「泥酔文士」 西川清史
新聞の書評で本書を知り、気楽に通読した。名高い昔の文士達がなぜあのように泥酔した
のか。それを考える事が本書を読むという事である。
とにかく泥酔にも程があると本書を読みながら常に考えることになった。大概の登場人物は
当時、それなり以上の教育を受けていたはずだ。従い、かような教育を可能にした一定以上の
恵まれた経済環境にあったはずである。勿論、そのような教育を受けた上で改めて破滅的な
生活を送る中で困窮生活を強いられた文士もいた訳だが、そもそもの出発点は前記の通り
ではなかったろうか。
そんな環境と才能を持った文士達が痴態ともいうべき泥酔を展開する姿をどう考えるのか。
必要以上に繊細かつ鋭敏な神経を持ったがゆえに飲酒に陥ったというような言い方も
出来る気はするが、それもやや美談に持っていきすぎという気もしないでもない。もっと言うと
泥酔の言い訳として、そのような「芸術家の宿痾」というような伝説が作られたということは
なかったろうか。そんな気がしてならない。文士の泥酔は社会的にも認められていた
ようだし、「それでこそ文士である」というような向きもあったのではあるまいか。
振り返って現在の文士達はどうしているのだろうか。同じような泥酔劇を展開しているとも
思えないから不思議だ。それが時代の変化という事なのかもしれない。そうでなければ本書の
ような著作が世に出ることもなかったろう。
映画「嵐電」
嵐山の路面電車が好きなので鑑賞する機会を得た。なんとも不思議な映画である。
主人公の一人は鎌倉から京都にやってきている。なぜ「鎌倉」なのかと考える事も本作を
理解する上での一つの登山道である。
本作で嵐電と江ノ電の交流が描かれる場面がある。主人公が鎌倉から来た設定とした
のは江ノ電がそこにあるからではないか。
言うまでも無いが、京都と鎌倉は共に古都である。歴史の長さでは鎌倉は京都に
及ばない。古都を飾る神社仏閣の数も京都の方が多いだろう。但し、鎌倉には京都が
持っていない「海辺」という切り札がある。また、鎌倉アルプスといった里山に似た
自然が残っている。
加えて江ノ電の存在感は大きい。鎌倉から海辺をトコトコと走る愛嬌たっぷりの江ノ電
は、それだけで観光資源と言える。江ノ電を起用した映画も多くある。
そんな鎌倉に嫉妬し、対抗しようとした京都が提示したのが本作ではないだろうか。
江ノ電に対抗しうる嵐電を前面に押し出して、新しい京都の魅力を打ち立てたいという
ような想いもどこか香っているような作品である。実際に路面電車という風景自体が
既に十分に映画的である。映画として官能的と言っても良い。
映画が語る三つの恋愛譚はとりとめがない。良く分からないといっても良い。分からない
といっても難解という理屈でもない。ただ良く分からないという事のある種の心地よさを
感じた。キスシーンの復権というコメントをどこかで読んだが、それは当たっているなと
思ったことが最後の感想である。
徒然草 第七十二段
この段では兼好法師は枕草子の口調を真似ながら、「物が多すぎて下品に見える場合」を書き出して
いる。具体的には
・身の回りの道具の多さ
・硯に筆が多いこと
・仏像が多すぎる持仏堂
・石や草木が多い庭
・家の中に子供や孫がたくさんいること
・言葉が多い人
・自分の善行を自慢した手紙
等を上げている。書き出していて笑ってしまった。僕自身の事を書かれている気も時折したからだ。
ミニマリストという言葉がある。兼好は800年近い昔にミニマリストの精神を既に持っていたという事
なのかもしれない。但し、それは兼好自身の手柄とも思えない。仏教の中に、既に十分にミニマリスト
の精神が宿っているからだ。
それにしても子供や孫の多さも下品なのか。子だくさんという事が美徳であった時代もあった気も
しているが、良く考えるとお金持ちだけに許された美徳だったのかもしれない。
「見つからないからといって、なくなったとはかぎらないさ」
「ぼくらはみな自分にできることをやり、きっとそれでよいのだろう。
もしよくなくても、それはそれで仕方ない。
何もなくなっちゃいないよ、セーラ。
見つからないからといって、なくなったとはかぎらないさ」
ーー「デッドゾーン」 スティーブンキングーー
映画 「うみべの女の子」
なんの気なしに見始めたが、途中でいささか座りなおして鑑賞することになった。なんとも異様な作品
ではあるが、ヒロインの石川が妙にリアリティーを持っている点に強く印象を持った次第だ。
この作品はセックスに始まり、キスで終わる。普通の順番とは逆である。それが、そのままヒロイン
自身の人間像に重なっている。いささか荒れていたヒロインが次第に純粋になっていく、ある種の
「おとぎ話」であるとも言える。
