「企む」という言葉に思うこと
「企む」という言葉に漂う響きの悪さとは一体何なのかと考えることは頭の体操にな
る気がする。
「企」という語を語源辞書で調べると「人が踵をあげて立つ形」から来ているという。
要は人間が遠くを眺めている姿らしい。何かを企てるに際しては、目の前の事物だけを見
るのではなく、少し遠くを見る視力が要求されるという話だ。では「遠くを眺めること」
自体に悪いイメージがあるという話なのだろうか。
「企てることを生業とする」を短縮すると「企業」という言葉になるのかもしれない。
企業で普段働いている一人として、「遠くを眺めること」の重要性は日々実感している。
新しいクリエイティブなものを求めようとするなら、目の前の事象に囚われているだけで
は不足である。日々の仕事に埋没しがちな自分を反省し、時には顔を上げて、遠くを見る
ことは極めて大事だ。かつ、遠くをぼんやり眺めるだけでもいけない。何かを見つけよう
という血眼が要求される。そんな真っ赤な目で何を見つけることが出来るのか。さらには
「見つけた」ものを強く「見つめる」眼力があるのか。それらがその人のセンスであり
能力といってもよい。
但し、遠くに何かを見た後で、それをどのように処するのかを問われるのも人間だと
思う。見えたもの全てを自己の利益としてのみ扱おうとすることは人間の本性といえる。
そんな人間の業の深さが、「企てる」という言葉に響いている暗いイメージに繋がっている
と考えることも出来るのではないか。
などと考えていると「企む」という言葉から色々なことが学べる。たった一文字の漢
字が時として人間の有り様を浮かび上がらせる。シェイクスピアが表現するのに何幕も
必要としたことを一文字で表せることが出来ることが漢字の凄みでもあると言ったら、漢字
を褒めすぎかもしれない。
映画「叫びとささやき」 イングリッドベルイマン
ベルイマンの映画を観るのはこれが三回目である。
三姉妹と家政婦一名、合計四名の女性たちのドラマである。男性は出てくるが、添え物程度
の扱いと言える。考えてみると僕がこれまでに観た二作「秋のソナタ」にせよ「ペルソナ」にせよ、
女性同士の人間関係を描く作品だったことを思いだした。
三姉妹の一人一人は各々自らの問題を抱え込んでいる。その「問題」は解決の方向には
進まない。むしろ物語が進むにつれて、姉妹間の断絶は深まっていくようにしか見えない。
ベルイマンは解決策を提示することがなく映画を終わらせてしまう。ラストシーンで語られる
三姉妹のブランコのシーンは美しく、三姉妹の融和を示しているようにも見えるが、それは
昔の追想であり、映画での「現実」から見ると、既に失われてしまったものである。
この映画の救いは家政婦にある。三姉妹が失ってきた母を思わせる包容力の存在感は
際立っている。ベルイマンがこの映画で描き出したかったのは彼女ではなく、あくまで三姉妹
の確執だったのだろうとは思う一方、その確執が家政婦にある種の神々しさを与えている
点は確かではないか。
映画「パターソン」 ジム・ジャームッシュ
休日に自宅でゆっくり鑑賞した。
詩を書くバスの運転手の一週間を描く映画である。特に何か特別な事件が起こるわけ
ではなく、淡々とした日常生活が語られるだけである。アマゾンの他のレビュアーのご意見の中
には本作を退屈を評する方もいらしたが、それはそれで正しい評価なのかもしれない。但し、
僕は幸運なことに本作を面白く鑑賞することが出来た。
さきほど「淡々とした日常」と言った。そう言ったものの、実際には少しだけ非現実的な要素が
盛り込まれており、映画を観ていくにつれて、それがじわじわと効いてくる面がある。例えば
主人公の妻が拘る白と黒との配色、主人公が毎晩出かけるバーで登場する各々の客、主人公
が運転するバスの乗客たちの会話。いずれも目立たないものの、どこか不思議で非現実的な
ものがある。そう考えると、パターソンという場所はアリスが迷い込んだ不思議の国なのかも
しれない。そういえば、アリスのような少女が主人公に自作の詩を紹介する場面も印象的
であった。
極めつけは最後に唐突に登場する永瀬の役割である。詩を書きとめたノートを飼い犬に
