本「風土記の世界」 三浦佑之
風土記をぱらぱらと読む機会が長年あったので本書を見かけて直ぐに購入した。大変勉強に
なった。
まず本書では風土記の「立ち位置」というものを読者に考えさせる。
当たり前の事ながら、天平時代という過去において、地誌を編集させようとした中央政府の
意図は漠然と理解出来る。それはとりもなおさず「中央」という立ち位置にあろうとした当時の
政府の強い意志の表れである。「中央である」とは「集権的なグリップを握る」ことであり、
その為に、各国の状況を「文字」を通じて見える化させ、提出させるという手法は非常に
分かり易い。
これは例えば現在の色々な組織でも同様だ。レポートラインを設定し、そのラインで実際に
レポートを作成させ、流通させることで組織のヒエラルキーを形成維持するという話である。
中国や朝鮮半島といった地政学上のリスクに対応すべく、当時の政府が組織確立に乗り出さ
ざるをえなかったという話は明快であり、その中に風土記の「立ち位置」も良く理解できる。
一方著者は地方と中央とのせめぎあいを風土記の中に読み取る。出雲から越を通って長野
に抜ける中央とは違った文化と歴史の存在を風土記から掬い上げる手法は鮮やかと言って
良い。中央の命で書かれた書物に、アンチ中央を描いた当時の風土記の執筆者の心の
有り様すら想像させるものがある。
風土記の大半は散逸してしまった。逸文で紹介される失われた風土記群というものがある。
但し、もしかしたらかような風土記は実は無かったのではないかという想像も個人的に出て来た。
「〇〇風土記に曰く」という言い方で、つまり「架空」の風土記の引用ということで、
言い難かったことを言った人たちもいたということはないのだろうかという想像
である。
本 「センス・オブ・ワンダー」 レイチェルカーソン
正月にアンリンドバーグの「海からの贈物」を読んだが、それに続いた読書となった。本書
は、レイチェルカーソンという高名な女性が、やはり海沿いに一時期住んで、そこの風物を
想いを込めて書いた一冊である。訳者のあとがきによると、著者は既に癌で余命が無いこと
を分かりながら本書を書いたらしい。
著者は以下のように言っている。
「子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら
さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です」
そうして、その情緒や感受性を育てるために、常にセンス・オブ・ワンダーの重要性を
説き、その一つの例として、まだ赤ん坊であった著者の甥を連れて海辺の自然と触れ合った
ことを描き出している。
考えてみると、「知識」と「知恵」に追いまくられているのが今の僕らかもしれない。とりわけ、
知識=情報の量が飛躍的に増大する中で、それらを吸収し、その上で「知恵」まで要求される
という姿は誰の背中にも染みついている気がする。
そんな頭でっかちになりがちな僕らの足元はどうなのか。脚の筋肉はしっかりとついている
のか。そう考えると覚束ない気もしないでもない。それに対して著者は「情緒」と「感受性」の
こそが、脚の筋力だと言っている。僕にとっては、その言葉には反省させられるものが有った。
雨が降ってきたら敢えて一人で林や海辺を散歩してみる。そんな酔狂はとんとしなく
なっている。思い出すのは子供の頃に夕立が来た際に、わざとずぶぬれで歩いたことだ。
雨の強さ、香り、音を感じることは楽しかった。あれこそがセンス・オブ・ワンダー
あったのだなと今気が付いたところだ。
映画「ゴンドラ」 伊藤智生
30年ぶりに本作を鑑賞した。鑑賞できた理由は、本作が突如2017年に再公開され、話題と
なり、DVD化されたからである。観ていて多くの場面や音楽を覚えていることに驚いた。
それだけ印象的だったということか。
本作は前半が東京という都会を舞台とし、後半は下北半島を舞台としている。前半が都会で
あるだけ、後半の自然に充ちた下北の美しさが際立つ。というと、ある意味紋切り型であり、
ステレオタイプでしかない。但し、本作の描き出す風物は、その風物以上に迫ってくるものが
ある。セリフや、セリフに頼った「説明」を潔く排除していることで、僕らは風物と風景に
強く注視させられるからだ。
繰り返し「廃墟」が描かれる。かがりがハーモニカを隠していた東京の廃墟だけではない。
下北で主人公二人が訪れる廃校も「廃墟」である。加えて言うなら、主人公たちが修理する
壊れた船も、廃墟の一つに見える。
堀辰雄が「浄瑠璃寺の春」の中で以下を書いたことを思いだした。
「自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡
