くにたち蟄居日記 -23ページ目

「柳川」  チャンリュル

 

大林宣彦の映画「廃市」を鑑賞し、福永武彦の原作を読んだ。それですっかり柳川のファンと

なり、大学時代に寝袋を担いで柳川を訪れた。西鉄柳川駅前のベンチで眠り、翌日は北原白秋

の実家を見学し、白秋の詩集「思ひで」を購入した。そんな事から「柳川」という題名の本作を

知って直ぐにレンタルして鑑賞した。

 

 チャンリュルという監督の作品を観るのはこれが初めてである。本作の紹介文をネットで見ると

「何事も起こらない静謐な映画」というような内容が多かったが、良く観てみると主人公の一人が

最後に亡くなっていたり、父と娘の断絶があったりと結構色々な事が起こっている。そんな内容

でも「静謐」を保っているのは監督の作風に尽きるということか。

 

 ヒロインを見ていてずっと思い出してきたのは夏目漱石「三四郎」のヒロインである「里見

美彌子」である。美彌子は三四郎を始めとして「三四郎」の幾人かの登場人物を惑わしていく。

「アンコンシャス ヒポクリット = 無意識の偽善者」だと評されたある種の「魔女」である。

本作のヒロインにも、そんな無意識の偽善者ぶりが感じられた。登場する男性全てがヒロイン

に強く引きずられていく。ヒロインには悪意はない。悪意はないが、男たちを混乱に陥れる。

そんな無邪気さは、十分に「無意識の偽善者」と言えるのではないか。

 そんなことで里見美彌子に重なって仕方が無かった。これは僕の個人的な思い込みに

過ぎないのだが。

 

 良い映画だ。大林や福永の「廃市」は夏の柳川を舞台としていた。僕の39年前の柳川旅行も

夏休みの際だった。今回初めて冬の柳川を観る事が出来た。

映画「正欲」 

 気楽に鑑賞し始めたが、重い作品だった。観終わって少し疲れている自分に気が付いた 

ところである。 

  

 ばらばらな登場人物を最後一点に収斂させていく本作の巧みさは作り手のストーリーテラー 

としての技だ。但し、多彩な登場人物の中にも「主人公」を設定したくなることもやはり観客側の 

常である。本作の主人公は誰なのか。新垣と磯村の「疑似夫婦が夫婦になっていく事」を中心 

に物語は語られていく訳だが、やはり僕は稲垣が演じる寺井検事を主人公として観ることが 

一番腹に落ちる気がした。 

  

 登場人物の中で圧倒的に「正常」で地位も高いエリートとして描かれる寺井検事だ。但し 

作り手はいくつかの場面で彼の未熟さを描こうとしている。特に家庭での夕食の際に彼が 

食べているものが「カレーライス」であり「オムライス」であった事は強く印象に残った。両方の 

メニュー共に大好きな僕として誤解を恐れずに言うと、それらの食べ物への嗜好の中に、 

ある種の「幼児性」を読み取ることも作り手は狙っているのではないか。僕はそう思った。 

  

 主人公は自分自身を「正常」であると盲信している。妄信という字を使っても良いのかもしれ 

ない。そんな主人公に到来する様々な「登場人物」は、主人公にとっては「異常」であり、従い 

理解不能な方々だ。そんな主人公にとって、自分自身の妻も子供も理解出来ない存在に 

なっていく。 

 

「理解できないものは異常だ」。多様性を認めない傲慢が主人公の未熟さであり、ある種の幼児性 

ではないか。そんな主人公を強く撃ったのが新垣の最後のセリフである。 

 新垣の「いなくならないから」という、拘留されている夫への伝言の言葉が主人公に突き刺さる場面は 

ラストシーンにして、本作の白眉である。新垣はその言葉を最後に取調室を去る。主人公は 

凍り付いたまま室に取り残される。扉が締まる。映画はそこで終わる。 

  

 家族を失いつつある主人公と、ある意味ではある種の「家族」を形成しようとしている 

登場人物達との対比が重い。主人公はこれから救われていくのか。本作はそれを教えて 

くれない。凍り付いた主人公の姿を見せられたところで僕ら観客は放り出される。 

 

但し、「いなくならないから」という言葉を主人公がしっかりと受け止めることが出来た事を 

観客は祈るのではないか。そんな事が最後の感想となった。 

映画「ツユクサ」 

 単身赴任の日曜の夕方にのんびり鑑賞した。いつもならビール片手に観るところだが

翌日が健康診断なのでお茶を飲みながら。映画が断酒会の場面から始まったのには

苦笑した次第だ。

 

