「六度目の大虐殺」 エリザベス・コルバート
シンガポールの日曜日に読了した。
地球は過去5回程度にその時々の生物の大半が滅びるという「大絶滅」を経験してきているという。
原因は気候変動やチュクシュルーブクレーターを作った小惑星衝突等である。現在の生物はその
5回の危機を凌いできた子孫であるわけだが、そんなこの地球に6度目の大絶滅が現在襲い掛かって
いるという主張が本書である。かつ、今回の危機を齎しているのは人類だという警告の書である。
僕は「地球の温暖化」の問題に若干なじめない部分があった。地球は過去にも気候変動はいくら
でもあったわけであり、現在の温暖化もかような歴史の繰り返しではないかと思ってきたからだ。
本書は、そんな僕の暢気さに冷水を掛けてくれた事となった。
問題は温暖化といった「変化」そのものではなく、「変化のスピード」にあるということが僕が
本書で読み取った内容である。
従来の地球の「変化」もそれなりに大きなものが有ったと思うが、「変化のスピード」においては
それなりの時間が掛かってきたと本書は言う。従い生き物は、変化に対応する時間が一定以上
有ったということだ。小惑星衝突は極めて一瞬の「変化」であったろうが、その後の生き物の
「対応」には相当の時間を掛けることが出来たと思う。
一方、人間が起こしている「変化」は非常に速い。二酸化炭素の大気への放出においても、
若しくは動植物の全世界への移動(これが外来種という観念を齎している)にしても、従来の
速度とは桁違いのスピードがある。その「速さ」こそが、「変化」への対応時間そのものを
生き物から奪っている様子だ。
僕らは「速さ」「早さ」という呪いをかけられているというような気がしてきた。勿論かような
呪いが、ここまでの人類の繁栄を齎した面はある。但し、坂の上の雲を目指して走っているうちに
気が付いたら下り坂になっているという事はないだろうか。そんな思い付きが冷水となって
僕の頭にかかった気がしないでもない。
加齢とは、誰もが中途障害者になるようなもの
「加齢とは、誰もが中途障害者になるようなものです。そして年齢を重ねるにつれて、わたしは精神も身体も、壊れもの
だと感じるようになりました。乱暴に扱えば、心もカラダも壊れます。壊れものは壊れものらしく扱わなければ
なりません。思えば、どんな無茶をしても自分も相手も壊れない、と思っていたころは、どれほど傲慢だった
ことでしょう。」(『往復書簡 限界から始まる (幻冬舎単行本)』(上野千鶴子, 鈴木涼美 著)より)
上野千鶴子の意見。
熱帯の海
「熱帯の海は大半の生物にとって必須である窒素やリンなどの養分に乏しい
(これには「水柱の熱構造[水柱は海水の垂直方向の構造を表す]」と呼ばれる
ものがかかわっており、熱帯の海が透明で美しいのはこのためだ)。
したがって、熱帯域の海は不毛、つまり水中版の砂漠であっても不思議はない
サンゴ礁はただ海中の熱帯多雨林というだけではなく、海中のサハラ砂漠に
ある熱帯多雨林なのだ。」
(『6度目の大絶滅』(エリザベス・コルバート, 鍛原 多惠子 著)より)
熱帯の海は貧しいから美しいということらしい。
「限界から始まる」 上野千鶴子・鈴木涼美
上野千鶴子と鈴木涼美の対談である。面白くない訳がない。
本書を読んでいて常に「本書を男が読む事とは何か」を考えることを強いられた。男性が
本書を理解することが果して出来るのか。それを絶えず問われる思いがした。
鈴木は高校時代のブルセラ時代に男性の醜悪さを見たことが彼女の原点であった様子だ。
「醜悪」という言葉は少し品が良い表現かもしれない。「阿呆らしさ」とでも言った方が良い
のかもしれない。高校生の下着を買って品の無い自慰行為に及んでいる男性群をマジックミラー
越しに見た際に鈴木は男に絶望したという。絶望の余り、逆に鈴木はAV女優になる道を
辿る羽目になったようだが、そんな彼女の経緯を一体男たちはどのように読めばよいのか。
