「優しい音楽」 瀬尾まいこ
本に出合う方法にはいくつかある。本屋での衝動買いであるとか、新聞の書評であるとか、
知り合いからのお勧めであるとか。自分の好みを辿って本を探すということは中々楽しい
ものの、それだけでは「狭い」ことになってしまう。そんな際に、まったくの他人から紹介
される本を読んでみることは実は大事なのだと僕は思う。本書も、新聞で浅尾美和という
ピーチバレーをやっていた方の愛読書ということで読んだ次第だ。
本書に収められている三篇の短編は、どれもシュールな物語である。息子を亡くした家族と
その息子とそっくりの主人公の話であるとか、浮気相手の子供を預かる羽目になる女性
であるとか、ホームレスの中年男を「拾って」同居するカップルであるとか。読んでいて
強く思い出したのは、レイモンドカーバーである。必ずしもカーバーが同じような話を
書いていたという記憶は無いものの、物語の設定の仕方に似たものがあるような気がした。
但し、両者の後味は全く違う。カーバーの後味は、どこか荒涼なものであるものが比較的
多かったと僕は思っているが、本書の後味は暖かい。読んでいて登場人物の今後の幸福を
知らず知らずのうちに祈らされている。それが瀬尾のいう方の芸なのだろう。三つの短編は
いずれも結末が尻切れトンボであるだけに、その先の物語は読者に任されている。
任された読者は、自身の想像で物語を膨らませるわけだが、かなりの読者は幸せな結末を
考えるのではないだろうか。そんな気がしてならない。
浅尾という方は本書をなんども読み返し、その度に涙を禁じ得ないと言っていた。彼女が
どのような結末を考えたのかは僕には解らないわけだが、なんども読み返したという事
には納得できるものはある。そういえば僕もレイモンドカーバーのいくつかの短編を
かなり読み返してきたことも思い出した。
「フードテック革命」
食関連の多様化が早くなってきたこともあって本書を読む機会を得た。
本書を読んで、まず感心したのはコロナをしっかりと踏まえている点である。本書の発行日は
2020年7月23日となっているが、その段階で、コロナを前提とした本を上梓出来るという
スピード感は、さすが「テック」を謳う本書に似つかわしい。コロナは様々な影響を及ぼしつつ
あるわけだが、食においても同様である。むしろ人間の生存に直結する食こそ、もっとも
コロナの影響を受けるはずなのかもしれい。
本書で紹介される膨大な「フードテック」と、それを扱うプレーヤーの数は圧倒的である。
大変勉強になる。
但し、たとえば2年後がどうなっているのかを考えると、本書で紹介されている大半の会社は
本書のままの名前で残っているとは思えない。買収、被買収、撤退、IPO等の様々な
経路を経て、事業自体は残っていても社名は変わっているだろう。
そう考えると本書を読む旬とはまさに「今」であり、10年後に本書を読むとしたら「コロナ
直後の時期での食を巡る技術と議論」という「歴史の一次資料」としての意味かもしれない。
これは本書を貶めているわけでもなんでもない。本にも色々あり、まさに「旬を楽しむ」一冊
というものも大きな価値があるからだ。
それにしても食はどうなっていくのか。それ自体以上に、食を巡る議論がどうなっていくの
だろうか。それを考えることが、本書を読むということかと思う。人間の三大欲の中でも食欲は
筆頭だろう。そのような極めて人間の根源的な部分を「テック」化しようとすることも大きな
挑戦にはなるだろう。
映画 「プール」
タイでの友人から推奨されて鑑賞する機会となった。
アマゾンのレビューを見ていると同系列の映画である「メガネ」や「カモメ食堂」に比して
ネガティブな感想が散見された。監督が違うからというような説明もあったが、僕としては
そもそも観客を誰に感情移入させるのかという点が「メガネ」「カモメ食堂」と「プール」
に違いであると考える。
「メガネ」「カモメ食堂」では観客は小林聡美に感情移入することになる。小林の視点
