映画「野獣の青春」
鈴木清順の映画は時間を掛けて少しづつ観ている。今回は「野獣の青春」だ。
実にテンポの良いアクション映画である。まず、主演の宍戸錠の動きが実に軽快かつ質感に
満ちていることに感銘を受けた。これは黒澤映画の三船敏郎と比較しても遜色は無いと僕は
思う。また独特の風貌もアクションに似合っている。鈴木が宍戸を重用したことは最早歴史で
あるが、その理由が良く分かった。
一方、清順映画というと当然ながら「清順美学」である。独特の色調とカメラアングルは本作に
おいても遺憾なく存在感を放っている。いったい本作は元来は素直な「アクション映画」であった
はずだと思うが、それを逆手にとって好き放題やっているのが清順の凄みである。アクション映画
を観に来た当時の観客がどう思ったのだろうか。ましてや、製作側の日活が、その後鈴木清順を
「わけのわからない映画を撮る」ということで干した経緯も、個人的には分からないでもない。
当時の日活の対応はある意味常識的であると僕は思う。非常識なのは鈴木清順であり、彼の
創った映画であるからだ。
但し、その非常識であるがゆえに「野獣の青春」という作品は今日に至っても鑑賞されている
という事実は重い。いま鑑賞しても実にスリリングな一作と言える。
「すらすら読める徒然草」 中野孝次
徒然草は高校時代から好きな一冊であり、折に触れて漫然と読んできた。「漫然と読む」
だけでも面白い古典である。そもそも「漫然」という姿勢は徒然草には正しい姿勢だと思って
きたし、いまでもなおそう思っている。但し、本作はそれとは違う読み方を教えてくれた。
中野が行っている作業はシンプルである。いくつかのテーマを設定し、それに関わる徒然草の
各段を集めただけの事だ。「集めただけ」と書いたが、当然ながらテーマ設定の仕方に中野の
細工がある。設定されたテーマを見ていて、徒然草の多様性と統一性を改めて感じた。
多様性とは何か。それは徒然草が扱っている素材と主題が実に豊饒であることである。
小林秀雄は兼好法師という人に関しては「無下に卑しくなる時勢と共に現れる様々な人間
の興味ある真実な形を一つも見逃していやしない」と言っているが、その「見逃していや
しない」事物がいかに多様性に富んでいたのかということだ。
では統一性とは何か。中野が集めた各段で兼好法師が言っていることには実に首尾一貫
している。主張がぶれていない。死というものがいつ来るか誰も分からないにも関わらず、
誰も自分が死ぬということが解っていないと繰り返す兼好法師の主張は徒然草というある種の
箴言集の通奏低音であり、実に統一されているということだ。
「漫然」とではなく、目的と意識を明確に持って徒然草と対峙した中野の読み方は大変
参考になった。少しだけかもしれないが、長年読んできた徒然草への理解がまた少し
深まった気がする。それも歳を重ねながら読書を続けることの醍醐味と言える。
映画「80日間世界一周」
1956年の映画である。もう60年以上の作品という訳だ。
名作の誉れが高い作品ではあるが、観ていると今では通用しない部分も多い。特に
アジアへの蔑視であるとか、米国のインディアンの描写等は現代ではとても許容されないで
あろうものがある。日本では、ヨコハマという地名が連呼されていた割には画面は鎌倉の大仏
であったりするような融通無碍とも言えるものがある。そもそも男性は全て丁髷であるが、
時代考証としても正しいのだろうか。やや心許ない。
但し、嫌味が無い。従い観終わった後もすっきり感がある。劇中では「もうすぐ、80日はおろか
80時間で世界一周できる時代が来る」と誰かが言っていた。そうなった21世紀の現代が、
果たしてどれだけ幸せな時代なのかは全くの別問題だ。本作を観ている限り、舞台となった
19世紀の英国にしても、映画を製作した20世紀半ばにしても、いまより遥かに楽天的な
時代だったのではあるまいか。そんな「明るさ」が、本作の後味を良くし ているのではないかと
思ったところである。
映画「彼女がその名を知らない鳥たち」
