くにたち蟄居日記 -43ページ目

「男ありて」 澤地久枝

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 志村喬という俳優の生涯の本である。

 大学生時代に黒澤映画を初めて観て以来、黒澤映画のファンである。黒澤映画という
と三船敏郎であり仲代達也ということになってしまうかもしれないが、僕は志村という
俳優に非常に惹かれるものが大きかった。

彼が主演していると言える「生きる」と「七人の侍」はとても好きな作品である。
一方、その2作以外で志村が光る黒澤映画というと、「酔いどれ天使」くらいしか思い
つかない。大概の黒澤映画に出演していた割にそんな印象がある。実は黒澤は志村を
活かし切っていなかったのではないか。本作を読んで不図そう思ったところだ。小津が
笠智衆を使い切ったことと比較するのも案外楽しいのかもしれない。

 本作を読んで志村がいかにダンディーだったかが良く分かった気がした。
DANDYという言葉は訳すると「しゃれた男」という意味らしい。「洒落」
という言葉自体を考えていると中々深みが出てくる。たんなる「オシャレ」では
済まない「コク」がそこに見えてくる。

 そんな志村にいわば惚れ込んだ澤地久枝という作者の壮大なラブレターが
本書の本質である。澤地が描き出す志村の妻の政子のエピソードのどこかに
一抹のジェラシーの木霊を聴くことは本書を読む醍醐味であり、本書の読後の
清涼感に繋がっている。本作を読んで改めて志村の映画を観たいと考えている
ところだ。

「HARUKI MURAKAMIを読んでいるときに我々が読んでいる者たち」

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 村上春樹の翻訳本の話である。翻訳といっても、村上が訳した本の話ではなく、村上
作品がどのように外国で翻訳され、広まっていったのかというある種のビジネス書と
言える。実に面白かった。

 村上作品は日本では「ノルウェイの森」以降は非常に有名となってしまい、所謂
「販売戦略」というものがどのくらい必要なのか分からない。但し、外国では
全く別の話である。特に初期の関係者の努力というものがどの程度だったのかは
想像すらしたことはなかった。本書を読んで、村上が外国でデビューするに際して
いかに多くの人が関与し、協力したのかが初めて分かったところだ。かつ、その
関与・協力はあくまでビジネスであるという点が、「村上春樹を巡る冒険」
として楽しい面が多々ある。

 本書を読むと、翻訳とは日本語を英語に直すだけではないことが明快に語られる。
英語圏の読者が背負っているであろう「歴史」と「背景」を踏まえて、村上作品に
大胆に切り込んでいく外国のスタッフの気合は大したものである。「第二の著者」とすら
言えるであろう翻訳者と編集者の知識と知恵が、初めて村上作品を英語圏の読者に
提供しうるものにしていく姿は感動的ですらある。その場面においては村上自身も
既に「協議意見者」程度でしかないと言える。翻訳というもののある種の本質が
垣間見えた思いがした。

 村上という日本人の作家の作品が世界である程度読まれているという事実は
日本人の一員として僕も嬉しく思う。その「世界である程度読まれている」までに
かような努力が必要だったということも嬉しく読んだところだ。今後更に
村上以外の作家も是非海外に行ってほしいものだという点が読後の感想に
なった。本書の著者が未だ三十歳台という事実にも驚いた。

「後醍醐天皇」  兵藤裕己

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 網野善彦の「異形の王権」で後醍醐天皇に興味を持ったことで本書を読む機会を得た。

本書の兵藤は網野が描き出した「後醍醐天皇」像には異論を唱えている。但し、それは
後醍醐天皇の「異形」振りに関する網野の表現に関しての異論であり、後醍醐天皇が「異形」
であったという点で両者は一致しているとも読めた。言わば総論賛成各論反対という
ところであろうか。