上野にしても自分が「肉体と精神をどぶに捨てるようなセックスをしていたころ」という
ような表現を本書で繰り返している。男も「肉体と精神をどぶに捨てるようなセックス」を
するだろうが、上野が捨てている「肉体と精神」と男が捨てている「肉体と精神」とは
おそらく大きな違いがある。そういえば昔は「童貞を捨てる」という表現もあった。
「童貞」が男にとって「肉体と精神」だったのかもしれない。
そんな二人の激論を果たして男が理解できるのだろうか。僕はある意味で本書を
読んで絶望した。皮膚感覚で到底分からないと思った箇所がいくつもある
からである。
但し「到底分からない」という認識を一つの出発点とすることは可能である。むしろ
「分かった気になっている」事より余程良いという考え方の方が正しい。分からないもの
は想像するしかない。本書はかような想像力を男性読者に与える極めて親切なガイド
ブックであるとも言える。上野と鈴木という希代のガイドが体を張って教えてくれている
姿には強い清々しさがあった。
「ブルーカーボンとは何か」 枝廣淳子
水産関係の業務に携わった経験があることで海に興味がある。海に興味があることで
本書の副題である「温暖化を防ぐ『海の森』」に惹かれて本書を読む機会を得た。
脱炭素が世界的な課題・問題となる中で、海の果たす役割の大きさを平易に説明する
一冊である。具体的には
「海洋は、人類が排出する二酸化炭素の約30%を吸収し、気候システムにおける過剰な熱の
90%以上を吸収して、地球温暖化の影響を低減してくれている」
という話だ。特にマングローブ林の効果は極めて大きい一方、人間が極めて速くマングローブ林を
減らしているという具体的が印象に残った。
脱炭素は人類共通の課題であるが、それゆえゲームの種である。ゲームとは、脱炭素を
巡っての経済利益の追求でもあり、国と国とのパワーゲームでもある。こう書いていると改めて
人間の度し難い業の深さも感じてしまう訳だが、かようなゲームの種となることで、脱炭素は
進んでいくことも事実だろう。その意味で、「海洋」という、人間にとってやや「遠い」世界が
注目されることは悪い話ではない。
水産の仕事をやっていた頃は、僕にとって海とは「動物性たんぱく質の供給基地」でしか無かった。
当たり前の事だが、その見方はあくまで人間の視点からだけの話である。僕らが地球を見る時に
「人間の視点」というメガネをかけて見てしまうことから生じている悲劇は枚挙のいとまがない。
海を「ブルーカーボンの産地」と見ることも、かようなメガネで見ている事象の一つに過ぎない
とも言えよう。但し、少しずつではあるが、かようなメガネを外して物事を見ようという動きも
出てきていると思うし、そう思いたい。メガネを外すことの動機が時に不純であったとしても前進している
と言えなくはないだろうか。
「モビリティ ゼロ」 深尾三四郎
勤務先でEV関連の勉強会があったことで本書を読むきっかけとなった。著者が勉強会での
講師であったからである。
色々な発見があったが、一番強く印象に残った点は、EVとは欧州が仕掛けた「世界標準作り」という
大きな戦略に基づくものであるという指摘だ。自動車という、現段階における人間社会の中で極めて
重要度が高い製品において、新しいゲームのルールを欧州が作ろうとしているという話である。
当たり前の事だが、ゲームに参加するに際してルールを守り、そのルールに最適な戦術を考える
事は大事だ。但し、ルール自体を自分のやりやすいように設定することはもっと大事であり、
ゲームに勝つ最も近道と言える。
僕の印象としては日本人は決められたルールの中でカイゼンを繰り返し、結果的にそのゲームの
中で有利な立場を築くことには長けている。従来の自動車、インスタントラーメン、カレー、TV、
カメラ等の例がいくらでも上げられる。
一方、日本が新しいルールを作ったという話は寡聞にしてあまり知らない。たまに新しいものを作り
