くにたち蟄居日記 -30ページ目

「映画に愛をこめて アメリカの夜」  フランソワ・トリュフォー

 トリュフォーの映画を観るのは二本目か。前回は「突然炎のごとく」を数年前に観たこと

を覚えている。

 

 本作は映画製作の現場を主題としている。映画製作の場面の後ろに更に本作の制作陣が

居た訳だ。かつ映画の主人公はトリュフォー自身が演じているわけであり、考えてみると

なかなかの入れ子構造である。そんなトリッキーな構造はいったん忘れておいて、本作を

虚心坦懐に観ることが大事だ。

 

 本作を観ていると映画製作はある種の祝祭空間であることを強く感じた。平たくいうと

「お祭り」である。

 

 様々な役者とスタッフがある時期一か所に集まる。集まった役者は、自分の役割を演じる

ことに忙しい。「自分自身」と「自分が演じる他者」が次第に入り混じって行く姿は、祭りという

ハレの場で、「日ごろの自分」から離れた「自分」を演じる祭りの参加者と重なる。

 

 スタッフはどうか。スタッフも自分の役割を超えて何かを演じているかのようにみえて

くる。白眉はナタリーバイが演じる助監督だ。彼女がロケ地に向かう途中で突然

小道具のスタッフに身を任せる場面は優れて映画そのものである。

 

 映画は映画を巡る様々なドタバタの中で進んでいく。当初に掲げた志は途中でどこやら

に消え失せ、とにかく「進めていって終わること」が目的化することが描かれる。映画は

ついに終わる。役者とスタッフは各々別れていく。その姿は、まさに祭りの後のさみしさに

満ちている。「おもしろうて、やがてかなしき」という松尾芭蕉の言葉も思い出した。

「嫁に行くつもりじゃなかった」  岡田育

著者のご主人と噂される方の著作等をネットで見ているうちに岡田育という方を初めて

知り、本書を知った。題名に惹かれて購入したことは言うまでもない。爆笑しながら本書を

あっという間に読了した。

 

 僕にとっての本書の魅力は、本書で開陳される岡田という方の結婚観という訳ではない。

著者が繰り返し語るように結婚という代物は、個々のケース毎の無数のバリエーションが

ある。従い、岡田という方の「結婚」とは彼女自身の「結婚」であり、共感することは僕に

とっては難しかった。

 

 では何が面白かったのか。それは著者の「日本語」にある。

 

 岡田という方の著作を読むのが本作は一冊目である訳だが、彼女の日本語の使い方は

「快刀乱麻」と言える。その昔兼好法師は「よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ。

妙観が刀はいたく立たず」と言った訳だが、岡田という「よき細工」の刀は、どうみても

カミソリのような切れ味である。兼好法師の言うこともいつもいかなる時も正しいという

訳ではないなと思った次第だ。

 

 但し、切れ味に感心している場合でもない。鈍くない刀は読んでいる読者にも切りかかって

くる。実際、本書を爆笑しながら読んでいる僕にしてもきれいに切られてしまう場面は

いくつもあったからだ。そんな自分の「切り傷」を見ていることが快感でもある。自分の中に

マゾの気があったということか。そんな楽しい「気付き」が本書を読む醍醐味である。

「虚空の人  清原和博を巡る旅」 鈴木忠平

新聞の広告で本書を知り、すぐに購入した。著者が既に数冊書いている野球の清原選手の

ノンフィクションである。

 

 本書を「ノンフィクション」と上記で言ったわけだが、本当にそう言えるのかどうかはわからないと

今思ったところである。それは著者自身が、どうしようも無く本書の登場人物となっているからだ。

著者は直接的に清原和博という取材の対象と関わっている。著者と清原との距離感が本書

の読み応えだ。その「距離感」は近ければ良いというものでもない。時に遠く、時に近いという

距離感の幅が、すなわち、著者の「揺らぎ」であり、清原の「苦悩」となっている。そんな風に

僕は読んだ次第だ。

 

 著者は清原を通じて人間の持つある種の弱さを描き出そうとしている。対照として本書では

桑田投手の強さをうっすらと描き出すことで、かような人間の弱さを浮かび上がらせようと

しているように見える。その「弱さ」というものを著者は自分の中にも見つけていくという経緯が

本書の成り立ちでもある。これは読者である僕自身にもカミソリのように迫ってくる。読んでいて

時に背筋の寒さを数回意識させられた。

 

 著者はあとがきで「ある人物について書くということは、別れを告げるに等しいことです」と

言う。但し、その後に「この旅もこれで終わりを迎えました。だが、これっきりなのか、再出発があるのかは、いまだ自分でも分かりません。」と続けている。現在進行形の物語を扱う以上、続編は

常にあるという予感がする。

『天を楽しみ、命を知る、故に憂えず』

『天を楽しみ、命を知る、故に憂えず』という言葉を知る機会を得た。意味としては「天の

定めた運命を悟り、ありのままにそれに従って楽しむ。その心構えができれば、何の心配もする

こともなく、楽になれる」ということらしい。中国の易経の中の言葉だという。

 

