くにたち蟄居日記 -16ページ目

「宿なし弘文 スティーブ・ジョブスの禅僧」

 

月に一回、地元のお寺の座禅会に参加するようにしている。禅への興味が高まったことで本書

を読む機会を得た。感想は三点である。

 

 一点目。本書の主人公である弘文はスティーブ・ジョブスのメンター的な存在であった。

従い本書も、ややスティーブ・ジョブズに引きずられている感が強い。勿論ネームバリューとして

のスティーブ・ジョブスは圧倒的である。弘文の人となりと人生を出来るだけ多くの読者に

届けたいであろう著者がスティーブ・ジョブスの名前を使うという戦略は首肯出来る。但し、

これは僕の想像なのだが、弘文にとってスティーブ・ジョブスは「弟子のひとり」という程度

であったのではないか。また、そうである方が弘文らしいのではないか。そんな気がした。

 

 二点目。本書で描かれる弘文という方は、見事に破綻した方だと言い切っても良いと思う。

但しここで僕が言った「破綻」とは決して悪い意味で使った訳ではない。「普通の人ではない」

という意味だ。「異形」という言葉の方が正しいかもしれない。

 大多数の人が普通であるなかで、異形の方は突出する。その突出の仕方によって「偉人」

になったり。時には「極悪人」と言われたりする。いずれにせよ、かような「突出」に普通の僕らは

強く惹かれることが多い。弘文という方の突出ぶりが本書の生命線であり、著者が本書を

書く動機になっていることは想像に難くない。

 因みにスティーブ・ジョブスの「破綻」ぶりも有名である。その意味ではスティーブ・ジョブスと

弘文という方は、そもそも重なる部分が多い。異形は異形を知るとでも言えば正しいのかも

しれない。

 

 三点目。本の作りが僕には新鮮だった。弘文を知る方へのインタビュー集である。インタビュー

を受ける方々は、各々自分にとっての弘文を好き勝手に言い散らかしているだけと言える。

従い、各々の話が正しいのかどうかは分からない訳だが、その人にとっての弘文という

意味では全て正しいはずだ。人によっては話を盛っているだろうが、「盛らさせる弘文」とでも

考えてしまえば、それも真実である。「群盲、象を撫でる」という言葉がある。象としての

弘文の「形」は様々だ。その様々の「様々ぶり」が「異形」である弘文の一つ一つである。

昭和四十年代の水道管

 冬になると水道管が凍結して破裂し、断水というようなことがしばしばあったのは僕が子供の頃

である。昭和40年代の話だ。もう50年前になる。

 

 今考えると、それほど深刻で長引く問題になっていなかった気がする。直ぐに修理され、

断水期間も永くは無かった。また、影響を受けた家の数もとても多いという話でもなかった。

今回の埼玉県八潮市での問題を見ているうちに、そんな昔のことを思い出している。

 

 今回の問題が長引く理由は色々とあると思うのだが、端的に言うと「中央集権的な管理

体制とはひとたび機能不全に陥るとそう簡単には解決できない」ということなのではないか。

今回の問題が出る前まで地中がかように複雑かつ高度に管理されているとは知らなかった

僕もおめでたかったということだ。但し、僕同様に知らなかった方も多いのではなかろうか。

 

 「中央集権型」と「分権型」のどちらが良いのかという議論は古くて新しい。政府の在り方や

会社組織の作り方等で常に議論の俎上に上がる話だ。そういえばインターネットは「分散型

の軍事体制の構築」の中で生まれたとも聞く。中央集権型だと、敵の攻撃をまさに中央に

受けた場合機能停止してしまうので、分散させるべきという話らしい。

 中央にいる意思決定者から見ると中央集権型の方が効率も良いだろうし、管理も簡単なの

だろう。ある意味低コストなのかもしれない。但し、その「中央」が機能停止した場合の被害の

甚大さというリスクは看過できない。「低コスト高リスク」という話なのだろうか。

 

 50年前の水道は分散型であり、従い分権型だったということなのだろう。だからこそ問題は

頻発するにせよ大きくはならなかったということか。何が正解なのかは常に難しい。というか

正解などそもそも存在しないと言い切る方が正しいか。

「能力も運のうち」 マイケル・サンデル

マイケルサンデルとピケティの「平等について」を読んだことで本書も読む機会を得た。日本ではトランプ

大統領が再選されることがどうにも理解しがたいと思っている方も多いと思う。僕もその一人

である。本書は、かような方が読むのに値する一冊である。

 

