くにたち蟄居日記 -31ページ目

映画「ホテルローヤル」 

週末の午後にぼんやりと本作を鑑賞した。原作を読んだ事があったが余り記憶には無い。但し、

印象としていうと、原作と本作はかなりかけ離れた物語だと思う。一番の違いは主人公を

決めているかどうかだ。原作には明確な主人公はいなかったはずだ。映画では主人公を

決めている。

 

 本作は何の物語なのか。ラブホテルを舞台とした幾つかのエピソードを展開する話であるが、

一番分かりやすいのは「引きこもっていたヒロインが外に出ていくことを決意する」という、

ある意味では、ありきたりの成長譚である。

 

 ヒロインは美術大学の受験に失敗して、実家のラボホテルの手伝いをすることを強いられる。

彼女にそれを強いたのは彼女の両親の間の相克であると本作は語る訳だが、むしろ彼女

自身が、言葉には出さないものの、それを望んだというようにも見える。映画の中盤から

ヒロインが見せる経営者ぶりも中々のものだ。彼女が経営を楽しんでいなかったようにも

見えない。

 

 但し、それは「外の世界」から背を向ける部分も少なからず有ったのではないか。ラブホテル

という、ある意味で極めて「私的」な空間の中に、彼女自身が沈潜してしまった感もある。

 

 そんな彼女と外界との接点は、ラブホテルを訪れる「客」であり、従業員達であり、取引先

である。ヒロインは彼らを通じて外界を眺めつつ外界に出ていこうという気持ちにはなれなかった。

そんな彼女が、彼らに背中を押されて外界に出ていくという話が本作の本筋ではなかろうか。

 

 もちろん、背中の「押し方」は相当に乱暴だった。それは「客の心中」であり、「父の死亡」

であり、想いを寄せた取引作からのある種の「拒絶」である。そんな「痛み」を通過した後で

ヒロインがラブホテルを閉鎖し、去っていく際の表情にはすがすがしさがある。美術大学受験

の失敗というきっかけも、自ら書き続けた絵を捨てることで、吹っ切れたのではなかろうか。

 

 ヒロインを演じた波瑠という女優の透明感が際立つ。その母親を演じる夏川結衣も堂々

たる、おばさんぶりである。そういえば初めにラブホテルから旅立ったのは夏川だった。

「アッコちゃんの時代」  林真理子

 NHKスペシャルでバブル時代を描いたドラマを観た。そのドラマの実在の登場者をモデル

とした本があるということで、2007年に著者が発表した本作を早速読んだところだ。

 

 本作を読みながら、絶えず頭を離れない本があった。田中康夫が1980年に発表

した「なんとなくクリスタル」である。その本と本作の、相似と相違を考えることが頭の訓練となった。

 

 相似について。両作ともにブランド品や有名なレストランの名前が数限りなく出てくる。勿論、

本作の著者である林真理子は「なんとなくクリスタル」を読んだろうし、ある意味では

「なんとなくクリスタル」へのオマージュの感もある。

 

 もちろん、ブランド品等への「目線」の違いはある。田中の作品にはブランド志向への皮肉な

ニュアンスは込められつつも、基本的には「前向き」の方向性は感じ取れる。スノッブさという

ものへの、ある種の「温かい目線」がある。それは言うまでもなく田中が書いた時代が1980年

という、バブル以前だったことに起因している。

 

 一方、本作はどうか。バブルが弾けた後に書かれただけに、「バブルが弾けた後はどうなった

のか」という史実を踏まえている。従い、ブランドを志向する登場人物に対しての「温かい目線」

がある訳ではない。

 但し「目線」は違うといえども、物語を構成する縦糸として「ブランド」をちりばめた点は相似

と言える。

 

