くにたち蟄居日記 -44ページ目

家康の人気のもと

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冒頭の一文が有名であるわけだが、それに続く言葉の方が
味わい深い。負ける事を知らないことを諌める言葉が続いていたとは
今回初めて知った。

ちょっと出来すぎた言葉が並んでいるとも思うが、家康の人気の源が
よくわかる気がする。要は、負けてばかりいる自分として読んでいて
慰められるからだ。

しかし それは遅すぎた

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今我々が遅くなりそうなものは何か。たくさんあるような気がしないか。

雪の降る場所 2019年1月13日

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雪に対する感覚。

これだけは雪が降る場所に住んでいないとわからないのだろうなと
これを読んだバンコクで思っているところだ。

雪のフェアというものがある。何に対しても同様に積もるということだ。
ジョイスもそう語っている。太郎と次郎の屋根の上だけではなく。

「武蔵野をよむ」  赤坂憲雄 

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本書は本屋で見かけた瞬間に購入した。著者の赤坂という方の本を、ここ30年ほどの
間に幾度か読む機会があったことに加え、本書が読み解く国木田独歩の「武蔵野」は
高校以来の愛読書であったからである。

 愛読書と今言ったが、本書を読むまで、その背景等を全く知らなかったことを思い知らされた。
勿論、本の読み方は自由なので、過去40年近い僕の「武蔵野」の読み方を
後悔しているわけでもない。

 ということで「武蔵野」の背景をよく勉強することが出来た。僕は生まれてこの方
多摩に在住している時間が永く、まさに武蔵野の真ん中で過ごしてきたことになる。

 かすかな幼少の記憶をたどっても、フクロウが鳴き、あちこちに雑木林がある多摩
は、独歩が描いた武蔵野の風景を残していた。僕は、いまなお、いくらかの場所
では独歩風の武蔵野の風情は残っていると思っているし、期待している。そんな
武蔵野を探す散歩は、今なお楽しい。

 もちろん赤坂は学者であるから、武蔵野の風情に淫しているわけにもいかない。巧みに
国木田が立っていた場所を「武蔵野」という書物から読み解こうとしている。但し、
今回赤坂に関して初めて知ったのは、彼の出発点が文学であった点である。あとがきに
赤坂が書いている自身の歴史を読んでいると、詩人から官僚を経て民俗学を開いた
柳田国男と重なる。
 そういえば、赤坂がその昔に柳田国男全集を購入した国立市の古書屋は僕も良く行っていた
ことも思い出した。あの古書屋も広義の「武蔵野」の風景を成していたのかもしれない。

 赤坂はこれから武蔵野を語るという。東北学を開いた赤坂のこれからの冒険は
楽しみだ。ゆっくりとついて行きたい。僕も、本日段階では海外住まいだが
いずれ武蔵野に還る日もあろうし。

会話とは何か 1月12日

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僕にとっては会話とは、しばしば自分の意見を発見する場である。
話しているうちに、自分でも思いもつかなかたことを話している自分に
驚くことがあるからだ。それは会話が双方向性だからかもしれない。
小林秀雄は録音機つきのインタビューを嫌ったという。理由としては
聞き手が録音機に頼る余り、対話を作らないかだという。

「冷血」 下巻  高村薫

「照柿」の書評にて以下を書いた。2004年11月の事である。もう14年前だ。
 
「マークスの山までは 彼女はミステリー作家というジャンルで大活躍する作家『だけ』であったと思う。但し 彼女の硬質な文体から立ち上る文学性に酔っていた僕として
 この『照柿』で完全に彼女の『野心』が分かったと思った。即ち 現代のドストエフスキーとも言うべき 一大文学者魂がベールを脱いだ瞬間である。」

 14年たった現在として当時の僕の直観は間違っていなかったと本書を読んで思った
ところである。

 本書は犯罪小説ではあるものの、謎解きから程遠い作品である。高村はしばしば犯罪を
舞台としているが、それは犯罪というものが極めて人間的であるからだと僕は解して
いる。「人間的」という言葉は曖昧な言葉だ。本作ではまさに主人公の合田は犯人二人
と対峙し、彼らの「人間」というものにいかに迫ろうかということが、合田も含めた
「人間くささ」の中で語られている。