 本書で描かれるのは「能力主義」の強い副作用であり、それを担保する学歴主義の毒性

である。「学歴主義」というより「教育主義」という言い方の方が正しいのかもしれない。

 

 数ある考え方の中で「教育の平等」を主張する意見は多い。「出自や経済力に拘わらず、

教育を受ける権利は平等にあるべきだ」という意見に対して反論する人もそんなにいない

と思われる。但し、そこに毒が仕込まれていたということを今回本書を読んで痛感した。

端的にいうと「教育」に対する無邪気な「信仰」があるということなのだと僕は理解した。

 

 「教育の目的は能力の向上である。能力を獲得した人とは教育を通じて自己研鑽した方で

ある。能力を獲得した方は優れている。能力を獲得できない方は自己努力が不足していたと

いうことだ。結果として人の優劣につながっていく」。というようなロジックを辿って

いってしまうのではないかということが本書の基本線だと僕は読んだ。

 

 最大のポイントは「人の優劣につながっていく」点にある。教育信仰が人の優劣を「決める」

ような状況の中で、例えば低学歴の方は低学歴である為に「劣っている」とされ、何より

その人の中で内面化されてしまう。そんな多くの方々にとって従来の為政者とは優越的な立場

からの上から目線で自己責任を問いかけてくる存在に見えるのではないか。そこにトランプ

大統領のような「従来のヒエラルキーを破壊してくれそうな方」が登場してきたら拍手喝采で

迎えてしまうのではないか。

 

 そんなことを思いながら読了した。著者の現状解説は立て板に水だ。しかし、解決策は

なかなか見つからない。

映画「鹿の國」 

 

 

神社仏閣という言葉はあるものの、当たり前のことながら、仏教と神道は別物である。

仏教はある種の高度な思弁の上に成り立った「哲学」である。般若心経を頂点とした(と

理解している)独特の「論理」があり、悪く言うと説教臭もきつい宗教である。説教臭を

隠すための「香水」が、お香である。寺のお堂を満たすお香はある種の麻薬であり、

哲学を解さない僕らを陶然とさせる効果があるのだ。

 

 一方で僕の理解している限りではあるが、神道にはかような「哲学」は無い。神道なりの

「論理」はあると思うが、それは神道の独自のアニミズムを強化・補佐する場面で発揮される

ものだ。仏教のそれとは大きく異なる。本作はかような神道のある種の「論理」の有り様を

描き出している作品だと僕は理解した。

 

 神道のアニミズムは中々言語化することは難しい。桜の木の下の祠、祭儀に飾られる

鹿の首、束ねられる草木の塊。各々なんらかの「論理」に基づいているのだろうが、それが

何なのかを言葉で説明することは困難だ。

 

但し本作の「映像」を眺めていると、その「論理」の有り様が自分に迫ってくる。「鹿なくてハ

ご神事ハすべからず」というある種の「呪文」も、頭では良く分からない一方で、皮膚感覚では分かってしまう。そんな映像体験が本作を観るということだ。本作を観て諏訪に行きたいと思ったのは

僕だけではあるまい。

 

 いくつかの場面でタルコフスキーの映画を思い出した。タルコフスキーの映画には入眠作用が

ある。本作を観ていてもふっと意識が飛ぶことが数回あった。それがとても心地よかったことも

つけ加えておく。

昨日の別府大分マラソン  引き際の美学の在り方

昨日の別府大分マラソンは観戦して楽しかった。初マラソンにして引退レースの青学の若林

選手の激走は見事としか言いようが無い。但し、それ以上のレース後の同選手の「引退」に

ついての世の中の各種コメントが頭の体操になった。

 

「引退を惜しむ声」と「引退を潔いとする声」が結構拮抗していた。前者については想定内であり、

僕ですらあの走りを見ると同感を禁じえない。一方で後者のコメントが想定以上に多いことに

興味を覚えた。

 

日本人は比較的「引き際」を大事にするような気がする。

 

「出処進退」という言葉は引き際の美学に直結している。「老兵は死なず、消え去るのみ」

というマッカーサーの言葉は、ある意味では引き際を「消え去る」という言葉で「受動的」に

表したように思える。日本人としてはややニュアンスが分かりにくい言葉だなと前から勝手に

思っていた。日本人だったらむしろ「消える」ではなくて「死ぬ」ほうを積極的に選びそうでも

ある。古来、自決に漂うある種の「甘美」や「美学」もあるではないか。

 

