くにたち蟄居日記 -40ページ目

読書「日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実」  吉田裕

週末のバンコクで読了した。

 

 本書では第二次大戦の日本軍兵士のおかれた状況を具体的な例を挙げて分析

している。その具体とは「歯科医療状況」「軍靴の品質」「武器の性能」「兵士達の

体格の推移」「メンタル面の状況」等であり、非常に身近な素材で出来ている。

いわば、「ロジスティック」であり、その「ロジスティック」が与えた影響という

話だ。

 

 本書を読んでいると、当時の軍部が精神主義に走らざるを得なかったという

心証を強く持った。従来は「精神主義が前提として存在し、その結果として貧しい装備

で闘うことになった」という理解だったが、実は「貧しい装備しか可能ではなかった

ので、精神主義に行かざるを得なかった」ということが実態ではなかったのかという

ことである。

それでは、かような話は現代には無いと言えるのだろうか。それを考えるという

ことが、第二次大戦を2020年の今日に本書を読むということなのだと思う。

 

 ロジスティックを精神主義でカバーするという心性は、現在の僕らにも残っている

のではないか。それを簡単に否定することは案外難しい気がしてならない。

それは精神主義が包含しているある種の甘美さにも由る気がしている。例えばTV

見ていても、精神主義が勝利するようなドキュメンタリーやドラマはいくらでも

見かけるからだ。僕らは醜悪なものを否定することはやれるとしても、甘美なもの

に耽溺しないということは案外難しいのではないか。

 

 ということで色々と考えさせられた。本書が昨年良く読まれたことも頷ける

ものがある。かような本が読まれるということ自体は非常に良いことだとも

思った次第だ。

本「満鉄全史」 加藤聖文

日本で新規鉄道というとリニアのみであり、むしろ廃線が議論になりやすい。

一方、僕が住んでいるタイのような東南アジアでは、いまなお新規鉄道は喫緊の課題

である。タイにおいても南北を繋ぐ鉄道の整備や空港間を結ぶ新規高速鉄道は

現在進行中のプロジェクトである。ということで、現代の日本人には鉄道の重要性は

今一つぴんとこない話なのかもしれない。その前提で本書を読んだ。

 

 鉄道というものは物流の「手段」である。「手段」は「目的」ではない。鉄道の

場合、「目的」とは、鉄道上に何を載せて運ぶのかという点にある。

 鉄道の過去を見ていると、軍事目的は大きい要素だ。端的にいうと、兵士や戦争に必要な

物資をいかに早く遠くまで運べるのかということだ。ロシアのシベリア鉄道も好例

であろうし、本書が描き出す満鉄も同様である。現代のわれわれには想像もつかない

熱心さで、当時の日本が満鉄を推進していたことが良く理解出来た。鉄道旅情という

ようなものは到底見つけることは出来なかった。

 

 かような目的の背景は「国策」である。本書は満鉄を通じて「国策なるものとは

何か」を語ろうとしている。

 

 著者が、国策とは結局あいまいな概念だったに過ぎないと最後のエピローグで言う。

「国策」という言葉と概念は非常に多くの人が語り、使ったものだった。但し、各々が

各自の自己勝手な「国策」を主張したことで、極めて曖昧かつ無責任なものに成り下がって

行ったことに著者は最も警鐘を鳴らしている。それは、著者にとっては現代の日本も

同じ状況に陥っているように見えるからだ。

 

 「曖昧かつ無責任」という状態はあらゆる局面においても現出しがちな話である。

その意味では現代の僕らに、満鉄が示唆するものは多い。それが著者の本書を

上梓した趣旨であろう。僕はそう読んだ。

映画「万引き家族」 

 漸く鑑賞する機会を得た。

 

 是枝は、小津以来の「家族」に拘る映像作家である。小津と比べると、やや設定が極端

ではある。赤ん坊の取り違え(「そして父になる」)、血のつながらない姉妹の生活(「海街

ダイアリー」)、息子を海難事故で亡くした老母の恨み(「歩いても歩いても」)等を

挙げることが出来る。

 

 小津は娘の結婚(「麦秋」「秋日和」「彼岸花」)であるとか、老母の死(「東京物語」)

等、比較的現実的な設定であるので鑑賞し易い。是枝は上記の通りにて、まず設定に少し

驚かされてしまう。但し、両者とも、「その時代においての」家族の在り方に目を凝らして

いるという点では実に共通している。

 

 本作で描かれる「家族」は、更に異形である。全員がほぼ血がつながらない中で

寄り添って家族を形成していく様は現実味という点では難点もあろう。但し、描写

されるフィクションとしての「力」には大変なものがある。端的にいうと、観ている

僕らは物語を「信じさせられて」しまうということだ。そこが是枝の腕力である。

 俳優がみんな上手い。樹木希林を喪った事の大きさを再度痛感させられた。

映画「夢と狂気の王国」  砂田麻美

 