で物語を辿ることになる。一方、「プール」では主人公である小林の娘の視点から
小林を見ることになる。
娘の視点で母親である小林を見るとどうか。自由奔放という言い方も出来るかもしれないが
そもそも自由奔放と評する人とは普通は「他人」であって少なくとも家族ではない。親が子を、
もしくは子が親を、「自由奔放な人だ」と評する場面は僕は寡聞にして知らない。また
それを言うとしたら既に親子の関係が相当に変容しているものではないかと思う。
主人公は母親である小林をなじる場面がいくつかある。観客も、そんな主人公に賛同する向き
が多い。つまり端的にいうと、小林聡美が悪役であるという点がこの作品の肝であり、監督の
仕掛けなのだと思う。小林聡美という女優はめったに悪役をやらない方である。従い、「メガネ」
や「カモメ食堂」から本作に辿り着いた観客は、非常に居心地が悪い思いをしてしまう。そんな
気がしているところだ。
チェンマイの風物は美しい。チェンマイの人々も活き活きと描き出されている。もたいまさこは
どうやらラストでは亡くなってしまったようだ。そんな断片に惹きつけられる一方の、小林聡美の
悪役振りが光る作品だと言えるのではないか。亡くなった樹木希林の後を小林聡美が
埋めていくような予感も覚えた。樹木の悪意を見せる場面の迫力も懐かしい。
映画「わたしは光を握っている」 中川龍太郎
銭湯が主な舞台なので鑑賞し終わって直ぐにユニットバスにお湯を張り、貴重品の入浴剤
を入れて温泉仕立てとしてゆっくり入浴した。海外に住んでいると大きなお風呂等はなかなか
入るチャンスも無い。
この映画の感想を読んでいると、登場人物の背景や関係が曖昧で分かりにくいという意見が
散見された。その意見は正しいと言えるが、それが良い効果を齎している面もある。なまじ
人物を描き込まないことで、ある種の抽象画にも似た不思議なムードが本作の魅力の一つ
である。画面の風景から、舞台は東京であることはわかるものの、別に東京が舞台である必要
も無い。登場人物間の関係も曖昧でも本作は十分成り立っている。
この作品のテーマは第一義的には「滅び」である。再開発の為に立ち退きを強いられた一つの
街の滅びの話だ。主人公の実家の湖畔の旅館も同じく閉鎖されることになり、正に滅んでいく
時を迎えている。
そのような滅んでいく場所に棲む人々も、その滅びを受け入れつつ最後の日々を過ごしている
ように見える。映画のラストに近い場面でこれから立ち退くことになる実際の人々を撮影
したドキュメンタリー風の場面は、そのままセピア色に変色させても十分成り立つ。非常に
感動的なシーンと言える。
そんな中で主人公だけが立ち上がる決意を持つ。映画の初めから、極めて受動的に見えて
いた主人公が最後の日までは勤めている銭湯をしっかりやりとげたいと宣言する場面で
完全に彼女は変容を遂げる。銭湯を閉めた一年後に大繁盛している別の銭湯の番台に
しっかりと腰を落ち着けた主人公の姿は実にエネルギッシュと言える。座っているだけにも
関わらずエネルギッシュを感じさせるということはかなりの大技と言って良い。
僕が邦画が好きなのは、このような作品があるからだと改めてしみじみと感じた。CG等に
頼らず、普通の画面で確りと物語る映画は繰り返し鑑賞するに値する。本作が中川という
若い監督の作品を観る一作目だが、他作品も期待できると確信した次第だ。
「100分DE名著 共同幻想論」 先崎彰容
NHKの番組を見ながら本書をゆっくりと読んだ。非常に優れた「共同幻想論」の解説本
であると感謝した次第である。 「共同幻想論」という難解な本を少し理解出来た気がした。
勿論、その理解とは本書の著者である先崎自身の理解でもある。「先崎自身の理解」が
本当に正しい「共同幻想論への理解」なのかどうかは留保すべきであると考えることが
出来たのも、本書のお陰とも言える。
僕らは日々色々なものに絡めとられながら生活している。何に絡めとられているのかに