 相違とは何か。

 もう既に上記で言ってしまっているが、書かれた時代がバブルの前なのか後なのかという

点に尽きる。

 田中が書いた1980年には未だ地価や株価の狂乱は来ていない。但し、「なんとなく

クリスタル」の登場人物達は「時代の行く末」に対して非常に楽観的である点で、バブルの

萌芽が読みとれる。そんな彼らが「アッコちゃんの時代」の登場人物達の第一世代だったと

いう流れがある。かつ著者の林はそれを、2007年というバブルが弾けて15年以上経った

地点で書いている。その為に本作の底辺に流れるある種の「苦味」が生まれてきている。

それが両作の相違である。

 

 本作の「アッコちゃん」とは何者だったのか。バブルという時代の被害者だったのか、加害者

だったのか。若しくは「共犯者」という言い方が一番正しいということはなかったのか。

「物語 シンガポールの歴史」 岩崎育夫

 シンガポールに住むことになったので本書を読む機会を得た。結論的に言うと、

非常に整理された一冊である。従来僕が持っていたシンガポールのイメージを

払拭、あるいは一部に関しては強化、してくれる読書となった。

 

 シンガポールは「人工的」だとずっと思っていた。そう思った背景は小国であること、

管理国家と言われていること、街並みにも妙に緑が残っていること、等に因る。

これは僕が過去にタイに住んでいた経験を踏まえた印象である。タイは歴史的には

大国であり、管理国家を目指そうとしているのかもしれないが実際にはかなりの

アナーキーな部分が多いこと、都心では(一部の公園以外は)開発が野放図で

緑が少ないこと、等の裏返しでもある。

 

 但し、本書を読んだことで本当にシンガポールが成り立ちから「人工的」であることが

良く分かった。国民や市民が不在の無人島をゼロから国に仕立て上げたという

特異な経緯は、仕立て上げられた「国」を人工的なものにせざるを得なかったという

事である。白紙のキャンパスに絵を描くことの自由自在と困難が同国の歴史だった。

絵描きだったリークワンユーは絵の題材を「経済成長」の一点に定めた事で、

結果としてシンガポールという稀有の国を造り上げる事が出来たという物語である。

 

 ではシンガポールは今後どこに行くのだろうか。国民や市民は今は存在できるようになって

いるのだろうか。そんな事を著者は考えさせてくれる。経済成長という言葉にある種の

きな臭さを感じる世代は世界中で増えてきている。そんな中で、その国是を

「経済成長」に置いてきた同国がどのような対応を見せるのか。それは日本にとっても

先行指標になる気がする。

「近代日本150年  科学技術総力体制の破綻」  山本義隆

山本の本は折にふれて読む。但し、彼の専門分野である物理関係は僕には難しい。読んだ

のは原発事故、リニアモーターカー等だった。本作は日本の近代史の一つの断面である。

 

 本書で山本が抉り出しているのは日本の近代において、「科学」というものがいかに

その折々の国策というものと連携して進んできたのかという「黒歴史」である。連携という言葉

は少し生ぬるい表現かもしれない。「共犯」という表現の方が分かりやすい。

 「国策」は、その後にしかるべき「断罪」を受ける機会を得た。断罪されたのは折々の政治家

であり、軍部である。昭和20年8月の敗戦が一つの総決算となった。正しかったかどうかは

疑問だらけの「東京裁判」でも、何らかの形で「罪と罰」を白日の基に晒したという効果は

あったのだと思う。

 

 一方、政治と軍部が断罪を受ける中で、共犯者であった「科学」と「科学者」は、自分たちが

「共犯者」であったという自覚すら無かったという点が本書の抉り出しだと僕は読んだ。

そのような自覚と反省の無さこそが、科学の進歩において戦前と戦後の間に切れ目を作らな

かった原因であると本書は言う。戦前の体制が敗戦の中でも温存された。戦後に朝鮮戦争、

ベトナム戦争、冷戦という特殊な状況を辿る中で、科学の「戦後」を形成していったという

著者の指摘は読んでいて背筋を寒くするものがある。

 

