自国の小ささはメリット
今朝の日経新聞では北欧の企業の成功の背景を分析する記事があった。記事の中
で「国際的な視点が必須となるという意味で自国の小ささはメリット」という企業経営者の
言葉が引用されていて考えるヒントとなった。
僕は昨年3月末までシンガポールに2年間住む機会を得た。「自国の小ささ」という面では
シンガポールは北欧諸国とは比較にならないくらい小国であるが成功の度数という点では
北欧を凌駕していると理解している。シンガポールにおいても上記言葉がそのまま適用可能
なのだろうと思った次第だ。
シンガポールの場合には「国際的な視点」の前に、まず国内の管理体制が極めてしっかり
している。「明るい北朝鮮」と呼ばれることも有名だが、それだけある意味監視と管理がゆき
届いている。それを可能にしているのはなんといっても管理する範囲の小ささを齎している
国の小ささがある。
その国内管理の徹底とある種の独裁が国としての意思決定を速いものにしてきた。加えて
決定する「意思」の確からしさが、同国を稀に見る繁栄した国にしてきたと言える。
但し、とここで天邪鬼のように考えてしまう。
但し、「成功」とは何なのかという点は未だはっきりしていないということはないだろうか。
国のGDPであるとか、その国の企業の定量的達成というような数値で「成功」を定義
するのも、やや性急な気がしないでもない。現在においては、それがシンプルな指数だと
しても例えば2世紀後にはどうなっているのかは見当もつかないと僕は思う。そもそも
「国」という概念が曖昧になりつつあるような気がしてならない。ここ数百年という短い
期間にバタバタと人工的に決めた「国境」のあやふやさは今の地政学的な問題の1丁目
1番地である。国の大小以前の問題が噴出しつつあるのではないか。
下ネタとAI
今朝の日経新聞「経済教室」では「普通の熟練者」と「一流の達人」という言葉で今後のAIの
可能性を論じている。前者と後者の違いとして、後者は前者の能力に加えて、自分自身の
独創を「逸脱ギリギリ」ないし「若干逸脱」という地点で展開できる点にあるとしていると読んだ。
その上でAIは「普通の熟練者」には成れるものの、「一流の達人」にはなお届かないのでは
ないかという前提で、各人には各々の独創を磨くべく「学習」を継続すべきだと結んでいる。
以上は僕の勝手な読み方であり、著者の真意とは違うかもしれない点は予め断って
おくが、「勝手な読み方」をするのも僕の自由ではあると「逃げ道」も用意しておくか。
この記事を読んでいて直ぐに思ったのが、どうした訳が「下ネタ」である。
多くの方に同意頂けることを期待しているが、「下ネタ」の面白さは万国共通かつ万国共有
であると思う。なぜ下ネタは僕らにとって普遍的に面白いのかを掘り下げると、おそらくは
性に対する人間の意識の深層を辿る深くて長い道が待っていそうなので僕には荷が重い。
但し、「その面白さとは何なのか」を考えることは日常生活の中で考えることが出来る。
端的に言うと、下ネタの面白さは「下品」と紙一重の「ギリギリさ」にあると思う。下ネタとは
言う方より、実は聞いている人が試される部分もあるのだ。すなわち、ある下ネタが提示
された場合に「否定的に眉をひそめる」のか「肯定的ににやりと笑うのか、もしくは大笑するのか」
を聞いた人は瞬時に選ばなくてはならない。
その選択は実は案外かつ結構重い。下手に肯定すると当該の下ネタを言った人と同類項
にされてしまう。一方、下手に否定すると「無粋もの」という評価がくるかもしれない。どちらかと
いうと肯定的に対応したいがさて肯定して良いものか。
そんな中できちんと「ギリギリセーフ」の下ネタを言ってくる方は有難い。安心して肯定出来る。
かような方はユーモアとエスプリの効いた「一流の達人」ではないか。というような展開に
なるのではないか。
ここまで書いて「ところでAIに下ネタを作らせたらどうか」と思いついた。さてどうなるのか。
笑っていいのかどうか。
優先順位をつけること
今朝の日経新聞二面の「直言」という記事では、能登地震の際の政府の対応を素材として
有事におけるリーダーシップの在り方を元内閣危機管理監の伊藤という方が説いている。
興味深く読んだ。
有事に際しては、考えなくてはならない要素は膨大にあるとまず言えると思う。問題は
要素が膨大であることに惑わされて、優先順位をつける冷静な判断力が失われる点に
ある。判断がつかないと総花的な対応を強いられ、色々な事物に一度に手を出そうとして
しまう。そうなると限られた能力と限られた時間を収拾がつかないまま費やしてしまうという
話しのようだ。
従い「優先順位」が大事な訳だが、ここで思ったのは、やや飛躍でとても乱暴だとも思うが
コロナの際の「トリアージ」論である。
膨大な瀕死の病人を前に「誰を助け、誰を諦めるのか」を決めなくてはならないという
厳しい判断作業だったと聞く。同じような厳しい即断即決の判断作業が大災害にも必要になるのだろうか。
「優先順位を判断すること」は端的に言うと「権力と権威を持つ」ということなのかもしれない。
今の世界の中で権威主義的な指導者が増えてきている(と理解している)背景には世界自体が
既に大災害の下にあるのかもしれないというようにも理解できるような気がしてきた。
「目に見える大災害」だけではなく「目に見えない大災害」もあると考えておくことも必要な