バンコクの週末に自宅で鑑賞した。
どんでん返しという点ではそれなりに面白かったものの、やはりラストシーンが正直良く解らない
と感じた。陣治は十和子に生きることを強く主張する一方、本人は自殺してしまう。その理由が
納得しがたいものがある。
セリフを辿る限り、陣治は十和子の罪を代わりに背負って死ぬということなのだろうが、では
残された十和子はどうすればよいのだろうか。そもそも直前に十和子が水島を刺した事件は、
本当にこの後の十和子に影響無しで行くのかも疑問であるし、そもそも自らの罪を思い出した
十和子が果たして生きていけるのだろうか。
若しくは、一部の評者からは陣治として十和子を守り様がないことを悟って自殺したのでは
ないかとする向きもあるようだが、そうであるなら物語として何が言いたいのかが解らなくなる
としか言いようが無い。
そのように宙ぶらりんになったところに最後の十和子のセリフを聞くと益々解らなくなる。
十和子は陣治を「たった一人の私の恋人」と言うわけだが、果たして、あの二人の状態が「恋人」
というようなきれいな言葉で言えるのだろうか。
ということで、本作はあらゆる意味で暴力的な作品と言える。言葉通りの暴力だけでは
無い。人間が持つ本能的な暴力というものが、随所に湧き出ていると言える。十和子や十和子の
付き合った連中だけではない。例えば本来は善人のポジションにいるべき十和子の姉にしても
十和子との関わりにおいてかなり暴力的とは言えないだろうか。登場人物が全て暴力的に
見えることで鑑賞している側も居心地が良いとは言えない。それが本作の狙いだとしたら、
僕も作家の術中に嵌まっているのかもしれないが。
「小林秀雄全作品17 私の人生観」
コロナ下に世界を、異国の地バンコクで過ごしている。タイに持ってきた小林秀雄のいくつか
の本を散読しているところだ。本書は「私の人生観」が面白かった。
「みる」という言葉には色々な漢字がある。「見る」「看る」「観る」「診る」等。「みる」というと眼球
の運動だけではなく、むしろ心の動きを含めた総合的な動きであることが漢字を通じて分かって
くる。「私の人生観」とは、そんな「みる」という言葉の掘り下げを巡る一巻の冒険譚とも言える
のかもしれない。
小林は宮本武蔵を通じて「観」というものから本書を起こしている。「観」というものの起源を仏教
においている一方、宮本武蔵が到達した「観」については仏教修行の上での獲得ではないと
していると読んだ。
むしろ、宮本が鍛錬したのは剣をどう使えばよいのかという極めて実用的な話であり、それを
現実的に追及している為には「観」というものを得ざるを得なかったと小林は言っているように
思える。
つまりは職人芸である。「手仕事をする者はいつも目の前にある物について心を砕いている」
という一文がそれに当たるのではないか。
「着眼大局着手小局」という言葉を思い出した。もともとは「まず全体を把握した上で、
小さい課題を見つけ出してそこから進めるべし」という理解だった。しかし、実はもう一歩進めると
「小さい事を正しくやるには、全体が解らないと、小さいとは言えども失敗する」というように
理解すべきではないか。その為には全体を解るための「観」が必要ではないか。そんな風に
思うようになってきた。その思いつきが「私の人生観」という本に共鳴していたとしたら僕の
小さな幸せである。
映画「半落ち」
高評価をいくつか聞いた本作を鑑賞する機会を得た。結論的に言うと、僕としてはあまり評価
出来ないと思った次第だ。
まず主人公がひたすら隠してきた殺人後の2日間の真相が、「真相」というほどの内容では
ない点だ。観客の僕としては、そこまで主人公が黙秘を続ける以上、実に以外な事実であるとか、
どんでん返しを期待していた。その期待が大きかっただけに、実際の「真相」を聞いて正直、肩
すかしを喰らった気がする。勿論その「真相」は感動的なエピソードであるわけだが、必要
以上の期待値を上げてしまったことで感動自体が薄れてしまった感がある。
二点目。本筋以外の要素を盛り込みすぎである。
