くにたち蟄居日記 -19ページ目

「内政、外交の技術」 

「政治家に期待すべきは内政、外交の政治的技術であって、清潔や正直などといふ

美徳ではない」

 

 福永武彦が1975年に喝破した一言である。50年前の話であるわけだ。

 

 現在の世界での指導者を見ると、確かに「清潔」や「正直」にほど遠い方が

増えている印象がある。民意によってかような方がリーダーになっている国も

多いのではなかろうか。その意味では福永の50年前の発言は、ある種の予言

だったのかもしれない。

 

 一方で上記発言は後段が目立つと思うが、実は前段の「内政、外交の政治的技術」

の方が重要ではないだろうか。かような「技術」に破綻が見えてきているのが

いまの世界であるとしたら、人類の滅亡も案外と先の話でもない気もしないでも

ない。

 

 新しい「内政、外交の政治的技術」というものが生まれてくるのであろうか?

それとも古色蒼然となってきた従来の技術の延長だけとなるのだろうか?

「ムダなことなどひとつもない」 酒井雄哉

年末に自宅で読んだ。寒い時期は仏教関係の本が似合う。

 

 著者は千日回峰行を二回達成した方である。記録が残っている範囲で、二千日回峰行を達成

した方は3名しかいない。極めて過酷な修行である。もっと言うと狂気の沙汰としか思えないような

荒行だ。

 

 そんな修行を積んだ著者の著した本書は、しかし、案外と平凡な内容である。著者が意図的に

平たい言葉で書いている点を差し引いても、その内容にそんなに新しみもない。本書が平凡で

あるとするなら著者も案外平凡な人だったのではないか。そう考えると、逆に話にコクが出てくる

気がする。

 

 端的に言うと、平凡な人の一心な努力が非凡な結果を生むということの一つの証左として

本書を挙げることが出来るのではないか。それはかつてイチローが喝破した「小さなことを積み

重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道」という言葉に響きあうのではないか。

そのように読んでいると、腹に落ちる場面も多かった。

 

 酒井大阿闍梨を「平凡な方ではないか」とした僕の上記発言は、礼を欠いているに違いあるまい。

但し、酒井大阿闍梨ご本人は案外と破顔一笑してくれる気もするのだ。そんな気さくな著書が

本書ではないかと思った次第だ。

佐々涼子「駆け込み寺の男:玄秀盛」から

 

「とことん悲しみ、疲れ果てて、『もう、ええわ。悲しむのは十分』と思った人しか助からない。  

 たぶん、彼にはそれがわかっているのだ。本当に助かる人は、苦しみという自分で作った

 水たまりでおぼれるのをやめて、そこを立ち去ろうとしている人だけだ。」

 

 

 

「核燃料サイクルという迷宮ー核ナショナリズムがもたらしたもの」 山本義隆

著者には既に2011年に「福島の原発事故をめぐってーいくつか学び考えたこと」という

著書がある。その後に著者は「近代日本150年」(2018年)、「リニア中央新幹線をめぐって」

(2021年)という著書で日本という国の分析を深め、今回の著書に結実した。著者の著作は

各々単独・個別に読むだけではなく、連続性をその中に見出すことが正しい読み方なのだろうと

僕は個人的に思っている。

 

 本書を読んでため息をつかない人は少ないのではないか。本書が描き出す原子力の怖ろしさ

もあるが、それ以上に「日本人というもの」の業の深さをつくづく思い知らされたということが

僕の今回の読後感である。福島の原発事故のみならず、それ以降の日本の政府・アカデミズム・

経済界の対応の「起源」を、明治維新前の近代の日本の来し方から紐解いている本書の構成の

見事さには感動するが、その感動にはうそ寒さしかないことも事実だった。近代から現代にかけて

形成された「日本人というもの」を、これほど整然と語った本は他には寡聞にして知らない。そう

して、「整然と語られた」日本人の姿にはため息しか出て来ないのである。

 

 僕は原子力には全く知見がない。本書で山本が展開する言説がどこまで正しいのかを

判断する能力はない。それだけに、原発推進派からどのような本書への反論が出てくるのか

を知りたい。そもそも現初推進派から反論が出てくるのかどうか。「所詮素人が青臭い論を

放言しているだけだ」というような理由で「臭い物に蓋」をするだけで終わるのか。そこに

日本の知性と倫理が試されているのだと僕は本当に思う。本書は、かような試金石になりえる

極めて誠実な一冊だと思う。従い、誠実な反論を是非期待したい。

「高倉健の図書係」 谷 充代

 

 

高倉健は読書家であったという本書の本筋は、多くの高倉健ファンには心地よい言説で

あると思う。「寡黙でストイック」という人と「読書家」とは、そもそも親和性が強い。逆に

言うと「寡黙でストイック」な方が、「本を全然読まない」ということだとなんだか困ってしまう

のではないだろうか。これはとりもなおさず、「読書」というもの自体が「寡黙でストイック」

という記号を強く帯びているからだと僕は個人的に納得している。

 

