集団の狂気
アメリカの大統領の100日目の演説の一部をTVで観た。相変らずの内容でうんざりしたが、
むしろ歓声を上げている聴衆の姿が不気味であった。彼らは一体何に対して歓声を上げている
のか。いい加減それを理解出来なくなってきたからだ。
今のアメリカを見ていると、人類という哺乳類のある種の限界が露呈されつつあるという
印象が強くなってきている。歴史を振り返ると、人類の歴史は人類の愚行の歴史だったと
僕は思っている。そう思ってはいるものの、愚行の後にはそれなりの反省があり、愚行と反省
の繰り返しを通じて人類が学んできたものがあったとも思ってきた。そんな「成長」が
今後も続くことが出来るのだろうか。その点に個人的に強い疑義を感じはじめている。
現大統領一個人の狂気の有り様は理解可能だ。但し、それを産み出している「集団の狂気」
は今の僕には理解不能である。ハンナアーレントがアイヒマンの中に見出した
「凡庸さ」と同じものが、「集団の狂気」の中にもありそうな気はするものの、まだ確りとした
整理はされていないのだろうと思わざる を得ない。今回の「反省」がいつ、どのように行われる
のか。若しくは「反省」そのものが不可能になるのか。いずれにせよ、人類は試されているのだと
僕は思う。
映画「そばかす」
三浦透子という女優にとても期待している。端的に言うと、樹木希林を失った後を埋めることが出来そうな数少ない女優の一人であるということが僕の認識である。要は人間の持つある種の悪意や闇の部分をきちんと画面に出してくれる方ではないのか。そんな期待感で本作を観ることにした。
本作の登場人物達の多くが今の世の中で「住みにくい人たち」なのだと理解した。人に対する恋愛感情を持つ事が出来ないヒロインだけではない。鬱病に苦しんでいる父親、AV女優だったことを今でも引きずらざるを得ないように見えるヒロインの友人、ヒロインに対して友情以上の感情を持ってしまう中華蕎麦で働く男性、あっけなく自身がゲイであることを
語るヒロインの昔の同級生等が織りなす「住みにくさの世界」を淡々と描き出した作品である。何かを声高に主張する訳でもない。物語に大団円もない。そんなある種の禁欲さも感じさせる
小品である。
本作の登場人物は僕らの周りにもごく普通におられる方たちなのだろう。色々と選択肢が増えたことで、かえって住みにくい世の中でなってきた気もしないでもない。本作では「住みにくい世の中」をどうやって過ごすかについての処方箋も示されない。打ち込んできたチェロを諦めるというヒロインの最後の決断が何を齎すのかは、鑑賞した僕ら一人一人の
想像に任されて本作は静かに終わる。難しいテーマを捌いた監督と、何より三浦透子に感銘を受けた。
「浮浪児 1945ー 戦争が生んだ子供たち」 石井光太
第二次世界大戦敗戦後の日本に孤児が多かったという事は聞いて知っていた程度だった。
今回本作を読む機会を得て、何も知らなかったという事をよく認識した次第である。
敗戦が齎したものは数知らずあったと思うが、その中でも顕著なものは「人と人との関係の
有り方」だったという指摘が多いと聞く。敗戦前は、戦争遂行の為に日本人は良い意味でも
悪い意味でも上から「連帯」を強いられていた。「強いられ方」には色々とあったと思う。本人が
「強いられている」と認識している場合もあれば、本人にはかような認識がないものの
実は無意識に強いられているケースも多かったのではないか。そんな上から強制された
「連帯」が敗戦によって壊されたとき、日本人がどのように「人と人との関係」を再構築
出来たのか。それが本書の一つのテーマである。
親を失った、若しくは親を捨てた、孤児たちに寄り添ったのはテキヤであり、パンパンと
呼ばれた売春婦の方々だったという本書の描写は読んでいて少し心が温まる思いが
した。勿論かような話は限られたケースだったのかもしれない。但し「連帯」の有り方が
「上」からではなく「横同士」であったという事は、それまでの経緯と歴史を考えると
新しい何がそこに萌芽したと考えてもよいのかもしれない。これは僕のいささか能天気な
理解なのかもしれないが。
孤児たちは「孤児であったこと」を一生背負う事になった。それも本書が描き出している
もう一つの「敗戦」である。彼らが「もはや戦後ではない」と思えるようになったのはいつ
だったのか。若しくは一生戦後が来なかった方も多かったのではないか。敗戦時に
年齢が小さかっただけに、それからの戦後人生が長かったのだろうともちょっと思ったところだ。
梅酒を漬けて
自宅を整理していたら20年前に漬けた梅酒が出てきた。色合いもこなれた茶色で良く漬かって
いるようすだ。勿体ないので未だ飲み始めていない。なぜ我ながら勿体ないと思ったのかを
考えてみると、最終的には「漬けてきた20年」という時間の産物を簡単に飲んではいけない
と思っている自分に気が付いた。もともと飲むために作った梅酒を簡単に飲めなくなっている
という状況に苦笑するしかない。
