くにたち蟄居日記 -27ページ目

「マルクスアウレリウス 自省録のローマ」 南川 高志

「自省録」は高校時代に本を購入しながらも、なんとなく読了できていない。但しマルクス
アウレリウスには興味がある。そんなある種のスノッブな動機で本書を読んだ。

 マルクスは「哲人政治」を実施した方だと思っていたが、それがある種の誤解であった事
が分かったことが収穫である。すなわち、マルクス自身は哲学者であった訳だが、その
政治は現実に即した従来からの政治の延長上にあったということである。哲学を政治に
持ち込んだ訳でもないし、持ち込もうとしたのかどうかも定かではない。それが今回の
気づきである。

 ところで、と考えてみる。

 読了した訳ではないが、パラパラと自省録をめくって見ると、哲学書というよりはエッセイに
近い本なのかもしれない。「哲学」という言葉がやや曖昧で意味が広いからかもしれないが、
例えば昨近の難解な哲学書でもなんでもない。むしろ、後世の吉田兼好の「徒然草」や
モンテーニュの「随想録」の先達である気がする。ある種の知性が辿るエッセイという
道があるような気もしないでもない。

 というような印象が正しいかどうか。やはりきちんと自省録を読むべきなのだろう。

徒然草 第六十九段

 この段では豆殻で豆を煮ている場面の「音」を描き出している、すなわち、煮られる豆と

燃やされる豆殻がお互いに自分の不幸と相手への不満を言っている。要はもともとは

同じ豆だったものが、かように分かれさせられて煮たり焼かれたりという不満である。

かような「不満不平」を高名なお坊さんが聴き取ったという話だ。

 

 この話は豆と豆殻が登場人物だが、これを家族であるとか仲間であるとか国であるとか

に置きなおすと良くある話だろう。もともとは同志であったものが分かれて対立するという場面は

人の歴史ではいくらでもあったし、これからもあるに違いない。

 

 というようなことをお坊さんも考えたということなのだろう。徒然草が書かれた時代も、それなり

に荒くれた日々だったはずだ。そんな中で出家をして世を捨てた僧が、豆を煮ている場面で

世の無常を、幾分ユーモラスに感じたということかと思う。豆を煮る音が、ぶつぶつ不満を

言っているように聞こえたという話自体も、ユーモラスではないか。きっとカラカラと笑いながら

この話をしたに違いない。無常には逆らえない以上、笑い飛ばすしかないのかもしれない。

「辛口サイショーの人生案内」  最相葉月

 ココニイルコトという映画が好きで、原作者の最相を知るきっかけを得た。それ以来最相の本は

数冊読んできている。

 

 「はじめに」の中で最相は人生相談について以下を述べている。

 

 「内緒話はダダ漏れとなるもの。そんな人間社会の必定を逆手にとったのが、新聞やラジオの

人生相談です。衆人環視の中で相談していながら、匿名性は保たれているため誰の話か

分からない。そうです。相談を内緒にするのではなく、相談者を内緒にすれば、相談者は誰にも

知られずに専門家の回答が得られ、読者や聴取者にとっては楽しくためになる。この一挙両得

を狙った人類史上最高のエンタテイメントが、人生相談だと私は思っています」

 

 この一文を読んでなるほどと感心する一方、人間の悩みが「最高のエンタテイメント」である

と言い切ってしまう最相は、ある意味で確信犯ではないだろうか。加えて、彼女が人生相談に

応じる専門家なのかどうか。そんな疑問符を持って本書を読み始めたら、面白くて直ぐに

読み終わってしまった。

 

 彼女は相談者と面識は基本的には無いだろう。「会ったこともない人」の人生相談に対して

彼女は真摯に返事している訳だが、ところで最相は誰に対して返事をしているのかと考える事が

本書を読むという事である。

 

 言うまでもないが、最相は人生相談を読んでいる不特定多数の読者に対して返事を出して

いる。不特定多数者は相談者自身ではないし、相談者を知る由も無い。一方で最相は

「不特定多数」への面識もないだろう。従い、相談者、回答者(最相)、読者がすべて

無関係でバラバラな状態に置かれている。そんなコミュニケーションがそもそも成り立たない

中で語られる物語を成立させているのは最相の相談者への愛情である。最相は不特定多数

に対して「私はこの相談者を愛しています」と言い切る事が本書である。その言い切りが

彼女を「専門家」にさせている。

 

 ではなぜ彼女はかような愛情を持つ事が出来るのだろうか。それは彼女自身の人生の何かが

そうさせているという事なのだろう。詳細はもちろん分からない。僕も最相という方にお会いした

事もないからだ。本書は「辛口」と題名で謡っている。実際にその通りだ。但し、底に愛情が

流れていることも読み取れる。そんな愛情の発露をエンタテイメントと呼ぶことも可能なのかも

しれない。

「奪われざるもの」 清武英利

 山一証券の「しんがり」を読んで、清武という作者を知り本書を読むきっかけを得た。

ソニーのリストラの話である。本書を読んでいる間、常に「生きがい」という言葉を思った。

 

