くにたち蟄居日記 -46ページ目

本質を問う

「本質を問うというラディカルな作業は 企業が安定していくに従って 排除されていく」

映画を撮りながら考えたこと. から

「東大寺のなりたち」  

小学校の頃に家族で東大寺に行ったことは良く覚えている。大仏が大きかったことと
柱の穴を通り抜けたことが印象的だった。以来、何回東大寺に行ったろうか。20回
くらいは行ったような気がする。これからも行き続けたい。

 本作を読んでいると昔も今も人間の欲というものは変わらないと強く思った次第だ。
特に宗教である仏教というものを権力側がどのように利用しようとしたのか、また
利用している間に逆に仏教に権力が取り込まれたのかが鮮やかに描きだされている。
宗教と権力のせめぎあいというテーマは古典的であり普遍的であると思う。かつての
東大寺も、かかるステレオタイプの一例だったということだ。

 東大寺は仏像に恵まれている。本尊の大仏は近世の再建された仏像とはいえ、その
大きさには目を瞠らざるを得ない。一方、例えば三月堂に行けば、不空羂索観音を
筆頭に綺羅星のごとく仏像が並んでいる。僕はまだ見ることが出来ていないが
執金金剛像も古くからある。またそこから歩いて戒壇堂に行けば、比類のない
四天王像が待っている。

 そんな仏像巡りをしながらも、下手に敬虔な気分になってはいけないのかもしれない
と思ってしまうことが本書を読む勉強というものだ。

「ハンナ アーレント」 

以前から観たいと思っていた作品を漸く鑑賞する機会を得た。なかなか重い映画で
あった。

 本作はハンナが「イエルサレムのアイヒマン」を執筆したことと、執筆後のバッシングを
受けたことを描き出すことが主眼である。映画はアイヒマンの裁判を中心にはしておらず、
「アイヒマンが何を遂行し、何を裁判で語ったのか」は大きく省かれている。従い当該
裁判を良く知らない方には、いわゆる「アイヒマンの陳腐さ」に関しては分かりにくく、
従い本作を鑑賞することが少し難しい気がした。
上映時間が114分という比較的短尺でもあり、アイヒマン自身関連の説明を入れる
時間はあったとは思う。但し、それをしなかったことで本作は切れの良い作品に
仕上がっている。

 本作はアイヒマンについて語るわけではない。ハンナという一人の人間が世界から
バッシングされる中でも主張を続けるという毅然とした人間像を描き出すことがテーマ
である。自身の主張の為に、ユダヤ人であるハンナが「反ユダヤでありナチス側に立っている」
とすら言われてしまう。特に「ナチスに協力したユダヤ人がいた」という彼女の
指摘に関しては、それが正しいのかどうかという議論以前に、ユダヤ社会=彼女の
所属する社会、から感情的に全否定され、彼女が友人を失っていく姿には言葉を失う。

 ここで、僕は自分が戦後生まれの日本人であることを思い出すべきだ。僕は
ホロコーストというものが理解しているとは思えない。その点を踏まえずして、本作を観て
ハンナに賛嘆したり、ハンナの周囲の人を批判することが出来るとは思えない。本作に
安易に感動することは、本作で描かれるユダヤ社会のハンナに対する感情的な反応と
同じであると言って良い。そこを自分で踏ん張らないといけない。そんな思いも有った
ところだ。

 それにしても映画というものは、かように禁欲的にもなれるという点を改めて
思った。派手な場面も無ければ、大ロマンスも無い。ハンナがひたすら外を見ながら
煙草を吸っている場面ばかりだ。そんな禁欲的な画像にも関わらず、本作には
異様な緊迫感がある。これが欧州映画であると言ったら紋切すぎだろうか。

「台風クラブ」

30年来観たいと思ってきた作品である。

 台風と夜が齎す奇妙な祝祭時間の中で、中学生達が、まさに「台風と夜」に
憑りつかれるという話と整理すれば分かりやすいのかもしれない。そこには
「大人と子供の境界に立つ者の混乱やエネルギー」というような言葉を添えれば
更に評価としては成り立つ気もする。但し、この映画はかような「批評言語」を
やや超えたところにそびえているようにも見える。観ている方も、同様に
混乱させられてしまい、言葉を失っていくという道を辿っていかされるからだ。
それほどこの映画は不親切であるからだ。

 何か不親切か。この映画は多くの説明を省いている。ヒロインのお母さんとは何
なのか。「ただいま、おかえりなさい」を繰り返す人物とは一体何なのか。
三浦友和演じる教師の私生活は結局何なのか。そうしてなんといっても最大の不親切
はラストシーンで主人公の生死がどうなっているのかがさっぱり分からない点に
ある。
 となると監督の意図は、かような不親切さを過剰に観客に提供することで混乱
させる点にあると言えないか。ともすると僕らは映画とは最後は予定調和的に
種明かしがあるものだと思いがちである中で、相米監督は、そこに対して全くの
反論を出してきているのかもしれない。そうでも考えないと、数多くの説明不足が
理解できないと僕は思う。
 従い、観客は宙吊りにされたままでエンドタイトルを見る羽目になる。少なくとも
僕はそうであった。