時間を掛けないと出来ないものは結構ある。市販の梅酒はそれなりに早い時間で製造している
に違いないが、それは商売だからいたし方ない。従い、商売ではない自家製の梅酒の価値は
時間を掛けていることに根差している。そう考えると益々飲めなくなるわけだが。
タイパという言葉が出来たのは比較的最近だろう。いかに物事に時間を掛けないかという
方向性で語られる事象が増えてきている。勿論無駄に時間をかけることを良しとすべきでは
ないだろう。但し、「無駄に時間をかける」ということと「時間をかけることは無駄である」という
ことは全く違う話だ。時間をかけることが無駄ではない、若しくは、時間をかけることが
必要だというような事象も必ずあると僕は単純に思う次第だ。
タイパに精を出して時間を節約することは良いかもしれないが、節約して浮いた時間の使い道
をどう考えるのか。「時間は誰にとっても平等に限りある資源だ」と唱えることに異論はない。
但し、その資源をどう使うのかという点になると誰しもが、やや曖昧になる。そう考えると
梅酒を漬けて20年間忘れていたという茫洋たる時間の使い方というのも、また贅沢の
極みなのかもしれない。
映画 「オクトパスの神秘」
タコの高度な知能の本を以前読んだことで本作を鑑賞する機会となった。
前記通り「タコの知能」への興味で観始めたが、すぐに本作はラブストーリーとして観る方が
正しいと観方を変えた。人間とタコの恋愛と書いてしまうと異様な話であるが、本作において
映像で見せられるとごく普通のラブストーリーと変わらない。
勿論言葉も通じないし、タコの寿命がそもそも一年だけという状況である訳だが、例えば
「お互いに民族も文化も言語も違う二人が出逢い、かつ女性は余命一年だったという恋愛譚」
というように一般化してしまえば、いくらでも有りえる話しである。若しくは人間とタコの間には
「喰う喰われる」という「敵同士」という関係にあるとするなら、「敵同士の間で生まれた恋愛」
という「ロミオとジュリエット」の一つの変奏が本作であると強弁出来なくもない。それほどまで
本作を観ているとヒロイン役のタコが擬人化されてきてしまう。
これも当たり前の話なのだが、このラブストーリーで救われるのは人間の男性の方である。
仕事に倦み疲れ、家族も上手く行っていなかった主人公がタコとの恋愛を通じて人間として
回復していく様は感動的である。主人公を救ったヒロインが寿命を迎えて粛々と死出の旅に
つく姿も清々しい。南アフリカの荒涼とした海の風景は水墨画を思わせる。そんな景色の中
で、奇跡のような平凡なラブストーリーが語られる。しかも多くの人が途中でそうであることを
忘れてしまうと思うのだが、本作はノンフィクションでのドキュメンタリーである。
「茶の本」 岡倉天心 村岡博訳
還暦を迎えた今、漸く本書を読む機会を得た。もう少し前に読めば良かったと反省している
ところである。
「茶の本」という題名ゆえ、お茶の作法であるとか茶葉についてであるとか、茶に特化した本
だとばかり思っていた。従い、いままで特に読もうと思っていなかった。それが敗因である。
実際に本書を読んでみると、茶道を精神的に支えてきている道教や禅への岡倉としての考え
が縦横無尽で語られている。その「岡倉としての考え」は非常に明快であり、簡にして要を得て
いる。実に見事な「語り」であり、いささか驚くほどであった。
考えてみると「道教」にしても「禅」にしても中国やインド発祥の思想である。異国発祥の
思想を日本人である岡倉が語り尽くすというのも不思議な話なのかもしれない。但し、かような
インドや中国起源の思想が、日本の「茶道」において、ある種の「結晶」となったと考えると
岡倉が語り尽くすのもおかしくないのかもしれない。勿論、普通の日本人ではなかった岡倉の
経歴も本書に与えた影響も大きかったに違いあるまい。いずれにせよ、日本の近代という
時期において、東洋の思想を英語で欧米社会に発信した岡倉という知性は、普通の日本人
である僕にとっても痛快事である。
「続 日本軍兵士」 吉田裕
著者の前書「日本軍兵士」に続いて本書を読む機会を得た。戦死以上に病死が多かったという
歴史にはため息しか出ない。本書を読んだ感想は以下二点である。
一点目。本書は日本軍の装備や武器をアメリカのそれらと比較している場面が多い。本書で
描かれる限りでは、アメリカは兵士の装備、艦船の設備等は非常に優れており、比較に
ならないくらい日本を凌駕していた。戦う以前に圧倒的な差がついていた訳だ。
ここで気をつけなくてはいけないのは、上記状況はアメリカが人道的に優れていたというような
話しにならないようにすべきであるという点だと思う。確かにアメリカが日本に比べて兵士の待遇
に気を使ったのだと思うが、それは兵士を十全に「使う」ためであったと僕は思う。「兵士を
十全に使う」という考え方自体が「非人道的」だとすると、その点においてはアメリカも日本と
同類項であり、同罪である。
