「性からよむ江戸時代」 沢山美果子
タイから帰国して自宅隔離期間に読了した。読後感は二点である。
僕は結婚の際には仲人を立てた。1994年の事であり、今から27年前の話である。27年後の
現在、結婚式で仲人というものを立てているという話は皆無になった感がある。当時は当然の
ように意識せずに仲人が有った訳だが、あっという間に制度として消滅した感がある。
本書を読んでいると、仲人とは江戸時代に発生した模様だ。その背景としては、結婚という
ものは家と家との「結婚」であり、その正当性を証明するために間を取り持つ「仲人」という
制度が出来たように僕は読んだ。
1994年の僕が江戸時代に出来上がった「家意識」に必ずしも絡めとられていたかどうかは
解らないものの、制度としての「仲人」を何の疑問もなく迎えたということは今考えても
「重い」気がする。要は、制度の背景を知らないままに無意識に選んでしまうという自分の
鈍感さということだ。
その鈍感さを痛感しながら本書を読むと、「性」と「家」と「国家」がいかに絡みついて成立
してきたのかがある程度理解できる思いがした。
現在の「性」はネットを通じた仮想空間と結びついたことで一気に時代の表層に吹き出した
感がある。それを性の自由化とでも呼べるのかもしれないが、過去の経緯を踏まえて現在の
風景を眺めることは重要なのかもしれない。
そう思いながら二点目を考える。二点目とは本書を踏まえた上で、LGBTというものをどう
再定義できるのかという事だ。
僕はLGBTに関しては明らかに不勉強である。それが何を意味するのかを本質的に理解
しているとは思えない。但し、LGBTの場合「性」を考える起点は「個人」であると思う。
江戸時代の「性」の起点はむしろ「国家」や「家」だったと本書を通じて理解した僕としては
LGBTは起点において全く違うのではないかと感じる。言うまでもなく、これは僕の直観に
過ぎない。今後更に考えていく機会があればと思ったところだ。
「記者たちは海へ向かった」 門田隆将
本書の読後感は2点である。
1点目。「紙齢」という言葉を本書で初めて知った。正確にいうと「紙齢を繋ぐ」ということは
「新聞を絶やさずに発行する」という事であり、報道人はそれを死守することを死活的に重要視
しているということを初めて知ったということだ。
本書の前半は、いかに福島民友新聞の各人が震災の翌日の新聞を印刷し配達することに命を
掛けたのかというドキュメンタリーである。報道人である前に被災者である彼らが紙面継続に
いかに強い意思を持ったのかという点を本書は活き活きと描き出す。
では彼らは何故そのような強い意思を持てたのか。そこを考えることが本書を読むということ
の一つである。
読者に情報を伝えること。それはメディアの本能なのだと思う。未曽有の災害の中、誰もが
情報に飢えているであろうことは想像に難くない。その中で使命感を持って立ち向かうメディア
の姿というものがあるのだろう。
但し、もう一つの見方もある。報道人である前に被災者であった彼らが自らの精神を保つ
ためには紙齢を繋ぐことに尽力するということが大事だったのではないか。例えは悪いが、
家族を喪った際に葬儀の事務処理に追われることで心のバランスを取れるという点にも
似ているものがないだろうか。彼らは自身のために紙齢を繋ぐことに血道を上げていた
という見方も出来る気がする。これはおそらく報道人だけではない。震災直後に自分の仕事
を出来るだけ確りこなしたいと考えた人は多かったと僕は想像する。その方々も同じように
自分の精神を保つためにそうした人が多かったのではないか。
二点目。本書では記者たちが、「人間」と「報道人」との間で引き裂かれる場面も印象
的に描かれている。目の前で津波に呑み込まれる人を助けるのか、その場面を撮影してしまう
のか。後者を選んでしまったと自らを問い詰める記者の姿は読んでいて迫真に満ちている。
「人を助けるべきだ」と言うことは易しい。但し、人間は大概は「何者か」であることで
生きているものだ。記者の場合「報道する者」という十字架を背負っていたとしたら、
目の前にまさに「報道すべき瞬間」が表れた際には、それに集中してしまう事を僕は簡単に
