くにたち蟄居日記 -20ページ目

国立の風景

「ルポ 女性用風俗」 菅野久美子

 

 

 著者の「孤独死大国」を読んだことから本書を読む機会を得た。

 

 本書は題名通り女性が風俗をなぜ利用するのかに迫っている。需要ともいうべき「利用する

女性側」、供給ともいうべき「風俗経営者」や現場のセラピストと呼ばれている男性側の

両方に取材している事で本書の厚みが出ている。初めは題名への下世話な興味で読み始めた

が、途中から座りなおして読み続けた。

 

 著者は「孤独死」と「女性用風俗」には通底しているものがあると言う。共に「社会的孤立」という

視点で見ると重なる部分が多いという視点だ。「社会的孤立」とは、今に始まった話では無い

ものの、その実相の変容の「速さ」に注目する必要があるという点が前書と本書を通読した僕の

感想である。

 

 物事が変容や変化をすることは当たり前である。これは昔も今も同じだ。但し、「速さ」が

異なってきている点は大きな違いである。一言で言うと圧倒的に速くなってきている。速く

させている我々が自分らの加速についていけないということが齎している様々な問題と課題が

現出しているということなのだと僕は思った。「社会的孤立」に関しても、驚くほどの速さで

社会を侵食しているという実感がある。

 

 本書が描き出す様々な人々の話は総じて「明るく前向きな」話が多い。女性用風俗を明るく

前向きに描き出すことは、現段階では大切であると僕も思う。但し、光があれば闇もあるのが

現実である。その意味では著者が将来的にもう一度「女性用風俗」を見直すような状況も

あるのではないか。そこでどのような「描き出し」が出てくるのかは見てみたい気もする。

映画 「狂った一頁」 衣笠貞之助

上野の文化会館で「狂った一頁」を鑑賞した。1926年に衣笠貞之助監督が川端康成の原作を

得て制作した日本初のアヴァンギャルドサイレント映画である。今回は平野真由という現代の

音楽家が無声映画に音と音楽をつけるという趣旨で上映された。

 

 映画について。実験映画であるだけに制約が無い。衣笠は自由に映像を操っている。1926年

当時の公開は専門家等からは高い評価を得たものの興行的には失敗したという。興行的な

失敗は当然と言える。どう観ていても感情移入出来る映画ではない。作者は精神病院という

舞台で、好き勝手に映像をいじくっているだけの作品だからだ。筋も何もあったものではない。

 

 但し、その「実験精神」は瞠目に値すると思う。小林秀雄に言い方を真似ると「絶後と言いたい」

ということなのだと思う。本作が邦画の歴史の中で飛びぬけて孤高の存在なのだと思う。衣笠

にはもう一本「十字路」という前衛作品があると聞く。僕は未だ観ていないが、今回の鑑賞を

踏まえて近いうちに観ようと思ったところだ。

 

 音楽はどうか。今回の上映を観ていてサイレント映画における「音」と「音楽」の存在感の

強さには感銘を受けた。セリフが無い映画を観ていると、通常の映画以上に音に注意が

高まる。その状況の中で、平野が選んだ「音」と「音楽」の強さが心地よかった。サイレント映画

を自由に音で飾るという例はフリッツラングの「メトロポリス」にクイーンズの音楽を合わせた

1980年代の「メトロポリス」の上映も思い出したところだ。

 

 ということで楽しい鑑賞だった。

「闇バイト」 廣末 登

 強盗事件等の頻発を受けて本書を読む機会を得た。

 

 SNS等のコミュニケーションツールが闇バイトを助長する時代となってきている。但し、その

「コミュニケーションツール」は実は「ディスコミュニケーション効果」を齎しているという逆説を

強く思った次第だ。

 

 伝統的な集団犯罪においては、犯罪者達はそれなりにお互いの顔が見えていたのだと思う。

それに対して今の闇バイトにおいては共犯者達はお互いにお互いの顔が見えていないという

状況の様相を示している。実行犯達は指示役と言われる主犯者を知る事は無い。それゆえ

主犯者を見つけることが難しくなっている訳だが、その最大の理由としてはSNS等の

コミュニケーションツールが使われている点だろう。

 

 本来SNS等のツールは人と人をつなぐものだと理解していた。但し、今の闇バイトを巡る状況

を見ていると、むしろ人と人を分断出来るものでもあると思い始めてきた。見知らぬ人同士が

見知らぬままに犯罪に手を染めることが出来るのも「分断」という機能を有する新手の

コミュニケーションツールが出てきたからだと言えないだろうか。

 

 これを突き詰めていくと、今度は政府なり社会なりがSNS等に手を突っ込み始める。最近の

豪州で16歳以下にSNSを禁じる法案も可決されたと聞いたところだ。その先には「1984」という

SF小説が描き出した管理社会が待っていてもおかしくない。そんな社会を歓迎してしまう

時代になりつつあるのではないか。

「世界の本当の仕組み」 バーツラフ・シュミル

新聞の書評を読んで本書を手に取る機会を得た。感想は二点である。

 