不倫であるとか、警察対検察であるとか、弁護士の在り方であるとか、老人介護であるとか。
いずれもそれだけでも一つの映画が出来る程度の「重み」はあるような気がする一方、それらを
全て本作に盛り込んだところで各々が「軽く」なってしまったとしか思えない。若しくは冒頭に
出てきた連続少女暴行事件に関してもどこで本筋と絡んでくるのかを期待させながらも、結局
そうはならない。
ということで、焦点がぼやけたまま映画は終わったと僕は見た。端的に言うと「オールスター
怪獣大進撃」のような様相を示している。怪獣映画は、怪獣が一匹だけの方が得てして
面白いのだ。
「素敵なダイナマイトスキャンダル」 末井昭
畏友に以前勧められた本書を漸く読了した。
末井という方は、神蔵美子という写真家の「たまもの」という写真集で初めて知った。その写真集
とは神蔵が夫の坪内祐三と末井との間で繰り広げたどろどろの三角関係を扱ったものだ。ある
意味げんなりとさせられたもので、神蔵という女性の業の深さを感じた次第である。一方、末井
という方は良く知らなかった。彼の「結婚」という著作は2年以上前に読んだが、今回本書を
読んで理解が深まった気がする。
「理解が深まった」と言ったが、一体どのような理解が出来たのか。そう考えると中々言葉に
しがたいものがある。七歳にして母親が愛人とダイナマイト心中をするという経験が末井に
与えた影響は大きかったろうという展開になってはいるものの、本当にそうだろうかという気も
する。母親がどうであったにせよ、末井の有する特殊な資質は変わらなかったのではないか
という事だ。
末井の資質とは何か。端的に言うと、おそるべき無邪気さにあるのではないか。
末井が淡々と遂行していった一連の成人雑誌作りの話には、ある種のイノセントさが満ちている。
当然ながら利益を得るべくいそしんできたとは思うが、ガツガツさというものが行間から漂って
こない。エロ雑誌(という表現の方が正しいか)を作っていくうちに彼が知り合っていく荒木や南
との交流は既に清遊という域に達していないだろうか。素材や舞台装置がヌードであったり
SMであったりするだけのことで、そんな舞台に乗っかっている彼らの姿は非常に清々しい。
それは「エロ」と「猥雑」との違いにあるような気がしてきた。彼らは極めて真面目に「猥雑」
を追求しているだけではないか。そう考えると何となく腑に落ちた気がした。
映画「駅 station」
「鉄道員」を観たことで降旗監督と高倉健の作品を観ようと考えたことで本作をレンタルした。
「鉄道員」は凄まじい出来栄えであっただけに期待大で見始めた。但し、結論的に言うと、
僕としては不満が残った。主に脚本に関して、である。
本作は3つのエピソードで出来たオムニバス映画に近い作りとなっている。3つのエピソードは
それなりに有機的に結びついている点は良く出来ていると思う一方、一つ一つのエピソードが
単独で完結しているとは言い難い気がする。
1つ目のエピソードは主人公が離婚する短い話である。いしだあゆみ程の女優を持ってきたに
しては、説明不足だ。要は何が原因で離婚なのかが分からない。それが見えないと子供への
感情移入等も難しくなる。
2つ目のエピソードは強姦魔とその妹の話である。兄と妹の繋がりを描こうとしたのかもしれない
が、兄の人物像がまるで分からないので感想の持ちようがない。かつ、主人公の高倉健が、
兄の収監後にも気にかけていた事が語られるが、なぜ主人公がそこまでこの犯人を気にした
のかが理解しがたい。他のエピソードでは散々犯人を銃殺しながらも、かような配慮を描き出す
場面は殆ど無かった中で、である。
最後のエピソードが一番分かりにくいのは、結局主人公が倍賞千恵子をどう思っていたのか
という点だ。話の展開上、彼女と結ばれる方向性にあったように見える。但し、電話で離縁した
元妻と電話で話している場面には倍賞の姿は消失しているのではないか。
ということで僕は感情移入が難しかった。雪、列車、高倉健という風景自体は実に分かりやすい