 そういえば中国の故事には案外と「憂」という言葉が多い気がする。例えば杞の人の悩みを

言い表した「杞憂」である等だ。若しくは論語にも

 

  「君子は憂(うれ)へず懼(おそ)れず」

  「遠慮無ければ近憂あり」

 

というような言葉も出てくる。僕の好きな「荘子」においても

 

  「憂あれば、則ち救われず」

 

という言葉も見つけた。

 

 「憂」をいかに避けるのかという点を中国の先人たちは言っているように思える。それを踏まえて

現在を見ていると、かつてない程の「メンタルヘルス」時代を迎えていることの意味が少し

分かるのかもしれない。

 

 つまり、人間という考える葦においては、「憂い」というものの持つ危険性の大きさということが

はっきりと見えてきたのが現代ではないかということだ。これは考える力を持ったことの代償とも

言えるのかもしれない。そんな現代を2000年前に中国で予見していた方がいたということも

人類の歴史と言えまいか。

「さよならの先」 志水季世恵

キンドルで電子図書を買うようにしている。これは将来的な蔵書場所対策でもあるし、出先に

いくらでも本を「所持」出来るからでもある。一方、手軽に買えてしまうだけに「積読」が甚だしく

なるきらいはある。本作をキンドルの書庫で見つけた際には、いつ購入したのか含めて

全く覚えていなかった。

 

 以前「病院で死ぬこと」というシリーズの本を読んだ時期がある。ホスピス医師である山崎という

方がホスピスで亡くなっていく方を描き出していた。本作も同様に、ガンで亡くなっていく方を

著者がケアーしていく話である。但し、「病院で死ぬこと」の著者は医師であり、本作の著者で

ある志水は医師ではない。その違いが「病院で死ぬこと」と本作の読後感の違いとなっている。

 

 「人は死ぬまでは生きている」。当たり前の話だが、案外とこれを理解することは難しいのかも

しれない。本作の著者である志水は、向かい合う人が死ぬ前の短い時間をどれだけ

「生ききる」事ができるのかに目を凝らしている。

 

 孔子は論語の中で「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と言っている。「まだ生きることに

ついてさえよくわかっていないのに、死についてなどわかるはずもない」という意味だ。

 

 若しくは兼好法師は徒然草に「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざる

にはあらず、死の近き事を忘るゝなり」と書きつけている。「人がみんな生を楽しまないのは、

死を恐れないからだ。いや、死を恐れないのではなくて死が近いことを忘れているのだ」

ということだ。

 

 これらの孔子や兼好法師の言葉と志水の視線には通底するものがある。いずれも、

生きることをどのように追求するのかという点に帰結してくる。端的に言うと、死をはっきりと

意識した段階で初めて有限である生を生きようと出来るかどうかという点にかかってくる。

志水はそれをサポートする立場で、自分自身の「生」を紡いでいるように見える。

 

 そう考えると、本作は志水自身が亡くなっていく方を通じて「生きていく」記録という

整理ができるのかもしれない。

すると粒度が細かすぎて、かなりの時間を 要してしまう

「情報システム部門はどれが重要なのか判断がつかないのですべてを吸い上げようと

しますし、事業部門は聞かれたことには細かく答えようとしますので、あまり必要のない

部分までヒアリングすることになります。すると粒度が細かすぎて、かなりの時間を

要してしまう」

 

 上記はいま流行りのRPA=ROBOTIC PROCESS AUTOMATION関連の本に出てきた

一節である。読んでいてRPAの話に限らず一般にも適用される話だと思った次第だ。

 

 「情報過多はかえって状況を理解しにくくする」という言い方がある。分かったような気が

していたが、なぜ情報過多が悪いのかという事の理由が少しわかった気がした。つまり

「どれが重要か判断がつかない」という状況が、結果的に情報過多に繋がるという事である。

つまり情報過多が悪いというよりは、情報過多を齎してしまう「判断基準が不明確である」という

状況が悪いという事だ。

 

 一方、「判断がつかない」というような状況自体はいくらでもある。避けえないと言ってよい。

従い、かような状況に陥った際にどう判断するのか。それがその人のセンスであったり能力

であったりするのかもしれない。

 

 いずれにせよ自分が玉石混交的に情報を欲するようになったら自分なりに要注意という

ことなのだろう。要は判断がつかない状況に追い込まれてきたということを意味するかも

しれないからだ。

映画「悲愁物語」 鈴木清順

 鈴木清順の映画はゆっくり観てきている。もともと大学時代の正月にテレビで「ツィゴイネル

ワイゼン」を観たことで病みつきとなり、「陽炎座」「夢二」等の大正浪漫三部作へと進んで、

その後は「殺しの烙印」「関東無宿」「けんかえれじい」「関東流れ者」という少し前の作品群

を観ることになった。本作もかような流れで観た次第である。

 

 本作を撮る以前の10年間ほど鈴木は映画を造ることが出来なかった。訳の分からない

作品ばかり撮るということで干されていたわけである。その間に鈴木を擁護する運動が

大きく広がる等の展開があったと聞く。そんな雌伏の時を経て待望の最新作が本作だった

訳だが、当時のファンがどのように本作を観たのかは想像がつかない。どう観ても

本作は以前の作品以上に訳の分からない怪作だからである。

 