「夢と狂気の王国」のレビューを書く

 

会社の同僚のお勧めで鑑賞する機会を得た。感想は二点である。

 

 一点目。表題の「狂気」の部分がやや弱い。というか描きだされていない気がした。

宮崎を扱った他のドキュメンタリーでは、まさにジブリの悪魔的な一面がしばしば

描写されている。ブラック企業という言葉が巷間流行っているが、まさにそれを思わせる

ものがある。

 

 といって僕は余りそれを否定する気にもなれない。そもそも「芸術」という領域では

ハラスメントという言葉では整理できない部分が多いからだ。例えば「週休二日制度」の

芸術家など想像つかない。「土日無しで働く」という言葉も、芸術領域では使わないのでは

ないか。そういう僕の意見自体がおかしいのかもしれないが、少なくとも他作品での

ジブリには散見されていた。

 

 想像を逞しくすると、「夢と狂気の王国」という表題にはコンラッドの「闇の奥」や

、それを原作して作られた「地獄の黙示録」の木霊があるように思える。かつ、その「木霊」

は僕にとっては心地よいのだ。であるからこそ、王国の盟主である宮崎の悪魔性が

もう少し表現として欲しかった。そうしなかった砂田という監督の意図を想像することも

楽しいのだが。

 

 二点目。やはり本作は映画監督が造った「映画」である。ドキュメンタリーではない。

 

時折挿入される武蔵野の自然だけではない。繰り返される送電線や鉄道の場面を

観ていると砂田が何を言おうとしているのかを考えさせられてしまう。

「闇の奥」はアフリカの奥地での狂気譚であったが、ジブリ王国は僕らの直ぐ隣に所在

する、もう一つの奥地であることを言おうとしているのか。現段階では答えは僕の中には

無い。

 

 最後の場面が秀逸だ。幼稚園の園児たちが奥から歩いてくる前を、宮崎が散歩している。

映画はその園児たちをそれまで数回画面に登場させてきていることで、観ている僕ら

には唐突感は無い。

では、どう観るのか。僕らには宮崎と園児たちが重なって見えてしまう。「いつまでも子供の心を失わない宮崎」というようなステレオタイプの解釈も出来る。但し、もう一つ

の見え方としては、宮崎の「老い」をくっきりと残酷なまでに際立たせるため、

子供たちを出したのかもしれないということだ。ここも想像が楽しい。

 

 ということで豊饒な映画体験となった

本「なないろペダル」 青木麻耶

 出版舎ジグを立ち上げた方を知っていることで本書を購入した。僕自身も20歳代に自転車で

旅行した経験があったことで本書を身近に読めると思ったが、所詮僕の旅行は日本での数日の

輪行である。著者が企てたような北米南米での大旅行はレベルが違う。ということで

僕のささやかな歴史等は直ぐに念頭から吹き飛んでしまった。

 

 世界を放浪する旅行記というものはいくつかある。「なんでもみてやろう」であるとか

「深夜特急」等が代表例だ。いずれもその時代の若者に強い影響を与えた本だ。

本書もそれらの延長線上にあることは間違いない。但し、肌触りというものにはかなりの

違いがある。直観的にいうと、各著者たちが、放浪の中で何を見ようと考えたのかという

視線のベクトルがおそらく違っているのではないかということだ。

 

 本書の著者は何を見ようとしているのか。本書で描かれる海外の風物は行ったことがない僕に

とっても興味深い。但し、著者が本当に目を凝らしているのは自分自身のように思える。大学を

卒業し、大企業に一旦勤務したものの、そこに「自分自身」が無いという判断に至り、

山梨で田舎暮らしを始めた。但し、そこにも飽き足らず、いきなり北米南米を自転車で旅行

する。そんな、ある種の闇雲な動きの根底には、使い古された言葉だが、ある種の「自分探し」

というものがあったに違いない。

 

 勿論小田実や沢木耕太郎にも「自分探し」という要素は多分にあったろう。但し、彼らはいずれも

海外に目を凝らしたかのように思える。それに比較すると、青木麻耶という方は、必ずしも

海外を強く見ようとしていると思えない気がした。極論すると、大企業に勤務した瞬間から

「なないろペダル」での旅行は始まっていたのではなかろうか。そんな想像をすることは

案外楽しい。

 

 それにしても、無事著者がご帰国されたということにはお祝いを言いたい。国内数日の輪行

ですらそれなりの苦労をした僕として、著者のような、まさにガルガンチュア的な旅行が

いかほど大変だったのかは想像も付かないからだ。

本「資本主義と民主主義の終焉ー平成の政治と経済を読み解くー」水野和夫 山口二郎

 令和の時代を迎えるにあたって、平成という時代をどう整理すれば良いのか。それを

考えさせる一冊である。

 