だけに、もう少し脚本が分かりやすかったらと思う。但し、本作を高く評価する人も多い。従い、
これは僕の理解不足ということなのだろうと整理したところだ。
「黒死病 ペストの中世史」 ジョン・ケリー
コロナ肺炎が猖獗を極める本日段階で本書を読了した。この本は2017年2月にアマゾンに
注文した一冊である。いまから3年前に本書を買った僕の先見の明ということかと秘かに
自慢したりしている。
本書は中世に欧州で大流行したペストの様子を描き出している。各国での状況を詳細に
渡り書き込んでおり、非常に臨場感がある。特に当時の人々はペストの原因を知るよしもない
中で、必死に原因を探求しようとしていたことが良く分かった。当然ながら、彼らが考え出した
原因とその対策は今から見ると時に滑稽であり、時に悲惨である。
特にユダヤ人の陰謀説とそれに伴うユダヤ人虐殺については、読んでいて溜息しか
出なかった。こういう歴史を踏まえないと、シェイクスピアの「ベニスの商人」なども切実に
読めないということかと思う。
一方、例えば関東大震災の際の日本を思い出すことも大事かもしれない。あの際にも
他国人の陰謀説が流れたということも、割と最近の歴史である。我々は中世の欧州人の
蒙昧を嗤う資格はないと考えるべきかもしれない。
では、コロナ肺炎下の今日、我々は本書から何を学ぶべきなのか。
冷たい言い方なのかもしれないが、大きな疫病は世界と社会を変えてしまう力があるという
事実を学ぶべきではないか。今回のコロナ肺炎が収まった後に、コロナ肺炎前の世界に
元通りに戻るとは思えないし、思わない方が良いということだ。
例えば、今回のパンデミックは将来的には「働き方改革を急速に人間に迫るものだった」
という歴史的評価に繋がるのではないか。コロナ肺炎に伴って従来機能してきた色々なビジネスモデルが変更や退場を余儀なくされることになる気がする。本書においてもペストが欧州に
齎したものは人口の減少による新しい社会への変化へのトリガーだったと最後に書かれている。
今回のコロナ肺炎が世界人口減少に繋がるとは思わないものの、新しい社会へのトリガーになるという点では中世のペストと同じなのかもしれない。
映画「ヴァイブレータ―」
休日のタイでレンタルにて鑑賞した。
アルコール依存症の女性がゆきずりのトラックの運転手と旅行するというロードムービー
である。そう一言で言ってしまうとそれまでではあるが、不思議な余韻が残る作品だ。それは
なにより登場人物の背景を殆ど省略してしまった事に因る。
主人公の女性がなぜアルコール依存症になったのかという理由も分からない。どうやら小学校
時代にいじめに遭った様子ではあるが、それから31歳の現在までの軌跡は全く言及されない。
現在はフリーランスのルポライターをやっている様子だが、それが本当かどうかも良く分からない。
一方、相手方の運転手はどうか。彼の経歴等は彼自身が車中で説明するものの、断片的で
これまた本当かどうか分からない。当初は結婚しているという話だったが、結末に近い
定食屋での場面では、ヒロインに独身ではないかと聞かれてあっさりと認めている。個人的には
彼はやはり結婚しており、その定食屋の場面で初めて嘘をついたのではないかとも思ったり
もしたが、いずれにせよ何が本当なのか分からない。そんな、いわばノッペラボウ同士がトラック
という小さな密室で話を紡いでいく。映画というより小劇場で前衛演劇を見ているような印象
すら覚えるのだ。
ヒロインはトラックの運転手に癒されたのだろうか。若しくは救われたのだろうか。これに関しては
意見が分かれる可能性もある。他レビューアーのご意見の中には、すべてがヒロインのある種の
妄想だったのではないかというものもあった。そうであって欲しくないと思いつつも、そうかも
しれないという気もしないでもない。
但し、この映画を観るということは、かような「救い」を信じるということなのだと僕は思う。
トルストイあたりなら、運転手はイエスキリストだったというような話にしてしまうような気が
する。そんな感想は大事にしてもいいかもしれない。