くにたち蟄居日記 -21ページ目

映画「PERFECT DAYS」

評判の本作を漸く鑑賞する機会を得た。

 

 ヴィムベンダースが描き出す道路の映像を観ていて思い出したのはタルコフスキーが「惑星

ソラリス」で撮った東京の道路の映像を思い出した。タルコフスキーの作品は1972年頃の東京

である。一方で本作の東京は2023年だ。風景自体は全く異なっている。但し、外国の監督が

撮影した東京の道路の描き方は、やはり邦画で描かれる東京の道路とは違う気がする。これは

僕の個人的な印象であり、賛同されない方も多いとは思うのだが。

 

 「何も起こらない映画」だと言われてしまう映画かもしれない。但し、披露される一つ一つの

エピソードには「何か起こっている重いもの」が詰まっている。各々の「重いもの」が説明される

ことは無い。説明が無いことが想像を呼び、余韻を残す。そんな「余韻」が本作の味わいであり、

さざ波のような「余韻」に耳を澄ますことが本作を鑑賞するということだ。そんな思いにずっと

囚われながら、本作を観続けた。

 

 言うまでもないが役所広司の存在感が本作に強く「説得力」を与えている。得難い男優を

日本は持った。これは同時代で映画を観る我々の幸せというものである。

「寂しい生活」 稲垣えみ子

 このところまとめて稲垣えみ子の著作を読んでいる。実に面白い。

 

 まずは本作は稲垣がいかにして節電していったのかという歴史である。冷蔵庫までやめて

しまったというラジカルさにはいささか呆然とする一方で、実に小気味が良い。

その小気味の良さは彼女の破天荒な行動のみならず、それを表現する文章の上手さである。

読んでいて爆笑させられる言葉使いに満ちており、実に読み易く説得的である。

 

 但し本作はただの断捨離やミニマルで終わる話ではない。断捨離やミニマルとは何を

意味していくのか。著者の視点は、遥かに遠く深いものに向かっている。それは端的に言うと

「自由とは何か」という極めて巨大な課題である。

 

 稲垣は自分と「物」との関係を突き詰めていく。突き詰めていく中で彼女が発見したのは

いかに人は「物」に依存してしまっているのかということだ。「中毒」という言葉すら正しいのかも

しれない。

何かに依存し中毒している状態は「自らに由る」という状態にはほど遠い。稲垣は「物」を

減らしていく中で「自由」を獲得していく。そんな稲垣の「興奮」が迫力を持って伝わってくる。

 

ここに至っては、読者である僕も襟を正して本書と対峙せざるを得ない。更に言うと、

「自分」と対峙することに追い込まれていく。そんな背筋が寒くなるような本が本書だ。稲垣の

軽妙洒脱な言葉が自分に突き刺さっていくのも気持ちが良いものだ。

 

 本書の視野は広い。消費社会自体を見直すという大きな視点で書かれている。「人新世」

の分析に極めて大きな参考書となると確信し、驚嘆しながら本を閉じた次第だ。

「老いた今だから」 丹羽宇一郎

 いわゆる古典と呼ばれる本の著者は既に鬼籍に入ったことが大半である。著書を通じて

亡くなった著者とある種の「会話」「対話」が可能であるということが古典を読む醍醐味と

言える。

 

 一方で同時代に生きている著者の本を、その都度読んでいくという「読み方」も貴重な

体験である。著者と同時代に生きてきていることでの「読み方」というものがあるからだ。

僕の場合、その代表格は村上春樹である。まだ村上がカルト作家と言われていた40年前から村上の本を

読んできた僕は「コアなファン」を自称している。本書の著者のいくつかの著作もかような読み方をしてきた。

 

 本書では、85歳となった著者が自らの「老い」を語っている。そんな本書を読んでいる僕

自身も還暦である。還暦では正直かように自身の「老い」を感じる訳でもない方が多いと思う。

但し、体は確実に老いて行っていることも確かだろう。従い、近未来の自分自身を想像しながら

本書を読むことになった。そんな読書もたまには悪くない。

 

 但し「たまには」であることも強調したい。なにせ、まだ所詮還暦程度であるからだ。などと

強がりを言えるのもあと何年のことなのだろうか

徒然草 第七十四段

この段はそのまま今の時代にも通じる。

 

 「夕べには寝て、朝には起きる。彼らがせわしそうにしていることはいったい何だ。生命を

貪り求め、利欲を求めて、飽きるときがない。

 養生したところで、何を将来に期待しているのか。待ち受けているものは、結局、老いと

死とにすぎない。」

 