一方で主人公の磯辺はヒロインの小梅とは、これまた逆である。純粋で繊細だった彼は次第に
狂気を帯びてくる。それは自殺した磯辺の兄の呪いのようにも見えるが、かような呪いを自分
にかけてしまったのも磯辺自身ではなかったか。当初は強く希求していた小梅からの愛情を、
最後は強く否定せざるを得なくなっていく姿は見ていて辛いものもあった。
そんな小梅と磯辺のすれ違いが本作のテーマだと整理して、少し腑に落ちたところだ。いずれにせよ
本作は奇妙な魅力を湛えている。セックスシーンが全くセクシーでないだけでも一見の価値は
ある。
「海の果ての祖国」 野村進
20歳代前半にテニアンとサイパンに頻繁に行く機会があったことが本書を読むきっかけとなった。
その頃、森高千里が「わたしがおばさんになっても」を歌っていた。その中でサイパンは以下の
ように歌詞に出てきている。
「 夏休みには二人して サイパンに行ったわ
日焼けした肌 まだ黒い
来年もまたサイパンに泳ぎに行きたいわ 」
森高が歌っていた1992年でのサイパンは上記のような観光地であったことは僕も同感である。
但し、その50年近く前のサイパンがいかに地獄だったのかを本書を通じてよく理解出来た。太平洋戦争
の激戦地は多くあるわけだが、住民が巻き込まれたという点でサイパンの悲惨さは際立っていたとしか
言いようが無い。
考えてみると戦前の日本人が大挙してサイパンに行ったという事自体にも驚きを感じる。勿論国策
として国が推したという面もあろうが、それ以上に日本を脱出するしかないという境遇に置かれた方も
多かったのだと思う。彼らはおそらくは希望をもってサイパンに移住したに違いない。その気分には
森高の歌とは異なるものの、同じような明るさがあったのではないか。本書で描かれる戦争前の
サイパンの楽しそうな街並みからそんな気がした。それだけにその後の非業さもくっきりとして
しまったのではないか。
1992年から既に30年以上経った。僕もサイパンには30年近く出向いていない。僕が覚えている
サイパンは森高の歌の通りだった。今はどうなのだろうか。
「乱れる」 成瀬己喜男
最近成瀬の映画をぽつぽつと見ている。面白い。もっと早く観るべきであったと反省しているが、一方
今鑑賞することが出来ることは楽しい。
本作は悲恋物語という事なのだろうが、僕はまず第一に唱和のある時代を切り取った作品であると
理解した。主人公の経営する町の酒屋が新しく進出してきたスーパーマーケットの低価格政策によって
苦境に陥るということが、この恋愛物語の現実性を支える背景となっている。
実際その風景は、例えばその後にはシャッター通りという形で日本の各所において見られる風景に
結実した。僕自身も小学校の頃には、かなりの同級生の実家がお店をやっていたことも思い出した。
そんなお店たちもその後退場を迫られたことが唱和の歴史である。そんな時代を1964年に公開
された同作が、既に予言的に描きだしている事は先見性以外のなにものでもないと思った。
若しくは1964年の時代から既にシャッター通りは問題となっていたのだろうか。たまたま同年に
生まれた僕としては皮膚感覚が無いので分からないわけだが。
さて、テーマは悲恋である。成瀬は女性を描き出したら当代一と言われたらしい。実際にこの60年近く
前に制作された映画は、いまなお非常に艶めかしさを放っている。
ヒロインの高峰秀子が放つ官能性はエロスと言っても良い。「中年の未亡人と12歳年下の義弟との
禁じられた恋愛」と書き出すと、やや背徳じみた響きもあるが、本作は正しくその背徳性が主題である。
戦後の日本においては夫を戦争で亡くした妻が、夫の弟と再婚するという場面はごく普通によくあった
話だと片づけられてしまう。但し、本作を観ると当たり前ながらも、簡単な話では無かったのだろう。
但し、そんな「簡単な話では無かった」点をヒロインが乗り越えられなかった点で悲劇は起こった。
乗り越えられなかった理由が背徳性に耐えられなかったとしたら、そこがエロスの湧き出る場所でも
あるのだと僕は思った。
「評伝 今西錦司」 本田靖春
今西錦司の本を読もうと思ったが、その前にまず今西という方を知ろうと思って本書を読む機会と
なった。著者の本田靖晴の本を読むのも2冊目か3冊目である。
今西は生物学者として名高い。著者の本多は生物学には詳しくないと自称している。生物学に詳しくない
ということで本書の執筆を固辞してきたが結局書く羽目になったという。それだけに本書での生物学関係
の記載は少ない。但し、本多が焦点を当てているのは今西の人物像である。本多が描き出す今西という
方の有りようには引きこまれた。
今西とはどのような人物だったのか。誤解を恐れずに一言で言うと「勝手な人」ということになると
僕は理解した。