 本書で高倉健が愛読したという数々の本は、しかし、案外と「気さく」な本が多い。それは僕には

好ましかった。これが「高倉健が中国や日本の古典等を愛読していた」という話だったとしたら、

やや天邪鬼な僕としては眉に唾をつけて本書を読んだと思う。但し本書で紹介されるのは

池波正太郎であるとか白洲正子の著作であり、ある意味でリアリティがあると僕は感じた。

 

 高倉健の本名は小田剛一である。小田剛一という方が「高倉健」を演じてきたことは邦画の

歴史の金字塔の一つだ。常時「寡黙でストイック」というイメージを保持しなくてはならない

小田剛一のプレッシャーは大変なものだったろう。そんなプレッシャーの中で、気さくな本を

読んでいたと描き出す本書は、ある意味では素直な一冊と言える。著者と小田剛一との間にも

色々と華やかなこともあったのではないかと想像するのも僕の勝手ではあるが、そういう

読み方はとりあえずお蔵入りとすべきか。

「なぜ働いていると本がよめなくなるのか」 三宅香帆

 

 

 

元会社の同僚に勧められて本書を読む機会を得た。感想は二点である。

 

 一点目。著者は日本の近代からいくつかの時代を区切って、その時代での「読書」の意義を

整理しようとされている。整理の仕方は明快であり、違和感は無かった。そこで感じたことは

「読書」とはいつの時代でも何らかの「道具」であったという点だ。

 

本書239頁の表を見ると読書とはある時は「修養」であり、ある時は「教養」であり、ある時は

「会社研修」であり、ある時は「情報」である。時代によって読書が担う「役割」ないし「記号」が

変化していくことは当然だと思うが、いずれにせよ、何らかの目的達成のための「道具」という

位置づけは同じだ。読書そのものが目的ではないということである。

 

 そう整理すると、本書の題名である「本が読めなくなる」理由とは、道具としての本と読書の

役割が終焉を迎えたのではないかと考えることも出来る。実際に、いまの情報の洪水状態の

中で、情報ソースとしての本が相対的に重要度を失っていくという話はむしろ自然ではないかと

いう意見があってもおかしくない。本書の表題から伝わってくる著者の危機感とは、引き続き

本の重要性はあり続けるという前提にたったものだろうが、その前提を見直すことも頭の体操

ではないだろうか。

 

二点目。著者の最後の主張は「全身全霊をやめませんか」というものに収斂していっている。

時代の速さに益々翻弄されている我々にとって、耳に心地よい主張である。但しなぜ「耳に

心地よい」のかをもう一歩考えるべきだろう。僕としては端的に言うと、「全身全霊をやめる」

ことが非常に難しいという現実があるからこそ、かような主張が「ユートピア」や「黄金郷」

のように思えるのではないか。もとより「ユートピア」とは「どこにもない」という言葉に由来している

訳だが。

 但し、それだからといって著者の主張を批判したり否定することも不毛であると僕は考えたい。

「千里の道も一歩より」という言葉は永遠に正しくあってほしいと思いたいからである。「働き方

改革」という動きも、時としてうさん臭さを拭えないものの、かような言葉が出来た点は評価すべき

なのだと僕は思う。その意味で著者が20年後にどのような著書を出されているのかは

楽しみである。そう考えたい。

「イーロン・マスク」 ウォルターアイザック

イーロン・マスク 上 [単行本]

 

 

トランプ次期大統領がイーロン・マスクを政府に起用する事で本書を読む事にした。あっという 

間に読了した。感想は二点である。 

 

 一点目。まず翻訳について。 

 本書は極めて軽快かつウィットに富んだ文章で書かれている。それは、作者の原文がそう 

だったのかもしれないし、翻訳者の工夫なのかもしれない。読んでいてしばしばしばしば爆笑を 

余儀なくされた。言うでもなく、それはイーロン・マスクご自身の振る舞いと対応している。

イーロン・マスクという方と直接会う機会が無い大多数の読者にも、イーロン・マスクの「臨場感」

を伝えるというための高度な戦術として本書の文章がある。同じ作者と翻訳者がタッグを

組んだ スティーブジョブスの自伝と比較すると良い。いかに自覚的に今回の文章を作ったのかが

良く分かる。 

 

二点目。本書で描きだされるイーロン・マスクという方の人間像が正しいとするなら、従来の

「経営者の在り方」というものが破壊されたと言える。能力と人格がここまでかけ離れた方は

初めて見た。それこそ前述したスティーブ・ジョブスにも似た面はあったようだが、イーロン

マスクの徹底ぶりは怖ろしい。加えて、それはトランプ次期大統領にも言える話ではないか。

それを良しとする世界がやってきたというように理解すると、これは背筋が寒くなってくる

話しではある。

天園ハイキングコース

先日は38年ぶりに北鎌倉から天園ハイキングコースを歩いた。木漏れ日。

矢川緑地を散歩して

昨日の国立の紅葉。矢川緑地の入り口にて。

 

国立の風景