あげてもガラパゴスと言われて消滅してしまう事が今までの歴史ではなかろうか。
その意味では今回のEVにおいて日本がリーダーシップを取って世界の中でルールを作っていく
とは考えにくい。いや、それは不可能だろうと考える方が現実的だと思う。ではEVにおいても日本は
悲観的になるしかないのだろうか。それも違う気もしないでもない。従来型のカイゼンを発揮して
一定以上の成果を得る可能性は常にあるという気もするからだ。
最近つくづく考えることは自分の「強み」とは何かということを突き詰めることは大事だということだ。
以前スイスに合計10週間程度の研修に行った事があったが、そこで学んだ事は「自分自身であるべき」
(Be Yourself !)という非常にシンプルな内容である。
人間はそう簡単に変わらない。自分はそう簡単に変わらない。日本もそう簡単には変わらない。
であるなら、まず自分は何が出来るのか。日本は何が得意なのか。そんな掘り下げから
始めるべきだ。EVは世界に対してかなり大きな影響を与えるものになりそうである。そんな大きな
嵐の中で、僕らは何をしたたかにやれるのか。やれる能力があるのか。そんなことを考えながら
読了した。
「生き方」 稲盛和夫
稲盛氏が亡くなられたことで、高名な本書を手に取ることにした。
稲盛氏は日本を代表する経営者ということなのだろうが、本書では「経営者」というよりは
「宗教家」に近いという印象を強く受けた。実際本書で著者が述べているのは経営学ではなく、
「生き方」「倫理」というような人生哲学に近い内容である。著者を知らない人が読んだとしたら、著者
が経営者であったとは思わないかもしれない。
逆に言うと、希代の経営者がかような本を書いたということが稲盛氏の「カリスマ」に繋がって
いるということだろう。いつの時代にも「名経営者」と言われる方はいらっしゃる訳だが、その中
で稲盛氏を更に際立たせる「カリスマ」は、「生き方」「倫理」から来ていると考える方が
本書の理解は進む気がする。
僕にとって本当に興味があることは本書が非常に売れたという事実である。日本のみならず
中国等でも大層売れたと聞く。多くの人間が本書のような「生き方」「倫理」に強く惹きつけられる
という事実は実はよく考えた方が良い事なのかもしれない。そこに人間の持つ基本的な「善性」
を見つけることも出来ると僕は信じたい。
資本主義、新自由主義を経て、現在は再度「帝国主義」にも見えてしまう世界の中で、本書が果せる
役割というものはあってほしい。本書が多くの読者を今なお獲得しているという事実は、僕のかような
ささやかな希望の大きな支えとも言える。
SEEING IS BELIEVING
NHK「映像の世紀」でのバタフライエフェクトシリーズのプロパガンダ映画関連を鑑賞する。
端的に言うと、戦前から現在にかけて、プロパガンダ映像がどのような役割と効果を出してきた
のかという特集だ。
「百聞は一見に如かず」という。英語でも「SEEING IS BELIEVING」という言葉がある。
今まではそれらの言葉に特に違和感は無かった。むしろ「きちんと現場に行って自分の目で
見るべきだ」というありがちな発言を言ったり言われたりする中で使ってきた言葉である。
その言葉が案外危険性を持つということを今回感じたところだ。
人間は見たものに「弱い」という面が強い。加えて「見る」という行為が「BELIEVING」に直結
させやすい。
一旦信じてしまうと、信じたものを相対化することはとても難しい。何かを相対化できない思考
のリンクにはまってしまうと、それに合わないものは「見えなく」なってしまう。信念が目を
曇らせる。信念が目をふさぐ。そんな話に起因した悲喜劇はいくらでもあるではないか。
「もののけ姫」という映画で主人公は自身の体に呪いを掛けられる。彼に対して村の占い師の
老婆は
「その地におもむき、曇りない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が