「勝手な人」という言い方には強い「非難の響き」と、若干の「憧憬」も混じっているのではなかろうか。
人間は「自分勝手」に生きたいものだ。考えてみると生き物はすべて自分勝手に生きているとも言える。
但し、人間はそうはいっても中々「自分勝手」を貫くことは出来ない。それは人間が社会を営む度合いが
強いからかもしれない。
そんな中で、本書が描き出す今西という方は、相当度に「自分勝手」を徹底してきたように見える。
かつ、その勝手さにはある種の爽快感がある。自分が中々やれないことを今西は涼しい顔でやって
いるようにも見えてくる。その「涼しさ」が爽快感に繋がっている。そんな気がしてならなかった。
高齢でありながらも山登りをやめない。周囲の人たちは本当に大変だったろうと思う。それでも
今西は「涼しい」顔をして、自分勝手に山の頂上を目指す。生き物とは自分勝手なものだという事を
自ら示していたのではなかろうか。棲み分け論というものは僕も知見がないが、要は勝手に生きている
生き物たちが予定調和的に棲み分けたということなのかなと勝手に思った次第だ。
龍安寺の石庭で思ったこと
龍安寺は石庭が有名だ。
この石庭の石の配置をどう理解するのかという事がある種の禅の公案になっている。勿論正解は無い
訳で、観ている人が各々の見方でそれぞれ考えるしかない。従い「答え」は見学者の数だけあり、
すなわち「無数」ということだ。
ここで思いだすのはチャットGPTである。僕の理解では、チャットGPTとは「答え」を出してくれる
有難い「機能」を持っている新兵器というものだ。ここで僕の立場をはっきりさせておくと、本日段階で
チャットGPTを使ったことはない。従い僕の理解は雑誌や聞いた話の範囲でしかない。
「正解がある」ということは非常に楽だ。答えさえわかれば間違えることは無いし、それ以上
考える必要もなくなる。
但し、「正解がある」ということは実は中々稀な気もする。日々の仕事をやっていても「正解」というものが
果たしてあるのかどうか。むしろほとんどの場合「正解」は無いのではないか。まさに龍安寺の石庭の
ように。そんな風に思う。となると、我々は「正解が無いことに耐える」しかなくなる。
では「正解が無いことに耐える」とは何か。その問いにも正解は無いわけだが、一つの答えは
「決断してしまうこと」なのかと思う。「決断」というとやや格好良いが、平たく言うと
「決めてしまう」ということだ。
部下が上司に対して持つ不満の一つに「物事を決めてくれない」という物がある。正解が無い
中で物事を決めきるという事は難しいものだ。同じく「決断力」に自信がない僕もその「上司」には
同情的ではある。但し、やはり「決めてしまう」ことは物事を進める上で大事なのだろう。決めないと
物事は進まないものだ。
「決めてしまった」後の結果がどうなるのか。それはまさしく「結果論」に委ねるしかない。
ここで開き直りの言葉を紹介したい。
「我、事において、後悔せず」
自分で決断した以上、たとえ失敗におわっても後悔してはならないという意味だそうだ。これは
宮本武蔵が書いた「五輪書」の「独行道」という段に出ている。
「希林さんといっしょに」 是枝裕和
樹木希林と是枝とのいくつかの、もしくは、いくつもの対談を集めた一冊である。樹木の対談の
本はいくつか読んだ気がするが、深さという点で本書は樹木対談の白眉と言える。対談内容
の豊かな視点も楽しいが、それ以上に是枝が付記している解説が興味深い。解説の中で
是枝は出来るだけ正直に語ろうとしているように見える。そんな誠実な文章が本書の
「厚み」に結実している。
是枝にとって樹木とは時に友人であり、時に母親であるという特別な存在であった事を改めて
本書で思い知らされた。いままで是枝の映画の中での樹木の特権的な立ち位置を感じる
機会はあったものの、その背景がどのようなものなのかという点は映画は教えてくれなかった。
今回、是枝が本書を出してくれたお陰で理解できたことが実に多かった。
是枝にとって、樹木は「便利」な女優だったのだと思う。何が便利だったのか。樹木自身が
得難い映画の作り手であった点が便利だったのではないか。
樹木が「作る」部分は、大きな話ではない。ちょっとした所作や、アドリブであり、ともすると
気が付かない程度のものである。
但し、そんな「隠し味」が映画のコクを強く深くしていく。監督としての是枝も、樹木が付け加えた
隠し味を上手に料理しなくてはならない。そんな緊張感も二人の間にはあったのだろう。
そんな事を想像するのも楽しかった。
樹木を失ったことの大きな喪失感は、まだ残っている気がする。但し、本書でも語られる
加藤治子、杉村春子といった大女優を失ってきたことも僕らの歴史である。樹木とはまた
違った個性をもった女優の登場を待つしかないということか。