 上記を読んでいて自分の中に思い当たることが多い人もたくさんいらっしゃると思う。少なく

とも僕自身はそうだ。

 

 徒然草は高校時代から読んできている。当時から分かったような顔をしていたのだと

思うが、高校生に「老いと死」を考えることは無理がある。還暦を迎える現在になっても

未だ実感は無い。誠に徒然草を読むことは息の長い読書であると改めて思い知らされた。

映画「オッペンハイマー」

 名高い話題作を漸く鑑賞する機会を得た。感想は二点である。

 

 一点目。本作を日本人としてどう鑑賞するのか。本作はそれを鑑賞する我々日本人に突き

付けてくる。勿論、本作が日本の鑑賞者のみを意識して創られた作品ではない。従い、何が

突き付けられるのかは我々の問題である。

 

本作には(僕が見逃していない限り)日本人も日本も描かれていない。その事に対しての

批判もあると聞いている。但し、この映画の創り方や作者が出したいメッセージに出し方によって、

日本を出すかどうかが決まったのだと僕は思う。従い、善いとも悪いとも僕には言えない。

そんなことを考えている以上に、原子爆弾に加えて福島第一までも経験してきた日本人が、

本作を鑑賞して何を思うのか。それが僕らの大きな課題である。

 

 二点目。上記で僕は「作者が出したいメッセージ」と書いた。実は僕には、それが良く伝わって

こなかった。平たく言うと、本作はやや焦点が曖昧になっている感を受けたからだ。

 

 本作のテーマ候補はいくつかある。オッペンハイマーの罪悪感、原爆製造競争における

アメリカの勝利感、第二次大戦後の急速な冷戦の開始、登場人物達の間の嫉妬や葛藤、

オッペンハイマーの私生活等が候補だったろう。問題はそれらを全て3時間に盛り込もう

としすぎてはいないのかという点だ。

 

どのテーマも掘り下げるに足るものだったと思う。どれかに絞って描き込めば、より陰影の

強い作品になったのではないか。盛り込みすぎた為に話が総花的になっていないか。そんな

思いがいつも付きまとってきた。

 

 但し、実在のオッペンハンマーも当然ながらかような「総花」的な人間だったのだろう。

もっと言うと、人間たるもの、誰でも「総花」的ではないかとも言えないだろうか。

 

 ということで大変考えさせられる作品だった。個人的にはアインシュタインを演じた

俳優が「戦場のメリークリスマス」の主演男優であるトム・コンティである点で懐かしかった。

僕が「戦場のメリークリスマス」を鑑賞したのは40年前である。

金木犀の頃

 国立の早朝を散歩するとあちらこちらで金木犀が香る季節となった。

 

 桜の時期になると、これまたあちらこちらで桜が咲いているのに驚かされる。一年に二週間程度

の開花を愛でる為に桜を植えて育てるという日本人の美感には感心することが多かった。今回

ひさしぶりに秋の国立を散歩すると、金木犀も同様に植えている家が多い点が香りで良く分かる。

 

 金木犀を調べた。もともとは中国原産で、日本には江戸時代に来たものだという。確かにそう

言われてみると万葉集や古今和歌集等にも金木犀を詠ったものは無いかもしれない。もしも

万葉の時代からかような芳香を古人たちが詠わない訳もないだろう。遣唐使として

中国に赴いた方が金木犀を詠んだなどはないのだろうか。

 

 そんなたわいのないことを想像しながら、清秋の国立を歩く。金木犀の花が散るころには

いよいよ寒さがやってくるのだろう。短い秋を惜しむ気持ちも金木犀の香りにはあるのかも

しれない。

高校時代からの畏友N君のピアノリサイタルに出向いて

 

「今回は、ロシアと東欧の作曲家を中心にプログラムを構成しました。ピアノ音楽も、様々な

歴史の影響を受けて創られており、演奏に際しても改めてその歴史を考える必要性を感じて

おります。」         とあるピアノリサイタルのパンフレットから

 

 リサイタル前日のノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会が輝いた。現在の

核兵器使用への世界的な危機感の急速な高まりにノーベル賞選考者が一石を投じたい

という意味での受賞という面もあるのだろうというメディアの記事も読む。

その翌日に高校時代からの友人N君のピアノリサイタルに出向き、会場で手渡されたパンフレットの

冒頭の上記の一文に出会い、いささかはっとさせられた。

 