バラバラにされた主人公が落ち込んでいる傍らに、彼は突然現れる。主人公に新しい
ノートを渡して立ち去る。この永瀬が何を意味しているのかを考えるだけでも楽しい。不思議の国
に住んでいる「詩の神」のようにも見えないだろうか。
ジム・ジャームッシュの映画を観るのは本当に久しぶりだった
「極楽タイ暮らし」 高野秀行
一人暮らしの休日にバンコクで読了した。
本書を読むきっかけは単純な話だ。まず自分が今タイに住んでいること。次に高野の作品を
この数年読む機会があったこと。従い、本書を読むことは自動的なことだ。
本書は徹頭徹尾、著者である高野の個人的なタイ印象記である。高野自身はリスクを取って
現地に飛び込むという古典的ながらも過激な取材をする作家である。その姿勢には余人をもって
代えがたいものはある一方、そんな取材を通じて高野が書く内容は、彼の個人的な見解のみと
言える。つまり、タイという国を体系的に学んだ上でのタイ文化論では全く無いということだ。
勿論、上記は高野への批判ということで言ったわけではない。むしろ、僕としては称賛している
という気持ちで一杯である。何故なら、同じようにタイに住んでいる僕として、高野がやってきた
事の難易度の高さが皮膚感覚で分かる気がするからだ。彼の真似など到底出来るものでは
ないし、何より真似したくない。そういうことだ。
本書をタイの人が読んだら共感するのか、反感するのか。そう考えながら読むことは頭の
体操になる。多分、反感するのではないかという気もしないでもない。それは高野の印象記が
事実と異なることを意味するわけでもない。時として真実は中傷よりきついということも
あるのではないか。そう思った次第だ。
映画 「世界は今日から君のもの」
門脇麦という女優の将来性が楽しみになってきたので本作を鑑賞する事にした。平たくいうと
門脇のファンになってきたという意味である。
まず門脇抜きで本作を眺めてみるとどうか。個人的には、若干違和感が残った。一番気に
なった点は、そもそもの本作の「造り」の部分である。本作はいわゆる「ニート」と呼ばれる
人々を扱う作品なのだと思うが、その「語り口」が状況に応じて変わっていく点で集中
しにくい。端的にいうと、シリアスな語り口もあれば、妙にコメディーに流れる場面もあり、
全体としての統一性というものが掴みにくいという点だ。
勿論、それを監督が狙ったのかもしれない。但し、そうだとしたらなぜかような狙いが本作に
必要なのかが腑に落ちない。ニートであったヒロインが隠された才能を開花させるというテーマは
ある意味では、ステレオタイプとも言える。しかし、そこに門脇という異能の女優を持ってきた
ことで俄然本作が面白くなっている。従い、個人的な「腑の落ちなさ」が勿体なかったと思う
からだ。
では門脇はどうか。既に上記で言った通り、彼女は特殊なオーラを醸し出せる女優である。
比較する相手としてふさわしいかどうか分からないが、往年の樹木希林を思わせるものが
ある。現実感と浮遊感がありながら、透明感が無いという女優だ。「透明感が無い」と言ったが、
これは門脇を貶める積りではない。透明感は時として底の浅さにも繋がる。彼女の不透明感
は、底を見せない不気味さに繋がる。そこが樹木希林と共通しているのではないか。そう
思ったところだ。
名高い木登り 徒然草から
世界各国でコロナ新規感染が収まり始め、正常化に向けた動きを開始している。
日本も同様であり、今後第二波の発生を注視しつつ、少しづつback to normalを
目指すことになるだろう。そんな際にふと、「徒然草」のある段を思い出した。
(現代語訳)
名高い木登りと言った男が、人に指示をして、高い木に登らせて梢を
切らせたところ、(作業場が高く)とても危なく見えたときには声をかける
こともなく、(高い所から)降りてくるときに軒の高さぐらいになって
名人:「怪我をするな。気をつけておりなさい。」
と(初めて)声をかけましたので、
私:「この程度(の高さ)になれば、飛び降りても降りることができる
でしょう。どうしてこのように言うのですか。」
と申しましたところ、
名人:「そのことでございます。(高さで)めまいがし、枝が(細く折れそうで)
危ないうちは、(登っている人は)自分で怖がりますから(気をつけなさい
