「覚悟」
「覚悟」という言葉を考えてみる。「悟るを覚える」という意味なのだろうか。
であるとするなら二つの意味が含まれる。「悟る」という事と、「悟るという事」を「覚える」という事の
二つだ。
「悟る」ということだけで足りないということなのか。自分が悟ったことを更に自覚する必要が
あるということなのか。
そんな風に言葉を考えるのも面白い。外は氷雨である。雪にはならない様子だ。
「やまゆり事件」 神奈川新聞取材班
非常に重い事件であり、それを扱った本書も重い一冊である。
本書の切り口は色々に分かれている。優生思想、障害者の生き方、障害者との向き合い方、
地域社会、教育の在り方等だ。本書はそれらを出来るだけカバーしようとしている野心作と
言える。切り口が多いだけに、やや散漫になりがちと言えるのかもしれないが、それだけ「やま
ゆり園事件」が突き付けたものが多くて深いということだ。
特に僕が考えさせられたのは優生思想だ。本書で紹介される過去のいわゆるリベラルと
思われがちな方々の発言に優生思想が普通に出てきていたという事実は衝撃的だ。また現在に
おいても「優生思想を突き詰めると能力主義にたどり着く」という主張も理解しやすい。僕らは
気が付くと「自己責任」「競争原理」というような言葉を使い使われる中で、優生思想に「同期」
しているのではないか。そう考えると少し背筋が寒くなる。
それにしても生命を持つ生き物の中で、このような苦悩を背負っているのは人間だけだろう。
他の生き物にとって優生思想は当然の原理になっているように見える。そう考えると、かような
苦悩に辿り着いた人間の知性という誉め言葉もあるのかもしれない。但し、現段階では答えの
ない話だ。「やまゆり園事件」を起こした犯人を神と表現する人もネット上では多いと聞く。
先日観た映画「ジョーカー」の趣旨とは少し異なるものの、通底するものがある。それは
「人が生きるとはどういう事か」という古くて新しい問いかけだ。
映画「ジョーカー」
読んでいる「無理ゲー社会」の中で紹介されていたので鑑賞する事にした。
本作をどのような分野の映画だと整理すればよいのか鑑賞後に考え込んでしまった。
ある種のダークファンタジー映画と考えれば良いのかとまずおいてみた。
ファンタジーとは何か。ウィキペディアの記載では「ファンタジー(英: fantasy)は、超自然的、
幻想的、空想的な事象を、プロットの主要な要素、あるいは主題や設定に用いるフィクション作品のジャンル」
となっている。
では本作も「超自然的、幻想的、空想的な事象」で設定されていると言えるのかどうか。この
問いは相当難しい。そう言いたい自分がいる一方、既にかなりの現実感を本作が帯びている
気がするからだ。
考えてみると本作は本来「バットマン」誕生のプロローグという位置づけのストーリーであった
はずだ。理不尽に両親を殺害された少年が後にバットマンとなって悪と闘うという勧善懲悪の
物語の前座の話だ。
そんな「前座」がこれほどまでの物語に膨れあがってきている事が今の世界の現状である。
要は何が勧善懲悪なのかが揺らいで来ており、バットマン以上にジョーカーがヒーローと
なりえる時代になってきたということだ。それが本作の現実感に繋がっている。
映画の最後でジョーカーは暴徒によってパトカーから救い出される。立ち上がって
両手を広げるジョーカーの姿は十字架に架けられたイエスキリストに重なるように
見えた人も多いかもしれない。もしかしたら、2000年前の人たちにとってイエスキリストは
この映画のジョーカーのように見えていたのかもしれない。それは考えすぎなのだろうか。
国立の湧き水
三連休の中日に住んでいる国立を散歩した。
僕の趣味の一つとして「湧き水巡り」がある。国立市の南側には青柳崖線という段差が
あり、いくつかの湧き水を見ることが出来る。今日は矢川緑地、ママ下湧水、谷保天満宮の