よって深刻度は異なる。例えば、戦時中の軍国主義という「共同幻想」は、結果的には極めて
深刻な結果を産んだ。21世紀の今日、僕らを絡めとっているものが何なのか、どこまで
それが深刻なのか。それは中々分からないし、分からないように出来ているからこそ
「共同の幻想」ということになっているのだろう。それが本書及び番組を通じて強く考え
させられるものであった。
本書で先崎は現在のコロナに言及している。コロナというパンデミックが発生したことで
見えてきたものは多い。僕らが所与の条件と考えてきたものをちゃぶ台返ししたのが
コロナである。人と人が触れ合うことが大きな災厄の原因であるというコロナは、ついこの間
まで軽い調子でつかってきた「絆」という言葉自体を壊した感もある。なにせ、「助け合い」
自体が物理的に難しいという話なのだから。
そんな異様な状況の下、僕らは何か「大きな物語」に絡めとられやすくなっているに違いない
と考えておくことが肝要なのだと思う。その「大きな物語」が何なのかは分からないものの、
それが来た時には、疑いもせずその物語に呑み込まれてしまうのではないか。そんな心的地合
がいま世界中に出来ているはずなのだ。
その意味ではとてもタイムリーな一冊が出来たということなのだと思う。NHKがコロナを
踏まえて「共同幻想論」を取り上げたとしたら慧眼としか言いようがない。
映画「天気の子」 新海誠
新海の最新作を漸く観る機会を得た。以下はネタバレを含む事を予め言っておく。
東京を堂々と水没させるという結末には色々な議論があるだろう。映画というものは
比較的ハッピーエンドが多い。そうしなかった新海には強い意思があったと考える。
新海は神社の神主に「異常気象」という言葉の意味の無さを語らせている。たかだか百年程度
の気象の記録と比較して現在の気象が正常なのか異常なのかを判断することは小賢しいと
言っていると僕は聴いた。そのコメントは僕には非常に腑に落ちるものがある。
例えば長い地球の歴史を考えてみる。地球の気温は大きく変動してきたという
説は多い。例えば地球全体が凍っていたという「アイスボール」理論もある。若しくは6550万年
前にユカタン半島に隕石が落ちた際の気温低下が恐竜の滅亡となったという説もある。
いずれも気温が大きく変動したという話だ。
それを考えると、ここ20年語られることが増えた「地球の温暖化」の議論のある種の「矮小さ」
という見方もあるかもしれない。数度の変動には止まらない気温の変動が地球の歴史
だったのかもしれないからだ。
現在の地球は人間にとってはとても好都合なものであると思う。それだけに、気候も
含めた現在の状況をいかに維持するのかという点が優先され、「異常なもの」を排除する
姿勢は実に強い。出来るだけ「現在」を継続したい。「絶滅危惧種」を巡る言説を語る人々
は、地球の生物の歴史とは絶滅の歴史だったのではないかと考えているようにも見えない。
その意味では本作においても、多くの人にとって「降りやまない雨で東京が水没しました」
という「天気の子」の結末は苦味があったろう。映画館を後にする際に居心地の悪さを
引きづった人も少なくなかったはずだ。
新海は本作をハッピーエンドで終わらせることも出来たろう。但し、彼はそうはしなかった。
我々が願う「現状維持」を否定し、「常」ではなく「無常」ということを強く主張しているように見える。
そこに彼の勁い意思がある。
小林秀雄は「無常という事」という本の最後を以下の文章で締めくくっている。
「現代人には鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なる
ものを見失ったからである」
新海が言っているのは「常なるもの」等は存在しえず、万物は無常であるということでは
ないのか。そんな形で僕にとっては「天気の子」と小林秀雄が響きあった次第だ。深海の映画は