 平成を6つの時代に切り分けて、各々の時代の政治と経済を振り返るという手法である。

僕自身は昭和62年、つまり平成が始まる2年前に社会人になった。従い、今日までの

社会人人生の大半が平成という時代を舞台としたという経緯である。因みに本書を手に取る

大多数の方も僕と同じ経緯ではないか。令和2年のいう段階で、「平成の政治と経済を読む

解く」というような副題が付された「新書」を手に取る年齢層というものはおおよそ

想像が付く。自分が生きてきた時代を振り返りたいと思った、中年以上のサラリーマン(及び

サラリーマンOB)こそが本書の読者だろう。

 

 本書を読んでいると、各々の時代をいちいち思い出す。30年という時間は、地球や宇宙の

規模感から見ると「一瞬以下」の時間かもしれないが、地味にゆっくり歩いてきた僕にとっては、

それなりの時間と期間であった。

 

 その時々に正しいと考えた判断と対応の大半が、全く違う結果となったという事が本書の

素材である。それは平成という時代の特殊な話ではない。おおよそ、人間が辿ってきた歴史

のささやかな変奏の一つでしかあるまい。

人間というものは自分が思っている以上に、考える力があるわけではない。むしろ大きな

時代の流れに翻弄される、判断力が小さい存在に過ぎないという方が正確なのかもしれない。

 

 但し、とも言いたい。

 

 但し、その時々に一生懸命考えようとしたことは一応前向きな力を産んだことも確かなのだろう。

そこは評価すべきだとは思う。後は、「前向き」がどこに向かっているのかという「方向性」が

試されるのだと思う。令和という時代になって、急に日本人が賢くなるわけでもない。

「方向性」が危なげであることは平成と同じであるに違いない。自分の向かう方向性が果たして

本当に正しいのか。そんな健全な懐疑心を少しでもしっかりと持っていたい。

それが本書を読むということなのだと思う。

 

 非常に勉強になった。

フタがなく、液体が まだふんだんにあるペットボトル

 先日飛行機に乗った際の話だ。

 

 食事のサービスが提供され、ペットボトルの水を飲んだまでは良かった。しかし、フタをどこかに

落としてしまった。狭い座席の下を、先日捻挫した足を抱えて探し回るのも愉快ではない。一方

再度ペットボトルを見てみると、まだまだたっぷり水が残っている。

 

 フタのない状態でのペットボトルの扱いはかなり厄介だ。横倒しにもできないし、座席前の

アミの収納にも置きづらい。勿論CAの方に渡して処分をお願いしてしまうのもありだが、

渡された方も面倒だろう。

 

 かといってそのままテーブルに立てておいても、いつ機体が揺れてこぼれないとも限らない。

これが屋外なら、適当に水を撒いてしまうということも可能だろうが、機内で水を撒くというのも

かなり異様な事態だ。機体の座席の下が濡れているという状況は、周囲の人に違う想像を

喚起するだろう。

 

 ということで、一番簡単な方法を取るしかない。直ぐに全部飲み干すということだ。

 

 飲み終えてつくづく考えてたのは、フタというものの重要性だ。

 

 よく「臭いものに蓋」という言い方がある。「蓋をしてしまう」ということはある種の

極めて簡単な対応策だ。

 

「対応策」であって「解決策」ではないという話が「臭いものに蓋」という言葉の意味だ。

言葉の意味は、勿論悪いイメージだろう。但し、「解決」できなくとも、まずは「対応」すると

いうことが大事であるということは重要な事であることも間違いない。

医療でいうなら「止血する」だとか「応急治療」ということだ。医師の「応急治療」を

「臭いものに蓋」と表現することは医師に失礼だと僕は思う。

 

 そう考えると目の前のペットボトルを飲み干してしまうという事は「解決策への強い意志」

であったわけであり、その点で僕はアグレッシブだったと自画自賛する。

但し、空港についたらすぐ足を引きずってトイレに向かう羽目になったことは「解決策

を選んだこと」による「代償」であり「高いコスト」だった。

 

 

 ということで考えが今一つ纏まらないのだが、一つ言えることは「フタがなく、液体が

まだふんだんにあるペットボトル」というものは、結構僕らの日々の中で転がっている

ということだ。

 

映画 「白夜」  ヴィスコンティ

久しぶりにヴィスコンティの映画を鑑賞した。

 

 ヒロインは天真爛漫かつ清純な「悪女」である。遠く別離している「彼」を毎晩橋のたもとで

待つ一方、自身の「悲劇」を主人公に滔々と語り、主人公を惑わしていく。

 

「惑わす」というよりは「たぶらかす」という日本語の方が僕にとっては正確と言える。そんな

彼女にたぶらかされた主人公は、実に間が抜けているとしか言いようが無い。

 