 本書の面白さは、その射程距離の長さにある。著者は建武の時代から日本の近代を逆に
見つめ返している。後醍醐天皇が行おうとした天皇親政というものが、どのような
形で明治から昭和にかけて復活してきたのかを問いかけている。それほど迄の影響を
後醍醐天皇が日本の歴史に与えたとしたら、正に「異形の王権」としか言いようが
ない。そこが本書の白眉である。

 それでは更に現代に展開できるのか。著者は出来るとしている。著者は以下を
巻末に記して本書を結んでいる。世界が流動化しつつある今日味読すべき文章
だと僕は思った次第だ。

 「たとえば、国民的な統治の象徴としての天皇とは、かつて封建的な身分制社会
からの解放・革命の隠喩として機能した天皇である。いわゆる『王道楽土』のファンタズム
は、後醍醐天皇の『新政』に端を発している。それは21世紀にいきる『われわれ』
日本人にとっても、おそらく無関係なものではないのである」

議論 という言葉

 「議論」という言葉がある。

 「今日は、この会議で色々と議論したいと思う」というような言葉が、会議の冒頭で言われる場面は
良くある。僕も自分が主催する場合には、冒頭にそのような事を言うことが多い。


 但し、「会議で議論することがいかに難しいか」ということも確かだ。

 それは何故だろうか。そう考えることは頭の訓練になる。色々と考えているうちに
「会議とは議論の場ではない。従い、そこで議論が難しいのはそもそも当然ではないか」
というような逆説に辿り着いてしまった。

 シンゴジラという映画があった。あの映画の面白さは政府の会議がいかに形式的で実質的
ではないかということを強烈に皮肉っている点にある。

 会議とは「成功しなくてはならないもの」と化してしまい、参加者も「いかに空気と
流れを読むのか」が能力として問われるわけだ。「忖度」という言葉が悪い意味を
持ってきたのはつい最近になっての事である点も忘れてはいけない。以前は
「忖度」とは重要な能力であったわけだ。

 などと考えると、会議とは およそ「議論」には不向きな場であることはむしろ
当たり前というように見えてくる。ということで逆説に辿り着いてしまったわけだ。

 では本当の議論とはどこで行われているのだろうか。若しくは、「本当の議論」なんて
ものが本当にあるのか。これを考えることは更に頭の訓練になると思うが、ここまで考えた
だけで十分に疲れてしまった。

「日日是好日」

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原作を読んだ映画を観た。但し、映画を知って原作を初めに読んだという経緯だったので、
やはり映画ありきだった自分に気が付いた。

 原作は「音」を非常に重視している。雨、風、お湯、冷水といった自然に充ちている音に
耳を澄ませることにとても重きを置いている。その意味では、「音を映像化する」という
挑戦が映画の第一歩だったのではないかと勝手に想像した。

 「音を映像化する」とはどういうことか。映画である以上、「音」を出すことは容易で
ある。但し、主人公が聴いているものは「音の向こうにある何か」である。それを
映像化することは極めて困難だろう。

僕が思いつくのは、わずかにタルコフスキーの幾つかの作品程度である。邦画である
なら黒澤明の作品にも音を強く喚起するものがあったが、黒澤の「音」は情念がきつ
過ぎる。「日日是好日」のような、ひそやかな「音」はタルコフスキーの方が近い。
 その意味で本作が「音を映像化する」ことにどれだけ成功しているのかは難しい
ところだろう。但し、そこは俳優達が実によく補佐していると言える。

 やはり、樹木希林の圧倒的な存在感がある。原作の本で描かれる茶道の先生は、やや、
善人に流れ過ぎている。一方、映画で樹木希林が演じる先生は、とても人間らしい。善意
だけではなく、きらりと見せる厳しさや品の無さが、とてもリアリティーに溢れている
と僕には思える。それだけ現実感があるからこそ、父を喪った主人公を慰める場面が
本当につやつやと色づいているように見えて、不覚ながらも、やや目頭が熱くなった
ことは正直に言っておきたい。
 黒木華も大健闘している。やや、大袈裟に見える場面もあったが、彼女は何といっても
表情が極めて豊かである。そこに立っているだけで絵になる数少ない女優の一人と
言える。