に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの
一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つ
になって、いわば第二の自然が発生する」
「ゴンドラ」に描かれる「廃墟」とは、風物だけの廃墟ではない。主人公二人が心の中に
どれだけの「廃墟」を抱え込んでいるのだろうかと思いながら僕は本作を観続けた。本作は
主人公たちが「廃墟」から「回復」する映画ではないと僕は思う。
主人公たちが自ら抱える「廃墟」と「融け込んでしまう」ことで、第二の自分自身を獲得
していく話ではないだろうか。そう考えると主人公たちが「水」に拘ってきた事も
理解できる気が個人的にしてきた。何かを融かす為には「水」は不可欠だからだ。
映画 「放浪の画家 ピロスマニ」 ギオルギ・シェンゲラヤ
確か新聞記事で読んだことで本作のBLUE LAYを購入したのが2018年5月5日である。
それから一年半が経ち、漸く鑑賞する機会を得た。本でいうと「ツンドク」ということなのだろうが
映画も同様である。
非常に禁欲的な映画である。ピロスマニという画家の半生を時系列に沿って描いていく作品
であるが、実に淡々としており、何かを声高に語るということは一切無い。セリフ自体も少なく、
従い言語で何かを説明するという事も無い。主人公の心の有り様は、主人公の表情から
読み取るしかないわけだが、その「表情」ですら、表現に乏しい。
そう言ってしまうと、まったく感情移入が出来ない映画のように聞こえるかもしれない。
但し、感情移入に関しては、個人的には非常に豊かな映画体験になったような気がしている。
現在はジョージアと呼ばれる、当時のグルジアの風景が強い印象を与える。僕らが育った日本
とはかなり異なる風景だ。乾いていて、荒涼としていて、寒さが伝わってくる。
そんな風景が、そのままピロスマニの心象風景であるようにも見える。但し、彼が描く絵は
「乾いていて荒涼としている」わけではない。動き自体は少ないとは言え、どこか暖まるものが
そこにはあるように見えてくる。そんな風景と絵画とのミスマッチが、なんとなくではあるが、
観ている僕らの映画への感情移入に繋がって行っている。言葉では表現しにくいが、
そんな第一印象であった。
本作を漸く鑑賞出来たことで少しほっとした気もしているところだ。
この壺は満杯か?
土曜日に寝転んで、バンコクの日本人会の図書館で10バーツで購入した
「会社がなぜ消滅したか。山一証券役員たちの背信」という古本絶版本を
読んでいたら以下が出てきた。ちょっと長いですが引用する。
++++++++++++++
ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利を取り出した。そして砂利を壺の中に流し込み、壺を揺すりながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
学生達は答えられない。一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、いつでも予定を詰め込む事は可能だ、ということです」
「それは違う」と教授は言った。「重要なポイントはそこではないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君達の人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり--。ここで言う”大きな岩”とは、君達にとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果、それ自体を失うだろう。
+++++++++++++
2010年代の10年間も、あと2週間強で終わりであるなと考えた次第。
「食の実験場アメリカ-ファーストフード帝国のゆくえ」 鈴木 透
本屋でバラ積みとなっていることで本書を知り、衝動買いした。結論的に言うと、
実に面白い一冊となった。
本書で勉強になった点は食を記憶媒体として捉えるという視点である。言われて
見れば、食文化というものがある以上、各々の「食」には過去からの記憶の蓄積がある
ことは当たり前と言えば当たり前である。そこでの記憶とはどのようにして現在の
食文化が出来てきたのかという歴史であるわけだ。食文化の歴史自体は当然ながら
その民族や国民の歴史の一部を構成しているという指摘は明快であり、説得性がある。
著者はそんな「ものさし」を持って米国の食文化を分析していく。米国で辿ってきた
食の歴史が、そのままその時々の時代と歴史を背景にしていることが良く理解出来る。