湧水をゆっくりと訪れることが出来た。
古代から湧き水の近くには人が棲んだものだ。近くに多摩川という堂々たる川があった一方、
小さな湧き水の周りに集落が出来たというのも分かる気がする。僕らは案外小さかったり
狭かったりするものが好きなのではないか。机の下に入ると案外落ち着くのは子供や猫
だけでもない気がする。
1月の武蔵野は綺麗な冬枯れである。冬の湧き水は更に透き通って見える。数日前に
降った雪も未だ日陰には残っていた。
「悪魔の夜鳴きそば」 もちぎ
年 賀状で高校の同級生から推薦されたことで読むきっかけとなった。因みにその同級生
は女性であり、僕は男性である。本作を考えるに当たってジェンダーをはっきりしておいた
だけの話だ。感想は二点である。
まず本書は「自分探しの旅」という普遍的なテーマを扱っている。「自分探しの旅」を扱った本は
昔からいくらでもあると言ってよい。おそらくゲーテあたりから始まり、その時々の時代の中で常に
色々な変奏曲を奏でてきたはずだ。日本においても夏目漱石、倉田百三、戦後においては庄司
薫やデビュー当時の三田誠之等が上げられると思う。ノンフィクションのジャンルにおいても
未だに読まれている高野悦子の「二十歳の原点」から始まり、最近の幡野広志の作品群も
「自分探しの旅」と言える。
但し現代において「自分探しの旅」は往々にして難しいものになりつつある。それは「旅」
そのものが格差社会の中で容易ではなくなってきたことがあるのではないか。旅に出る
どころか、むしろどこにも行けず、ある種の袋小路の中に入ってしまっている事態が増えて
きていると僕は思う。それを思わせる事件も増えてきている。
そんな中で本書は明るい作品に仕上がっている。それはとりもなおさずLGBTを前向き
に描き出したことで、「多様性」への肯定感を強く打ち出しているからではないか。登場人物の
大半がトランスジェンダーという描き出し方は、今の時代が可能にしたものだ。十年前なら
本書が成り立ったのかどうか覚束ない気がする。
二点目。本書はもちぎママとの対話を通じて主人公のみっちゃんが変わっていく筋である。
成長していくという言い方の方が読者には快いかもしれない。
但し、これは僕の全くの私見なのだが、むしろみっちゃんの周囲の人が成長していく
話のようにも読める。それはみっちゃんの家族であり、上司であり、後輩であり、元彼氏たちだ。
彼らがみっちゃんとの対話の中で変わっていく様子を本書はうっすらと描きこんでいる。
もっと言うと、もちぎママですら変化しているのかもしれない。作者が彼(というか彼女か?)を
妖怪にせざるを得なかった理由を考えるのも面白いのかもしれない。
「嫌われた監督」
年末に読む機会を得た。大変勉強になった。
本作で一番興味を覚えるのは著者と落合との間の「距離感」である。これだけの取材を
してきた割にべたついた人間関係が描かれていない。おそらくは、とっつきにくいであろう
落合の懐に飛び込んだ割には、落合の体温が伝わってくる訳でもない。それは落合が持っている
他人との「間合い」ということなのかもしれないし、もしくは案外と著者が取材の対象と保っている
距離感なのかもしれない。読んでいるこちらとしてはどちらでも良いと言えば良いのだが。
本書から見えてくる落合の姿は孤独にも見える。孤高という方が似合っているのかもしれない。
但し、一読者としてそこで終わってはいけないと自戒も必要である。なぜ落合を孤高だと思って
しまう自分がいるのかという地点に自分を持っていかなくてはならない。そこまで考えると
いかに自分が他人と馴れ合い、他人の顔色を見ていて、つまりは他人の頭で物事を考えている
のかがジワジワと思い知らされてくるのだ。
そんな自分が情けないのかもしれないが、大多数の人もきっと同じなのだと僕は考えてしまう。
本書が多くの読者を獲得しそれなりの評価を得ているのだとしたら、僕と同じような感想を
