くにたち蟄居日記 -34ページ目

「ラ・ジュテ」 クリス・マルケル

年末のバンコクで鑑賞した。28分という短編映画だが、見応えがあった。

 

 本作を観ながら思い出した映画が多かった。「未来世紀ブラジル」「ブレードランナー」「惑星

ソラリス」「めまい」「去年マリエンバードで」といったメンバーである。「12モンキーズ」の原作的

な映画でもあると言われている様子だ。本作の奥と懐の深さが分かるというものである。

 

 製作されたのは1962年。第二次大戦が原爆という核兵器で終結してから17年後である。

キューバ危機が起こったのも1962年だ。従い、核戦争というものがそれなりの現実感を持って

いた時期だったと想像する。

 

 そんな時代にディストピアをモンタージュで切り抜いた画像だけで物語る本作は、単なるSF

とは思えないとする人も多かったに違いない。本作は核戦争にタイムトラベルを加えた話の

筋であり、本来なら荒唐無稽な物語という評価になりそうなものだが、実際に鑑賞していると

かなりの現実感と説得力が伝わってくる。登場人物達の「舞台設定」は荒唐無稽にせよ、彼ら

の「心性」に現実性があるからだ。もっというと製作された1962年から50年以上経った

2020年の現代にも本作はそのまま通じるものが多い。

 

それは実は恐ろしいことである。

「アロハで猟師、はじめました」 近藤康太朗

日経の書評で本書を知った。猟師関係の本は以前からいくつか読んできている。「ぼくは

猟師になった」を書いた千松の幾つかの著作や、鷹匠の本等だ。なぜ僕がかような本に興味

を持つのかは自分でもまだよくわからない。

 

 著者はメディアの記者である。メディアの記者が本書の中で猟に憑りつかれていく

様が描かれている。但し、著者は趣味として猟を始めたわけではない。あくまで仕事の為

に猟を始めたと断言している。著者の仕事とは勿論文筆業だ。柔らかい言い方をすると

「言葉を紡ぐ生業」ということだ。

 

 著者はあくまで「書くため」に猟をやっている。始めた際の動機や狙いは本書でははっきりと

提出されていないと僕は読んだ。ある意味では読者の目を引こうというような打算的な動機が

あったのかもしれない。但し、当初の動機等はどうでも良い。本書は著者が猟を通じて時代と

人間を見つめる眼差しを磨いていく歴史を描いた自分史である。そう整理すると本書の

読み方にもコクが出てくる。

 

 著者は本書においては基本的にはアジテーターという立ち位置なのだと思う。著者が

本書で展開する国家論、新自由主義への批判、ジェンダー論は、著者自身の意見だ。

それが正しいのかどうかは読んでいる僕には判断できない。

 

 但し「著者が自身の猟を通じて自分の言葉を獲得し、それを主張に繋げている」という点は

ひしひしと感じるものがあった。その迫力がアジテートになっている。読んでいて快い興奮も

覚えた。時に読者を爆笑させる文章は「言葉を紡ぐ」ことを長年やってきた著者の余技かも

しれない。「笑いの中に真実がある」と喝破した昔の政治家もいたことを思いだした。

 

 大変楽しい読書となった。本年で僕にとって一番面白い一冊だったかもしれない。そういえば

今日は12月30日。今日明日で、もっと面白い本に出合えるだろうか

[クレイマークレイマー」 

名高い本作を今回初めて鑑賞した。

 

 1979年に公開された映画である。もう40年以上前の作品だ。にも拘わらず、十分に今

鑑賞しても面白いし、身につまされる。40年前ではかなり尖った作品だったのだろう。

 

 メリルストリープが演じる母親に違和感を持つ観客が多いと思う。それはダスティンホフマンが

演じる父親に感情移入出来るように映画が僕らを誘導しているからだ。父親が子育ての挙句に

職を失う場面であるとか、子供と喧嘩になってしまうであるとか、小さいが現実味のあるエピ

ソードをきちんと重ねていく語り口。それは観ている方にとってはとても説得力があり、主人公

である父親の奮闘努力が伝わってくる。

 それに対して登場時間も少ない母親の方は、非常に勝手な人に見えてくる。言い方は悪いが

一旦は子を「捨て」ながら、後で気が変わって育児権利を主張してくる姿は一般的には感銘を

受けない。後半部分の法廷場面でも母親の姿から何か美しいものが見えてくるわけでもない。

裁判に負けた父親の方に観客はついているはずである。

 