 これは僕の勝手な想像なのだが、今回のプログラム構成をN君が考えるに当たっては

現在進行しつつあるロシアを巡る様々な「歴史」を視座に置いたということがあったのではない

かということだ。その意味で、前日のノーベル平和賞と当日のN君のリサイタルが共鳴

しあったという稀有の瞬間が、欧州から遠く離れた東京に出現したのかもしれない。

 

 最後の「展覧会の絵」が圧巻だった。もともと個人的に好きな曲だが、今回パンフレット

のN君の解説は大変勉強になった。ハルトマンという方の絵を通じて、当時の欧州の

様々な状況を描き出した曲だったという事も初めて知った。しかもムソルグスキーが

描き出した19世紀の欧州の色々な世相が今なお現実性を保っているのだなと思わされた

次第だ。最終曲のキエフに(キーフ)という括弧書きを加えなくてはならない現在を

踏まえるとそんな風に思わざるを得なかった。

 

 N君の「いつまでも現役のピアニストであることにこだわる」という「アスリート魂」は、彼と同時に

還暦を迎えている僕には響くものが多々有った。

 

 

徒然草 第七十三段

 この段では兼好法師はいかに他人から聞く話が信用できないか、嘘が多いのかを

かなり厳しい口調で語っている。

 

 小林秀雄は「徒然草」と「方丈記」は全く似ていないと言い放った。確かに「書いたもの」

としてその二冊の性格は似ていないかもしれない。但し、著者である兼好と鴨長明には

似ている面もある。一言で言うと「現場主義」であり、自分の眼で実際に現場を見て、その上で

書いている。その姿勢は共通している。兼好も「徒然草」の中に兼好自身が見たものを確りと

描き出している。

 

 ここで天邪鬼である僕としては、かような兼好の話をむやみに信じてよいかどうかは

考えなくてはいけないとは思うのだ。それこそが兼好がこの段で言っている話であり、

「徒然草」の「誠実な読者」である。などと兼好に言ったら苦笑いの一つでも返して

くれるのではあるまいか。

武相荘訪問

  武相荘に妻と出かけた。白洲次郎と白洲正子の自宅を公開しているものである。場所は

小田急線の鶴川駅から歩いて15分程度。自宅の国立からも近いと言える。

 

 次郎も正子も有名な方だが、有名になった領域はまるで違う。次郎は戦後のGHQとの交渉や東北電力会長

としての活躍が有名だ。但し、それ以上に「格好良さ」で名高くなっているとも言える。

 

 正子は骨董や能の世界で名を上げた方であり、交友範囲も広かった。青山二郎という稀代の趣味人との

交流を通じて小林秀雄等の文士とも仲良しとなったという。

 

 そんな違いある二人が最後までおしどり夫婦だった。夫と妻の距離感の取り方が上手だったのだろう。

一緒に訪問した妻の方を見ながら、そんなことをぼんやり考えた次第だ。

 

 里山の中の藁ぶきの屋根が美しい。ここも東京都であることが少し不思議ではあった。

 

 

映画「福田村事件」 

 前から鑑賞したかった評判の映画である。前回の「あんのこと」に続いて、またもや重い映画を

観ることになった。しかも、「あんのこと」同様に実話に基づいた話である。

 

 関東大震災後に起こった数々の虐殺の話は知っている積りだった。但し、臨場感溢れる本作

を観ていて、実は僕は何も知らなかったということが良く分かった。

 

「日本人である僕」自身が福田村事件を知りたいと思って本作を鑑賞した訳だが、観終わって自分が本当に知って良かったのかどうか正直分からなかった。一言で言うと、「観ない方が良かったのではないか」という思いも、心のどこかにあるような気がしているからだ。

 

それは「本作のような話は世界中でいつの時代にも有ったろうし、これからも有るのではないか」というある種の絶望感を喚起させられたからだ。「人間の業の深さ」であるとか「人間の組織の持つ極めて暗い面」というような陳腐な言葉を通り越したものが、本作にはある。

 

もっと恐ろしいのは自分自身が虐殺のその瞬間その場に「日本人」の立場で居たとしたら

どうだったのかという自分に対する質問だ。本作を鑑賞した多くの方が、おそらく同じことを

自問したのだと僕は想像している。更に言うと、かような自問を自分に突きつけないと本作を

観る意味もないのではあるまいか。そんな思いも陳腐と言えば陳腐なのだろうが。

 

 ラストシーンでは、主人公とその妻が荷物も無く小舟で川に漕ぎ出していく。行先は彼ら自身も

分からない。生と死のあわいを流されていくのだろうか。そんな映像美を最後に用意して

くれた作者には感謝している。