そこから見えてくる米国とは「多文化・異文化の集合体」である。物事が集合
するに際しては暴力もあったろうが、寛容と融和があったことも確かだろう。著者
はそんな昔の米国に見られたであろう「寛容と融和」をやや懐かしんでいるようにも
見える。また、そんな歴史から現在の米国を照射しているとも読める。
それでは日本人の僕は本書から何を考えるべきなのか。これが本書を読む意義で
ある。
安易かもしれないが、日本人である僕としては「日本食」というものに隠された
記憶を考えるという作業が一番馴染むかもしれない。
僕は2017年来、三回目の海外生活を送っている。海外でいわゆる「日本食」が
人気になってきたことは肌感覚で理解できる。それは日本人としては嬉しいわけだが、
ではその「日本食」とは何なのかを自分として理解しているのか。覚束ない気もしてしまうとしたら
その日本食に秘められた「記憶」をきちんと整理できていないからだろう。卑近な例
でいうなら、「なぜ日本人は回転寿司を好んだのか」というような問いかけにも未だ
僕は答えを持っていない。
そんな「答えを持っていない」ことに気づかされたことが本書を読むという経験に
なった。実に面白いではないか。
「 モンテーニュ 人生を旅するための7章 」 宮下志朗
本書の著者は近年モンテーニュの「エセー」を全訳された方である。ご本人によると
元々はラブレーを専門に扱われてきたらしい。但し、このところは「エセー」及び
「エセー」にまつわる著作が多い。これも「エセー」という高名な本の人気が高いという
ことなのだろう。
ところで著者は冒頭でいかに「エセー」というものが読み辛いかという点を述べている。
思い起こしてみると僕が「エセー」を初めて買ったのは高校生の時だった。岩波文庫
から出ていた「エセー」を購入し、拾い読み程度はした。しかし通読には至っていない。
それは著者が言う通り、モンテーニュの語り口が実に悠揚たるものであるからである。
例えるとするならモンテーニュと散歩していると歩いている場所と時刻が分からなくなって
くるような感じだ。そういえば小林秀雄も、「エセー」と比較して「徒然草」の簡潔を
言っていた。小林自身もモンテーニュとの散歩に疲れたということなのだろう。
そんな「エセー」の世界を、少しでも歩き易くしたいということが著者の野望であり、
本書という結果物なのだと思う。
著者が案内してくれる「エセー」との散歩はすっきりしており、道に迷う事もない。読んでいると
モンテーニュという方が実に自己を相対化されてきたことが良く分かった。フランスの田舎の小さな
塔の中で古典を読み耽るモンテーニュが、時おり顔を上げて曇りのない目で世界を眺めていた小さな
姿が目に浮かぶ。
ということで僕は「エセー」を通読する日が来るのだろうかと考えているところだ。
但し、おそらくは「エセー」とは「通読」すべき本でもないかもしれない。
国木田独歩は「武蔵野を散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路
でも足の向く方向へ行けば、必ずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある」と
言った。それは案外「エセー」の読み方にも適用できそうではないか。
「ペルソナ」 イングリッドベルイマン
イングリッドベルイマンの映画を観るのは本作が二作目である。82分という短い映画
であるが、非常に疲労感を覚えた。鑑賞中につねに緊張を強いられたからだろうか。
心を病んだ女優と、それを介護する看護婦の話である。看護婦は介護しながら、次第
に女優に「取り込まれて」行く。「取り込まれて」という言い方が正しいのかどうかも
分からない。今の時代の言葉で言うなら「同期」という言葉が一番正しいのかも
しれない。
女優は一言も言葉を発しない。看護婦はひたすら話す。話しているうちに、その言葉が
看護婦の言葉なのか女優の言葉なのかが解らなくなってくる。女優が看護婦を依代として
いるようだ。自分の代わりに話させているように見える。
状況は曖昧模糊としてくる。それが緊張を産む。モノクロの映像が端正だ。映像が緊張
を更に増していく。映像を横切る鋭角なイメージ。ナイフ、ガラスの破片、そうして
しばしば大写しされる二人の顔すら既に鈍さを帯びた鋭利に見えてくる。顔といえば、
本作の題名はペルソナだったことも思い出した。
イングリッドベルイマンの映画を観るのは本作が二作目である。82分という短い映画
であるが、非常に疲労感を覚えた。鑑賞中につねに緊張を強いられたからだろうか。
心を病んだ女優と、それを介護する看護婦の話である。看護婦は介護しながら、次第