 一点目。

 本書はやや冗長で繰り返しが多く、つまり話が長すぎるきらいがある。本書の内容自体は興味深いだけに、

ある意味勿体ない。表やグラフをもっと多用すれば、より簡潔に整理できると強く思った。

 

 二点目。

 一方で「本書の内容」である。僕には著者が開陳する各種の数字がどこまで正しいのかを

確認するすべがない。従い、とりあえず著者の説明がそれなりに正しいという前提で本書を

読み進めるしかなかった。

 著者は現在の気候変動への各国、各社、各人の対応の無力をこれでもかという筆致で描き

だしている。その著者の説明にはかなりの説得力があると個人的には感じた。著者は

はっきりとは言っていないものの、詰まるところ「人の数が多すぎる」という点に最後は集約される

ということかと思う。

 

なぜ著者がそれをはっきりと言わないのか。そこにはある種のタブーがあるということなの

だろうか。「人が多すぎる」という課題への対応としては「楢山節考」であるとか、映画「ソイレント

グリーン」というようなフィクションが既に提出されている訳だが、それらはデストピアという

描かれ方しかされていないと僕は思う。本書の底に流れている一種のニヒリズムも、そんな

ある種の絶望から来ていると思った次第だ。

 

 先の米国の大統領選挙において「DIG BABY DIG」を主張した方が勝利を収めた。言うまでも

なく、気候変動対応への逆行した主張である。本書が行きつく先は案外と、かような主張

への賛同になるのかもしれないという事が最後の読後感であった。

「冬の本」   夏葉社

本書の「はじめに」は「小さい本をだしたいね」という言葉から始まる。小さい本を出したいという

発想自体が日本人的なのかもしれないと、まず思った次第だ。箱庭であるとか盆栽であるとか

小さい物に「美」や「力」を見出すのは一つの日本の文化である。「力」と書いたのは、例えば

一寸法師等を個人的にイメージしたからだ。本書もその延長上にあると考えることは楽しい。

 

 84名の方が「冬の本」という題材で、見開き2ページという限定された字数の中で自由に

自分の思いを語っている。いや、「つぶやいている」という方が本書には似つかわしいのかも

しれない。「小さなつぶやき」を聞き取るにはこちらも良く耳を傾けなくてはならない。そんな

「傾け方」を問われるのが本書を読むということだろう。

 

 本来なら「春の本」「夏の本」「秋の本」でも良いのかもしれない。但し、やはり「冬」が一番

似つかわしい気がする。寒い時期の永い夜にゆっくり本を読むということは冬の醍醐味

と言える。「寒さ」と「読書」に親和性を感じるのは僕だけではないのではないか。これも

僕の勝手な思い込みながら。

「人生に上下も勝ち負けもありません」 野村総一郎

ロングセラーとなっているという評判を聞いて本書を読む機会を得た。

 

「老子」という中国の古典は色々な立場の方が論じてきている。ある時は宗教論であり、

時には経営学的に読まれることもある。本書の著者はうつ病や双極性障害を専門とする

精神科医である。近年増加する、いわゆるメンタルヘルスの問題に対する一つの解決策

として「老子」を取り上げた本だ。

 

 かように「老子」の読まれ方が多いのは何故か。無数の意見があると思うが、僕としては、

「多くを語っている訳ではない」という、老子の「少なさ」が大きな背景ではないかと思う。

なにせ5000語程度しかない。単純計算に意味は余り無いが、原稿用紙一枚を1600語とすると、

4枚弱ということになる。

 

 言葉が少ないと何か起こるのか。おそらくは解釈の幅が広がるということなのだと思う。ちょっと

分野が違うのかもしれないが、禅の公案にも似ている面は無いのか。「大道廃れて仁義あり」

であるとか「上善水のごとし」と端的にすぱっと言われてしまうと、それの解釈は無数の

バリエーションを持つ。そんな無数の色の煌めきが、「老子」を語る人の多さであるか。

そんな思いがした。

 

 「老子」は間違いなく心を病んだ方には有益だと僕は思う。「心の安らぎ」とか「心の平安」

というテーマは、人間が知性や意識を持った瞬間に産まれた、人間としての大きな課題だ。

それを2000年以上前に気が付いた「老子」の作者がいる。2000年は永いようで、短い。

2000年以上前に生きていた方の言葉が、今の僕らに響くというのも痛快ではある。

 

映画 「ナミビアの砂漠」

 久しぶりに映画館で映画を観た。評判の「ナミビアの砂漠」である。観終わって、やや混乱しながら

映画館を出た。外は冷たい冬の雨だった。感想は二点である。

 