 こういう映画体験は得難いと言える。30年前にもし観ていたら当時の僕は
冒頭に書いた整理だけで終わっていたかもしれない。時間と共に熟成するものは
ワインやウィスキーだけではないのだ。

「東京流れ者」  鈴木清順

 タイの日曜日の夕方にのんびり鑑賞した。本作は20年以上前に観たと思っていたが
全く記憶にない。もしかしたら今日が初めてだったのかもしれない。

 1時間半程度の作品なのだが、妙に長く感じた。本作には実に色々な要素が詰まっていて
どのように鑑賞していればよいのかが混乱してくる。

冒頭の東京は黒を基調としたハードボイルドな作風と言える。次は一転して白を基調
とした雪国であり、ヤクザ映画なのか農民一揆なのか分からないような展開になる。
そこからいきなり佐世保に転じ、今度はスラップスティックなどんちゃん騒ぎとなる。
最後は再度東京なのだが、そこはもはや抽象劇の舞台としか言いようがない。

 話の筋は、一応、「ヤクザの義理」ということなのかもしれないが、舞台も映像も
変容ぶりが激しい。従い鑑賞し終わって結構疲労感があり、それが長さを感じさせる原因
ではないかと思っているところだ。

 しかし、成程「清順美学」が炸裂している。1966年公開というからもう50年以上
前の作品であるが、今観ていても、その美学は全く古くない。いや、何より格好良いと
しかいいようがない。渡哲也も二谷英明も格好良いが、繰り返される色彩と不思議な
空間がとても格好良いのだ。

「タイ 謎解き町めぐり: 華人廟から都市の出自を知る」

タイに在住している。

新聞の書評等で知った本はアマゾンでどんどん購入する。キンドル
で読める本はキンドルで購入して、タイでいつでも読めるようにする。キンドルになって
いない本は紙の本を購入して日本の自宅に届けてもらっておく。たまの帰国の際に
溜まった本をトランクに入れてタイに持ってくる。その頃には何でその本を
買ったのか覚えていないことも多い。本書もそんな一冊である。

 東南アジアのどの国でも同じだが、実業界においてタイでの華僑の存在は大きく、かつ、
多い。但し、日本人の僕としては彼らを「華僑」といってしまうわけだったが、華僑の
中にも色々な出身地や民族に違いがあることを本書で習ったところだ。

 著者には申し訳ないが、僕は本書がどこまで正確なのかを判断する知見が無い。従い、
「正しい」という前提で読み進めた。読む限り、様々な中国の方が、いわば食い詰めて
祖国から異国の地に来たことが良く分かった。但し、悲壮感は余り感じられないように
本書は書かれている。むしろ、タイという国で自分の特技を活かして新天地を作るという
明るさが感じられた。音楽でいうなら「長調」である。

 その点は同じく日本を離れてタイという国で働き、生活している僕自身にも少し
重なる。勿論、日本の本社からタイに駐在を命じられている点では、タイに住み着いた
中国の方とはまったく異なる。

但し、時折ふとタイに空を見ながら故国を思う時に感じる心の有り様には似たものが
無いわけではないとも思う。そこには海外旅行と海外在住が全く違うものであることが
反映されているからだ。

 タイで仕事をしていると実に多くの中華系タイ人と出会う。彼らは既に第二世代、
第三世代だ。彼らが故郷に戻って生活をしたいと思っているようには到底見えない。
それでも自分たちのルーツがどこにあるのかについては実にしっかりと認識している
ことも良く分かる。そんな方々と、一緒に、もしくは競合的に、働くのも良い人生
経験と言える。その意味では本書はかような経験を深める一助となった。

「秋のソナタ」  イングリッドベルイマン 

 駐在先のバンコクで知り合った客先から紹介されて本作を鑑賞するきっかけを
得た。イングリッドベルイマンという監督の名前は良く聞いていたが作品を
鑑賞することは初めてである。見終わってぐったりした。

 平たくいうと母と娘の確執を徹底的に描いた話である。家族を省みず、好き放題に
やってきたピアニストである母親と、その母親にどうしょうもなくかき回されて
きた娘という設定だ。但し、観ていると、被害者然とした娘の言いようも相当な
ものがある。どちらが悪役なのかだんだん分からなくなってくるところも怖ろしい。

 その「怖ろしさ」が本作の鍵かもしれない。娘が母親の背後からじんわりと非難を
ささやき続ける場面は、例えばヒッチコックの「レベッカ」で有名なダンバース夫人の
シーンを思わせる。

 若しくはいくつかのアングルに至っては「エクソシスト」を思わせる。因みに
「エクソシスト」は1973年作であり、1978年に本作を撮ったベルイマンが同作
を鑑賞した可能性は否定できないと思った次第だ。

