花物語、古事記や日本書紀までも読んでいる事とは想定外であった。日本人ですら

それらを読んだ人は限定的である。僕もかろうじて大鏡と日本書紀は通読したが、源氏物語は

未読である。かような本が仏訳されていることも驚きだが、実際に読破された著者の日本に

対する関心と愛情の度合いが分かるというものだ。

 

 二点目。著者は本書で数回「鯰絵」について言及している。鯰絵とは安政大地震の後に市中に

出回ったナマズを書いた戯画である。アウエハントというオランダの人類学者が鯰絵を分析

した著作があり、岩波文庫で翻訳された「鯰絵」が日本でも読める。

 私事ながら、僕は大学の卒業論文で鯰絵を取り上げた経緯がある。もう40年前の話では

あるのだが。そんな事情があるだけに本書で著者が鯰絵とアウエハントの著作を取り上げた

ことが妙に嬉しかった。これは完全に個人的な感想ではある。

 

 三点目。本書でレヴィ=ストロースが日本を称賛するのを読んでいて嬉しいと単純に思う一方で、

それでは現在の日本はどうなっているのかという点も気になった。

レヴィ=ストロースは人間と自然との共存という大きなテーマを抱えており、その一つの

良い例として日本の文化や自然感を本書で描きだしていると僕は理解した。そんな彼の夢に

関して、彼は本書の最後で「(未来に対して)それは、私にはますます信じられなくなって

います」という悲観的な言葉で締めくくっていると読んだ。彼がそれを言ったのは1993年

である。32年前の話だ。その時から32年後の未来である今日、レヴィ=ストロースの

悲観的な予言は当たっているのかどうか。それを考えるということが今日本書を読む

ということである。

「NEXUS」 ユヴェル・ノア・ハラリ

 著者の本を読むのは本書が初めてである。大変勉強になった。

 

 AIの登場を「人類の情報の歴史」という大きな物語の中に位置づけするという切り口は僕に

とっては斬新だった。文字の誕生や印刷技術の登場が人類に齎した光と影を読み解き、

その「読み解き方」を今回のAIの登場に当てはめて今後の展開を予言するという方法は

一定以上の説得力があった。

 

現段階はAIの黎明期である訳だが、その「黎明期」に於ける「方向性」における「熟慮」

こそが肝心要であると著者は言っていると僕は読んだ。黎明期だけに著者としても「正しい

方向性」は提出しようが無い。もっと言うと誰しもAIという新しい技術が何なのかを正確に

理解できる段階ではないのだと思う。

 

 そんな「不可知」の中で「自分が不可知であること」を謙虚に弁えることが現段階で

やれる精一杯であり、その中で「正しい方向性」とは何かということを常に熟慮していく

しかない。ということが著者の主張ではあるまいか。

 

 新しい技術には必ず毒や副作用がある。解毒剤や特効薬を用意するには得てして

膨大な時間もかかる。かの原子力ですら、未だに人間がマネージ出来るエネルギーなのか

も結論が出ていない。それを考えると自立して物事を決めていきかねないAIを制する

力が人類にあるのかも不明だ。そんな怖ろしい物を「おもちゃ」の様に取り扱うようだと

やはり何が起こってしまうのか。著者の危機感は深いのだと思う。

 

 本書に対する健全な反論を是非お待ちしたい。

「ノッティングヒルの恋人」 

 本作の評判が良いので鑑賞した。結論的に言うと、期待外れであった。

 

 本作は「ローマの休日」を現代に時代を変更し、かつハッピーエンドに変えたらどうなるかという

作品であると解している。その狙いは悪くない。「ローマの休日」の最後が大団円であって欲し

かったという鑑賞者は多いと僕は思う。勿論大団円では無かったことが「ローマの休日」を

比類の無い傑作にしている訳だが、別バージョンを期待する事も悪い訳ではない。そんな

思いが本作を作ったとしたら、僕は正しい方向性だと思う。

 

 但し、本作は脚本において不備が多かったと思う。何より本作においてヒロインと主人公が

なぜ恋におちたのかがさっぱり分からないからだ。例えば二人の出会いの日にヒロインは

唐突に主人公にキスするわけだが、それがなぜなのか全く伝わってこない。その後も

ヒロインの恋人が急に登場する等、観ていて混乱する場面も散見された。

 

二人の会食の隣のテーブルでヒロインに関して「腰が軽い」などと悪しざまに言われている

場面もあったが、むしろ、かような意見にやや同調させられかねない話の展開である。端的に

言うと「本筋」であるべき「ファンタスティックな純愛」が伝わってこない。

 

勿論作者は「ファンタスティックな純愛」路線ではない、新しい形の恋愛を描き出したかった

のかもしれないが、それなら「ローマの休日」へのオマージュもやめるべきであったのでは

ないか。

 

 癖のある面白そうな他の登場人物も出てくる訳だが、彫りが浅くてスパイスとして効いてこない。

それも残念だった。もう少し活躍させてあげる場面と筋を用意出来れば良かったのではないか

と思った次第だ。

 

 

 やはり「ローマの休日」は傑作なのだなと改めて思った。「そう簡単に真似できるかしら?」

とオードリーヘップバーンが言っているような気もした。

「しっぽ学」  東島沙弥佳

 

 

 僕の住んでいる国立市で著者が講演される機会があった事で本書を読むきっかけとなった。

講演も大変面白かったが、本書も実に興味深く読む事が出来た。まことに本との出会いは偶然

の連続でもある。

 