二点目。では、なぜアメリカの方が兵士の待遇に力を入れることが出来たのか。
勿論、第一義的には国力の差であることは本書が縦横に描き出している。限られた国力の
中で戦線を拡大した日本の当時の政治判断が結局何を齎したのかという点は今なお学ばなくて
はならない。但し、本書を読んでいるうちに、かような国力の差以前に、日本の固有の精神主義
の凄まじい弊害が噴き出ていたのだろうとも思わざるを得ない。
今の日本は気が付いたら観光立国である。非常に多くの海外の方が日本を訪問している。
彼らが喜ぶものは日本の自然と文化なのだと思うが、例えばその「文化」とは何なのかを
彼らの視点を通じて考えることは日本人としても重要だと思う。誤解を恐れずに言うならば
外国人からみて日本の文化にはかなり奇妙な点が多く、その「奇妙さ」が珍重されている
ということはないだろうか。かつ、そんな「奇妙さ」の頂点に「日本の固有の精神主義」
が今なお存在しているということは無いだろうか。そんな事を考えながら本書を読み終えた。
日本の美学というものがある。何が「日本の美学」なのかは、言語化しにくいが、確かに
そこに存在すると皮膚感覚で感じる。僕も日本人の一人として「日本の美学」には
共感するのだが、そもそも「美学」というものには副作用としての「毒性」があることも
肝に銘じなくてはならないと思う。戦争や戦死を美化することは案外容易であるような
気がしている。本書はかような「毒性」に対する優れた「解毒剤」である。僕はそう思った
次第だ。
「カワセミ都市トーキョー」 柳瀬博一
僕の住んでいる国立市や実家のある三鷹市の川沿いでカワセミを見る機会が増えてきたことで
本書を読む機会を得た。
本書は題名の通り東京で繁殖しているカワセミの観察をテーマとしている。「観察」といっても
著者がご自身の限られた範囲で行ったものだ。学術的なカワセミの生態記録ではなく、ごく
極私的なカワセミとの遭遇を描き出したエッセーに過ぎない。「過ぎない」と言うと本書を貶めて
いる響きが出てしまうかもしれないが、僕は全くそれを意図していない。なぜなら本書において
カワセミは「素材」に過ぎないからだ。本書の真のテーマは「自然とは何か」という古典的かつ
今でも新鮮な「大テーマ」に対する「一つの答え」を提出することにある。
著者は一旦は東京都市部からいなくなったカワセミがなぜ戻ってきたのかを追求する。「公害
などによる都市部の汚染が改善されてきたことでカワセミが戻ることが出来た」という簡単な
分析に留まらず、「古い野生」と「新しい野生」という二つの「野生」をカワセミの生態から取り出して
きている。特に「新しい野生」という主張こそが著者の提出する「自然とは何か」への一つの
答えだ。
その「新しい野生」とは、カワセミがコンクリートに囲われた川で外来種の魚やエビを餌と
することで人間にも隣接した場所で生活するようになったという適応を意味している。つまり
現在の東京の河川の風景はカワセミにとってはすでに十分に「自然」になっているということを強く
示唆している話だ。
そう考えると帰るべき「自然」というものは既に幻想に過ぎないのではないか。いまの東京で
繁殖を拡大しているカワセミたちが江戸時代の東京の河川を懐かしがるとも思えない。
「自然」とは、かつて昔にあったものでもない。常に現在進行形で動いていく流動的なもので
あると言えるのではないか。そんな主張を著者はカワセミに言わせている気がした。
NHK「映像の世紀」
NHKの「映像の世紀」を割と熱心に観ている。「百聞は一見に如かず」という。まさに映像で
歴史を振り返るという、この番組の説得力は大したものである。一方で、観ているうちに戦争を
テーマとしていることが多いと思うようになってきた。なぜだろうかと考えることは頭の訓練に
なる。
一つには戦争関係の「映像」が圧倒的に残っているということではないだろうか。
戦争関係の映像はプロパガンダの為に撮影されたものも多いと思う。戦争をやっている各国が
自国の戦意高揚の為に色々なニュース映画等を作ったと聞く。プロパガンダであるだけに
その「真実性」にはやや疑問も残る点を差し引いても、貴重な映像が残っていると僕は
思う。
二つ目としては、今の時代は久しぶりに世界大戦の足音が聞こえてきているという背景が
あるのではないか。きなくさい時代になってきた中で、過去の戦争の映像を放映することには
十分な意義があると番組制作者が考えることは十分に納得がいく話だ。過去の戦争の
景色を観ることで、戦争の愚かさを視聴者に訴えることは大事なのだと思う。
それにしても「人間は学ばないし変わらない」ということが「映像の世紀」を観ていて強く
思う。第一次大戦と第二次大戦の風景と、今の中東やウクライナの状況には本質的な
違いは無い。人間が変わらないが戦争の道具である武器はどんどん変わっていく。人間が
作った武器が一人歩きしていく姿には本当に度し難いものがある。