 人間以外の動植物に「生きがい」というものがあるのか。大半の生き物は子孫を残すためだけに

生まれてきて、そして死んでいく。生殖行為が絶対の目的であり、それ以外に何か他の目的

を持つようには見えない。

 人間という生き物は決してそうなっていない。自分の子孫を残さないという選択をする人

もいくらでもいる。それが進化ということなのかもしれない。

 一方で人間は「生きがい」という、ある意味奇妙な考え方を得るに至った。ここで「奇妙な」

と言ったが、「生きがい」という考えによって苦悩に陥ることも多いからだ。本書はその苦悩を

描き出すドキュメンタリーである。

 

 僕らは自分の想像以上に「仕事」に生きがいを重ねてしまっている。本書の登場人物にとって

リストラとは経済的苦境である以上にその人の尊厳に関わる問題になっているケースが多い。

本来的には仕事とは自分の生活を支える「経済的な基盤」という「生活の為の道具」

であったはずだが、いつのまにか自分の生きがいになってしまっている。そんな生きがいを

手放すことを強いられる「痛み」が本書のテーマだと僕は読んだ。

 

 繰り返すが、「生きがい」とは諸刃の刀である。下手に囚われてしまう事で起こる悲喜劇は

身の回りにもいくらでも見られる。人間以外の動植物の淡々とした生涯を見ていると

人間は複雑きわまりない。それを進化と呼ぶのだろうか。

徒然草 第六十八段

この段では主人公が危機に陥った際に、日ごろ愛食してきた大根の精が主人公を救うという

話が紹介されている。

 

「食べられてきた大根」が、「食べてきた主人公」に恩義を感じるという事自体は分かった

ような分からないような気もするが、大根にとっては日ごろ贔屓にして貰ったということなの

だろうか。いずれにせよ、往年の「日本昔ばなし」あたりに取り上げられても良い話にも

思える。

 

 こういう話を21世紀に生きている僕らが読むと、ただのおとぎ話にしか見えない。但し、兼好

の時代には、もしかするとかなり現実味のある話だったのかもしれない。そう考える方が、

実は僕らの反省にも繋がる。

 

 僕らは色々なものを信じている訳だが、後世の人が将来それらを見返すと「荒唐無稽なものを

信じていた」となることも多いと思う。兼好の時代の人が大根の精を信じていたことと、現代の僕ら

が何かを信じていることは、五十歩百歩かもしれないのだ。そう考えると初めて僕らは自分自身を

相対化する道が開けるのだと思う。

 

僕らは自分の信じているものには騙されやすいものだ。そう考えておく習慣がつくかつかない

かで、僕らの将来もだいぶ変わるのだと僕は「信じて」いる。

徒然草 第六十七段

この段では神社の祭ってある対象の誤解の話を兼好はしている様だ。間違いが多い中で年老いた

神官が正しい説明をしている点に兼好が感心している様子だが、なんとなく余り伝わってこない気も

しないでもない。但し説明の中でも和歌が出てくる部分は少し考えても良い気はする。

 

昔の人は和歌をよく詠んでいる様子は徒然草にも良く出てくる。一方、僕らはどうか。和歌や俳句を

詠む人が多いとは思わない。詩を書く人はもっと少ないだろう。「あの人の話はポエムだ」という言い方には

既に非難ないし冷笑を感じるものがある。

但し、昔の人と僕らがそんなに変わったとも思わない。要は当時の人にとって和歌とは何だったのかを

考えないと分からないだろうし、その何かを現代の僕らがどうしているのかという点を考える事が

肝要なのだと思う。おそらくは昔の人にとって和歌とはある種の特別なコミュニケーションのツールの

一つだったに違いない。それは僕らは例えばツイートという形で現代に対応しているのかもしれない。

これ以上は知見が無いので何も言えないが、徒然草を自分に引き付けて読むということはそういう

事を考えるということではあるまいか。

2020東京オリンピック A面 B面  河瀬直美

東京オリンピックが終わって1年半近く経った2023年1月に鑑賞した。すっかり忘れていた事が多かった。

その事実に驚く半面、当時はあまり真面目にオリンピックを観戦していなかった事も思い出した。

 

 本作が扱う対象は多岐に分かれている。ある時は選手であり、ある時は裏方であり、ある時はコロナで

あり、ある時はオリンピック委員会であり、ある時は東日本大震災である。それだけの色々なものを詰め

込む事で、本作の焦点がぼけているという批判は簡単だろう。

 

 但し、実際のオリンピックを考えてみると、そもそも焦点そのものがあり得ない代物と言える。オリン

ピックへの関わり方が、その人にとっての「オリンピック」であろうし、「オリンピックへの関わり方」は

関わった人数の数だけある。そんな事を本作は言っていると僕は思った次第だ。

 