 小林は「一見平凡な中年女性」を演じさせると抜群の存在感を放つ。小林が主役を務めてきた

いくつもの作品、例えば「メガネ」であるとか「かもめ食堂」等、好例は枚挙のいとまが無い。

小林が「転校生」のヒロインという破天荒さで映画界に登場した事を考えると、現在の彼女が

占めている地位は俄かに信じがたい気もする。但し、既に邦画におけるある種の「重鎮」と

なられていると言える。小林の「一見平凡な中年女性」映画の人気と評判の高さが、それを

はっきりと示しているからだ。

 

 本作の登場人物はいずれも影を身に纏っている。ある程度以上の年月を生きていた人物なら

当然だろう。それは映画の登場人物だけではない。観ている観客側も同様だ。そんな影が

観客の感情移入を容易にさせている。観客側も映画に出てくる登場人物の中に感情移入先を

探すような仕組みになっている感もある。はっきりと明示されてはいないが、そんな仕掛けが

本作にあるように思える。それが本作の少々突飛な設定を、なんとなく自然に思わせるように

出来ているのではあるまいか。少なくともヒロインの小林の車に隕石がぶつかるという

信じがたいプロローグも、途中からすんなりと納得している自分がいた。

「箱根駅伝に魅せられて」 生島淳

 箱根駅伝関係の記事が面白く、筆者である生島の著書を読む機会を得た。

 

 本書の白眉は「目の上のたんこぶ」論である。箱根駅伝が年数を経ていく間に「目の上の

たんこぶ」がどのように変遷してきたかという整理が非常に説得的であり、結果としてその時代を

ある一つの視野で切り取っている優れた史書となっている。勿論、箱根駅伝を偏愛されている

著者の切り口であるので万人が賛成する整理ではないだろう。但し、程度と深みの差はある

ものの、著者同様に箱根駅伝偏愛者を自称する僕にとっては非常に納得できるものであった。

 

 箱根駅伝はもはや高校野球の甲子園と同等のブランド力を有する日本屈指のスポーツイベント

と化している。箱根駅伝は色々なものを惹きつける強い磁力を発する。選手、大学、メディア、

スポンサーといった様々なプレイヤーが、各々の思惑を胸と腹に抱えて集まってくる。綺麗事

では済まない世界がそこにあろうことは外野席にいる僕でも想像できる。伏魔殿なのかも

しれないではないか。

 

 但し、そのようなドロドロした中でも「タスキを担って競い合って走るだけ」という簡潔なルール

は凛としている。それはいささか濁りもある池の中からすっくと立ちあがって咲いている一本の

蓮の花には似てはいないだろうか。そんな想像を偏愛しているのが僕である。

「神学でこんなにわかる『村上春樹』」 佐藤優

 年末年始の日本で読了した。面白かった。

 

 本というものは発刊された後は「一人歩き」するという。本は、著者が意図した「読まれ方」とは全く別の

「読まれ方」が出てくることも許されるべきだという意味だ。それを少し突き詰めると 「読書する」という

事はどういうことかを考えるヒントになる。

 

 本を読むということは何か。著者が本を通じて僕らに迫ってくる「著者の想い」や「著者が提供

したい情報」を読み取ることが第一義である。

 一冊の本というテクストは万人に対して記載内容においては同一だ。万人に対して、たった一つの

テクストがポンと渡されるだけである。但し、万人がどのように「読み取る」のかは千差万別である。

その「読み取り方」において、各々の読み手の経緯、環境、能力、意向が強く作用する。その結果

「読まれ方」もいくらでも出てくる。それが「一人歩き」の意味だ。本書を読んでいて僕は終始

そのように感じた。

 

 本書において、佐藤は自由自在に「騎士団長殺し」を読み解いている。その「読み取り方」は

時に快刀乱麻であり、神学に疎い僕には大変勉強になった。

 では村上春樹自身が読んだらどのように思うのだろうか。それを想像することは楽しい事なのだと

思う。

 

 村上春樹がどこまで神学に詳しいのか僕には分からない。佐藤の上手な解説に乗っかっていくと

村上はとても神学に詳しいようにも思えてくる。だが本当にそうなのか。その「佐藤の上手な解説」

こそが、佐藤が企んでかけた魔法、ないし、呪いなのではないか。そのように思い始めると本書は

十分に迷宮と言える。本書を迷宮ではないかという「読み取り方」も、また自由な訳である。

 