責めることは出来ない。いずれにせよ正解が無い中で、苦悩を深める記者の姿は痛々しい。
いまこの瞬間、彼が救われているのかもわからない。
ということで重い一冊となった。災害という点では東日本大震災も新型コロナも同じ面は
ある。コロナが収まらない中で、本書と同じような話はきっと至るところにあるのだろう。
東日本大震災から10年を経て
東日本大震災から10年経った。早いものだ。
これは僕だけかもしないが、友人や客先との飲み会等で、よく「地震の瞬間はどこで
何をしていたのか」という話をする。この議題は案外盛り上がる。おかしな話だが、目を輝かせながら
「自分は○○という場所で○○をしていた」と語ってくれる。
「2011年3月11日午後2時46分」という一つの共通した切り口で切り取った「人生の瞬間」
は各人バラバラだ。但し、その「瞬間」を語り合う事で生まれてくるある種の「連帯」には
不思議なものがある。
それは僕がその瞬間にインドネシア駐在で日本に居なかったから、そう感じるのかもしれない。
実際に、東日本大震災を日本でリアルに体験した人と体験しなかった人の間には
目に見えない「壁」のようなものも有る。つまり、僕は、かような「連帯」には
ちょっと入りにくい面もあるということだ。
今年の震災関連報道を見ているといつもより「厚め」になっている気がする。勿論
10年という節目の年だからなのだろうが、もうひとつ加えるとしたら、コロナ禍ということも
あるのかもしれない。
コロナによって今まで見えにくかった各種の「分断」が世界中の机の上に出てきつつある
なかで、「共に震災を生き延びてきた」という「連帯感」が強調されている面もあるのではないか。
それはもしかすると、日本の強みにならないだろうか。
「島に免許を取りに行く」 星野博美
新聞か雑誌の書評で本書を読むきっかけを得た。
本書は五島列島の自動車教習所で免許合宿に参加した著者の記録である。教習所での
悪戦苦闘ぶりをユーモラスに描き出す著者の筆力に乗っかりながら、時折きらりと光る
著者なりの時代の「切り取り」が楽しく読むことが出来た。但し本書の特徴は、むしろ免許を
取得し、東京に戻ったあとのエピソードに案外力点を置いている点にある。
著者が免許合宿に出かけた理由は何か。著者の説明では、日々の生活にある種の閉塞感
があり、それを打開するために一念発起したということらしい。
五島という場所を選んだのも非日常を望んだ著者の思惑ということなのだろう。
そんな著者が東京に戻ると、車の運転という切り口で両親との会話が始まって行ったこと
が良く解る。おそらくそこには「家族への回帰」というようなテーマが潜んだのだと僕は
読んだ。車という機械を仲立ちとして、著者が両親との関係性を回復していく様はある種
感動的である。そこにはもはや閉塞感は読み取れなくなっている。
僕自身は完膚なきまでのペーパードライバーである。車の運転をする必要がない生活を
ここまで過ごすことが出来た。また、今後も運転する積りもない。但し、本書を読んで著者が
運転を通じて「救われていく」姿を見て少し考え方を変えた方が良いかと思ったところだ。
「コンテイジョン」 映画
2021年2月にタイで本作を鑑賞した。コロナが大きな問題となって約1年経過した時点で、
世界的にも良くコロナを抑えることが出来ている場所で観たということである。
2011年製作の本作は非常に予知的であったと言える。ソーシャルディスタンスの重要性
であるとか、ブログ等の流言飛語の危険性等はそのまま現在のリアルな状況に即している。
2011年に日本でソーシャルディスタンスというような言葉がどれだけ知られていたのだろうか。
少なくとも僕は今回のコロナが来るまで知らなかった。
逆に言うと、本作を2011年に製作した人達は既に知っていたということだ。製作に際して
専門家の見地を良く取り入れたということなのだろう。その意味では非常に丁寧に作られた
作品と言える。
本作は劇的なテーマを扱っているが映画自体は劇的ではない。一応はある種のパニック映画
というジャンルに入るのだと思うが、パニック映画に観られる派手な場面や主人公のヒーロー譚
が大声で語られるわけでもない。むしろ淡々と事象を表現する点に集中している感がある。
