くにたち蟄居日記 -42ページ目

”「成城だより付・作家の日記」大岡昇平”


但し、ブレークスルーが出てくるとしたら

 最近、いくどかスマートオフィスであるとかスマートCO-WORKING SPACE

を訪問する機会を得た。訪問しているうちに、「お約束的」に見かける事が多い

ものがあることに気がついた。具体的には「サッカーゲーム」であり「卓球台」だ。

 

 スマートオフィス等は「いかに働いている人をリラックスさせるか」という点で

結構一致している気がする。それは従来のオフィスが、どちらかというと規律重視

であり、組織のヒエラルキーをオフィスの中に取り込むことに対する「アンチテーゼ」

だろう。

 

 但し、その為には「オフィスにサッカーゲームを置かないといけない」という

新種の「規律」が実は出来ているのではないのか。結果として、どのスマート

オフィスも結構似てしまっており、ある種のステレオタイプに陥っているようにも見える。

 

 人間のやることがステレオタイプに陥ることは別に不思議でもなんでもない。

むしろ歴史を見ても、それの繰り返しと言える。

 

 但し、ブレークスルーが出てくるとしたら、かようなステレオタイプを打破

しようという意識がそこには必要な気がする。その為には、まず「何がステレオ

タイプなのか」という点に気が付く事が大事だろうし、それを見つける眼力・思考力の

養成こそが次世代のスマートオフィスだと思った次第だ。

「荘子」  100分DE名著

 

100分DE名著シリーズは面白い本が多い。まず、しっかりした方が執筆されている。

次に短く簡潔である。それらが理由だと思う。特に後者に関しては、簡潔な本にする事は

執筆者に「削る」ことを強いるに違いない。その「削り」の中で研ぎ澄まされてくる

ものがある。それが僕の理解だ。

 

 荘子を解説した本をいくつか読んできたが本書が一番面白かったと思う。特に著者が

「遊」というキーワードで語った部分が僕には新鮮だった。著者は以下のように言う。

 

 「『遊』とは端的に言うと、時間と空間に縛られない世界です」

 

 「時間と空間に縛られる世界」とは、まさに「この世」であり、僕らが住んでいる状況

と言って良い。その状況から抜け出すことは不可能だろうが、突き離れた場所から

自分を見返すことは出来るのではないか。まさに荘子が、「荘子」という書物を通じて

語っているのはそのことではなかったか。そう考えることが出来たことが本書を今回

読んだ一番の感想であった。

 

 「荘子」という破天荒な一巻は人類にとって極めて重要であると僕は長く強く思って

きた。本書もそれを強く裏付ける一冊と言える。再読に耐えうる快著だ。

 

「カリガリ博士」

 出張の機内でIPADにて名高い本作を鑑賞する機会を得た。1920年の作品である。

来年は生誕100年ということか。

 

 本作は、まず画面の造形美が凄い。アバンギャルドという言葉は陳腐だと思うが、

まさにその言葉である。ゆがんだ舞台装置や、随所に見られる曲線で画面を作って

いく様式は今観ても新しい。日本の「狂った一頁」は1926年の作品だが、同作の

美学は明らかにカリガリ博士から借りてきているという話もネットで散見

されるが、その通りだろう。

 

 次にストーリーである。言うまでもない「どんでん返し」であるわけだが、個人的

には、やはり院長が「カリガリ博士」であったというように更にねじれさせても

良いのではと思った。院長が最後に言う「彼の治療法が分かった」というセリフの

意味が、実は彼を今後殺人鬼に仕立て上げるという話だったとしたらどうだろうか。

 

 というような個人のチンケな意見は横に置いておいて、100年前に本作が撮られた

ことに素直に感動したい次第だ。

新しい 技術には必ず毒も含まれるのではあるまいか

 

 次世代という「新しい技術」が語られているわけだが、留意すべきは「新しい

技術には必ず毒も含まれる」ということではないか。

 

 例えば日本は戦後に技術立国として復活してきた面があるが、その「毒」として

「公害先進国」になってきたのも歴史だろう。先日の台風で多摩川の決壊が

大問題になったが、僕が小学校の時分には、水質汚染が大問題だった。具体的

には洗剤を含んだ排水が大量に流れ込み、泡だらけになっていた時代だ。

 洗濯における洗剤とは極めて役に立つ「次世代技術」だったのかと思うが、

一方水質汚染というシリアスな「毒」も持っていたということだろう。

 

