くにたち蟄居日記 -45ページ目

箱根駅伝

毎年ながら正月は箱根駅伝ばかり観ていた。

観ていて何が面白いのか自分でもよく分からないのだがつい観てしまうというある種の麻薬性すら
感じてしまう。

 今年感じたのは放映場面が「先頭」だけではなく、「シード圏争い」部分が増えた
という点だ。箱根駅伝の場合、秋に予選会があり、あれはあれで盛り上げるわけ
で、ある意味「商売上手だな」という印象も受ける。但し、シード制度は今に始まった
わけでもない中で、シード圏争いへの注目が増えたのが今年の印象だ。
 
 シード圏争いというものは、ある意味では人間臭い場面だ。

 駅伝の監督が目標を聞かれて「シード圏確保です」という場面も散見されたが、いかにも本音で
爽快感すらある。「優勝です」と言わないところが正直ではないか。

 考えてみると 「トップになれないだろうが、せめてシード圏入りはしたい」
という心境は、優れてサラリーマン的でもある。「銅メダルはほっとするものです」という
スピードスケートの清水選手の言葉も思い出したところです。

 ということで、箱根駅伝は驚異的な視聴率(今年は37%だったとか)だったそうだ。
「ほかに観るものがない」という声も良く聞くが、そもそも他局も「駅伝には
勝てんわな」と思って手を抜いている感もある。それだけの視聴率の理由を
考えるだけでも十分頭の体操になるのではないか。

立川駅のフォルマリズム

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無機質なのか有機的なのか

蒼なのか碧なのか

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国立駅にて

夕富士を国立駅から

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Dec.30,2018. At Kunitachi Station

電気を超えて

本日(2018年12月31日)の日経一面を見ると、次世代技術の上位10件中、5件が
電池関連だという。

僕は人間というものは電気があることを絶対的な前提とした技術の積み重ねを続けてきている
と強く感じている。ケータイにしてもIOTにしてもアマゾンにしても自動車にしても何にしても
電気があることを自明として開発されている。

自明と書いたが、実際には東日本大震災の際の電源喪失に象徴されるように、電気が
いつでもあるわけではないという点も自明としてわかっており、だからこそ、次世代技術の
半分が電池開発になっている訳だ。

となると、電気を超えたものとはないのだろうかと考えてしまう。そもそも人間が電気を入手
したのは最近だ。それまでの長い年月電気無しでやってこれたことも歴史だ。従い電気を
絶対視しなくても良いのではないか。若しくは電気以外のものを見つけられるのでは
ないか。そんな風にふと思ったところだ。

藤田省三から

何かを獲ることは別の何かを失うことだという費用の法則から言っても「新重商主義」の荒稼ぎが払うべき犠牲はかなり大きいものになるのが当然であって、「成長経済」によって喪われたものは広く社会の各分野にわたって相当に深刻なものがあるはずである。

入って来た金の額の増減にだけ気を取られないで、失ったものについての自覚をしっかりと持っていないと、金もうけだけは必要以上にしたけれどもその代わり生き方についての価値や規準は無くなってしまって、何のための経済活動なのかその訳がわからなくなりかねない。それが新重商主義のニヒリズムなのである。


〈藤田省三・精神史的考察)

「映画を撮りながら考えたこと 」 是枝裕和

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是枝の映画を観る機会が増えてきたことで本書を手に取ることになった。非常に勉強
になった。

 是枝は映画監督であるが、その背景として文学、テレビ、ドキュメンタリーが混在
していたことが良く分かった。もっと言うと僕自身としても映画、文学、ドキュメンタリー、
テレビというものがお互いに連動しているであろうという点は予想はしないわけでも
無かった。但し実際に連動した結果が是枝映画に結晶している。それが今回の発見
である。
 是枝は小津安二郎に擬せられることが多いという。確かに小津が好んで描いた
ホームドラマを是枝が主戦場としている点で似ているという評価は一定の正しさは
あろう。
 但し、是枝自身はかかる評価には否定的であるし、僕自身も是枝映画が小津映画に
似ていると余り感じない。では違いはどこにあるのか。

 端的に言うと、小津はホームドラマを超えたところでの「映像美」というものに拘り
が強かったと僕は思う。小津映画にしばしば挿入される無人の風景や、カラー作品に
見られた色彩感覚は彼の美意識が求めたものではなかったか。もっと言うと小津は
とことん映画監督であり、その中にドキュメンタリーやテレビといった要素が
含まれなかったように見える。

 それに比すると、是枝映画はかような画像の美学ではなく、あくまで人に拘って
画面を構成しているように見える。是枝のカメラは殆どが「人」に行っている。かつ
その「行き方」が、時に映画であり、時にドキュメンタリーであり、時にテレビである
というバリエーションを持っているのではないか。そんなバリエーションが是枝映画の
「一見普通の映画のようでありながら観ていると独特の映画であることが分かる」と
いうような差別化にも繋がっている。僕にはそう思えた。

 本書を読むと、いかに是枝という方が様々なことを考えてきていることが
良く分かる。こういう経歴と背景と歴史を持つ人が映画を作ることが出来る日本
という場所は決して悪くない。

