くにたち蟄居日記 -48ページ目

アンコールワット

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アンコールワットの近く

半信半疑

 半信半疑という言葉について考えたところだ。

 正確にいうと、半信半疑という言葉をもっと突き詰めて「非信非疑」
という言葉を作ったとしたら、どんな意味なのだろうかと考えている
ところである。

 半信半疑という言葉にはなんとなくワクワク感があると僕は
感じる。
 「本当のような、騙されているような」というような
想いは、誰しもが今までの人生の中で何度か感じられてきてはいない
だろうか
 それも何となく、「やや強面の表情をしながら目尻だけ
ニヤケている」というような感じで。20年前のタイ駐在の中年男性は
良く深夜のカラオケでそんな顔をしていたものだ。「何か」に
「半信半疑」だったのだろうか。

 一方 非信非疑とは何か。「信じもしないし 疑いもしない」
という意味か。

 もちろんそんな言葉は無いものの、「信じもしないし疑いもしない」という
言葉には、僕には、何がしか痛さを伴って響くものがある。

 「何かを信じ切る強さも無ければ、物事をとことん疑い考え続ける知力も無い」
というように翻訳すると僕としてはとても反省感も出てしまう。ぼんやり
毎日を過ごしている自分の姿が浮かんで来た。

 この週末は家内とアンコールワットに来ている。寺院の回廊に
途方も無い量でレリーフが刻まれているのを見ていると、これは、
全信非疑という感じだろうか。宗教は怖ろしい。

「100分DE名著 ハンナ・アーレント」 仲正昌樹

 本書は「私たちにできるのは、この『分かりにくい』メッセージを反芻しつづけることだと思います」
という文章で締めくくっている。そのくせ本書は実に分かりやすい。そんな事を考えて少し笑って
しまった。

 本書で展開されるアーレントの考えは読んでいて怖ろしい。何が怖ろしいかというと自分自身が
十分にアイヒマンになってしまうかもしれないと思ってしまうからだ。もっと言うと既に
アイヒマンになっているのではないか。そんな問いかけをつきつけられているような気が
してくるからである。

 ナチスや、その構成員であるアイヒマンが生れてきた土壌を本書は丁寧に描き出している。
端的にいうとナチスを「歴史の教科書」に閉じ込めるのではなく、今の世界と日本の中で
同じような「土壌」の有無を検証する本と言える。検証結果として仲正はかなり強い警鐘を
鳴らしていると僕は読んだ。その警鐘の音の大きさが、すなわち本書の分かりやすさと言える。

 ここは仲正とアーレントに従って、再度冒頭に戻る。本書は分かりやすいだけに、実は、結構
危険な一冊ではないか。そう考えることが本書の正しい読者であるべきだ。少なくとも、
時間をおいて再読することにしたところだ。

「組織の不条理 - 日本軍の失敗に学ぶ 」

 佐藤優の紹介で本書を読む機会を得た。


 乱暴に纏めると本書は人間は完全に合理的になることは出来ないということを繰り返し
主張していると考える。その素材として太平洋戦争でのいくつかの例を挙げ、そこから
導く理論を現在のいくつかの企業事例に当てはめて行っている。その主張は面白いのだが、
やや違和感があったのは「合理的」という言葉の定義が厳密にされていないのでは
ないかという手続き論である。一体「合理的」とはどういう意味なのかという
点をもう少し深掘りできないものか」ということだ。


 僕の感覚では「合理」そのものが時代の変遷でコロコロ変わりうるものだと思う。

 例えば、幽霊というものを考えたい。ある時代の人間にとって自分で合理的に
理解と説明ができない事象に出会った場合、幽霊という「仮説」を設定して、
それに基づいて説明すると極めて合理的に理解と説明が出来たという局面が
あったのではないか。その意味では幽霊とはその局面において 合理的だった
と言えないだろうか。