 合田は犯人を「理解」しようとしている。その志の高さには感銘を受ける一方、
なぜ合田がそうしたいのかを考えることが僕ら読者側の仕事である。今回取り扱った
残虐な一家惨殺事件は、その動機において最後まで不明となっている。単純にお金目的
だったと整理してファイルにしまってしまえばそれで済む話だ。犯人達は確定しており
刑に処せば終わりである。

 但し、合田はそこで腹落ちしない。人が人を意味もなく殺してしまうという
ことが有り得るという事態に驚愕しているようにも見える。合田が犯人達の心の
底に少しづつ降りていく中で見つけたものは、平凡なものばかりであり、それが
惨殺事件に繋がってしまうのかどうかは合田には理解不能だったのではないか。
もっというと合田は自分の中に彼らに似たものも見えたのではないか。そのように
考えていくことが本書を読む醍醐味ではなかろうか。

 そんな合田を描くことで高村は何を言いたいのか。僕としてまだ言葉に出来る
段階ではない。14年前の直観があり、今回の一冊がある。次回はいつどのように
高村と出会うのだろうか。これが同時代の作者を読む愉しみである。

「冷血」 上巻   高村薫

 久しぶりの高村薫である。主人公の合田も懐かしい。

 上巻の構成として、やがては惨殺される運命である13歳の女の子の手記を混ぜて
いるところが目を引いた。下巻では合田、警察、検察、犯人達との絡み合いだけが
展開されていく前に、被害を受ける前の被害者の独自が展開されるという構成は
僕は寡聞にして他の例をしらない。

 では効果はどうだったのか。

 高村が女の子の独自を置いた理由は、その後の犯罪の悲惨さを強調する為だけでは
ないと考えることが本書を読むということだと思う。むしろ、多くの犯罪小説が
加害者にばかり焦点が行ってしまう中で、高村は「被害者も被害を受けるまでは生きて
いたのだ」という、ある意味当たり前の事を、我々に気が付かせるためにその
構成を選んだのではなかろうか。
多くの犯罪や犯罪小説において、人は被害者に寄り添うかのように見えるが、実際には
そうでもない気がする。所詮良く知らない人の話だ。しばらくすると忘却してしまわないか。そうして加害者の裁判や刑ばかりが注目されていないだろうか。
 その中で本書のように被害者の生前の声をしっかり書き込まれると、読者としての
我々としても、きちんと被害者に気持ちが行く。

 その上で本書は下巻になだれこんでいくのである。

「キラキラ共和国」

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 前作のツバキ文具店が面白かったので続編である本書を読んだ。

 話としては他愛のない話である。登場する人も主人公含めていわゆる「善人」ばかり
であり、ある意味非現実的だ。但し、そもそもがおとぎ話であると考えると、かような
不自然さも心地よく読める。読書というものが持つ色々な働きがあり、本書においては
読むことが心地よいという点に尽きるのかもしれない。

 面白く読める理由は、僕が鎌倉好きだからである。実際本書の真の主人公は鎌倉
という街だと言って良い。特に本日現在海外に在住している僕にとって、鎌倉とは
遠きにありて想うものであるからだ。いつか帰国したら本書を抱えて鎌倉を
散歩してみたい。そうしたら向こうから、本書の登場人物達が来るかもしれない。
そんなファンタジーを自分に許しているところだ。

男になるのか?

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有名な言葉ではある。

ボーヴォワアールの時代にはこの言葉の衝撃があったことは想像できる。
一方、LGBTが語られる現在、「男だって男に生まれるのではなく、男になるのだ」
という話もあるのではないだろうかと不図思ってしまう。かようにジェンダーという
ものの境界は曖昧になってきたと言えないだろうか。但し、生物界を見ると
単性生殖が出来るものや、性が途中で変わる種もある。そこまでいくと
最早ジェンダーそのものが曖昧になっているような気がしてならない。

創造主の出番

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ホーキングのいう「宇宙はただ存在する」ということ自体が普通の人には
理解できない。理解できない不安が創造主を呼ぶのではないだろうか?