セゾン 堤清二が見た未来

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 堤清二とセゾンに関する本は割とマメに読んできている。今回も数年ぶりとは
思うが堤に関する本を読んだところだ。

 僕は以前から「辻井喬という詩人が堤清二というペンネームでセゾングループという
事業を経営した」と考えてきている。それだけ一時のセゾンには「詩」の香しい
香りが纏わりついていたからだ。実際、セゾンの興亡を同時代人として観てきた僕としては、
一時の実に鮮やかなセゾンの在り方とその衰亡には、「叙事詩」という言葉が一番似合う
と思っている。日本において、かような「詩」がかつて有ったことは、今でも
日本の財産だと思っている。それが例え「仇花」だったのかもしれないにせよ。

 本書がいま上梓されたことの意味をよく考えなくてはいけないだろう。端的にいうと
堤清二が持っていた先端性に時代がおいついてきたからではないかと考えると腑に落ちる。
但し、それは明るい方向性において、ということではない。むしろ堤が推測し憂慮
してきたダークサイドが顕在化してきた点にあると僕は思う。堤が渇望し、辻井が表現
してきた人間の「自由」、「自在」、そして「無頼」というものが難しい時代になってきた
のが最近ではなかろうか。

 本書で著者は以下の辻井の詩の一部を引用している

 「いつも綱の上を歩いていた
  地上よりその方が私には安全なのだ」

 地上を歩いている僕らとして味読すべき一節だと思う。僕らは自分達のいる場所の
リスクが分からなくなっているのだ。地上が安全だと誰が保証しているのか。それは
僕にはわからなくなってきている。

日日好日

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樹木希林が出演した映画の原作ということで読む機会を得た。ページ数が少ない本
ながらも考え込ませる箇所がいくつもあった。考え込ませる本とは僕にとっての
豊かな本であり、本を読んで考え込むことは豊かな体験である。

 と言いながら、まず本書が言う「茶」とはむしろ「考える」ことからどれだけ
逃れることが出来るのかという主張であるように思われた。著者は複雑かつ単調な
お茶のしきたりを延々と続けていく。ここでいう「延々」とは数十年単位を
意味している。著者の青春時代から初老までの、実に永きに渡った修学と言える。

 「複雑かつ単調」と言ってみた。思いつきで言った言葉だが、別に逆説を弄している
わけではないことは本書を読んで頂けると分かると思う。「考える」という作業から
見ると「逆説」かもしれないが、「分かる」という現象から見ると両立するのだ。

 著者は茶を続けていく中で色々なことが分かるようになってきている。それは時に
雨の音であり、時に風の匂いであり、時に季節の色である。身の回りにあって「見えている」
ものを「見る」ことは案外難しい。「聴こえている」ものを「聴く」ことは実は難しい。
そんなものたちを茶に沈潜することで見出した時の著者の心の震えが本書のささやかな
ダイナミズムになっている。そんな際に考えても分からないと知りつつ、考え込んでしまう
のが本書を読むということになった。

大丈夫であるように-Cocco 終わらない旅-

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是枝の「映画を撮りながら考えたこと」という著作で、このドキュメンタリー映画を
知った。COCCOという方は「リップヴァンウィンクルの花嫁」で見て以来では
あった。

 是枝はCOCCOのツアーを「宗教者の巡礼」だと著書で表現している。僕もそれに近い
イメージを受けつつも、COCCOの姿を見ていると、そもそも彼女がこの世の人なのか
あの世から来ている方なのかが分からなくなってきた。亡霊というと、彼女や彼女のファン
に大変失礼な表現だと思う。但し、それを思わせるくらい、彼女は「鬼気迫るはかなさ」
をどうしょうもなく抱えている。僕にはそう見えた。

 彼女は六ケ所村、広島、ひめゆりの塔、神戸の震災地、そしてふるさとの沖縄を「巡礼」
する。そこで彼女が第一義的に語るのは、原発であり、原爆であり、太平洋戦争であり、
ジュゴンであり、震災である。

 但し、彼女が例えば原発反対を主張しようとしているとは見えない。ジュゴンの保護
に人生を掛けようとしているわけでもあるまい。
彼女はそれらの「素材」を依代、若しくは通り道として、あの世からこの世に来ているように見える。
その象徴的な意味で「死者」である彼女が、「生きろ」という姿が彼女の
ステージではなかろうか。

 映画の最後の方で彼女は「もののけ姫」を語っている。当初は否定視したハッピー
エンドだったという。但し、彼女が自身の子供と再度鑑賞する際に、「子供には美しい世界を見せたい」
という衝動に駆られ、最後の花が咲くハッピーエンドを強く肯定するに至ったという。
 「もののけ姫」の宣伝コピーは「生きろ」だった。従い、彼女が最後に語った
子供とのエピソードは、正確に彼女自身の本作で見せる心象風景を表していると
僕は確信した。

 本作は2008年に公開された。その3年後に東日本大震災をCOCCOは
受けとめることを強いられたわけだ。「リップヴァンウィンクルの花嫁」を
見る限り、彼女は震災を乗り越えてきたことが今回分かった次第だ。