 「科学」という言葉の持つ「明るさ」がある。科学の進歩は即ち人間の進歩であるという

楽天性がある。但し、その裏においては、科学に容易に毒される人間というものも見えて

くる。科学至上主義が経済至上主義や成長至上主義と親和性が高いことを僕らは注意深く

覚えていなくてはならない。特に「成長」という言葉には本当に気を付けた方が良いという

ことが最近世界において認識されてきた中で、本書の警鐘は大きい。

 

 本書を読んで、漸く著者が学生運動で闘おうとしたものが少し理解できた気がした。

稀に見る物理の徒であったと聞く著者がアカデミズムからドロップアウトした理由が本書に

描かれているとするなら、本書は著者の一つの「自伝」でもあるのかもしれない。

映画「モスラ」 1961年版

小学校の頃にテレビで鑑賞した1961年制作の本作を2022年に57歳にして再度見直した

ところである。殆ど覚えていなかっただけに新鮮に観る事が出来た。

 

 本作を観ていて強く比較を強いられた作品が二つある。一つは1933年に米国で制作された

「キングコング」であり、もう一つは1954年の「ゴジラ」である。

 

 「キングコング」「ゴジラ」「モスラ」に共通している部分は、「海の彼方という『彼岸』にいる

何者かが『此岸』にやってくる」という基本的な物語部分である。その物語は、例えば柳田国男

が描き出したような海の彼方のニライカナイから何者かがやってくるという話であるとか、もっと

我々の身近な民俗としては夏のお盆等にみられる。お盆とは「あの世からこの世界に戻って

くる先祖をもてなして、再度あの世に戻って頂く」という儀式である。

 

 但しキングコング、ゴジラとモスラの大きな違いがある。それは、キングコングとゴジラは人間の

科学によって退治されたのに対し、モスラは人間の科学を凌駕しつつ自分の世界に戻って

行った点にある。むしろ科学を批判しているように見える。その大きな違いは今考えてもなかなか画期的な

路線変更にあるような気がしてならない。いわゆるその後の東宝等の怪獣映画では、

怪獣は人間が退治する相手ではなく、ゴジラ、モスラ等がキングギドラに象徴される「悪」を

やっつけて人類を助けるという勧善懲悪の物語に変容していったことが我々の歴史でもある。

その変容の大きな契機が本作であるのでは無いかと考える事は楽しい想像だ。

 

 フランキー堺が大活躍である。1957年の「幕末太陽伝」での演技の残響のようなものも

感じる事が出来た。

「エリック・ホッファー 自伝」 

 「私の知る歴史家の中に、過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだという

事実を受け入れるものはいない。大半の歴史家は、目の前で起きていることに興味を示さない

のだ」

 

 エリック・ホッファーという哲学者が書いた自伝である本書の一文である。ホッファーは

「沖仲士の哲学者」と呼ばれた方らしい。アカデミズムや象牙の塔から一人でぽつんと離れた所

で哲学を紡いだ方だと聞く。中上健司が羽田空港で働きながら小説を書いた時期があった

ということも思い出した。

 

 「現在が過去を照らす」という部分をどう理解すれば良いのかを考え込まされているところ

だ。「照らしている」自分自身は「現在」に所属し、「照らしている」対象は「過去」なのだろうと

思ったところだが、それも「言葉の遊び」に過ぎない気もする。そもそも「過去を照らす」という

こと自体が何なのだろうか。

 

 一つ考えるとしたら「過去」とは解釈される対象であるということだ。煎じ詰めると、現在の解釈

で、過去をどのようにでも都合良く解釈出来てしまうとも言える。「過去」を都合よく解釈する

ということは人間が昔からやってきていることだ。例えば日本書紀は、当時の統治者が自分の

都合の良い歴史を書いたものだと言われるのもその一例である。(実際に日本書紀がかような

本なのかどうかは知見が無いので僕には判断出来ないが)

 

 そう考えるとホッファーの言う「現在が過去を照らす」ということは案外為されていることも多い

のではないかと思ったところである。但し、それを為している方が「歴史家」なのかどうかは

疑問なのかもしれない。

 