 そんな話の筋を辿らされてきた僕らは最後の場面に、やや驚いてしまう。このラストシーンが

何を意味するのか。色々な論や見方が出てくるように、曖昧な作りとなっている。果たして離婚

した夫婦はやはりやり直せるのかもしれないというような見方もあると思う。そういう含みを

持たせたところで映画は終わってしまう。僕らははっきりした結末が分からぬまま

映画から放り出される。従い色々な憶測が可能だ。なるほど、計算された終わり方という

ことなのだろう。

「冬冬の夏休み」 ホウシャオシェン

侯孝賢の映画が好きである。といってもまだ数本しか観たことは無い。纏めて観ようとはなんとなく

思えない。一年に一作程度を観るのが僕にとっての彼の映画の鑑賞方法なのかもしれない。

 

 題名である「冬冬の夏休み」という楽し気な雰囲気で観ていたが、途中から座り直した。大声で

何かを叫ぶ映画ではないが、小さな声で語られるいくつかのエピソードがかなり重いからである。

強盗事件あり、重体の母親の話があり、望まれているのかどうかも分からない妊娠があり、

精神に障害がある聖女の話があり。

書き出してみると沢山だ。1時間30分程度の映画にしては盛り込みすぎかもしれない。

 

 但し、そこを上手く纏めているのは主人公達(冬冬とその妹)の祖父である。厳しい家父長であり、

頼られる村の医師である彼の存在感が、ともするとパラパラしてしまいそうないくつもの挿話を

繋いでいる。また祖母も子供達を思う「地母神」のようにも描かれることで話を繋いでいる。

 

 ではその「繋ぎ」とは何なのか。手垢のついた言い方になると思うが「親と子の在り方」という

テーマに尽きるのだと思う。

 

ここでいう「親と子」とは主人公達とその両親ではない。主人公達の両親は母親の重体という形

で出てくるものの、本筋ではない。むしろ祖父母とその子供達であり、精神障害を持つ娘とその父

である。つまり「年を取った親と一応は大人になっている子供達」との関係である。

 

 この地点で本作を侯孝賢が敬愛していたという小津映画に重ねても良い。「東京物語」

や「麦秋」あたりを本作の中に嗅ぎ取ろうとすることも十分に可能だ。小津のかかる映画は

年を取った親と子供達の映画ではなかったか。

 

 「子供というものはいくつになっても子供だ。」

祖父母はそう語っているように見える。但し、自分はいつまでも親でいる事は出来ない。

それが彼らの苦悩であり、本作の苦味である。この優れた映画は主人公達がひと夏の経験を

通じて大人の第一歩を踏み出すという通過儀礼の話ではない。親が自分の老いを凝視する

終活の話ではないか。そう思うことでとても僕としては腹落ちがしたところである。

 

 風景が美しい。日本人にとっては懐かしい風景かもしれない。僕も56歳にして本作を観ている

と、自分の子供時代を思いだす。しかも、祖父母の苦味も分かる年齢になってきている。これが

年を取る醍醐味なのかもしれない。

「醜聞」  黒澤明

黒澤の作品でもいくつか見損ねている作品がある。本作もその一つだ。タイの夕方にゆっくり

鑑賞した。

 

 本作の主役は三船だと思っていたが、それは間違っている。志村が主人公だ。そう思った段階

で「生きる」との比較も容易になった。

 

 実際に「生きる」と本作は重なる部分が多い。弱い人間であった主人公が、勇気を奮って

社会に立ち向かうという本筋はほぼ同じである。敢えて言うなら「生きる」の主人公は悪人ではないが本作の主人公は「弱く悪い」人間であることが出発点になっている。そこに違いはある。

 

 主人公の「悪」とは、病気の娘の為にお金を稼がなくてはならないという、「受け身」の悪と

言える。お金を稼ぐために競輪等のギャンブルに嵌まり、買収されてしまう姿は痛々しさを

超えて、滑稽である。

 

