「物事はシンプルに考えるべきだ」という呪文
今朝の日経新聞の二面に、元米国商務長官の以下の談話が記載されていた。
「DEI(多様性、公平性、包摂性)廃止は米国経済にとって、費用対効果の高い政策であることは
間違いない。企業がDEIやESGなどを推進するにはコンプライアンスのコストがかかる一方で、
そのコストに見合うほどの収入は生み出されず、コストは最終的には消費者に転嫁される」
インタビュアー(日経新聞記者)からのコメントには「すべてを費用対効果で割り切ろうと
するのがトランプ流『ディール』だとすれば、混乱は当面収まりそうにない」と結んでいた。
今の米国経済や、米国の企業にとって上記コメントは「本音」なのだろうと思う。一時流行
したPOLITICAL CORRECTNESSに疲れてきたのが現段階の世界であるようにも見える。
その疲弊を突いて、新しい米国大統領が産まれたという面は否定できないに違いあるまい。
言うまでもないが「費用」と「効果」の定義がはっきりしない中で「費用対効果」がどうなのか
という議論は難しい。議論が難しいと直ぐに単純化したくなることが我々である。
「物事はシンプルに考えるべきだ」という意見はあらゆる局面で出てくる言葉ではある。
割と良い響きがある言葉だ。但し、裏を返すと「つきつめて考え抜くことを無駄と判断し、
放棄することを推奨している」という見方も出来よう。
議論を単純化すると、費用も効果もお金で定義してしまうのではないか。「お金」とは
人類にとって数千年使ってきた「分かりやすい」単位だ。従い単純化するに際して使い勝手
が良い。誰に対しても説明も容易である訳だ。
そう考えると、今の我々のチャレンジとは「物事の単位を全てお金にする」のか、「お金
を超えた別の単位も見つける」のかということなのかもしれない。後者はそう簡単には
見つからないだろうし、そもそも最後まで見つからないかもしれない。見つからないという
ことであるなら、それが人類という一つの哺乳類の限界となるのだろう。
大雪に思う事。シェイクスピアの「リア王」
ニュースを見ていると今年の雪は災害以外の何物でもない。かなりの方々が雪に起因して
亡くなっている。東京生まれで東京育ちの僕にとっては雪とは楽しいものだという思いしか
無い訳だが、各種の報道を見ているとそれも暢気で無責任な思いだということが今年は
良く分かった。
それにしても雪に埋まった風景を見ていると、あれだけの「水」が空に存在していることに
あらためて驚く。「宙に浮いている巨大な淡水湖」という話だ。
地球上に存在する水全体のうち、淡水の割合は2.5%程度だという。更にいうと、生活用水
として利用できる淡水は0.01%に過ぎないらしい。多くの陸上動植物が淡水に頼っている
ことを考えると、かような数字は非常に小さく見え、従い淡水の貴重さが際立つ。その中で
「空」が果している「海水の淡水化機能」の重要性を改めて思わざるを得ない。海から生まれた
水蒸気を空に「保管」し、ある段階で地上に降らせるという循環は死活的に大事ということ
なのだろう。
それにしても海水をもう少し使えるような体の造りにならなかった理由は何なのかと
考えることは頭の体操になるのだろう。シェイクスピアは「リア王」の中で「塩」の重要性を
述べている。若しくはサラリーという言葉の語源も塩を意味するソルトから来ているという。
かように大事な「塩」であるくせに「塩水」となると受け付けないという話は不思議だ。
これは生物学に素人な僕の素朴な疑問ではある。
映画「ドライブ・イン・マンハッタン」
休日の吉祥寺で鑑賞した。感想は2点である。
一点目。ヒロインと、その不倫相手とのSNSでのやりとりに違和感を感じる場面があった。特に
ヒロインが不倫相手に対して送った性的なメッセージがどうだったのかという点だ。結末近く、ヒロ
インは自身の妊娠と流産の話を出している。その話は本作にとって決定的である訳だが、それを
踏まえた上で不倫相手とのSNSにかようなメッセージを送るものだろうか。若干深読み
するなら妊娠と流産を不倫相手に言っていないだけに、「普段通りの自分自身」を出したかったということなのかもしれない。但し観客である僕にとってはかような深読み自体も不要である。
これが僕にとっての本作の「謎」である。
二点目。とはいっても二人の役者がタクシーという密室の中で語り合うだけという設定には
引きこまれた。最初で最後の出会いの中で自分達自身のことをさらけだすという点には
妙なリアリティーがある。因みにいま僕は「出会い」と書いた。「出逢い」ではなく「出会い」
である点が本作なのだと思う。
既視感がある。この二人の会話は、新聞等に出ている人生相談に似ている。
新聞等の不特定多数が見ている公の場で「人生相談」という極私的な悩みを吐露するというの
は考えてみると不思議な話である訳だ。匿名性が徹底されると、人は自分の秘密を他人に
言いたくなるということなのかもしれない。秘密を自分だけで抱える苦しさから逃れる一助
として、全くの匿名空間は癒しの場になるということか。
本作の二人も、お互いの匿名性の中で語り合っている。映画の中での名前の取り扱い一つ
を見ても、その匿名性が浮き上がってくる。そんな閉じられつつも大きく開かれた空間の中で
二人はまるで独り言をつぶやくように語り合っていく。そんな「距離感」は「大人の会話」