 そのような中で、今回の若林選手の引退の決意は美学という面では極めて「優れている」

ように多くの日本人が感じたのではないか。

 

ご本人が本当に引退されるのか。それとも前言撤回されて競技を継続されるのか。ご本人

次第である。前述通り僕自身も「引退は惜しいな」と思っている一人である。但し、今回の決意

の甘美さにも弱いと今思っているところだ。我ながら腰が定まっていないと苦笑している。

 

 それにしても彼の就職先とされている日本生命は結構対応を迫られそうな気がする。

色々かつ無責任な声が直接同社に飛んでいくだろうし。それもSNSのご時世ではある。

”「アマデウス」 映画”

 

 

経済学とはいったい何なのか

今朝の新聞に近年の世界の流れを解説する記事があった。その記事に因ると世界の

動き方は、「格差拡大→ポピュリズムの台頭→(バラマキ等による)財務の予見性の低下→

(その国の)信用度の悪化」という事だと言う。

 

 「経済学」という学問は他の学問に比べるとかなり「若い」のだと思う。哲学、物理学等は

紀元前から存在していた。経済学の始まりはいつと言われているのか。ネットで調べてみると

1776年のアダムスミスが「国富論」を出したことが始まりだとする論が多い。因みに「経済」

という言葉は中国の隋の時代の王通『文 中子』礼楽篇に、『皆有経済之道、謂経世済民』と

あって、経済が経世済民の略語として用いられていたとのことらしいが、「経済学」という

学問の体系は備えていなかったのではないか。

 

 そんな若い学問である「経済学」に対する僕らの期待はかなり高いと思うが、それは端的に

言うと「人は金で動く」という単純な理解があるからではないだろうか。「金を上手に調整

することで人間を動かせる」という学問が「経済学」のコアではないか。経済学に素人な僕の

極めて単純で乱暴な定義なのだと思うが。

 

 冒頭の「流れ」の中で経済学が活躍できる部分はどこか。「財務の予見性」や「信用度の悪化」

という「川下」部分では経済学が意見を持つであろう。また「格差拡大」を数値化する部分でも

経済学は機能しそうだ。従い、僕らの期待通り経済学は「解決策」を出してくれるのだろうか。

 

 これも僕の偏見なのだが、経済学は数値化が好きなのだと思う。そもそも人間は物事を

数値化・数式化する傾向が強い。数値化・数式化することで単純化し、理解しやすくなるのだと

思う。そうこうしているうちに「人間自体も数値化・数式化できないか」と考えるようになって

きているような気もしないでもない。その数値の単位として「お金」を採用するというのは

分かりやすい話だ。分かりやすいだけに盲信に繋がる。従い、経済学に期待してしまう。

そんな話ではないかとぼんやり思ったところだ。

 

 人間はそう簡単には数値化・数式化される生き物ではないと僕は思う。「格差拡大」の

問題の本質は「人間の尊厳」という「お金」以外の動機があるのではないかという点を幾人

かの哲学者達が必死に解明しようとしている。マイケル・サンデルのいくつかの著作等も、

かような試みの一つだと僕は理解している。僕自身が、考えの纏まらないままに今これを

書き散らかしている訳であり、もう少し考えていきたい。

映画「どうすればよかったか」 

 高校時代の同級生の強いお勧めで鑑賞した。その同級生は医師である。医学に従事している

から統合失調症を描いた本作を観たのだろうかと初めは思っていたが、途中からそんな簡単

な話ではないことに気が付いた。この作品は家族とは何かという問いかけを観客に迫って

くる。

 

 映画の白眉はラストシーンで監督が実の父親と対峙する場面である。

 

 監督は自身の姉の治療に関して、父親と母親の対応が果して正しかったのかを問い詰める。

父親は基本的には正しかったとはっきり言う。

 

 観客である我々は既に20年間もの間の父親と母親の対応振りを見てきた。入院させること

を強く拒み、従い十分な治療が無かったのではないか。世間体を気にするあまり、子供の病気を

正視することから逃げていなかったか。父親と母親はお互いに責任転嫁をしているようでは

ないか。そんな思いがあっただけに、個人的には父親の断言を聞いて違和感がまず有った。

 

 但し、と考えてしまう。もしかすると案外と正しかったという見方もあるのかもしれないと

思い直した。何が正しくて何が正しくないのか。それは誰にとっての正しさなのか。例えば

病んだ姉にとって、何が幸せだったのか。それは実はとても難しい問いかけなのだと思う。

少なくとも、いくつかの場面において「幸せな家族」が現出していたこともあった。そんな

風に思い返しているところだ。

 