出演者がオールスターに近い中で、このような作りにした理由は何なのか。それを考えることは
案外愉しいものかもしれない。
本作の題名はCONTAGIONである。日本語に直すと「感染」「人から人に移る悪影響」
ということらしい。
本作で「感染」するものはウィルスだけではない。自然発生的な流言飛語や、悪意によって
作られるフェイクニュースも「感染」していったものの一つである。それがもっと高じると、
人間のそもそも持っている攻撃性であるとか排他主義のようなものも、その一例である。
本作の主人公が誰なのかは案外分かりにくい作りになっているが、それは主人公を人間に
探すからである。むしろ「感染するもの」を主人公と見立てた方が本作は素直に鑑賞できる
気がする。従い、主人公とはウィルスであり、翻弄される人間の理性であり、露呈する暴力
ということなのではなかろうか。
2021年2月の世界はコロナ渦中にある。ワクチンが漸く流通され始めて来たところだ。
但し、本当に収まっていくんかどうか。それは現在の僕にも分からない。
公園を歩いて
今朝ルンピニー公園を歩いていて、ふと思った。それは「歩く」という
動作においてほぼ無意識のままに歩けているという事実に驚いたということだ。
ルンピニーは平たんな公園だが、それでも池の橋であるとかのアップダウンもある。路面
においても細かい凹凸もある。それらをいちいち考えないでも脚が動いているということは
実はすごいのでないか。
おそらく目で凹凸やアップダウンを確認し、脚の動かし方を調整しているはずだ。但し、
そんな情報の収集やら調整を決断する点は意識に昇らない。意識に昇らなくても正しい脚の
動かし方を決めている。そんな事実には結構驚いた。
考えてみると仕事においても、無意識でやれている面も結構ある。
ルーティーンをこなすに当たって、大した意識もしないで、きちんとやれていることも
ある。第一、全てを意識しなくてはならないとしたら、数時間で疲労困憊
してしまうのではないか?
逆にリスクは無いのかなとも気になった。例えば歩いていて
小さな凹凸で足を挫いたり、転倒して骨折したりすることもある。スキーにおいても
急斜面ではなくむしろ緩斜面の方が怪我することが多いと聞いた記憶もある。
無意識でやれていることへの過信とでも言えば良いのかもしれない。
ということで何が言いたいか自分でも良く分からなくなってきたが、一つ言えることは、
普段普通・簡単にやれている事も時に気を付けないと大きな怪我の元になりかねない
という点だ。そういう意味では折に触れて自分自身や自分の業務を
見直すということか。
そういえば小林秀雄の以下の文章を思い出した。
「天才は努力しうる才だ、というゲーテの有名な言葉は殆ど理解されていない。努力は凡才
でもするからである。しかし、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼にはいつも
そうあってほしいのである。天才はむしろ努力を発明する。凡才が容易と見るところに、
なぜ天才は難問を見るということがしばしば起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な
事を嫌うからだという事になろう。」 ( 「モオツァルト」 )
「中古典のすすめ」 斎藤美奈子
新聞の書評を見て本書を購入した。海外暮らしだと本屋に行って本を選ぶことが出来ない。
書評は貴重だ。
本書は「中古典」の書評である。書評の切り口としては対象の本を現在の地点で読み返す
というものである。 本書で取り上げる本のいくつかは僕自身が当時にリアルタイムで読んだ
本だ。懐かしい。読んだ当時を思い出されたからである。
本というものには「旬」がある。ある時代にブームとなった本は、その時代に旬を得たものだ。
若しくはその本が時代を創るということもある。本書で紹介される幾冊もの本は、当時の時代の
空気を創ったと言える。
但し、旬というものは時間と共に消えさるものでもある。ある一瞬に輝いたものが永遠に輝く
わけでもない。一瞬の輝きが鮮やかであるだけに、消えるのも早いものだ。本書で紹介される
いくつもの本は、そうやって次第に記憶の彼方に去っていっている。それを著者が今回掬い
