映画「ゴンドラ」 伊藤智生 | くにたち蟄居日記

映画「ゴンドラ」 伊藤智生

 30年ぶりに本作を鑑賞した。鑑賞できた理由は、本作が突如2017年に再公開され、話題と

なり、DVD化されたからである。観ていて多くの場面や音楽を覚えていることに驚いた。

それだけ印象的だったということか。

 

 本作は前半が東京という都会を舞台とし、後半は下北半島を舞台としている。前半が都会で

あるだけ、後半の自然に充ちた下北の美しさが際立つ。というと、ある意味紋切り型であり、

ステレオタイプでしかない。但し、本作の描き出す風物は、その風物以上に迫ってくるものが

ある。セリフや、セリフに頼った「説明」を潔く排除していることで、僕らは風物と風景に

強く注視させられるからだ。

 

 繰り返し「廃墟」が描かれる。かがりがハーモニカを隠していた東京の廃墟だけではない。

下北で主人公二人が訪れる廃校も「廃墟」である。加えて言うなら、主人公たちが修理する

壊れた船も、廃墟の一つに見える。

 

 堀辰雄が「浄瑠璃寺の春」の中で以下を書いたことを思いだした。

 

 「自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡

に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの

一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つ

になって、いわば第二の自然が発生する」

 

 「ゴンドラ」に描かれる「廃墟」とは、風物だけの廃墟ではない。主人公二人が心の中に

どれだけの「廃墟」を抱え込んでいるのだろうかと思いながら僕は本作を観続けた。本作は

主人公たちが「廃墟」から「回復」する映画ではないと僕は思う。

主人公たちが自ら抱える「廃墟」と「融け込んでしまう」ことで、第二の自分自身を獲得

していく話ではないだろうか。そう考えると主人公たちが「水」に拘ってきた事も

理解できる気が個人的にしてきた。何かを融かす為には「水」は不可欠だからだ。