 そこから振り返って本書を見ると、著者がいう「合理」も今の時代にたまたま合う「合理」に
すぎないかということだ。既に本書で例示された成功事例の企業も、本書を読んだ2018年段階
では、やや怪しくなっているものも散見されると思う。それも時代の変遷であり、それを理由に
本書を貶めることはアンフェアーであるのだ。そのくらい物事は変わるし、何が合理かという
ことも変わるのだ。

「探検家の日々本本 」

 角幡の本を纏めて読んでいる。正確に言うとキンドルで纏め買いしてしまった
ことで順番に読んでいるところだ。衝動買いと言えば衝動買いである。

 太陽の出ない氷原を冒険したり、雪男を探し回る不思議な男がどのような書評を
書くのかが本書のだいご味である。どんな本を選ぶのかという興味もあったが、
むしろその書評の書きっぷりが楽しい。

 しばしば書評において、対象とする本が中々出てこない。角幡は各書評の冒頭から
またもや自分の冒険を書き連ねる場面が多い。彼の冒険譚は面白いので、それは
それで楽しく読み進めるのだが、ふと、本書は書評ではなかったのかとも思ってしまう。
そう思い出した頃に対象とする本の話に漸くなっていく。そんな展開が多い。

 端的に言うと、角幡は各本を自分の為に読んでいるということだろう。角幡は自分の
経験と冒険から対象とする本を照らしている。本の照らし方は彼自身の照らし方でしかない。
彼のような冒険をしたこともない僕が、同じ角度で対象とする本を読めるわけは無い。ある意味では
良く知らない人がぶつぶつと独り言を言っているのを聞いていることに近い体験かもしれない。

 では何が面白いのか。例えば「極夜行」とは角幡が暗闇の中で辿った心象風景を追体験することが
面白い本であった。あれも角幡の独り言といって良い。その意味では本書も角幡が自身の経験を
踏まえて本を巡って辿る心象風景という点では「極夜行」と同じ構造と言える。

 僕にとって暗闇自体は理解不能であっても暗闇を辿る角幡の心象風景は少しわかる気がする。
同様に僕が読んだことはない本は、それを読んでいない以上、理解不要であるが、その本を辿る書評者の
心のありようは少しわかる気がする。まさに同じではないか。

 考えてみると書評本とは「僕が読んだことがない本を他人が評価しているという不思議な
本なのかもしれない。書評本が面白い理由はもう少し自分の中で突き詰めたい。

「雪男は向こうからやって来た 」

「極夜行」で著者を知り、2冊目として本作を読んだ。実に面白かった。

著者が何に惹かれているのかを考えることが本書を読むということである。

著者自身も言っている通り、著者は雪男そのものに惹かれて雪男探索隊に入ったわけでも
ないし、本書を書いたのではないと読む方が僕にはしっくりきた。

勿論探索行が失敗に終わってから一人で山に残り雪男を探したという著者は雪男自体にも
興味は強いことは間違いない。但し、より著者が惹かれたのは雪男自体ではなく「雪男に
取り憑かれてしまった一連の人達」である。色々な方々がなぜ雪男というものに強く惹かれ、
人生そのものが変わってしまったのか。それが本書を書いた著者のモチベーションであったに
違いない。

雪男に取り憑かれてしまう人々は、かような志向と性向を持った方である。本書の題名は「雪男は
向こうからやって来た」であるわけだが、まさに雪男にやって来られてしまった人達の悲劇と喜劇が本書で
展開される筋である。本書は短篇集とも言えるが、それはかような人達の一つ一つの物語を編み上げた
タペストリーにも似た本の作りになっているからだ。

では著者のところには雪男は来たのか。色々な見方があると思うが著者自身は雪男は
自身には来なかったと考えていると僕は断定したい。勿論来かかったことは確かだろうが、
著者は本書を書くことで雪男を相対化し、相対化したことで、雪男に取り憑かれなかった
のではないだろうか。