一点目。この映画のテーマは何なのかを考えることは難しい。ネットで見る限り、「若者の自分探し」

「二人の男性の間で心が揺れ動くヒロイン」等が出ているが、そんな古典的なテーマとも

思えない。主役の河合優美から伝わってくるものは、そんな安易に言語化出来るようなもの

ではない。むしろ、そんなステレオタイプなテーマを否定したいという作者の強い衝動を感じる。

 

 更に言うと、「映画」というジャンルそのものへの破壊願望すら感じる。「ナミビアの砂漠」という

題名からして、何を意味しているのか。ヒロインがユーチューブで眺めているナミビアの砂漠は

彼女自身の心象風景とでもつい安易に解説したくなる。しかし、それを言わせないものがある

のもこの映画だ。

 

二点目。なんといっても主演の河合優美である。

 

 彼女が演じるヒロインの「狂気」は、河合という女優の存在抜きには成立しないのでは

ないか。そのように僕らに思わせた段階で、もはや河合の勝ちである。

 

 実際には他の女優に本作のヒロインを演じさせても良いのかもしれない。但し、そう言い

ながら、僕自身もそんな言葉を信じることは難しい。それほど河合の演技が圧倒的だからで

ある。「あんのこと」を観て舌を巻いたが、今回は更に目をむくような視聴体験となった。河合の

次作が楽しみである。サントリーのCMで見せたような全く新しい役柄も期待したい。

 

 邦画にも新しい監督、俳優、つまりは才能、がどんどん出てくる。それは嬉しい話だ。

映画は破壊されてもそこにあり続ける。

「孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル」 菅野久美子

還暦を迎えたことで本書を読むことにした。

 

本書は、孤独死の実態を出来るだけ読者の五感に訴えるところから始める。著者自身が

孤独死の「現場」に具体的に出向いた上での描写は臨場感に満ちている。特に日頃に「死」や

「死体」から遠い地点にいることが多かった僕にとっては、やや苦痛を伴う読書となった。

死や死体はごく日常のことながら、巧みに隠されてきているからだろう。「なぜ隠さなくては

ならないか」を考えることも大きな議題かと思うが、ここではそれには踏み込まないことに

したい。

 

本書の後半は孤独死をどうやって防ぐかが書かれている。当たり前のことながら、それは難問

であり、著者も決定的な「解答」を提出出来る訳ではない。著者自身が、草の根に近い地点

から、ささやかながらも重要ないくつかの解決策の実例を提出している。改めて孤独死を防ぐ

ことがいかに難しいものなのかを考えさせられることになった。

 

本書で印象的な一節があった。

 

 「人間だけですね、つながりを求めてるのって。孤独どうのこうのと大騒ぎするのは。昆虫とか、

動物では当たり前のことです。みんな一人で生まれて、一人で死んでいくんですからね」(P116)

 

人間は理性であるとか意識であるとかを獲得することで栄えてきた。但し、その副作用として

幸せとか不幸せという感覚を持つようにもなってきた。「死」という、生物にとって当たり前の事象

を強く意識出来ることが果して幸せな話なのかどうか。それこそが僕が正にこれから迎える大きな

課題なのだと思う。 

映画「潜水服は蝶の夢を見る」 

 とある雑誌で本木雅弘が「心に沁みる映画」として本作を挙げていたことで本作を知る機会を

得た。土曜日の午後に早速鑑賞した次第である。

 

 雑誌の編集者が脳疾患によって殆ど体が動かせなくなる中、目の瞬きだけで本を書きあげた

という実話を映画化した一作だ。題名の「潜水服は蝶の夢を見る」は、その書き上げられた本から

採られている。「蝶の夢」という部分は、中国の荘子の有名な「胡蝶の夢」から来ているという

確信と思い込みを持って本作を鑑賞し続けた。

 

 荘子の「胡蝶の夢」は「自分」という存在の不確かさを描き出した一篇の詩に近い。「自分は

胡蝶となる夢を観たが、実は胡蝶が『荘子』という夢を観ているのかもしれない。自分には

そのどちらが正しいのか分からない」という内容は、患った編集者がそのまま自分の状態と

状況に重なったのではあるまいか。即ち、自分はいま「脳を患っている」という夢をみているの

かもしれない一方で、脳を患って動けなくなった自分が「それでも本を書きあげる」という夢を

見ているのかもしれない。そんな思いが編集者にあったのではないか。そんな現実と幻想の

間を行き来するような話なのではないか。それが僕の本作を鑑賞する切り口となった。

 

 本作はかなり実験的な作品だと思う。観る人によっていくらでも見方が変わるだろう。編集者

の超人的な努力、周囲の献身的な支え、父と息子の関係、希望というものの在処。そんな

ある種のロールシャッハテストのような作品だ。本木がどのように心に沁みたのかは僕には

分からない。僕にとっては本作は前記通り、ある種の幻想譚のように思えた。