その奇跡的な映像美で語られるが、底に横たわるニヒリズムにも似た主張は決して
美しいだけではない。
「ラストレター」 映画 岩井俊二
岩井俊二のいくつかの作品を観ていたことで本作を観るきっかけを得た。特に本作の
前作と言われる「ラブレター」が好きだったことで待ちわびた日々もあった。
本作は、ところで、案外と把握することが難しい面がある。端的にいうとだれが主人公であり
その主人公の何が本作のメインテーマなのかを明快に決めることが容易ではない。見方に
よって主人公は、東山かもしれないし、松たか子にも設定できるし、勿論ヒロインである
広瀬すずでも良ければ、森七菜と考えることも出来る。かつ、その各々の「主人公」に
対して、各々の「テーマ」を与えることが可能になっている。
例えば、松たか子であるなら本作の「狂言回し」の役割を担い、その「狂言回し」の中から
見えてくるものがある。広瀬すずが主人公であるなら、「父と母を喪う事」という読み方も
出来る。森七菜こそ陰の主人公だと設定しようとするなら、自分の母親である松たか子との
相似と相違というような整理も可能だ。
かように登場人物が各々のテーマ曲を奏でるポリフォニー的な構造となっているので複雑
であるものの、やはり福山を主人公とすることが一番まとまりが良いのかもしれない。
福山は初恋の人に憑りつかれた作家である。初恋の人を取り巻く家族からは「あなたがもっと
早く来てくれれば良かった」という救いを期待される人間であるものの、福山自身もいわば
「不能者」という立場にいるようにしか見えない。「不能者」が、手紙を受け取り、手紙に召集
される形で高校時代を過ごした地に舞い戻り、そこで繰り広げられる地獄巡りが本作では
ないだろうか。その中では例えば初恋の人が結婚した相手の豊川悦司とのやりとりもあるが、
その豊川の破綻振りは、そのまま福山の持つ陰の部分を擬人化したものに観える。
そんな福山が、現実のものとも異界のものともつかない、広瀬すず、松たか子、森七菜らに
翻弄されつつも、浄化されていく話ではないかと考えると漸く僕個人として、この複雑な
物語を消化することが出来るようになってきたところだ。まだ一回しか鑑賞していないので
この程度のことしか言えないのだが。
岩井は大人になる直前の少女をとびきり美しく描き出すことが出来る稀有の映像作家である。
本作でもその才は遺憾なく発揮されている。その一方、かつてのヒロインであった中山美穂や
松たか子の存在感もしっかりと書き込まれている。特に中山はよく本作の役柄を受けたものだと
個人的には思った次第だ。本作は「ラブレター」の続編でも何でもないが、中山が出てきた場面
の強烈な現実感には、やや幻惑された次第である。
「結婚してみることにした」 壇蜜
壇蜜さんの日記は折に触れて読んでいる。通常僕は作者名を呼びすてで書くのだが、いま
ほぼ無意識のうちに「さん」を付けた。僕なりの尊称を付けたのかなと自分で可笑しくなった。
彼女の日記の魅力はどこにあるのか。なんといっても、その短さが良い。一日に書いている分量は数行
に過ぎない。いくつかの作家の日記を読む機会があったが、かように短い日記は見たことが
ない。
短い日記の魅力とは何か。短いだけに一瞬の切れ味が要求される気もするが、彼女の日記
は、まずはそんな切れ味がぎらぎらしているわけでもない。ここで小林秀雄が徒然草に関して
紹介していた「よき細工は、少し鈍き刀を使う、という。妙観が刀は、いたく立たず」という言葉を
思い出しても良い。壇蜜さんの文章は、実は「少し鈍き刀」なのかもしれないと想像することは
楽しい。
短いながらも、自身の事をすぱりという部分にははっとさせられる。本名は斎藤支靜加という
女性が「壇蜜」を演じるに当たって、自分を見つめる視線がそこにある。世の人が想定する
「壇蜜」像を忖度しつつも、そんな自分を更に外から見つめて、短い文章で表現するという