とは)申しません。失敗は、簡単なところになって、必ず起こるもので
ございます。」
と言います。(この木登り名人は)身分の低い下人ではあるけれど、
(言っていることは)徳の高い人の戒めと合致しています。蹴鞠も、
難しいところ(にきた鞠)を蹴り出したあとで、(簡単なところにきた
鞠をけるときに)容易だと思っていると、必ず落ちる(と言われて
いる)ようでございます。
兼好法師の話を考えると、正にこれからの時期の方が、色々な問題も起こりやすい
のかもしれないと思ったところだ。
コロナが蔓延している時は誰でも気を付けるものだが、感染が収まってきた
と思い始める時期は気も緩みがちで、結果として怪我をするものかもしれない。
日本の古典というのもなかなか大したものではないか。兼好法師は1283年生まれと
言われている。740年ほど過去の人が言うことが現代にも通じるという話だ。
「最後の講義 どうして生命にそんなに価値があるのか」 福岡伸一
いままで福岡が他の著作で言ってきたことを解りやすい語り口で纏めた一冊である。福岡
生物学の入門書として最適の一冊であるという紹介も出来るかもしれない。
本書で福岡は「機械論的な生命観」からの脱却を繰り返し説いている。福岡が主張する正しい
生命観とは「動的平衡」である。「正しい」といま言ったが、不適切な言葉だったかもしれない。
というのも、人間の体をミクロで分析する「機械論」は決して間違っているわけではないからだ。
分析までの「機械論」はおそらく正しいと思うが、その上に構築されるべき「生命観」において
「機械論」だけのアプローチでは不足しているという事が正しい言い方なのかもしれない。
福岡の「動的平衡」論は非常に新鮮で刺激的である。但し、僕は微かに危険な香りも感じる
ことがある。説明しにくいが、「動的平衡」には「大きな物語を作る」作用があるような気がする
というところか。
人体や健康に関しては、古来色々な理解と解釈があったことが人類の歴史である。その大半は
いまから見ると噴飯ものではあるが、作られた当時には大真面目であったはずだ。人体や健康
という理解しがたいものに何らかの「物語」を付与して、理解しようとした古人の努力は敬意
を表されるべきだ。
但し、そんな「物語」は、要は迷信である。迷信からの脱却こそが「機械論」であったはずだ。
「物語」ではなく、確りした分析を目指した「機械論」が無かったならば、人類は今日の繁栄を
見る事も無かったはずだ。
福岡が超克しようとしている「機械論」をそう整理した場合、福岡が語る「動的平衡」には
、しかし、新しい「物語」というものが出てくるのではないかということが僕の予感である。それが
どのような「物語」なのかは僕の手に余る。いずれにせよ生命とは何かという課題は重くて
大きい。そう簡単には辿り着かない話なのだと思う次第だ。
「庄野潤三の本 山の上の家」
本の選び方の一つとして「出版社」で選ぶという方法がある。本書は夏葉社が刊行したという
理由だけで購入し、読了したところだ。本書が扱った庄野という作家もほぼ初めて聞く
名前である。たしか村上春樹の短編小説案内に庄野の本が紹介されていた記憶が微かにあり、
そちらを調べてみると確かに庄野の本について記載されていた。しかし、すっかり忘れて
いたので、本書を持って庄野を知る嚆矢だったとする。
夏葉社とは島田という方が一人で経営されている出版社である。新聞の記事で読んで興味を
持ち、いくつか刊行された本を購入して読んできたところだ。本の内容はばらばらではあるものの、
一つだけ共通しているものがある。それは島田という発行者が各本に注ぎ込んでいる愛情という
点に尽きる。
本書も、そんな島田の思いが強く込められている。庄野という作家を知るに当たって、発行者
である島田の思い入れを経由するということも案外と心地よい読書体験だ。
思い入れは文章だけではない。発行者の強みは本の装丁を手掛ける点にもある。実際本書
は実際に手に取ることで、その装丁の美しさというものが初めて分かる。装丁の美しさが、
本の内容と強く響きあう。現物としての本というものの美と凄みはそこにある。これは電子書籍