 繰り返すが、この作品は家族とは何かという問いかけを観客に迫ってくる。ごく普通の家族におられる方に

しても、この映画のどこか・何かに、一瞬ぎくりとさせられることがあると僕は思う。その

意味ではある種のロールシャッハテストにも似ている。この映画の鑑賞の仕方は

おそらく無数にある。ひとりひとりの「鑑賞の仕方」が、その人にとっての「その人

なりの家族」に繋がっていく。怖い映画である。

 

 20年間もの間カメラを廻した監督には敬意を表したい。登場人物と物語がリアルである

ということが圧倒的な説得力を産んでいる。このような映画は観たことが無いし、今後も

このような映画はそうざらには出て来ないだろう。

消費されるハラスメント

 昨日の某テレビ局の長時間に渡る記者会見に関するコメントを今朝見ていたところだ。

興味深かったのは記者会見で質問者側にたったマスコミへの批判が少なくないことである。

要は質問者自体の品位がどうだったのかという話だ。しいては、「日本のマスメディアのレベル

の低さを世界に知らしめた」というようなコメントまで有った。

 

 そのコメントが正しいかどうかを判断する知見が僕には無い。但し、ここで考えなくてはならない

のは、もしマスメディアのレベルが低いとしたら、それは僕ら視聴者側のレベルを問われるという

ことだろう。マスメディアも商売でやっている以上、視聴者が望むものを供給する事が仕事に

なるからだ。

 

 いま僕は「視聴者が望むもの」と言った。これはやや綺麗すぎる言葉かもしれない。「消費者

が欲望するもの」という方が正しくはないか。視聴者は消費者と言えないか。

 

 ハラスメントが「消費」される時代になった。いままでレストランの裏メニュー程度だったものが

シグネチャーの表メニューになってきた感がある。○○砲という表現で有名なメディアを

見るにつけても、消費者の嗜好の変遷が分かる。そう考えると「視聴者側のレベル」

というよりは「消費者側の好物」という話になっているのかもしれない。そう考えると

「コーポレートガバナンス」という厳めしい「思想」も、裏メニューあたりに載り始めて

いる気もしてきた。

「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」 

 地元の公民館で月に一回映画鑑賞会が行われる。70名程度入れる地下ホールでパイプ

椅子を並べて鑑賞する会だ。もう40年以上続いている。僕も21歳のころに「泥の河」を

鑑賞した記憶がある。そんな僕も還暦を迎えた。今回は「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」である。

1976年の作品だ。もう50年前の映画である。寅さんの映画はぽつぽつと観てきているが

本作は初めて鑑賞する映画だった。

 

 解説によると、寅さんシリーズの中でマドンナが最後に亡くなるのは本作が唯一だという。

確かに寅さんシリーズとは寅さんがマドンナに毎回フラれるというワンパターンの喜劇である

ことを考えるとそのマドンナを死なせる訳にはいかないだろう。いま僕はワンパターンと言った。

通常であるなら「ワンパターン」という言葉にはいささかネガティブな響きがあるが、寅さん

シリーズではそうではない。「予定調和」という言葉がふさわしいのかもしれないが、そんな

綺麗な言葉を使っても寅さんの物語は表せない中で、ワンパターンという言葉が

むしろ相応しい。予定調和的に寅さんはフラれ、観客も予定調和的に感情移入する訳だ。

 

 では掟破りの本作はどうか。京マチ子という大女優をマドンナに据えた段階で、通常の

「ワンパターン」では話が収まらないと山田洋次が考えたとしてもおかしくない。「マドンナが

亡くなる」という特別な結末を京マチ子の為に用意したと思うと、とても腹落ちする気が

した。京マチ子が演じた「滅びゆく女性」は堂々として美しい。太宰治の「斜陽」を思わせるもの

が有った。言い過ぎなのかもしれないが。

 

 還暦になってくると寅さん映画を観る見方が変わってくる。20歳台や30歳台は無邪気に

笑っていれば良かった。60歳を超えると寅次郎が抱えている本質的な孤独が少し

味わいを増してくる。その孤独感があるからこそ、「とらや」の面々の温かみが際立つ。

公民館の映画会の観客も大半が60歳を超えた方ばかりだ。映画が終わった際の

皆さんの沈黙ぶりに、観客各位の本作に対する大いなる感情移入を感じた。