 本書を読んでいて強く思い出したのは南方熊楠である。

熊楠という人を定義することは難しい。民俗学者であり粘菌学者であり仏教学者であるとでも

言えば良いのかもしれないが、それらを足し算したところで到底「南方熊楠」になるとは思え

ない。民俗学と粘菌学と仏教が熊楠の中で関連付けられる、その関連の付け方が「熊楠」

である。唯一無二の学問だ。

 

 本書の扱う「しっぽ学」とは、ある時は考古学であり、ある時は形態学であり、ある時は発生

生物学であり、ある時は史料学である。特に著者が日本書紀から「しっぽ」を抜き出した

部分は読んでいて絶句しつつ爆笑した。また、発生生物学に関しては昔に読んだ三木

成夫の本を思い出した。日本書紀は高校時代に読んだ事があり、懐かしかった。かように

一冊の本が色々な事を思い出させるというのも本書を読む醍醐味である。

 

そのような著者の自由自在な学際的思考の展開は当然ながら「蛮勇」でもある。本書の中で

著者が他学者からいくどか「結局何をやっているのか」という、やや批判めいた質問を受けて

苦労されている場面があった。それは専門性を良しとしているであろうアカデミズムの中で

学際的に「蛮勇」を振るう事の「副作用」だと僕は想像する。新しい学問を切り開く際には

避けられない話だ。熊楠にしても今なお十分に理解されていうとは言い難いと思う。

 

 著者はご自身のしっぽ学はまだまだ発展途上であるとされている。著者の次の著作を

お待ちしたい。

映画「エマニュエル」

連休に鑑賞した。シルビアクリステルの「エマニエル夫人」は1974年に公開されている。

もう50年前だ。当時は女性が堂々と映画館に行けるハードコア映画という評判だったと聞く。

今回の新作もおそらく女性も気兼ねなく観に行けるということだったのだろう。但し、案外と

一筋縄では行かない作品だと僕は思った。

 

 話の筋は主人公が香港のホテルの査定に行くというものである。この「筋」は、面白いことに

だんだんと本作品と関係無くなっていく。ホテルの現場の責任者とのやりとりはあるものの、

それが本作や本作のヒロインに何か大きな影響を与えているとは思えない。ヒロインが香港に

行くというエキゾチックを狙った展開の為に適当に拵えた筋としか思えない。

 

 但し話の筋がいい加減であるという「批判」は間違ってはいないものの、本作への正しい

「批評」にはなりえないと僕は思う。本作の趣旨は何なのか。人によって異なるだろうが、僕は

本作を観ていて「ブレードランナー」を強く意識した。

 

 本作はヒロインのある種の地獄巡りである。地獄の舞台をアジアに置いた訳だが、その風景は

リドリースコットが1980年に「ブレードランナー」で描き出した「2019年のロスアンゼルス」に

対する強いオマージュだったように僕には思えた。

 

 そんな「香港」の中を彷徨するヒロインとブレードランナーのヒーローであるデッカードの姿が

妙に重なった。二人とも何を探して異様な街をさまようのかが究極的には分かっていないように

思える。デッカードにしてもレプリカントを抹消するという表向きのミッションはあった訳だが、

実際には限りなく「自分探し」になっていたということが僕の理解である。本作のヒロインも

探し求めているのは表向きは「官能」なのかもしれないが、実際にはデッカード同様の

「自分探し」だと考えると案外腑に落ちやすい。そんな風に僕は理解した。勿論完全に

これは僕の自分勝手な感想である。

 

 映像が綺麗だ。アジアを舞台とした美しい映画は日本人の僕には嬉しい。

「100分DE名著 千の顔を持つ英雄」

NHKの100DE名著を鑑賞する為に本書も購入した。以下感想はTV放送と本書を合わせた

ものである。

 

 「千の顔を持つ英雄」とは世界各地に伝わってきている神話を比較分析し、基本的な物語の

構造が同じであるとしているとのことである。「とのことである」と書いたのは僕は「千の顔を持つ

英雄」という原典を読んでいないからであるが。ここはTV放送と本書を信頼して話を進めたい。

 

 基本的な構造とは主人公があるきっかけを得て日常世界とは別の世界に這入りこみ、そこで

数々の試練と苦難に耐えて勝利を勝ち取り、再度元の世界に戻ってくるという物語だ。

なぜかような物語が世界に共通しているのかという点に関しては原典の著者はユングの「集合的

無意識」に原因を求めているという。すべての人類の記憶の古層に刷り込まれた「物語」がある

という説だという。

 

 それはそれで実に興味深い説だと思う。一方で、僕としては「ところでなぜ人間は英雄を必要

としてきているのか」という点が気になっている。世界各地の神話はおしなべて英雄待望論に

なっているのではないかと考えたからだ。

 

 結論的に言うと、現段階で僕に僕なりのきれいな答えがある訳ではない。TVと本書で

「千の顔を持つ英雄」というものを知ったばかりの僕に直ぐに自分なりの答えを思いつくだけの

材料も時間も無い。

 

 但し直感的に言うと、集団生活を営むに当たってのカリスマの在り方というような課題が

人類の早い段階で持ち上がってきたのではないか。抽象的ではあるが、そんな気がする。

 

 集団生活は社会を形成する。社会は必ずなんらかの形でヒエラルキーを必要とする。

かようなヒエラルキーを作り出すためにはカリスマが必要となる。従い、カリスマを産み出す

文化的装置が必要であり、それが神話であり神話で語られる英雄だったのではないか。

 

 当たり前の話だが、現在の人間も同じ地平線に立っている。新しい神話と、そこから生まれる

英雄は常に待望されるに違いない。但し、それがどのような神話や英雄なのかは分からない。

ダークファンタジーやブラックヒーローでないことを祈るのみではある。