持たざるを得ない人も多いのだと思うのだ。
「箱根富士屋ホテル物語」
クラシックホテル巡りは僕の趣味の一つである。お金の掛かる趣味であると反省する一方、
実際に宿泊する回数は限られていることを免罪符としている。本作も箱根富士屋ホテルに
泊まったことで手に取る機会を得た。
本作は、しかし、かなり本格的にホテルの歴史を叙述した一冊であることにある意味驚きが
有った。嬉しい驚きである。著者自身がこのホテルのオーナーファミリーの末裔であることを
割り引いても、読み応えのある作品である。
考えてみるとクラシックホテルには必ず外国との歴史がまとわりついている。それは、そもそも
明治というような時代にホテルを建てるという必要性は、そこを訪れる外国人を饗応するという点
にあったからだろう。箱根富士屋ホテルだけではなく、日光金谷ホテルや奈良ホテルといった
クラシックホテルと呼ばれる一群の歴史あるホテルはすべて同じだ。宮崎駿の「風立ちぬ」
という映画に出てきた軽井沢(と思われる)ホテルの一場面を想像頂くと分かりやすいかも
しれない。
であるからこそ、クラシックホテルの歴史は、そのまま日本と外国の歴史の縮図となっている。
本作でも太平洋戦争に敗けた後の占領軍に箱根富士屋ホテルが接収された場面が描かれて
いるが、それはそのまま日本が「接収」された事実の一つの点景となっている。そんな歴史の
香りを纏った雰囲気が人々を惹きつけるのだろうし、僕のいささかスノッブな趣味の理由なの
だろうと考えるとなんとなく腹落ちしたところだ。
「超ソリューション営業」 大橋和幸
会社から配布された本である。業務の為に読むべしということなのだろうが、色々と
考えさせられた。
本書は「営業職」にある人を読者として想定して書かれている。本書で設定される「営業職」とは
「いかにして物を売るのか」ということに従事している人だ。「いかにして物を売るのか」という
視点で世の中や人間を見ると、どのような見え方が可能なのか。それを考えることが本書を
読むということなのだと思う。
人間と市場と商品というカテゴリーは大昔から存在している普遍的なテーマだ。これらを
テーマとした本は多い。文化人類学や経済人類学等も基本的にはこの範疇に入れることが
出来る。僕は原典を読んだことはないものの、マルクスとエンゲルスが書いた「資本論」も
そのカテゴリーから出てきた本だと理解している。番外的にいうと、シェイクスピアの「ベニスの
商人」等もそうではないのか。
そのカテゴリーの面白さは「人間と市場と商品」の構造や関係が、時を経る中で変化していく
点にある。例えば著者が本書で描き出すSMの売り場の最近の変遷もその一例である。
その「変遷の在り方」に人間とはどういうものかを読み取ろうとすることがまさに前述の
各種の学問の根源ではないかと僕は思う。
本書は現段階での商品と人間の関係に目を凝らしている。加えて、コロナ禍となったことで
その関係がどのように変化するのかに対して仮説を出そうとしている。コロナ禍の期間が未だ
短いことで本書が提出している仮説がどの程度正しいのかは判断できない。但し、「凝らす目」
の有り様は良く伝わってきた。
「リニア中央新幹線をめぐって」 山本義隆
本書の白眉は最終章の「高度成長の実相を踏まえて」である。その章において、著者は戦後に
日本が何を目指してきたのか、その結果何が齎されたのかをマクロな視点で描き出している。
山本が描き出してくれたものを読む限り、僕らが聞いて育ってきた「戦後の高度経済成長」
神話の実状というものは、まったく美しいものではない。欺瞞に満ちた「成功」譚であったこと
が良く解った。
但し、と考えてしまう。
僕は縁があって、タイに9年弱、インドネシアに4年住む経験を得た。その際に現地の方と
色々な話をする機会があったが、基本的には日本が戦後達成してきたものに対しては極めて