勿論、主人公の中に「純愛」というような言葉を見つけることも可能かもしれない。それを

見つけながら本作を鑑賞する方が、幸せな映画体験かもしれない。但し、そんな舞台の裏で

ヴィスコンティが舌を出しているような気がしてならない。本作は徹底的な喜劇なのだ。

 

 ヴィスコンティは本作をチネチッタ撮影所で全てセット撮影したという。セット撮影であった

ことで架空の港町の「はりぼて」性を上手に表現出来ている。美しい降雪の場面もあったが、

例えば橋の下に主人公を誘う娼婦であるとか、その橋の下に住んでいる浮浪者たちの

姿などから醸し出される異様な雰囲気が「はりぼて」の裏にびっしりと付着している。舞台劇と

映画との間に本作は位置しているように思えてくる。そして、それがこの喜劇の異様さを

高めている。

 

 本作を観ていてディケンズのクリスマスキャロルを思い出した。冬の3日間の夜を舞台と

したという設定が似ている。加えて主人公が、ある種の地獄巡りをしている点も似ている

のではないか。美しい雪の中、天真爛漫かつ清純な「悪女」にたぶらかされるという話は

どうみても「地獄巡り」としか僕には思えなかった。ヴィスコンティが、こんな映画を

撮っていたということは大いに勉強になった。

本「海からの贈物」 アン・リンドバーグ

 2020年の初めに読んだ一冊である。有名な本なので高校時代にも一度購入したが

きちんと読んだのかどうかは覚えていない。かつ、40年前の自分が本書を切実に読めた

とも、いま思わない。

 

 著者は離島での生活を本書に綴っている。米国の東海岸で日頃多忙な生活を強いられてきた

著者が時として離島に渡り、そこで見つけた貝殻たちに自分の生活を重ねて語る。語り口は

静かながらも強靭だ。その「強さ」が、著者自身が感じている驚きの純粋さを表している。

 

 著者は、「ここ」「今」「個人」の大切を説く。それは彼女の日頃の生活を裏返したものである。

即ち、彼女の日々とは「将来」「どこか」「集団」に占領されたものであると言っているのだ。

 

その「将来」「どこか」「集団」という言葉は、時空を超えて2020年の現代にも、そのまま

通じている。僕らはまさにそれらに駆り立てられていると言える。であるからこそ、本書を

いま55歳という自身の年齢の中で読むことに意義がある。高校生ではとても理解出来ない

話だろう。

 

 「ここ」「今」「個人」とは何か。「その日その日を自分の分の中で力いっぱい生きる」とでも

平たく言ってしまうと陳腐だろうか。

 

 但し、陳腐な言葉がなぜ陳腐なのかを考えても良い。「使われ過ぎた言葉」だから

「陳腐」なのだろうか。であるとするなら、なぜそれだけ使われる言葉なのかを考えるべきだ。

簡単なようで難しいものこそが、もっとも長い期間に多くの人に語られるものなのかもしれない。

そう考えると、著者の言葉が今なお響くのは、著者がとても難しいことを語っているからかも

しれない。

 

 2020年に始まる次の10年間を考える良い機会となった。

本「風土記の世界」 三浦佑之 

 風土記をぱらぱらと読む機会が長年あったので本書を見かけて直ぐに購入した。大変勉強に

なった。

 

 まず本書では風土記の「立ち位置」というものを読者に考えさせる。

 

 当たり前の事ながら、天平時代という過去において、地誌を編集させようとした中央政府の

意図は漠然と理解出来る。それはとりもなおさず「中央」という立ち位置にあろうとした当時の

政府の強い意志の表れである。「中央である」とは「集権的なグリップを握る」ことであり、

その為に、各国の状況を「文字」を通じて見える化させ、提出させるという手法は非常に

分かり易い。

 これは例えば現在の色々な組織でも同様だ。レポートラインを設定し、そのラインで実際に

レポートを作成させ、流通させることで組織のヒエラルキーを形成維持するという話である。

中国や朝鮮半島といった地政学上のリスクに対応すべく、当時の政府が組織確立に乗り出さ

ざるをえなかったという話は明快であり、その中に風土記の「立ち位置」も良く理解できる。

 

 一方著者は地方と中央とのせめぎあいを風土記の中に読み取る。出雲から越を通って長野

に抜ける中央とは違った文化と歴史の存在を風土記から掬い上げる手法は鮮やかと言って

良い。中央の命で書かれた書物に、アンチ中央を描いた当時の風土記の執筆者の心の

有り様すら想像させるものがある。

 

 風土記の大半は散逸してしまった。逸文で紹介される失われた風土記群というものがある。

但し、もしかしたらかような風土記は実は無かったのではないかという想像も個人的に出て来た。

「〇〇風土記に曰く」という言い方で、つまり「架空」の風土記の引用ということで、

言い難かったことを言った人たちもいたということはないのだろうかという想像

である。