時代になってはいないだろうか。
「東芝 原子力敗戦」
山本義隆の「核燃料サイクルという迷宮」に言及されていたことで本書を読む機会を得た。
「原子力」とは単なる一業界に留まらない極めて裾野の広い業界である。かつ、単なる経済
活動以上に軍事面の重要性が大きく、従い政治や国家が強く関与と干渉をしてくる怪物の
ような存在だ。「国策」や「地政学」という大きな入れ物の中に、色々なプレイヤーがひしめき
あう。本書で描かれる東芝も、その一駒に過ぎない。
そんな一駒は、しかし、自分の私利私欲に基づいた思惑によって動いている。「お国の為」
という大きな大儀の中で、実は「会社の為」である。かつ「会社の為」でありながら、実は
「自分の為」である。国策の中で滅私奉公している積りが、実は自分の卑近な欲に駆られていく
「一駒」たちの群像は、人間の業の深さを垣間見せる。度し難いという古い言葉も思い出すのだ。
本書の秀逸な纏め方はナチスのアイヒマンを最後に登場させる点にある。「私の罪は
従順だったことだ」というアイヒマンの言葉は、「国策の為」「会社の為」であることを盲目的に
信じて「従順」であった本書の登場人物全ての背後を突き刺す。僕としても自分の来し方を
振り返ると、自分自身も小さなアイヒマンだったことが良く分かる。世界中がきなくさくなっている
今の時代にアイヒマンを思い出すことは世界にとっても重要なのだろう。それが最後の読後感
であった。かような読後感を齎した本書には深く感謝している。
人間は自分の見たいものしか見ない。
今朝の日経新聞の書評欄では「それでもトランプは支持される」「引き裂かれる
アメリカ」「西洋の敗北」「なぜ悪人が上に立つのか」が取り上げられていた。現在の世界の
状況を受けて選ばれた本である。なぜこれらを選んできたのかを考えるべきなのだろう。
端的に言うと、僕らにとって今の世界がとても理解しにくくなってきているという事だろう。
そもそも「世界」という言葉自体の定義が曖昧であり、かつ余りにも十把一絡げである。
「世界」というような一言で表すことが出来ないものが「世界」なのだろう。そんな複雑系が
ある意味可視化されてきた状況が今ではないか。
「人間は自分の見たいものしか見ない」とは、かのカエサルが2000年前に言い切った
言葉だ。可視化されてきた時代の中で、見る事ができるものを真っすぐに観ることが出来るのか。
それが、まずは試されているのではないだろうか。
グリーンランド、カナダ、パナマ運河
トランプ次期大統領が、グリーンランドやらカナダやらパナマ運河をよこせと
主張しているという報道をTVで見た。
世界最大の大国のアメリカの次期トップのご発言としていかがなものかと
思う訳だが、「いかながものか」と思ってしまう僕の方が暢気なのかもしれない
と反省することも大事だ。端的に言うと自分自身が「平和ボケ」していないと
言い切れるのかということだ。
放言や暴言は時として本音が出てくるものだ。次期大統領がどこまで
「計算」しているのかは良く分からない。その「分からなさ」こそが一番
怖いのかもしれない。
ツバルという国の今後の在り方
今朝の日経新聞一面記事では太平洋の島嶼国の一つであるツバルが取り上げられていた。同国は
温暖化による海面上昇で国土が無くなる可能性がある。国土が無くなった場合でも国家として
存続するということを定めたという話だ。
国土の無い国家が成立するとなると、今後「国土の無い新しい国」というものが出てくる
のかもしれないと思ったところだ。「国」という概念は、「国境」というものを前提として
理解されてきた訳だが、将来的には「国境がないバーチャルな国」というものが成立可能な
時代が来るかもしれない。
僕などはついつい「国」を考える際には「現在の国境」というものがデフォルトで存在する
という「思い込み」から始まっている。但し、現在の国境も歴史的に見ればつい最近に出来た
ものでもあるのだ。
そう考えると「地政学」の在り方も全然変わってくるだろう。物事の速さがどんどん増す
中で僕らは果たして対応していけるのだろうか。
「ひとみを閉じて」 ビクトルエリセ
ビクトルエリセの31年ぶりの新作である。個人的にはエリセはもはや新しい映画を撮らない
だろ うと思い込んでいた。かような思い込みをしていたのはおそらくは僕だけではないはずだろう。
エリセの沈黙振りがエリセの存在感を際立たせている。沈黙が時として雄弁ともなるという稀有な
一例としてエリセを挙げることも可能だ。そんな伝説の映画監督が新作を出した。決して少なく
ない人にとって観る前からエリセの新作を観る事自体に驚いたはずだ。僕はそう思う。
帰ってきたのはエリセだけではない。アナトレントも帰ってきた。彼女が「ソイ アナ」と呼び
かける場面では不覚ながらも涙が出た。「ミツバチのささやき」で「ソイ アナ」と彼女が
言ったのは50年前だった。その50年の年月の重みが僕にものしかかってきた。この場面で
心に去来したのは、僕自身の50年間である。アナトレント自身も彼女自身の50年間を想った
ろうし、エリセ自身も自分の来し方をこの場面に籠めたのではあるまいか。
ビクトルエリセは84歳になったと聞く。彼が今後更に新作を出すことがあるのだろうか。
とりあえず、新作もありうべしと思っておくことにした。「何かを待っている」ということは案外と
楽しいものだから。