上げてきたことが本書を読む醍醐味に繋がる。
本は優れて時代の証人であり証言である。ある本がある時期に広く強く読み込まれたという
事実は、その時代が何だったのかを教えてくれる。中古典をいま読む価値があるとしたら、
そんな部分にある。そのように本書を読んで僕は思ったところだ。
「止められるか、俺たちを」
休日のタイでアマゾンで借りて鑑賞した。
舞台は1970年初頭である。僕は当時6歳であり、その頃の時代や社会のムードは全く
覚えていない。というか、理解できる年齢ではなかった。そんな時代を描いた映画を50年後の
現在に観ることの意義は何なのかと考えてしまう。
まずこの映画を創った方は、何の為に1970年代を題材としたのか。
勿論彼らは「1970年代の日本」ではなく、「1970年代の若松プロ」を描き出したかったという
ことなのだと思う。創り手が、そもそも若松孝二という監督の薫陶を受けた人たちである。若松
を映画の中に蘇させることに深い意義を感じることは理解できる。但し、1970年代も若松孝二
も良く知らない人に対して何をどう物語るのか。その部分が明快ではないと本作を2020年代
に観る意味はない。そこは成功しているのだろうか。
本作の主人公は女性の助監督である。
彼女はいくども「自分がどのような映画を創りたいのか良く分からない」と言い続けている。
「何をしたいのか分からないままに、がむしゃらに何かをやろうとしている」という姿は現在にも
そのまま通じる。自分が求めているもの、若しくは、自分が闘っているもの、が分からないという
状況は不毛と言われてしまうのかもしれないが、これは大なり小なり誰しもが抱えている
問題である。
この映画を観ていて突きつけられるものは最終的には「観ている自分自身の抱えている
問題」となっていく。「お前はどんな事をしたいのか。なぜそれをしたいのか?」と五回「なぜ」を
問われてすぐに答えられる人はそもそも稀なはずだ。その段階で主人公と僕らは同じ地平に
立っていると言える。主人公が観ていたある種の絶望は僕らにも見えてくるではないか。
ここで本作を「若者の青春群像劇」と言ってしまうのは間違っている。「何をしたいのか分から
ないままに、がむしゃらに何かをやろうとしている」とは若者の「特権」ではない。どの年齢にも
当て嵌まる話だ。56歳にもなって本作を観ていて何か心騒ぎが起こるというのも楽しい
映画体験と言えるのかもしれない。
「落葉の記」 勝目梓
勝目梓の本を読むことは今回が初めてである。日経の書評で教えて貰った一冊だ。
勝目梓の本は読んだことはないが、知ってはいる積りだった。端的にいうとポルノ小説である
という単純な理解であった。但し、今回本書を読んだことで彼の歴史をネットで調べてみると
むしろ純文学にも相当踏み込んできていたことを知った。宇能 鴻一郎という芥川作家が
ポルノ小説家になったことも思い出したが、それはまた別の話かもしれない。
本書は日記体での小説ということなのかもしれない。主人公は勝目自身とは全く違う経歴
の設定としているものの、おそらくは自身を強く投影した登場人物なのだろうと想像する。
どこまでが現実に有ったことで、どこからが創作なのかは判然としない。従い、僕としては
適当に、かつて適切に勝目にだまされながら本書を辿るしかない。
本書の面白みは、主人公が語るとぼとぼとした日常生活である。定年後のサラリーマンが
俳句と老妻を友として日々の生活を送る。生活自体は平凡に見えるものの、勝目が挟み込む
エピソードの一つ一つは時としてカラフルで、読んでいても引き込まれるものがあった。
それらのエピソードの描き方も、淡々とした筆致ながらもきらりとした下世話さが光る。流石に
長年にわたって膨大な数の官能小説で読者を引っ張ってきた筆の技術というものがあるという
ことなのだろう。
また老妻に対する心の動きも時として性欲も交えながら表現する様も上手いとしか言いようが
ない。それがあるだけに老妻の突然の逝去の後の主人公の寂寥たる心象風景が、活き活きと
僕らにも伝わってくる。「寂寥さが活き活きと伝わる」という言い方は本来矛盾した物言いだと
思うが、それが正しい表現だと僕はいまでも思っている。
2021年に読了した最初の一冊となった。