ことはそう簡単な話でもないはずだ。そんな複雑な視点が、本書を面白くさせている。
斎藤さんは結婚された。従い、本名は既に「斎藤支靜加」ではないわけだ。うっかり
していた。
「パリの砂漠 東京の蜃気楼」 金原ひとみ
金原の本を読むのは二冊目である。一冊目は彼女のデビュー作の「蛇にピアス」であった。
本作は金原の日記である。舞台としては当時金原が住んでいたパリと、時折帰国した際の
東京である。作家の日記というものは珍しいものではなく、むしろ著作の一つのジャンルとして
確立されている感はある。但し、厳密に言うと本作が日記なのかどうかは微妙なところである。
日記というよりは「私小説」に近い地点で金原が本作を書いているような気がしてならない。
「蛇にピアス」を出したころの金原は、女性ながらも久しぶりに出てきた無頼派の作家のように
見えた。それから年月を経て、家庭を構え、二人の子供を抱える金原は変わったのだろうか。
本作を読む限り、彼女の持つ資質は余り変わっていないと思った。子供の世話をしながらも
相変わらず過剰なまでの自分自身を抱え、自家中毒にも見えるような「彷徨」を繰り広げている
姿が本作である。
その「彷徨」が実際の著者の置かれたものだったのか、実は著者の創作なのかは僕には
判断できない。但し、どちらでも良い。本作を私小説として読むのである以上、内容がフィク
ションなのかノンフィクションなのかという区別は僕にとっては意味を為さないからだ。これは
たとえば志賀直哉のいくつかの短編を読む際にも通用する話なのだと思う。志賀直哉が
嬉々として書いた自らの浮気と発覚の一連の短編は創作なのか実話なのかというような
問いを否定している点と共通する。
ではかような私小説に対して僕は共感を覚えたのだろうか。結論的にいうと、共感を覚える
以前に良く分からないという状態にあったことが正直なところだ。金原が描き出す風景は
僕には良く見えなかった。風景が見えないなかで共感することは僕には無理だ。但し、金原の
息遣いはしっかりと聞くことが出来た。今後金原の本をどのくらい読む機会があるのかは
分からないものの、一度聞いた息遣いは多分忘れないだろうと思ったことも確かだ。
隔靴掻痒
住んでいるタイは今週からレストランでのお酒もOKとなり、ほぼ以前の状態に戻った感
がある。最後に残る大きなハードルは鎖国を解くことなのだろう。メディアを見ている限り、以前のような自由な
往来に戻るまでは相当時間が掛かりそうだ。客先にしてもやはり実際に会って
話すことの重要性が今回良く分かってきたと思う次第だ。ZOOM等で話は出来ても
隔靴掻痒、若しくは「痒い所に届かない」という印象は拭えない。
でも、なぜそうなのか。
人間のコミュニケーションは「言葉」に頼っている部分が大部分であることは確かだ。
但し、「言葉」自体を取り上げると、案外と不確かなものだと思う。
ある人が何かを言っていても、それがその人の本音かどうかを知ろうと思ったら、「言葉」
だけでは足りない。
むしろ、語っている「言葉」は往々にして「建前」であり、本音は全く逆であるというようなことは
結構ある。その辺を解るには、話している時の表情、しぐさ等、非言語なものから
推し量ることが一番確実だ。
ZOOM等ではそこが掴み切れない。そもそもZOOMは「話すこと」「聞くこと」に集中し過ぎる
余り、たとえば「雑談」なども限定的になる。「本題」だけではなく、「雑談」のような「不要不急」
の話題から相手の心の有り様というものが解ることは多い。そんな部分が無いことで
コミュニケーション自体が困難になっている。
「隔靴掻痒」「痒い所に届かない」と先ほど書いた。両方とも「痒さ」をテーマとしている点
は注目に値する。
「痒み」は、例えば「痛み」等と比較すると、深刻度は低い。但しじわじわと効いてくる。最終的な
「耐えられない度合い」は案外高い。言葉だけでコミュニケーションを取ることにも「痒さ」に似た
「耐えられない度合い」があるのではないか。
田中