 ここで何が出てくるかというと「解毒」だ。新しい技術を「無毒」にすることは

容易ではないものの、「解毒」なら未だやりようがある。かつそこに商売のチャンスも

を見出す向きもあろう。例えば

 

 ・インターネット社会になったことで従来存在しなかったウィルスメールという「毒」

  が産まれたが、それに対して「ウィルスバスター」のような「解毒剤」が産まれた

 

 ・高速移動することが可能になったことで交通事故という問題が増加したが、例えば

  「自賠責」というような保険制度を充実させることで被害を経済的には緩和

させるようになってきた。

 

 ・食品保存技術が向上したことで食中毒リスクも高まったが、厳格な賞味期限の設定

  という法整備や食品検査技術の充実で、リスクを低減させるようになった。

 

 と考えると「次世代ビジネス」の一つとして「解毒剤ビジネス」というものも

あるに違いない

 

「解毒剤ビジネス」の有利な点は、ある一定の「需要」が比較的早い段階で明確に

計れる点にある気がする。海の物とも山の物とも分からない新技術を追っかけるよりは

ある程度確立された新技術の問題点=毒を出来るだけ早く正確に見抜いて対応策を取る

というのも一つのビジネスチャンスではあるまいか。

 

 というか、そういうビジネスも結構増えてきているのだろう、既に。

「夜と霧」  アラン・レネ

 有名なアランレネの作品を漸く鑑賞したところである。30分強という短編ながら

観終わった際にはずっしりとした疲労感が残った。画面に集中することを強いられた

からだろうか。

 

 本作では膨大な死体が映し出される。日本ではまず不可能な映像だ。その圧倒的な

数を観ていくと、それらは最早「人間」というよりは「物」であるように見えてきて

しまう。そう考えると、映し出された他の場面も、時に眼鏡の山であり、無数の靴

であり、亡くなっていった女性の髪であり、全てが「物」である。

 

 本作では事後の裁判のような場面も有った。被告達はいずれも「上からの命令に従った

だけだ」というお決まりの説明をするだけだ。彼らは全て小さなアイヒマンと言える。

 

それはドイツだけではない話だ。あらゆる戦争と、それに付随する非人間的な作業では、

常に実行者達は「自らの意思には寄らず、あくまで命を受けて行った」という物語が

語られている。

 

それを「無責任だ」という簡単な言葉で処理するだけでは掬い取れていないものが

残るように思える。あくまで、「対象は人間ではなく物である」という認識を自らに

強いることで初めて可能になる残虐かつ冷静な行為ではないだろうか。

 

 そう思うと本作が描き出す様々な「物」への理解が個人的に深まった思いがした。

考えてみると、人間を「物」として扱うという場面は戦争だけではない。僕らの

日々の生活の中にもいくらでもある風景ではないか。

「デカメロン」(上)

 なんとなくではあるが、ボッカッチョの「デカメロン」を読むことになった。特に
何か理由があるわけではないのだが。

 読み始めるとすぐに引き込まされた。「デカメロン」は1353年にイタリアで出版
された本である。670年後の2019年に日本人である僕が読んでいて面白いという
事実自体が既に不思議である。では何が面白いのか。

 本書では10名の登場人物が毎日各々一つの物語を紹介するという筋立てと
なっている。彼らが語る物語とは、まずもって男女の「愛欲の話」だ。「愛情の話」
と言っても良かったかもしれないが、それでは本書の雰囲気を正しく伝えている
とは言い難い。あくまで「欲」という言葉こそが本書を紹介する際に使うべき
正しい言葉である。

 「欲」というものには世界に共通する普遍性がある。それは世界という地域に
於ける共通性と言えるが、同時に昔と今という時間に於ける共通性もある。
平たくいうと、ボッカッチョが開陳する愛欲は、そのまま21世紀の現代にも
共通するということだ。本書で繰り返される男女の姿は、現在にも十分あり得る
話だ。従い、21世紀に生きている日本人の僕として楽しめてしまうわけだ。