では絶対に真似ができない芸当である。考えてみると、本の詰まった本箱とは、それだけで
独立した美を形成できると言えるのではなかろうか。
という、やや陶然とした中で庄野という作家を知るきっかけを得た。今後ゆっくり読んでいきたい
作家を見つける愉しみというものは人生において無上の悦びの一つと言える。
彼女がその名を知らない鳥たち 2回目のレビュー
映画を観終わって一週間たつ間、しばしば映画について思いかえしているところだが、
漸く納得できる解釈を得たのでほっとした次第である。端的に言うと、この映画はある種の
「エクソシスト」だったのではないかという整理だ。
十和子は黒崎という昔の恋人にどうしょうもなく憑りつかれている。その黒崎という男は
どう考えても悪魔としか言いようがない存在だ。十和子は、黒崎という男の本性を本当は
解っていながらも自分に憑りついた黒崎を取り去ることは出来ない。いや、取り去るどころか、
時として自らに抱え込んだ「悪魔」が時おりぽっかりと表面に浮かび出てくることがある。
十和子が物語の前半に見せるクレーマー振りや、彼女を守り続ける陣治に対する仕打ちは、
まさにそんな「悪魔」の所作と言える。
彼女に悪魔が憑りついていることを陣治だけは正確に理解している。であればこそ
彼は最後の場面で「黒崎の負けだった」と十和子に言い放ち、直後に彼は飛び降り自殺する。
なぜ陣治が死ななくてはならなかったのかがしばらく解らなかったが、今は理解出来た気が
する。陣治は悪魔祓いに成功し、十和子から悪魔を切り離した。その上で自分で悪魔を
呑み込み、その悪魔を葬るために飛び降りたのだ。これは往年の名画「エクソシスト」
と同じ話なのである。
悪魔と天使を同時に失った十和子が今後どうやって生きていくのか。それは語られない
まま映画は終わった。そこにも強い余韻が残っている。
映画「八月の鯨」
鑑賞していて小津映画に似ていると幾度か思った。鑑賞後にネットで調べると、監督が小津
映画のファンだったと出ていて納得した。
どこが小津映画に似ているのか。まずは風景の切り取り方である。特に、誰もいない家の中を
撮る際の、コップや皿等の小物を映す風景が非常に似ている。無人の家の妙に清々しい場面
が、そこにいない人たちの心情をさらりと表現している様子だ。
そもそも物語の作り方も似ている。小津映画には、ある家庭での小さな出来事をミクロに視点
で描きながら、それが次第に大きい風景に展開する腕力がある。それは例えば「東京物語」
は世代間の断絶であるし、「晩春」においては親と子の別れであるし、「麦秋」では結婚観の
変遷というような整理の仕方が可能である。かつ、そこには必ず「暴力」というものが介在
している。しばしば原節子は極めて暴力的に振舞っているといって良い。それが「暴力」に
見えないのは、物語の語り口が暴力的ではないからだけである。
では本作ではどうか。本作で語られる「小さな出来事」とは姉妹の間の諍いであろう。観ている
僕らとしては、盲目の姉の暴力的な言動に驚かされる。但し、姉だけが暴力的とは言えまい。
盲目の姉に向かって見晴らしがよい窓の良さを主張する妹も十分に暴力的ではないか。
目の不自由な方に眺望を語るということの残酷性というものも考えても良いのだ。
若しくは近所に住む50年来の友人はどうか。主人公が住む家を売却すると想像して不動産
会社を連れてくるというのも乱暴な話だ。お節介という言葉で済まされないような場面でも
あった。
端的に言うと、人と人が強く連れ添うという際には暴力というものは避けて通れないということ
なのかもしれない。若しくは暴力とは一つのコミュニケーションの道具として不可欠であると
言い切ってもいいかもしれない。そんな部分が小津映画と本作に共通している。僕は
そう思った。
八月の鯨は来るのだろうか。もっというと八月の鯨とは何なのか。もしかすると、その鯨こそが
彼岸からやってくる死の迎えなのかもしれない。そう考えると、ラストシーンで姉妹が二人並んで
水平線を眺める視線の在り方の味わいも変わってくる。そもそも演じた老女優たちが、水平線
の向こうに何を観ていたのかを想像するだけでも深みが変わってくるのだ。小津映画が世界で
通用する映画だったことが初めて腑に落ちた。