 そんな主人公を三船と山口は理解しながらも愚直に信じることを止めない。原告としての

自分達の弁護士が、被告に買収されていることを感じながらも、弁護士の病身の娘の

クリスマスに駆け付ける場面は感動的である。この映画では三船、山口、病身の娘は

非現実的に「善」である。かような人々は到底有り得ないという気もするが、クリスマスという

設定の中で観ている僕らとして納得させられてしまう。

 

そこからは「生きる」と同じだ。飲み屋でふいに湧き上がる合唱があり、主人公は合唱に浄化

され、生まれ変わり、戦う勇気を獲得していくことになる。

 

 三船の絵のモデル役の千石のスパイスが効いている。お産をしたという話もあるから人妻

なのだろうが、なにくれとなく三船を支えている。三船のヌードのモデルだったらしいが、

この二人が男女関係にあるようには描かれていない。その清涼感が本作にコクを

齎している。

 

 一方、三船と山口の間はどうか。本作の中ではまだ二人の間にはなにも起こって

いない。但し、雲取山の絵に対する二人の拘りを見ていると、この後に、二人の恋愛が

始まるのではないか。そんな伏線が最後の余韻も齎している。

 

 ちょっと話は出来過ぎているが、傑作であると思った。50歳代にして黒澤の初見の傑作に

出会うことが出来たことは幸せである。

「慟哭の谷」 木村 盛武

 吉村昭の「羆嵐」は実際のヒグマによる悲劇という史実を基にした傑作であるが、本書は

正に吉村に「羆嵐」を構想させた記録である。

 

 本書を読んでいくと吉村が実に事実に忠実に「羆嵐」を書いたことが良く分かる。若しくは、

それだけ事実を忠実に記録した本書の迫真さという事を言うべきなのかもしれない。本書の

迫力が無ければ、吉村は「羆嵐」を書くことは無かったろう。それだけ、本書は精密かつ

実証的に読者に迫ってくるものがある。

 

 一方、「羆嵐」は小説であるだけに登場人物を描き出す点においては、本書とは別の

作品である。「羆嵐」の読みどころは区長のリーダーシップと銀四郎という熊撃ちの超人ぶり

にあるが、それは本書においては特に際立たせてはいない。逆に言うと、そこを

際立たせた部分こそが吉村の独創であるという話なのかもしれない。本書を読むことで

小説家としての吉村の視点と心の動きが少し理解出来た気がした。

 

 それにしても、悲劇である。生活すること自体が非常に厳しい環境の中で、ヒグマに

襲われるという状況は想像しがたい。但し、戦前の日本には、ヒグマこそ出ないに

しても、おなじような悲劇がいくらでも有ったのかもしれない。要は「環境や状況が厳しい土地

でも、それを必至に守らざるを得なかった」という話は、日本の至るところにも有ったのでは

ないかということだ。その点で本書はある時代の日本の一面を鮮やかに切り取っている

のではなかろうか。

「漱石全集を買った日」  山本善行 清水裕也

夏葉社という出版社の本を時折読むようになっている。島田という方が一人で経営されている

出版社だ。島田の本の選択が楽しいからである。

 

 本書は古書に憑りつかれた山本という方と清水という方の対談集である。ご両者は、ある種の

本のオタクと言って良い。お二人の語り口が非常に明るく爽やかであるものの、本に憑り

つかれているという病状がひしひしと伝わってくる。そこから見えてくるものは「本の中毒性」

とでも表現すれば良いのだろうか。

 

 僕らは案外と能天気に「本を読むことは良いことだ」と言っている。但し、もともと本が有している

ある種の毒や危険性というものがある。であるからこそ、中世の焚書や禁書というような事態も

発生したのだ。時の権力者や独裁者は本の持つ魔力を良く知悉していた。従い、彼らは本を

焼きすてるというような挙に出た。若しくは出ざるを得なかったとも言えるのかもしれない。

その辺りは、小説ながらもエーコの「薔薇の名前」等を読むと伝わってくる。

 

 本書での山本と清水という方は、そんな本の毒や魔力というものを十分理解していると

僕は読んだ。理解した上で、そんな毒や魔力を楽しんでいる。それは食べてはいけない

河豚の肝を少し食べてみるような話なのかもしれない。河豚の肝はすこし舌が痺れる

くらいで留めておくと美味しいと聞いたことがある。山本と清水は、各々の舌の痺れを

開陳しあっているようにも見えるのだ。

 