好意的でだった。もっと端的にいうと、羨望的であった。勿論僕が日本人であったので、彼らが
そのように言ったことは間違いない。但し、彼らが日本に対して一定以上の評価をしていること
も否定できない。若しくは彼らが日本と比較して自分達の国がやれてきた事と、その結果として
の現状に批判的であったようにも思えた。
そう考えると、戦後の日本がやってきた事を一言で否定することは容易ではない。そんな
ジレンマは昭和39年生まれの僕として感じた点は正直に言うべきである。
では、今後はどうなのか。
「今後」という視点で考えると見えてくる風景は異なってくる。著者が本書で断じている点の
一つは、従来の成功体験がある種の慣性・惰性となって、そのまま将来に流れていこう
としていることのリスクである。「改革」であるとか「変化対応」という言い方は平成時代から
幾度となく言われてきた言葉だが、それは取り直さず「以前からの成功体験の延長を目指す」
という「目的」のための「改革」であり「対応」であったと本書は言う。従来の延長という目的自体
が実は既に破綻しているとしたら、そこに向かう慣性・惰性は、もはや亡国への圧搾機で
しかないのではないか。かつ、ひとたび勢いがついてしまっている慣性・惰性を止めることが
いかに難しいのか。それを著者はリニア中央新幹線という一例で描き出している。それが
本書に具体性と現実感を強く与えている。そう僕は思ったところだ。
時速500kmを誇る高速鉄道が僕らをどこに連れて行ってくれるのか。それを真剣に
考え始めている人も確実に増えてきている気がする。コロナという極めて大きな災難から
僕らが学べるものの一つがそこにあると思う。本書はその意味では簡明・簡潔な
ガイドブックと言える。多くの方に読んで頂きたい一冊だと思った次第だ。
「新型コロナの科学」 黒木登志夫
本書を読んだきっかけは新聞の記事で誰かが推薦していたのを読んだことである。本書を
推薦している山中の書いた記事だったかもしれない。結果的には大変勉強になった。
まず本書がカバーしている時期は昨年の11月迄である。12月以降、本日(2021年4月8日)
の間にコロナの状況にも色々な変化はあった。特に本日段階では変異型が関西を中心に
猛威を振るいはじめている。その意味では本書は昨年11月段階での「中間報告」という
位置付けが正しい。
但し、本書が抉り出しているものは、本日段階においても本質的には古くなっていない。
「本書が古くない」ということ自体は、そもそも由々しき事態とも言える。それは本書が指摘
している数々の問題が、そのまま残っている事も意味するからだ。
本書は素人が読んでも読み易い。
コロナを語ろうとすると、ともすると専門的な狭隘さに陥ってしまいがちかもしれないが、
それを本書は厳密かつ断固として拝している。時に著者が飛ばすいくつかのジョークを読んで
僕は声を立てて笑ってしまった。コロナという疫病に関する話ゆえ爆笑は本来不謹慎だろう。
但し「笑う」ということは、「何かを理解した」上でないと成り立たないものである。著者は笑いを
取りながら、読者の腹に落ちるようにしている、巧みな話術だといって良い。
本書はコロナが齎した多くの事象を丁寧に解説してくれている。病気の成り立ちから始め、
日本を含む世界の政治問題、国民性等を網羅的に取り上げている。今回コロナで分かった
ことの一つに、「パンデミックは今まで見えにくかった問題を一度に机の上に乗せるものだ」
ということだ。本書はそんな机上の問題を一つ一つ取り上げていく。そこで著者が持ちこむ広角で
深度の深い視線が本書の傑出している点である。だからこそ大変勉強になるのだ。
本書の続編を期待している。昨年12月以降の状況を解説してほしい。但し続々篇までが
刊行されるような事態を迎えたとしたら、相当僕らはまずい状況にあるのではないだろうか。
続編までで終わってほしい。