 面白い一冊だ。佐藤の「誤読と紙一重の精読」という言い方が僕にとってはフェアーな表現だ。

「紙つなげ 彼らが本の紙を造っている」 佐々涼子

 著者の「エンジェルフライト」を読んだ事で本作を読むきっかけとなった。東日本大震災を巡る

本はいくつか読む機会があったが、それらの中でも最も印象に残る一冊となった。

 

 本作は日本製紙の石巻工場が罹災から立ち直る姿を描き出している。

 

彼らは第一義的には工場を物理的に立て直していく。但し、実は「工場を再建する」という

作業を通じて彼ら一人ひとりが「自分自身を立て直していっている」ということが見えてくる。

彼らが無謀とも思われるような目標の元で工場再建を遂行するのは、まずは会社の為や紙を

待客先の為である。彼ら自身はそう考えている。

 

しかしそれ以上に「再建」は彼ら自身の為となっていく。震災と津波という未曽有の災害の

中で、また個人の被災の中で、正気を保って日々を送っていく事は困難に違いない。

それに対して「再建」がいかに彼らの生きがいになっているのか。いかに「再建」自身が彼らに

寄り添っていっているのか。

 

また「再建されるもの」は「工場」だけではない。「会社の野球部」もまさに再建の対象である

事が良く分かる。「野球部の再建」が日本製紙の社員と石巻の人々を救った事も本書の

読みどころの一つだ。

 

 本書を読んでいると人間にとっての「仕事」というものの一つの本質が見える。「仕事によって

人間は磨かれる」とは言い古された陳腐な言葉かもしれない。但し、本書に出てくる「磨かれた

人々」に対しては尊敬の念を禁じえない。そんな思いは、当たり前ながら、ブーメランのように

自分に清々しく戻ってくる。読後に強く清涼感が残った。自分にとって非常に大事な一冊となった。

電力一本足打法とは

今朝の日経新聞で以下の記事を読みました。

 

「スマホはあらゆる機能を手のひらに集める『集中』の時代の申し子だった。AI時代には

一転してデバイス が散らばる『分散』の時代が到来する。 

  その頭脳を誰が握るのか。アームが持つコンピューティングパワーと省電力のかけ算が

ものを言うと孫氏は考えたのだ」 

 

 僕が特に気になったのは「省電力」という部分だ。今後圧倒的に需要が増えるのは

電力だろうし、今の脱炭素関連に関しても最終的には電力に辿りつく話が非常に多いと

思う。

 

例えば、EVにしても、それを動かす電力の確保が大前提だ。またはDX、ビットコイン等

も巨大なデータセンターが必要になるが、データセンターは温度管理等で膨大な電力を

必要と聞く。その他、蓄電池、風力発電、太陽光、グリーン○○、温暖化関連、

スマート○○、等々の世界で語られるいわゆる「バズワード」も全て電力に絡んでいく話

ではないのかなと。もっというと、今人間がやっている既存ビジネスにしても、ほぼ全てが

「電力確保を大前提」としていないか。

 

 東日本大震災の際に大きな問題になったのは停電等で携帯電話が充電できなくなった人が

多かった点だったとも聞く。それは携帯電話にいかに我々が頼っているのかを意味した

訳だが(上記記事の、「『集中』の時代の申し子」部分)、それはとりもなおさず「我々は

いかに電力に頼っているのか」をも意味する。

 

 考えてみると電力が人間の生活に登場したのは19世紀の半ばだ。たった180年前の

話であり、それまでは人間は電力無しで暮らせてきた訳だ。電力無しでは到底暮らせない

今の我々には想像もつかないが、歴史の事実はその通り。逆に言うと電力を得たことが

人類の飛躍的な進歩(しているかどうかは議論の余地があるが)に繋がったということかと。

 

 では、未来はどうなのか。いつまでも電力一本足打法なのか。それとも電力に替わるものが

出て来るのか。それを考えることは、実は近い将来(といっても数世紀先?)の人類にとって

死活的に大事になるような気がする。

 

 僕は寡聞にして知らないが、いまこの瞬間「電力に替わるもの」を誰がどれだけ研究

しているのかなと思う。多分かような方も結構いらっしゃるだろう。なにせ本来なら

それこそが本質的な「省電」だから。未来に十分な電力を得る為に想像される、あらゆる、

かつ、途方もない今後の「コスト」を削減するためにも。

 