 著者は2名であるが、本書を作った島田も十分に著者と言える。島田自身の言葉が

無いにせよ、本書には島田自身がべったりと貼りついている。三人が本の毒になかば麻痺

しながら本の無間地獄に分け入っていく冒険譚が本書だ。短調ではなく長調で

語られる地獄巡りと言える。読後感は爽やかだったことも付け加えておきたい。

「サルディーニャの蜜蜂」  内田洋子

内田洋子の本を読むのは二冊目である。

 

本作は内田のイタリアでの生活を描き出したエセーである。確かに舞台と素材は徹底して

イタリアなのだが、読んでいると妙に日本を思い出した。これは読んでいる僕が現在タイ在住

であり、日本に居ないからという個人的な理由もあろう。但し、それを割り引いても本作には

「和風」の趣がそこはかとなく感じられた。

 

例えば、本作に出てくる蜂蜜や魚介類の鍋物の場面はどうだろうか。

 

素材はあくまでイタリア産である。但し、それを語る内田の手捌きは「和風」と言える。

あくまで素材を活かし、素材で味を語らしめるイタリヤの食の考え方は、同様に素材を

追求する和食に通じるものがある。だからこそ、イタリア料理は数ある欧州料理の中にあっても

日本人が最も違和感がなく楽しめる料理なのだと僕は個人的かつ勝手に思っている。

そんな思いを今回本書を読んで更に強くした。それはイタリア料理を語る時の内田の語り口

の「和風さ」にあるのだと思った次第だ。

 

 内田はイタリアに住んでいるのだろうか。それともイタリアを旅しているのであろうか。

後者であると考えるなら、本書は旅行記とも言えるのかもしれない。「人生旅にして

旅を棲みかとす」と言ったのは松尾芭蕉だったか。「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」

という芭蕉の辞世の句も思い出したところだ。

「モリのいる場所」 映画

熊谷守一に関する本を読んだ経験があることで本作を鑑賞した。山崎努と樹木希林の
夫婦という設定も興味深かった。

結論的に言うと、本作は焦点が絞り切れていない。ある場面ではコメディーの要素を入れ、
ある場面ではファンタジー風の描写が出てくる。本筋である熊谷の生き方について山崎が
しっかりと演じ切っていただけに、余計な味付けをしたものだと個人的には残念だった。

 樹木希林の演じっぷりも見事である。樹木希林の場合には、なんといっても「悪意」を見せる
場面にその真骨頂があると常々思ってきている。樹木希林が演じる善人が不図見せる「悪意」
の前ではスターウォーズの「ダークサイド」などは子供だましにしか見えない。本作においても
樹木希林のかような存在感は図抜けている。

 ということで山崎努と樹木希林は素晴らしかった。従い、前記の焦点のぼけが勿体ない
としか言いようがない。特に樹木希林を既に失った僕らとしては。

「怪男児 麿赤児が行く」  麿赤児

麿という方は鈴木清順の映画で初めて知った男優である。但し、麿の本職は舞踏家だった
ということが本書を読んで良く解った。読み始めると止まらなかった。

 本書を読むと1970年代頃の時代が綺麗に立ち昇ってくる。寺山修司、唐十郎等といった
既に鬼籍に入られた方々の無類のエネルギーが伝わってくる。彼ら自身がエネルギッシュ
であったことは間違いなかろうが、なにより時代が彼らにエネルギーを与えていたことも
良く読み取れる。時代と芸術家の間で正のスパイラルが形成されたことが、滅茶苦茶な
人間像を描き出す本書の清涼感となっている。振り返って現在はどうなのか。芸術の
どれだけの力があるのか。覚束ない気もしないでもない。

 それにしても麿の文章は人たらしとしか言いようがない。文章の力というものの存在の
一つの確固たる証拠が本書である。麿は偽悪的に自分と時代を描き出しているが、
その中から立ち昇るある種の「無邪気さ」が魅力である。司馬遼太郎の言葉を借りるならば
「坂の上の雲を目指して無邪気に歩いていく」麿の姿が見えてくる。