というような表現にもなるのかもしれない。
二人の間には何も起こらない。タクシードライバーが差し出した握手の手をヒロインは握ら
ない。当然ながらキスも無い。むしろかような場面があったら観客も混乱するだけだろう。
人生相談は終わり、映画は暗転する。二人の役者の芸達者ぶりに脱帽するだけだ。
「対立する相手」と「敵」
週末に本を読んでいたら以下のような一文を読んだ。アメリカのある政治家への評価である。
「彼には対立する相手はたくさん居たが、敵はほとんどいなかった」
「対立する相手」と「敵」は別物であるという話だ。
「対立」するものは何か。色々とあるだろうが煎じ詰めると「考え方の違い」ということなのだろう。
「各人が各人の考え方を個別に有する」ということは自明の理ではある。「自明の理」とは
「とても当たり前過ぎて議論の対象にならないもの」という意味なのかもしれないが、そうだと
したら案外落し穴もそこにあるのかもしれない。各人が「自明の理」だと考えているものは、
各人の「考え方」でもあり、従い、「考え方の違い」に辿り着いてしまうからだ。但し、この
「自明の理」を考えることはまた次の機会として、ここでは「対立」と「敵」を考えなくては
ならない。
「考え方の違い」と「敵」との間には、どのくらいの距離が開いているのだろうか。各人の考え方の
違いは許容すべきだという前提に立つと、その距離はそれなりに長くて大きい気がする。但し、
皮膚感覚ではどうか。「敵」とは「違う考え方」であり、従い「考え方が違う相手」とはなっていない
だろうか。そう考えると冒頭にあげた一文は、実はフィクションではないかとも思えるのだ。
とても残念ではあるのだが。
ではフィクションならだめなのか。そうとも言い切れない気がする。「自分は善人である」という
ことがフィクションであっても「善人ぶる」ということでフィクションを「演じる」ことは不可能ではない。
上手に演じられたフィクションは他人からはノンフィクションに見える。ノンフィクションに見える
フィクションは、もはやノンフィクションと言い切ってもいいのではないか。冒頭の一文が
フィクションであったとしても、「そう見えれば」それで良い気がする。
我ながら書いていて脈絡がつかない。「真実と事実は別物だ」とでも言えば我ながら腑に
落ちると良いのだが。そういえば「敵」の定義も出来てないことにも気が付いた。
成田離婚
ホンダと日産の統合の話が破談となったと報道された。
統合話の破談は別にとても珍しい話ではない。但し、今回は統合検討開始のリリースから
わずか一か月強での白紙という展開は驚きをもって受け止められたと思う。成田離婚という
昔の言い回しも思い出した。最近なら羽田離婚と言ってもよいかもしれない。国内の新婚
旅行での離婚もあるかもしれないからだ。
何が有ったのか。真実は結局は藪の中なのだろうが、いずれにせよ昨年末の段階では
「生煮え」だったと思わざるを得ない。昨年末に同席していた三菱自動車も早々と参加しない
ことを表明した点も不思議であった。
ここで考えるべきは、なぜ「生煮え」の段階でリリースしたのか、若しくは「リリースせざるを
得なかった」のかという点なのだと思う。
関係者が「生煮えではなく、良く煮え切っている」と思っていたとしたら、かような関係者の
センスには疑問符が付いてしまうだろうが、流石にそれもあるまい。生煮えを承知でリリース
したという前提で、その背景を考える方が正しいのではないだろうか。
いずれにせよ真実が明かされることは無いと思う。但し、今回のバタバタ劇は日本の何かの
優位性が崩れたことを暗示している気がしないでもない。
害虫と益虫
今朝の新聞を読んでいると「コーヒーでハエ退治?」という記事を読んだ。コーヒー等に含まれる
カフェインをハエの一種に過剰摂取させると一種間程度に死滅するという話だ。読んでいて
引っ掛かったのは「人体に優しい害虫駆除の手段」という表現である。
まずハエを害虫だとあっさり言い切ってしまっているが、本当にハエを「害虫」と呼んでいい
のだろうか。ネットで調べてみると、ハエは大腸菌・黄色ブドウ球菌・サルモネラ菌等の媒介者
である。ハエの手足に菌が付着してしまい、その結果として伝播させてしまうということだ。
なるほど、その意味では「害」とも言えるだろう。
但し、一方でハエは益虫という見方もある。植物の受粉、廃棄物や腐敗物の処理等で自然界
に対して大きな貢献をしている。例えばハエが全て根絶されたとしたら、おそらく自然界の
バランスは大きく崩れるのではあるまいか。
「害虫」であるとか「益虫」であるとか人間が勝手に呼んでいる訳だが、一言で言うと「人間に
とっての」害だとか益だとか言っているに過ぎない。あくまで部分最適に過ぎない。自然や
地球全体を視野に入れている訳でもない。全体最適という視点は欠落している。
百歩譲って部分最適を良しとしても、ハエが人間にとって本当に害なのか益なのか分かって
いるのだろうか。心もとない気がする。
人間は自分達が思っているほど「自然」、「生物」のことは分かっていないと考える方が正しい
と思う。そもそも人間の人体の仕組みですら分かっていないことはいくらでもある。ハエが思わぬ
部分で人体に役に立っているということがあってもおかしく無い。そんな謙虚さが無いなかで
勝手に「人体に優しい害虫駆除」等と言ってしまっていいのだろうか。