 というようなとりとめの無いことを考えさせられた一文であった。とりとめの無いことを考える

ことは、言うまでもなく、結構重要なことではある。

映画「マジック」   リチャード・アッテンボロー

 40年以上前から一度観たいと思っていた作品を2022年にアマゾンで観る事が出来た。

 

 1960年につげ義春が「腹話術師」という漫画を発表している。その作品が新潮社の文庫で

読む機会を得たのは2年程度前の話だ。今回「マジック」を観ていて、原作・脚本を担当した

ウィリアム・ゴールドマンは実はつげの漫画を読んだ経験があったのではないかと思った次第

である。つげは自著の翻訳を永らく許さなかったとも聞くので、そんな僕の思いは想像に過ぎない

だろうが、やや愉快な想像でもある。それほどつげの作品と本作は通底している度合いが高い

からだ。

 

 本作の主人公は言うまでもなくアンソニーホプキンズが演じる精神分裂した腹話術師なの

だろうが、アン・マーグレットが演じるヒロインも相当に異様である。いくら主人公とは旧知の間

とはいえ、久しぶりに再会した主人公と直ぐに関係を持ち、夫と離婚を決意するという話は

普通ではない。主人公の分裂ぶりが「大音量」で際立つ中で、ヒロインの静かな狂気ぶりが

じわりと怖ろしさを感じさせている。特にいくつかのレビュアーの方がご指摘されている通り

ヒロインの最後のセリフが色々なシナリオを思わせる。「マジック」という表題の意味は案外

曖昧かつ深いのかもしれない。

 

 寒々とした風景が美しい。登場人物の誰もが不幸になっていく結末に似つかわしい風景だ。

誰もが死んでいく中で、生き残ったヒロインがその先どうなっていくのか。そんな思いが

余韻を残す。監督であるリチャード・アッテンボローというマルチな才人が遺した佳作だ。

「ドライブ マイ カー」 映画

 シンガポールに駐在となった。出発前日に本作を購入し、IPADにダウンロードして日本を

後にした。機内で鑑賞しようかと思ったからだ。但し、機内で観る機会を逸し、シンガポール

到着後の休日に漸く観る機会を得た。

 

 この映画を観ていると「言葉」というものを強く思わざるを得なくなる。言葉には色々な

言葉がある。「語られた言葉」、「語られなかった言葉」、そして「語られるであろう言葉」

というような雑な分類をすることが本作を少しでも理解できる手がかりなのだと思う。

 

 主人公は、妻の亡くなる日に「妻の言葉を避けた」という点は強いトラウマとなっている。

聞けたであろう妻の言葉を「語られなかった言葉」にしてしまったという引け目という言い方

の方が僕にはなじむのかもしれない。

 

 みさきは一見寡黙だが、実は一番「語られた言葉」を駆使しているのかもしれない。

寡黙と雄弁が両立するという逆説が成り立つ気がする。そんな彼女が何を語っているのか。

それは彼女自身の物語であり、主人公の物語を主人公に気がつかせるある種の福音の

ような言葉にも見える。

 

 そうして、やはり舞台で手話を駆使するソーニャ役を忘れるべきではない。彼女がある意味

では本作の決定的なトリックスターなのではないかと考える事は本作に深みを与える。

彼女が主人公とみさきを、手話でありながらも力強く「押して」いるように思えてならない。

 

 みさきは最後に韓国で生活しているように描かれている。これから「語られるであろう言葉」

は本来はそこにある。但し、本作はそこで終わる、僕らは結末が分からないままにこの映画を

去ることを強いられる。「語られるであろう言葉」の内容は僕らが一人ひとりで考えるしかない

ということだと整理すると腑に落ちた気もした。

映画「居酒屋 兆治」 

 原作者の山口瞳は国立市在住だった。僕も国立市には20年近く住んでいる。そんな理由で

山口のいくつかの作品を読む機会があり、本作も鑑賞するきっかけとなった。

 