それにしても面白い著者を発見したと思っているところだ。もっと角幡という方の本を読むことにした。

「小さいおうち」  中島京子

 バンコクにある日本人会には小さな図書館がある。古くなった本が若干販売されている。
そこで10バーツで本書を買った。日本円にすると35円程度である。2010年6月の
第二版だ。8年前に印刷された本とは思えないくらい古びている。多くの人が借りて読んだ
ことが伺える。そんな本が手元に来たことはなんとなく嬉しい。

 映画「小さいおうち」を鑑賞したことで本作を読んだ。当たり前の話であるが、映画と
原作は似て非なるものである。

 映画は主人公が仕える奥様の恋愛話に終始していると言ってよい。もちろん原作でも
それが最大の話の筋ではあるが、それ以上に原作では戦時下の日本を書き込んでいる。
戦時下の東京の風物であるとか、主人公の故郷での生活等は読んでいて新鮮だった。

 「小さいおうち」は絵本の「ちいさいおうち」を下敷きにしているが、大きな違い
がある。絵本は「おうち」は最後まで残り、最後は田舎に引っ越すというハッピーエンド
である。一方、「小さいおうち」では「おうち」は空襲で焼けてしまい、後には何も
残らない結末を迎える。その意味では本作は悲劇というカテゴリーになるのかもしれない。

 但し、本作の読後感にはさっぱりとしたものがないだろうか。僕はなんとなく清々しく
本を閉じることが出来たところだ。それはある種の謎解きがあるからではないかと僕は
思う。主人公が永きに渡って秘めてきた謎が最後の章で一気に解かれていく。
 しかし、最後まで著者が語ってくれない部分もある。例えば著者は本書を以下二行で
結んでいる。

 「僕はけっして正しい答えを見つけられない。
  僕はいつも、聞かなかった問いの答えばかりを探している。」

 なんとなく読み過ごしそうだが、では「聞かなかった問い」とは何を意味しているのか。
これを考え出すと実は結構難問である。というか、分からないのだ。僕はそこに著者が
本書で書かなかったものがあるのではないかと思う。これは大きな余韻として僕には
残ったところだ。 

「岸辺の旅」  黒沢清

 さらりと鑑賞し終わった。黒沢清の映画を観るのは久しぶりである。

 黒沢の映画というと、ややケレンに満ちた作品が多いという印象だった。本作は淡々
としている。確かに行方不明三年後に亡霊で戻ってくる夫を迎える妻という設定自体は
黒沢に似つかわしい。但し、全体に妙に纏まりが良すぎるきらいがある。そんな
物足りなさを感じながらエンドロールを眺めた。

 本作の面白さは登場人物の誰が死者で誰が生者なのかが分からない点にあるべきだと
思う。生きている人だと思っていた人が実は死者だった。そんな展開が重層的に出てくると
本作は見応えが出てきたと思う。

思いつきやすいところで言おう。主人公の深津が実は死者ではないかと考えたらどうか。
夫を待ちわびて死を迎えた深津のいまわの際の白昼夢が本作だったとしたらどうか。その
場合、夫の方が生者であっても良い。生死、攻守が逆転する瞬間はきらりと光ったのでは
ないか。

 若しくは、細かいかもしれないが、夫の不倫相手だった蒼井優は深津と会う段階
では既に死者だったとしたらどうか。耳なし芳一のような趣にならないだろうか。

 但し、黒沢は死者生者の判定を亡霊と称する夫に任せてしまっている。夫演じる浅野が
登場する人物を死者か生者に分類し、固定してしまっている。黒沢としては本作を
ホラーにする積りは無かったということなのだろうが、彼の持ち味が出ていても
良かったと僕は思った次第だ。

 最後に。「岸辺の旅」の「岸辺」とは何か。彼岸と此岸を意味すると判断してしまって
良いのだろうか。生と死のあわいを旅する二人ということなのだろうか。この部分は
余韻が残る。観客が自分で想像する楽しみは、この題名には有る。