 それにしても面白い。全三冊をゆっくり読もうと決めたところである。

はじめまして

YAHOOから引っ越ししてきました。現在はバンコク在住です。

「イノセント」  ルキーノ ヴィスコンティ

ヴィスコンティの遺作である。初めて鑑賞する機会を得た。

 自由に恋愛することを妻に標ぼうする夫の話である。自分は勝手に恋愛して、かつ、
それを妻にも隠さない。一方、そんな妻が同じく他の人と恋愛すると俄然許せない。
妻は不義の子供を産み、夫は嫉妬の余りその赤ん坊を殺してしまう。夫は妻に去られ、
愛人にも捨てられて自殺してしまう。
 筋を書き出してみると、陳腐な話である。有りがちな話といって良い。

 「有りがちな話」で2時間以上観客の注意を惹きつけ続けるところはヴィスコンティ
の腕力である。誰もがいう「豪華絢爛さ」、「デカダンス」等は言うまでもないのだろうが
それ以上に「陳腐な話」の中に仕込まれている人間の業というものを考えさせる映画
でもある。

 「イノセント」という題名は「罪なき者」という意味だ。主人公は、その振る舞いに
おいては大いに罪がある人間だろう。但し、「他者に対する自らの超越性を疑わない」
という極端な性格から見ると、自らの所作に対しては「罪なき者」だと自分で断定
していたはずだ。そんな「他者に対する自らの超越性」が、妻と愛人に去られたことで
ずたずたにされ、それを自らの手で「解決」することが自決であったと考えると
分かりやすい。
 主人公は劇中いくどか「地上のことは地上で解決すべきだ」と言っている。その言葉
には虚偽は無い。自らの言葉通り、自らを「地上」において「解決」した主人公には
爽やかな印象を持っても良いと言える。但し、観客としては、やややりきれない感も
受けた。

 ヴィスコンティの幾つかの作品を20年以上掛けて観てきている。彼の作品は、
例えばオールナイト3本立てで観れるような作品群では全くない。1年間に
1本か2本程度を観ることがせいぜいである。これからもそんな風に鑑賞して
いきたい作家である。

「京料理人 四百四十年の手間」  園部平八

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京都の洛北に蓮華寺という古刹がある。高校時代に修学旅行で行って以来、結構
通っている。もう十回程行ったろうか。本作の舞台である平八茶屋は、その途中に店
を構えている。蓮華寺に向かうバスから眺めたものだ。そんな経緯で本書を読んだ
ところである。

 京都の老舗料理店の主人が、過去と現在の京料理を語るという本はいくらでも
ありそうな気がする。平八の場合には400年を超える歴史がある点は目新しさに
なるかもしれないが、本書で著者は、そんな歴史を語っているわけでもない。むしろ
「老舗」という言葉を「革新の連続で生き抜いた商いの結晶」と定義する著者は
本書をビジネス書に近い位置に置いている感が強い。

 実際400年を超える間、平八茶屋をビジネスとして成り立たせてきたものは
何なのか。著者のいう「革新」とは何なのか。

それを考えることが本書を読むということなのだろう。著者は「革新」の一例として
自身が創り出した「若狭懐石」を挙げているのだが、新しいメニューを作り出しただけが
「革新」だとも思えない。新しいメニューを作ることを強いた「時代の流れ」という
ものの「暴力」があり、それに立ち向かう料理人の腕力を「革新」という二文字で
表したと考える方が本書の読み方が深くなる。

 実際著者は空手を巡るエピソードに頁を割いている。一見すると武勇伝の開陳程度
にしか見えないかもしれないが、かような「暴力性」というものが自らに有ること
を著者ははっきりと自覚している。「若狭懐石」を京料理の重鎮に5年かけて「いいやん」
と言わせたというエピソードも、要は5年という年月を掛けて重鎮を組み敷いた「暴力」
だと読むと腑に落ちる。そんな読み方をしている方が本書は楽しいのだ。

 ということで平八茶屋に行くことに決めた。僕も未だ当面は外国住まいが
続きそうであるが、焦ることもあるまい。先方は400年を超える時間を耐えてきた
方である。こちらもじっくり構えるしかない。