 商業オリンピックへの批判が強くなってきている。かような批判を机の上に出したのも東京オリンピックの

効果と言ってしまっても良い。いままでタンスの中に奥深く隠してきたものが明るみに出ることは

決して悪い話ではない。隠してきたものがある種の人間の本性であるとしたら、それはスポーツも

ある種の人間の本性であるということと同列に扱ってもよいのかもしれないのだ。人間のやることは

常に人間臭いものだ。

 

 いくつかの映像は、はっとするほどに美しい。

 監督の河瀬は最近パワハラ等で物議を醸した経緯もある。かような物議が正しかったかどうかは

僕には分からない。但し、そもそも作者の人間性と作品とは別物だ。むしろ多くの芸術家は、人格的には

破綻していたと言われる事も結構多い気もしないでもない。

 美の小鬼と戯れることには、なんらかの代償もあるということなのだろうか。

徒然草 第六十六段

この段では紅梅が咲いている木の枝に雉をつける話から始まり、鳥の贈り物の風流を色々と述べ

られている。徒然草の中でも比較的長文になっている。兼好が興味を強く示しているということなのかもしれない。

 

 「咲いた桜になぜ駒つなぐ。駒が勇めば花が散る」という唄を思い出した。司馬遼太郎の「竜馬が

行く」の中で紹介されていた唄だが、改めて調べてみると江戸時代の「山家鳥虫歌」に収録されている

ものらしい。生きた雉を紅梅咲き誇る枝に付けても同じような話になるような気がするがどうだろうか。

 

 いずれにせよ、日本人のある種の美的感覚を示す話なのだろう。咲く花だけではなく、散る花を愛でる

というのも悪くない。散る花に自分を重ねるような年齢に僕もなってきた。

 

 

 

 

徒然草 第六十五段

 

 この段は冠の入れ物(冠桶)を取り上げている。冠の高さが高くなってきたので、昔から使っている

冠桶の高さも調節しなくてはならなくなったという話だ。たった2文だけの短い段である。

 

 この話は別に面白おかしい話ではない一方、こういう話を兼好がわざわざ書きつけているという事

自体には興味を惹かれる。なんで兼好はたかが冠の入れ物の高さ等に興味を持ったのだろうか

ということだ。

 

 残念ながら僕にもよく分からない。冠を高くしすぎる風潮を苦々しく思っていたのかもしれないし。

冠桶を新しくせず、古いものを調節して使っている様に滑稽味を覚えたのかもしれない。

兼好の興味のあり方を想像するという事が「徒然草を読む」という事なのだとしたら、かような

想像自体が楽しいのかもしれない。

 

 いずれにせよ、希代の教養人が、冠の高さといったいささか下世話な物事もしっかりと見つめていたという

言い方は出来る。

 若しくは、冠の高さを「下世話」と見てしまう21世紀の僕の視線が、既に教養というものを見失って

いるのかもしれない。

「小林秀雄の恵み」 橋本治

 年末年始に読む機会を得た。特に何かきっかけが有ったわけではない。小林秀雄をネットで漠然と

調べているうちに本書を見つけただけである。そんな偶然の一冊は思わぬ豊かな読書となった。本と

巡り合うということには、そんな偶然が良くあるものだ。

 

 本書を読んで一番為になったのは「小林秀雄の本を読むという事」を改めて考えさせられた点に

ある。

 

 例えば僕の好きな一文に小林秀雄の「徒然草」がある。本書の読む前までは、「小林秀雄に

徒然草を解説して貰うことで、オリジナルの徒然草に対する理解を深めよう」というように考えていた。

すなわち、僕の興味はあくまで「オリジナルの徒然草」にあり、小林秀雄は「解説者」にすぎない位置

づけだった。

 

 本書を読むことで、「『オリジナルの徒然草』を小林秀雄はどう読むのか」という事が、実は小林秀雄の

「徒然草」を読むということの意味であると気が付かされた。そこに至って僕の興味は「小林秀雄」に

移行しており、「オリジナルの徒然草」は小林を理解するためのテキストにすぎなくなったという事である。

 

「何をいまさらお前は言っているのか」と世の読書子から笑われそうである。「小林秀雄の本を読む

という事は小林秀雄を理解することに決まっている」という批判も極めて容易である。但し、僕としては

この歳(58歳である)になるまで、かような意識が不足しながら小林秀雄を時に読んでいたという

事実は変わらない。

 

 橋本は小林秀雄を「トンネルを掘る人」と表現している。いや、結論付けているというくらい強く言っても

良いだろう。その橋本に乗っかるとしたら、僕は「トンネルの先にあるもの」に興味がある一方、

「トンネルの掘られ方」には無頓着だったということになる。トンネルの先にあるものに興味があることは

当然だと今でも確信している。但し、トンネルの掘られ方も極めて重要だという理解を今回得た。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という一文は、雪景色を一瞬にして思わせる美しい

文章だが、いうまでもなく「長いトンネル」があったからこそ、雪景色が美しかったということなのだ。

トンネルの効用は言うまでもない。