映画「第七の封印」  イングマールベルイマン

 名高い本作を漸く観る機会を得た。といっても僕が本作について知っていたのは「死」と主人公

がチェスをしている場面の写真だけである。その写真だけで本作を観たいと長い間思わされて

来た。あまりに鮮烈なイメージだったからだ。

 

 キリスト教徒ではなく、従いキリスト教の知見に乏しい僕が本作を正しく理解することは難しい。

登場人物が何を怖れるのかという「怖れの対象」が良く解らないからだ。宗教の大きな要素は

「怖れる」という点にある。その点ではどの宗教も共通している。但し、「何を怖れるのか」

という点では各宗教はバラバラではないか。「怖れの対象」の数だけ宗教があるような気も

しないでもない。その意味で本作は僕にとっては「遠い」話だ。

 

  一方で、「怖れの仕方」については僕の皮膚感覚に訴えるものがあった。例えば冒頭に

記した一枚の写真はまさに怖ろしい。怖ろしいながらも魅入ってしまう。そんなアンビバレントな

怖れの仕方は、キリスト教徒であろうと、僕のような無宗教徒と、同じなのだと僕は思う。

目を閉じたいが閉じられずに見つめてしまうという事は、誰にでもあるのではないか。

 

 白黒画面が本当に美しい。荒涼な風景だけではなく、十字軍当時の人々の暮らしの描き方

も実に美しい。擬人化された「死」の説得力も凄い。本作の影響力は今でも衰えていないと

聞くが、良くそれが分かった。

「エンジェルフライト」 佐々涼子 

 高野秀行さんのツイートで著者を知り、早速読了したところだ。読み始めると止まらなかった。

感想は二点である。

 

一点目。

 

 著者が描き出すエアハースという国際霊柩送還士の会社は「自分達は最終的には遺族の方に

忘れられるべきだ」と考えているという。それは遺族にとってエアハースは、どうしようもなく遺体

搬送時の悲しみを思い出させる存在だからだ。遺族はエアハースにはとても感謝する一方で、

エアハースを忘れていかなくては行けない。それは遺族が死を乗り越える為に必要であるからだ。

そんな風に冷徹に自分を見つめるエアハースがある。

 

 著者はかようなエアハースの覚悟を十分理解している。その上で「エアハースのやり遂げている

事そのものは決して忘れて良い話ではない」という著者自身の覚悟を決め、とても辛かったで

あろう取材を完遂し、本書に結実した。著者とエアハースとのある種の「対決」が本書を清々しく

したものにしている。

 

 二点目。

 著者は取材を続ける中で、自身の家族の「死」を段々と見つめなおしている。特に

産まれた当日に亡くなった弟と、その弟を亡くした母親(つまり著者の母親でもある)を想う

気持ちが膨らんでいく。

 軽々しく想像してはいけないと思うが、見ず知らずの方であろうとその死を観続けるという視点は、

ブーメランのようにいつか必ず自分自身に戻ってくる。そんな事を強く感じた。

本書の怖ろしいまでの臨場感は、著者が他人の死を通じて自分を見つける緊張感

からやってきている。そう僕は確信した。

 

 しばらく著者の本をいくつか読む事にした。著者を教えてくれたツイッターというメディアにも

感謝したい。

「食堂かたつむり」 小川糸

 小川糸という作家の本をたまに読む。今回の一冊は小川のデビュー作だという。「処女作には 

その作家の全てがある」という言葉を昔聞いたが誰の言葉なのか覚えていない。 感想は二点だ。

 

 まず本作は空腹の時に読んではいけない。本書で紹介される数々の料理を読んでいると、いい意味で 

イライラしてくるからだ。人間の数ある欲の中でも食欲は特別な位置を占めている。食欲はあらゆる生き物 

が持つ本能だと思うが、人間だけが「味わう」という能力を磨きに磨いてきたのではあるまいか。人間は 

けた外れの雑食家だとも思うが、それは「味わい」を追求してきた結果だろう。その延長上に本作が 

あると考えることは十分に楽しい。 

 

 二点目。本書では多くの事が語られていない。主人公の失恋の状況、主人公と熊さんとの関係、 

熊さんと奥さんとの現状等が最後まで分からない。語られていない以上、僕ら読者は自分で想像 

していくしかない。そういうある種の突き放しが不思議といえば不思議である。 

 

 もちろん作者はかような事を書き込むことは容易だったはずだ。但し、書き込まなかった。それを作者の 

「節度」と考えることも可能だろう。「処女作には、その作家の全てがある」という事が本当であるならば 

かような「節度」は小川の大きな持ち味なのかもしれない。