 そんな二人が僕らを「音の向こうにある何か」まで連れて行ってくれる。その体験が
本作を観るということだ。大変心地よい作品であった。

「まちづくり都市  金沢」 

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金沢になんとなく行く機会が増えたことで本書を読んだ。

 僕の最近の金沢行きは以下の通りである。

 2015年の年末に妻と二人で出かけた。初めはお寿司を食べて日帰りで帰ろうと
思っていたが、余りに美味しくて、つい飲み過ぎたので宿泊することにした。

 2016年の9月には父が金沢21世紀美術館に行きたいというので弟と三人で出かけた。
父も84歳という年でありながら、あの美術館に行きたいと思わせるものが
あったということなのだろう。

 ついで2018年12月末に義父を加賀の温泉に連れていく途中に兼六園に出かけた。
雪の兼六園の中で、以前に足を痛めていた義父が楽しそうに見学していたものである。

 こうやって書きだすと、高齢の方を呼び寄せる何かが金沢にあるのかもしれないと
思っているところだ。

 本書の著者は金沢市長を20年間勤めている。その長い行政の中で、何に腐心してきた
のかということが分かりやすく述べられている。特に、伝統を守るということだけ
ではなく、新しいものを取り入れなくてはならないという思いの強さが良く伝わって
きた。確かに僕自身も行った金沢21世紀美術館の事を思い出してもそれは実感できる。

 そもそも金沢はブランドイメージが高い。これは先人達の苦心と、それを守り活かして
きた金沢に住んでこられた方の強い意志があったからだろう。そのブランドを更に
強化すべく「革新」に挑戦するという姿勢は見事だと思う。金沢という街が
更に魅力を増すことを祈る次第だ。

極楽トンボ20190119

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勝海舟らしい言い草で読んでいて爽快感はある。
但し、色々と神経を病んでくよくよする姿は、人間らしいといえば人間らしい
とも言える気がする。

そういえば極楽トンボという言葉があるが、もしかするとこの勝の例えから
来ているのだろうか。それとも極楽トンボという言葉があるので、勝は
例に出したのか。

フランクリン 20180117

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フランクリンのように断言できるかどうかと考えている。まあでも今の
自分が過去によって形成されている以上、しょうがないということか。

清少納言20190116

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清少納言の感覚は現代の我々にも通じる。読んでいて素直にそう思った。

「好日日記」  森下典子

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 著者の前作である「日日是好日」を読んだことで、続編となる本作を読んだ。

 前作は平成14年に出版された。本作は平成30年に書かれている。16年間が
前作と本作の間にある。読んでいると、その16年という歳月が著者に齎したもの
を感じることが出来る。

 前作には若さと気負いがあり、躍動感とも言うべき勢いがある。その勢いの中で
茶道を見出したという手応えを書いたところが前作の終着駅であった。

 本作にはかような躍動感は無い代わりに、はりつめた静寂感がある。「はりつめた」
と言ったが、緊張感があるわけではない。著者と、著者の茶道の先生が、共に16年
という年月を経て簡素かつ洗練されてきた所作が本書には漲っており、読むもの
の居住まいを正させるものがあるという風に説明すると分かって頂けるだろうか。

 そう思って読んでいると歳月を経ることの楽しさと醍醐味を感じることが出来る
ことが本書の徳である。僕はそう読んだ。

 イラストが楽しい。見ていると本当に食べたくなってくる。茶道は食べる欲を否定
していないと本書は僕に訴える。後は、いかに簡素かつ優雅、更には遊び心を
込めて、お茶と食物を展開するのかということだろう。誠に茶道とは遊び心が大事
なのだろうなと思った次第だ。