見つかるかもしれぬ。」
という予言を与える。
改めて考えると、その予言の実現の困難さというものを感じた次第だ。「曇りなき目」など
誰が容易に持てようか。自分の信じるものを疑いぬくような強靭な思考は簡単ではない
だろうから。
「ありえない138億年史」 ウォルター・アルバレス
新聞の書評で本書を知り、読む機会を得た。
僕自身は地球物理学や古代史を勉強した経緯はなく、従い知見も無い。もっというと本が
言っていることが正しいかどうかも判断する能力も無い。それでも数年に一回程度は、宇宙の
歴史や、地球の成り立ちについて書かれた本を読む機会を得てきている。読むとある種の「救い」
を得られるからだ。
人生100年時代という言葉を最近よく聞くようになっている。地球上ではかような高齢が可能
な国はまだまだ限られているとは思うが、そういう事が語られる状況になったということだ。
意味としては「100年という長期に渡る人生をいかに生きるのか」という事だろう。長い人生が
有るということで、色々物事を考えなくてはならないと言っているように思える。但し、本書を
読むと改めて100年間等は極めて一瞬の時間に過ぎないことが分かる。そもそも人間が
出てきたのもごくごく最近の話なのだ。そういう歴史を僕らが考える際の時間軸の単位を
揺さぶってくれることが、本書の醍醐味である。
僕らは自分の短い時間を一生懸命に過ごそうと常に焦っている。「やりがい」であるとか「成長」
といった言葉に追いまくられている姿は、時として滑稽ではないか。宇宙や地球の悠久の時間
の流れから見ると、僕らの一人ひとりが抱える悩みや憂い等は、鴨長明の言う「淀みに浮かぶ
うたかた」に過ぎない。そう考えると、そこに救いを感じることも出来るのではないか。僕は
そんな風に思う。
僕らは今のこの瞬間の地球の状況を前提として日々色々な事に追いまくられている。
但し、かつての地球は今の地球とは全く違っていた。であるなら、将来の地球も今の
地球とは全く異なるものになるに決まっているのではないか。ついつい「今の地球の現状維持」
に必死であるようにも見える今の人類は、地球から見ると、いささか可笑しいということは
ないか。そんなことも考えながら読了した。
PANICの語源
PANICという言葉の語源は、「パンの神」からきているとのことだ。
ウィキペディアから引用する。
「パーン(古代ギリシャ語: Πάν, Pān)は、ギリシア神話に登場する神の一柱である。
アイギパーン(古代ギリシャ語: Αἰγίπαν, Aigipān, 「山羊のパーン」の意)とも呼ばれ
、ローマ神話におけるファウヌス(Faunus)と同一視される。 土星の第18衛星パンのエポニムである。」
僕が思い出すのはマッケンの怪奇小説「パンの大神」である。これも引用する。
「医師レイモンドによって奇怪な脳手術を受けた娘(メアリ)が「パンの神(ある種の根源的な精神ないし力の象徴)」と交感しその結果発狂する場面で小説は幕をあける。メアリは狂死するが、死の間際に女児を産み落とす。この女児(ヘレン・ヴォーン)は長ずるにつれ、周囲に恐るべき事件を引き起こす。イングランド西部の田舎(Caermaen)での男児発狂事件や、友人の娘の自殺事件(ノーデンスの神=神ないしはその手下と結婚した=恐らく強姦されたことが仄めかされる)である。
やがてヘレンは美しい娘に育ち、変名を名乗りつつ世界の各地で男を破滅させていく(ここでも性的な関係が仄めかされる)。被害者の一人の同窓生である高等遊民の紳士(ヴィリヤーズ)は友人の死を訝しみ、怪奇な紳士連続自殺事件に震えるロンドンの社交界と魔窟とを探検し、ついに悪魔の女性を見出す。ヴィリヤーズはクラーク(レイモンド医師の友人)と共に乗り込み、問題の女性を自殺に追いやった。その自殺の様は吐き気をもよおす人体の溶解過程以外の何物でもなかった。
更にはギレルモ・デル・トロ監督の「パンズ ラビリンス」という映画も思い出した。