 原作は国立市を舞台としているが、映画では函館としている。元来、函館は長崎と並んで異国

情緒に富む美しい街だが、本作では丁寧に函館の観光的な美しさを排除していると僕は

感じた。むしろ、ややうらぶれつつある港町の風景に焦点を当てている。高倉健が演じる主人公

の心象風景を画面で伝えようとした結果として、函館の「裏」が選ばれたのかもしれない。

 

 本作ではヒロインの破綻ぶりが際立つわけだが、彼女をそうさせた主人公はどうなのだろうか。

主人公はひたすら忍耐に忍耐を重ねる人物と描かれているわけだが、そんな「忍耐」こそが

ヒロインを死に追いやったと観る方が深みが出てくる。

 

 ヒロインは主人公を「意気地なし」と責め、居酒屋の常連客の伊丹十三からは「中途半端な

奴だ」と罵られる。その二人はどちらかというと負のイメージを持っているから僕らは主人公を

つい庇いたくなってしまうが、実はそれが真実ではないのか。そう考えて観ると、いくつかの脈絡のないエピソードも繋がってくる。

 

 例えば学校の年配の恩師が非常に若い女性と再婚した場面がある。一見ほのぼのとした

笑い話に見えるが、そこで最終的に語られるのは若い妻に対する性的能力の衰えを嘆く老人の

「不能」の話だ。

 若しくは、肩を壊した高校生投手の話もある。主人公自身が同様の経験があったことで高校生

を励ますという話にはなっているものの、おそらくは肩は治らないだろうというような雰囲気も

漂う。

 そのような「不能」のエピソードが挿入されていく中で、主人公自身の「不能性」というものが

うっすらと描かれていないだろうか。本作において結局主人公はヒロインを救うことは出来

なかった。自分が耐え忍ぶことが時として他者を傷つけることがあることに気づかなかった

のではないか。逆に主人公がこの後に妻や親友に救われていく話になっていくのではないか。

そう観る事で本作が腑に落ちた次第だ。

 

 加藤登紀子が実に良い。悪役を演じた伊丹も芸達者である。その他登場人物も多彩であり、

邦画の良質さのある一面を感じた。

映画「八甲田山」 

 思うところがあって本作を鑑賞した。おそらくは二回目の鑑賞である。前回は中学生か高校生

の頃だ。今回観ていて覚えている場面も多かった。それだけ当時でも印象に残ったということ

なのだろう。もう40年も前の鑑賞だったわけだが。

 

 本作に深みを与えているのは冬や雪の場面だけではなく、時折描写される春夏秋冬の東北

の場面である。ねぷた祭り、虫送り等の場面を挿入することで、「東北」という地域の

民俗性と、なによりその美しさというものを僕ら観客は確りと刷り込まれていく。そんなある種の

「桃源郷」を見せられる事で、「冬の東北の非情さ」が際立ってくる。

 

 本作では決してセリフは極めて抑制されている。しかしセリフが少ないからといって本作は

「説明不足」になっているとは全く思わなかった。実に重層的に東北、軍隊、春夏秋冬をじっくり

と場面で見せてくることで極めて分かりやすい作品になっている。最近の邦画がいかに饒舌に

陥っているのかということも改めて認識した。

 

 ではこの作品は何を主張しているのか。この問いに関しては色々な答えが出てくるだろう。

当時の軍隊の非合理性であるとか、組織の在り方、リーダーシップ論等がすぐに出てくる

答えであろうし、それらはすべて正しいだろう。優れた芸術というものは、そのように色々な

問いかけを観ているものに迫るものだ。僕個人としては、例えばメルビィルの「白鯨」にも

通じるような「神への挑戦」というようなニュアンスも汲み取れる気がしないでもない。

 

 それにしても見事な一作だと改めて感じ入った。冒頭に「思うところがあって」と書いたが

今回鑑賞してよかったと思っているところだ。