 本作のテーマは何か。そのような質問はもはや本作には成立しないとしか言いようが

無い。そもそもテーマがあるようには見えないからである。粗筋を聞かれれば

「新人女子プロゴルファーのシンデレラストーリーとその後の堕天使振り」とでもいうべきか。

但し、それが何なのかはさっぱり説明がつかない。10年間の沈黙を破った乾坤一擲の作品

がこれなのだろうか。そんな思いしか沸かない。

 

 但し、随所に見られる「清順美学」は健在だったかもしれない。独特のカメラワークと

色彩調は相変わらずである。

 

 つまり一言でいうと清順は全くぶれていない。そう考えることが一番腹落ちする。そんな

「頑固振り」が三年後に彼の最高傑作となる「ツィゴイネルワイゼン」を産み出すことが

出来たのではなかろうか。本作が妙に世間に媚びた作品だったら、大正浪漫三部作は

無かったかもしれない。そう考えることでようやく少し納得できたところだ。

ライブの本質とは

 

「ライブの本質は、音楽を聴くことにはない。音楽を聴くだけなら、インターネットでも

十分に代替できる。本当に大切なのは同じ時間、同じ場所に集まり、普段ならなんの接点もない

ファン同士が、お互いの振る舞いを感じ取ることにある。やがてライブが終わることにこう感じる。

自分は一人ではない」 

   ー「東京ルポタージュ 疫病とオリンピックの街で」から ー

 

 コロナ禍で人と人が会う事が出来なかった状況が続いた。上記は「ライブ」の話だが、「ライブ」を

例えば「学校」であるとか「飲み会」であるとか「職場」と書き換えてみると、結構色々と

考えさせられてしまう。

 

 

映画「昼顔」 ルイス ブニュエル

以前から観たいと思っていた「昼顔」を漸く観ることが出来た。ブニュエルの作品を観るのも

久しぶりである。

 

 話の筋は複雑なものではない。貞淑な妻が日中娼婦をやっていたという事だけである。日本

においても、例えば東電OL殺人事件というような似た事例もあった。勿論、個別の事例には

個別の背景と理由があり、それなりに底の深さや闇の濃さというものを掬い出す事は出来よう。

但し、繰り返すが、いつの時代にもどこにおいても有る話だと言ってよい。

 但し、ここからがブニュエルである。途中に挿入されるいくつかの不思議な場面が僕らを

困惑させる。幻惑といっても良いのかもしれない。かようなシュールな場面はヒロインの妄想

であるかのように描かれているが、実は現実なのかもしれないという前提で本作を観るという

姿勢もあるのかもしれない。

 

つまり、シュールな場面が現実であり、普通に描かれる場面の方が妄想なのかもしれない

という事である。昔、中国の荘子という方が「荘子が蝶の夢を見ているのか、蝶が荘子の

夢を見ているのか分からない」という「胡蝶の夢」という話をしたと言われている。それを

フランスでブニュエルという方が映像化したら「昼顔」だったという話なのかもしれないと

考えることは楽しい。

 

 ブニュエルが脚フェチである事を改めて思いだした。本作のヒロインを演じたカトリーヌ・

ド・ヌーブの美しい裸身以上に、彼女の脚に拘るカメラとはブニュエルの個人的な嗜好

に他ならない。

映画「姿 三四郎」    黒澤明

 30年ぶりに本作を鑑賞した。場面はほとんど覚えていなかったが、映画の「精神」

ともいうべきものは記憶通りであった。

 

 黒澤明の処女作だ。作家について「処女作にその作家のすべてが詰まっている」という

言葉を聞いたことがあるが、本作はまさにその言葉通りである。本作を観ていると、その後に

黒澤明が造り上げた綺羅星のような作品群の原像が本作の随所に観られる。

 

 例えば村井と姿の試合のシーンに見られる緊張感は、「椿三十郎」のラストシーンの三船

と仲代の対決シーンの先取りとなっているように見えないだろうか。或いは、村井が姿

との試合に準備していくことで自分を取り戻す場面は、そのまま志村が後日演じた「生きる」

の主人公に通底する。

 本作ラストの姿と檜垣の対決の場面での暴風は、「乱」でのいくつかの場面にそのまま

延長されていると言えないだろうか。

 

 そうして何より本作は主人公が自分探しの途中にあることをテーマとしている。冒頭に姿は

子供達の「天神様の細道」に翻弄されながら歩く場面から始まる。「行きはよいよい帰りは

怖い」という歌詞そのものは本作では歌われなかったものの、それがそのまま主人公の本作

での立ち振る舞いとなっている。だからこそ、本作のラストでも大人達は主人公をまだまだ

子供だなと言って笑っているわけだ。そんな「子供のふるまい」は黒澤のその後の作品

にも常に繰り返されてきている。「三十郎」がいかに子供っぽい性格なのかは、椿三十郎

自身が「椿三十郎」の中ではっきりと言っていたことも思い出した。

 

 実に豊かな映画鑑賞となった。