に女優に「取り込まれて」行く。「取り込まれて」という言い方が正しいのかどうかも
分からない。今の時代の言葉で言うなら「同期」という言葉が一番正しいのかも
しれない。
女優は一言も言葉を発しない。看護婦はひたすら話す。話しているうちに、その言葉が
看護婦の言葉なのか女優の言葉なのかが解らなくなってくる。女優が看護婦を依代として
いるようだ。自分の代わりに話させているように見える。
状況は曖昧模糊としてくる。それが緊張を産む。モノクロの映像が端正だ。映像が緊張
を更に増していく。映像を横切る鋭角なイメージ。ナイフ、ガラスの破片、そうして
しばしば大写しされる二人の顔すら既に鈍さを帯びた鋭利に見えてくる。顔といえば、
本作の題名はペルソナだったことも思い出した。
観終わって大きくため息をつかざるを得なかった。映画にも色々な種類があると
改めて感じ入ったところだ。
ベルイマンの映画の三本目は何時鑑賞するのだろうか。愉しみにしている。しかし
しばらく時間を置いた方が良さそうだ。
「逝きし世の面影」 渡辺京二
異国の地で本書をゆっくり読了した。読むポイントは2点であると
考える。
一点目。本書の素材は「外国人から見た江戸末期から明治初年の日本の姿」である。
著者が指摘している通り、多くの外国人が日本を称賛している。称賛される側として
読んでいて嬉しいものがあるが、一方、なぜ外国人たちが日本を称賛したのかに
関しては考えるべきだ。
外国人と言っても、より正確に言うと、欧米人である。彼らが日本に「美しいもの」
を見たとしたら、それは彼らの世界観の有り様を示していると言っても良い。彼らが
当時の日本人の笑顔や屈託の無さ、自然と調和した風物や生活、に感銘を受けていた
とするなら、それは他の世界における「笑顔」や「屈託」がどういうものに見えていた
のかを意味している。彼らがわざわざ日本を称賛したとするなら、それ以外の世界が
決してそのようには見えていなかったということなのだろう。
二点目。本書を読む現代の日本人の多くが、結構本書に驚かされるのではないか。
少なくとも僕が想像していた江戸時代末期から明治初年の日本の人々の姿と
本書で描かれる日本人の間には大きな違いがあった。その驚きは、ある意味では
嬉しい驚きとも言える。但し、それは逆に言うと、今の日本人が失っていたものを
意味するのかもしれない。
「失った」と言ったが、正確には「捨てた」ということかもしれない。明治時代に
日本が目指した近代国家を追求する中で、「笑顔」「屈託の無さ」「自然との調和」
を捨てざるを得なかった面は否定できないと思う。
現代の僕らはその延長上にある。その延長上に物事を考えるように訓練されて
きている。であるからこそ、本書を読んで驚いてしまうわけだと考えると
腑に落ちる。そう感じた次第だ。
非常に興味深い一冊である。膨大な資料を照会した著者の努力には頭が下がる
次第だ。
我々は自分の眼を信じるという点では案外盲目的だ
「成城だより 付・作家の日記」という大岡昇平の本に以下文章があった。
「(彼女は)恋人に(浮気の)現場を捉えられても、不実を認めなかった。恋人が
怒ると彼女は言った。『わかりました。あなたはあたしを愛していないんです。
あたしの言葉より、自分の眼を信じるんですから」
初めは彼女の滅茶苦茶な強弁に笑ってしまったが、じわじわと考える部分が出てきた。
我々は良く「現場に行って自分の眼で見ること」というような話をする。
「百聞は一見に如かず」であるとか「Seeing is believing」というような格言も
ある。従い、上記一文の彼女の暴論に笑ってしまったのかと思う。
但し、本当に、そんなに自分の眼を信じていいものかどうかという点はどう
なのか。Believingという言葉に、実は盲信という響きも聞き取るべき
ではないか。そう考えると、上記の彼女の暴論にも一抹の真実がないわけでも
ないかもしれない。
我々は自分の眼を信じるという点では案外盲目的だ。気が付かないうちに色眼鏡を
掛けていたにせよ、それに気が付かないと、色眼鏡を通じて見たものを「盲信」しがちだ。
その意味では自分の眼で見たものが本当に正しいのかどうかという懐疑は
本来有ってしかるべきではないか。そう考えると、結構深いものもある。
よく「あの人は一旦こうと思いこむと考えを変えない」というような話もある。
人間というものは一旦こうと信じてしまったものを見直すということは難しい動物
なのかもしれない。自分の眼で見たと思ったものには固執するではないか。
我々は毎日膨大な意思決定をしている。その際にも「本当か?」と一歩引いて
物事を見る癖を付けるべきだ。
ということで、上記の恋人たちはその後どうなったのだろうか。
女性の勝ちで終わったんじゃないかという気がする。