 もちろん本作の「怖ろしさ」をかような旧作の場面と比較することは全く本質的
ではないと思う。
本作の「怖ろしさ」とは人間の確執の本質的な「怖ろしさ」から起因すると考える。

ではその「人間の確執の本質」とは何か。それは、繋がりを断ち切ることが出来ない
人間同志というものは、繋がりを断ち切ることが出来ない以上、圧倒的に相手と
繋がるしかないということだと本作を観て感じた。
その「繋がり方」が愛情であろうと憎悪であろうと実は余り変わりはない。常に相手の
顔を直視することを強いられるという点では同じということではないだろうか。
本作で繰り返される顔のアップは、僕ら観客をして、彼らの顔を見ることを強いている。
それも延々と。
だからこそ画面が変わって北欧の風景になった時に、ほっとして大きくため息を
つくのだ。少なくとも僕はそうであった。

 バーグマンの遺作である。「カサブランカ」から随分遠くまで来たものだ。但し、
彼女は本当に女優であったということが良く分かった。

 本作を教えてくれた方は既に日本に帰国されている。他人から勧められた映画は
虚心坦懐に見るようにしている。そうでないと自分の限界が鑑賞の限界になるからだ。

「那覇の市場で古本屋」  宇田智子

イメージ 1

海外駐在している間もアマゾンで本を購入し続ける。

電子図書があればそれで買う。まだ電子化されていない書籍は紙の本で躊躇なく買う。たまに日本に帰国して溜まった本をトランクに詰める。トランクは実に重くなるがやむを得ない。持ち帰ってトランクを開いて改めて自分が購入した本を眺める。
どのような理由で購入したのか思い出せない本も多い。本書もそんな一冊である。

本屋とは何か。それを考えることは、書籍の電子化やアマゾン宅配が進んできた現在
こそ旬な論点であると僕は思う。大きく分けると「買い手にとっての本屋」と「本屋にとっての本屋」という二つの論点が可能なはずだ。

 後者から考える。

本屋は受難の時代と言えよう。時代の流れに押されて本屋数は減少著しい。
思いかえすと40年ほど前の僕の小学生時代には町の本屋は沢山あった。立ち読みという禁じ手ながらも、子供にとっても本屋はある種のテーマパークだった。町の本屋はどれもあまり特徴がなかったが、それでも繁盛しているように見えたものだ。
 現在はそうはいかない。よほど特徴がないと本屋という業態は人を集めることが
出来ない。本書の著者も漫然と本を置いているわけではないことは一読瞭然である。
「古本」と「沖縄」という「尖り方」が本書の著者の経営する本屋の特徴である。加えて、
本書のような「発信」も行う。そういう意識的な本屋の在り方こそが、これからの
本屋の生き残り戦略なのだ。本書で著者が書いているほんわかな風景の裏側にはかような
「戦い」があることは読み取る必要ある。

 では前者はどうなのか。

 本屋を散歩することは「出会い」の連続である。本屋とは「買うべき本」を決め、
まなじりを決して入るだけでは豊かな訪問とは言えない。むしろ頭も心もからっぽな状態で漫遊する場所である。
 ぼんやり歩いていると様々な罠にはまっていってしまう。罠を作っているのは諸々の
著者であり、本を美しく作っている出版社であり、それらをある種の意図と戦術を持って
並べる本屋たちなのだ。かくて衝動買いの連続を強いられる。衝動買いこそが本との
「出会い」であり、まさにテーマパークとも言える。「買い手にとっての本屋」
とはそういうものだ。

 著者は前記した「尖り方」で我々を罠に嵌めている。そう考えるととても清々しい。
著者の経営する「ウララ」の成功を祈る一方、たとえ上手く行かなくても、「本屋を巡る
罠」の仕掛け方はよくご理解されるに違いない。「罠」をしかける場所は一つではない。
きっと色々とあるだろう。著者のこれからが楽しみである。

奈良の風景

 京都より奈良が好きだとなんとなく言っているものの、はて、奈良とは
何なのかときちんと考えたことが無い気もする。そもそも奈良という
街はどんなものなのか把握できている気もしない。

 今年の7月に奈良を自転車で少し廻った。

 西大寺で自転車を借りて、秋篠寺、法華寺、海龍王寺、不退寺を
妻と巡った。

 各寺はいわばピンポイントの古都であり、その間を自転車で往く路は、農道であったり
住宅地の中の何の変哲のない道であったり、佐保川の堤防であったりする。
そこには特に「古都」などは無いし、なんの変哲もない風景としか言いようが無い。

 僕が聞かれて答える「好きな奈良」とはこの風景なのだろうかということが
実は気になり始めているところだ。例えば京都であるなら、いわゆる京都という街並みが
ある。奈良にはあまりそれがないのだ。

 海龍王寺の門から外を眺めた。かつて堀辰雄も同じ場所で外を眺めたと書いている
ことも思い出しながら。

Hyo-Tei 瓢亭

イメージ 1

イメージ 2

July 2018 at kyoto breakfast