「モンテレッジョ 小さな村の旅する本屋の物語」 内田洋子

本に関する本である。本に関する本は結構多い。

 本が好きな人にはいくつかのパターンがある。言葉で言うと、読書家、愛書家、蔵書家
というところか。

 読書家は本を読むことが好きな人である。愛書家は、本という物体を好んでいる人だ。
蔵書家とは本をたくさん保有していることが好きな方である。以上は僕の分類であり、賛同
頂けない方もたくさんいるとは思っている。但し、本書の著者はその3つが程よく混ざった
方なのではないかと思いながら読み続けた。

 予め言っておくと、僕はアマゾンの熱心なユーザーである。最近はキンドルで電子図書
を読む練習もしている。理由としては「蔵書」が楽であるということと、そもそも電子化
が時代の趨勢であり、避けがたいと思っているからだ。但し、それだけに紙の本の
魅力が僕にとっては際立ってきていることも確かだ。

 本とは作家が書いた文字だけではない。

まず装丁家が腕を振るう本としての美しさというものがある。愛書家はそこに惹かれる。
本書も実に凝った装丁である。

 続いて紙の手触りというものがある。新しい本と古書との手触りの違いには大きいもの
がある。時間が齎す紙の変化というものか。古書の手触りには、なんとなく暖かみもあり、
午後の残光のような香りが漂うこともある。紙の質にもいろいろある。どのような紙を選ぶ
のかということを決める製本家の存在がある。

 そうして最後に言いたいのは「余白」だ。本を開いて余白がどう見えるのかということは
実は結構大事なことではないかと僕は思う。程よく余白が配置されている本は、造った
人のセンスと思いやりを感じさせるものだ。

 このように一冊の本を作り上げるにしても作家以外にもいろいろな人が加わって
いる。それが紙の本の総合的な価値になっている。電子版ではそこまでは味わえない
のだ。

 本書は本をめぐる著者の旅行記だ。著者が描き出すのはかつて本の行商に出た人たち
の旅行記でもある。旅行記で旅行記を書くという入れ子の構造を辿っていくと
一体誰がどこを旅しているのかが曖昧となっていく。その曖昧具合の心地よさが
本書の味わいだ。書いている内容にはいろいろと考えさせられる一方、そんな心地よさを
感じることが僕にとっての本書の正しい読み方であった。

三十六計、逃げるに如かず

最近「雑草はなぜそこに生えているのか」という本を読んだ

 雑草というと何となく「強いものだ」という印象があったが、本書を
読む限りむしろ逆に弱いものらしい。

 例えば多くの植物が生えている森などでは雑草は生き抜くことが難しいという。
森はいろいろな植物が生存を掛けて戦っている厳しい競争の場所にて、最終的な
勝者は大きく育つことが出来る=太陽光を得ることが出来る樹木と一部の下草のみ。

 雑草のような小さな植物は光を得られずに育たないそうだ。

 逆に道路の隙間など、他の植物が来ないような環境こそが雑草の生きることが出来る
場所であり、端的に言うと「戦わないこと」が雑草の基本戦略とのことである

 そういえば中国の古典「孫子」にも似たような言葉があることも思い
出した。「孫子」の「謀攻篇」の「孫子曰く、凡そ用兵の法は、
国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」とある。平たく言うと
「戦わないで勝つ」という話だ。孫子は雑草から学んだということなのか。

 雑草の強さ(勁さ)というものの本質は実は競争から逃げ回っているとしたら、
ある意味で示唆的だ。「逃げる」という言葉にまつわる悪いイメージに
我々も時としてミスリードされているのかもしれない。少し古いですが
「逃げるは恥だが役に立つ」とは、本当のことなのかもしれない。

 そういえば「三十六計、逃げるに如かず」という言葉も思い出した。「三十六計」
というのも中国の「兵法三十六計」という古典である。