くにたち蟄居日記 -49ページ目

「731  石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」 青木富貴子

本屋で平積みになっているのを見つけて衝動買いし、衝動読みした。731部隊の
本を読むのは10年以上ぶりだろうか。

 本書は「石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」という副題が付いている。本書で著者が
暴こうとしたものは何かを考えることが本書を読むという作業になる。

 本書を手に取る人の多くが知りたいと思う「闇」とは731部隊が実際に何をしていた
のかという事だろう。本書は、残念ながら、731部隊が何をしたのかを「闇」として
追及しているのではない。著者が考えている「闇」とは、731部隊という「史実」を
巡る様々な人間達を指している。その「人間達」の筆頭は731部隊を統率した石井四郎
であろうが、それ以上の巨大な「闇」と言えるのは米国であり、旧ソ連である。米国と
旧ソ連の前では、石井四郎は最早小心翼々とした一市民に過ぎない。冷戦勃発を背景
とした米国と旧ソ連の対立が細菌戦という一つの戦争の手段を争って手に入れよう
としている姿が本書であり、とりわけ、戦後の日本をリードした米国の動きが本書
の白眉と言える。

 本書で描かれる米国とは大義も正義もなく、ただ利己的に細菌戦に使える石井を独占
しようというエゴイストである。これはある意味驚くには当たらないだろう。国家
というものは基本的にはエゴイストであることは自明であろうし、米国もそれの
一例に過ぎない。但し、僕らは、ともすると、国家がエゴイストであることを忘れて
しまう場面がある。終戦後のGHQを迎えた日本人のかなりが、それを忘れていた場面
はなかっただろうか。それに対する冷や水が本書ともいえるのだ。

 731部隊の実態が今後どこまで分かってくるのか。当時の関係者も殆どが鬼籍に
入った状況で今後の究明が期待できるとは思えない。但し、731部隊への対応という
点は今なお僕らとして勉強出来るし、将来への応用も効くだろう。それが本書を
読むということかと僕は判断した

「モーニング・レイン」  井上一馬

 本書の舞台となっている高校に在籍したことで本書を知り、あっという間に
読了した次第である。作者の年齢を見る限り、僕は8年下の後輩ということに
なる。

 本書がどこまで実話でどこまでが創作なのかはわかる由もない。但し、読んでいて
かような事は全く気にならない。それくらいのリアリティーがあった。

 ここで僕が言うリアリティーとは小説としてのそれではない。「ある特定の時期での、
ある特定の場」に関するリアリティーである。
 本書を読んでいると、自分の母校の匂いが香る。当時の歓声や物音が聞こえてくる。
僕にとっての本書のリアリティーはそこにある。

 それはあの高校にいた人ではないと分からないだろう。但し、1973年という時代の
高校生に共通している部分もあるかもしれない。
 主人公がベトナム戦争を考えたり、タバコや飲酒を試してみたり、ヘッセや武者小路の
本を読んでみたり、つまり、「高校生らしい背伸び」をしている姿は案外あの時期の有りがちな姿
だったのかもしれない。今の高校生が本書を読んでどう思うのかを知りたい気もするが、どこまで
共感を得られるのか覚束ない。

 本書は映画「アメリカングラフィティ」に似ている。最終章の「19年後」などは
映画の最後の部分に丸々重なる。特に主人公のマドンナである「わっし」さんの
行方が全く分からないという部分は、映画で主人公が探し回る「白い車の美女」
とそっくりだ。本書に一か所だけ創作があるとしたら、ここだと思う。「わっしが
いまどこでなにをしているのか、僕にはなにもわからない」という一文は、本当に
綺麗にはまりすぎているからだ。

 ただし、創作だったとしても、それは真実だと言えないか。例え作者が
「わっし」さんの行方を知っていたにせよ、本質的な意味で彼女が「いまどこでなにを
しているのか」はわかりようもないだろうから。その苦味は確実に本書の最後の
読後感となっている。

 但し、苦みとは不味いことを意味しない。むしろ豊かな味と言える。麦酒の苦味が解るように
なったのは社会人になってからだったことも思い出した。

「雑草はなぜそこに生えているのか」  稲垣栄洋

楽しく読了した。感想は以下2点である。

 一点目。植物が持っている「戦略性」というものが大変勉強になった。

 動物同様に植物も常に生き残りを試されている。動物は言葉通り動けるだけにその行動
と戦略が見易い。動けない植物の行動と戦略は見えにくい。本書は、かかる「見えにくさ」
を「見易くした」という点で、まず読み応えがある。

 僕も個人的には雑草に興味があった。但し例えば道路の割れ目から雑草が生えている
のを見て「かように過酷な環境でも生えているとは強いな」という紋切的な興味である。
本書を読んで、初めて、かような環境を選んだ雑草の戦略というものが少し理解できた
気がしたところだ。端的に言うと、過酷な環境を選ぶことで、ほかの植物との競争を
避けるという「弱者の戦略」であったということである。「強さ」ではなくて「弱さ」
を土台にしてきているという著者の説明は納得性がある。

 二点目。著者はその論理の先に人間を見ようとしている。本書の後半は「人間論」と
言って良い。即ち、雑草から人間は何を学ぶべきかという趣旨だ。

 その論の立て方は面白い。弱さをベースとした戦略の立て方をというものは大いに
人間にとっても役立つという点には、僕は同意する。但し、やや違和感も感じながら
同意してきたことも確かだ。それは人間の持つ複雑性にある。

 植物はシンプルに生き残りこそが「善」である。あらゆる手段を尽くして生き残りを
目指す姿は簡潔であり、分かりやすい。一方、人間はどうか。人間にとって生き残りだけが
「善」なのだろうか。そこはもう少し複雑に出来ている気がしている。例えば、人間が
持つ「美学」というものを植物の論理の中に見つけることは出来ない。「美学」という
ような言葉は植物の辞書には載ってなさそうである。著者はその部分にやや目をつぶり
ながら、本書の後半を書いているようにも個人的には見えた。

 人間は自然から、まだまだ学ぶことが出来るのだろうと僕は思う。人間が解ったことは
まだまだ少しであろう。本書は、そんなチャレンジの一つである。大変有意義な読書に
なったことも最後に付け加えておく。

「三度目の殺人」  是枝裕和

 本作を見ていて、黒澤明の2つの作品を強く想った。

 まず「天国と地獄」である。

本作ではしばしば刑務所の面会室で福山と役所がガラス板を挟んで向かいあう場面
がある。その際にガラスの中で二人の顔が重なりあう場面が多い。いうまでもなく、
「天国と地獄」での三船と山崎の面会室での場面の映像処理と同じだ。

 本作では福山演じるエリート弁護士が次第に役所演じる容疑者に呑み込まれていく
ことが大きな「話の筋」といえる。福山が拘っていたペットの魚と役所が飼っていた
というカナリアというエピソードは、共にペット自身が画面に出てこないが強い印象
を与えている。加えて、お互いに娘がいるということ等を見ていても、そもそも二人は
互いにそっくりと言えないか。若しくはコインの裏表なのかもしれない。

 福山は初めは優秀な職業的弁護士としてのみ役所と向き合っている。しかし、
次第に役所の「磁場」に狂わされていく。しばしば役所は「空の器」と表現される
ほど掴みどころがない人物だが、その「器」は実は近寄る人を呑み込んでいく「空間」
でもある。福山だけではなく、その父親も呑み込まれた一人に違いあるまい。

 そんな福山が呑み込まれていく姿を、「天国と地獄」と同じ表現で表したのが
本作の是枝監督の狙いだと僕は思った。



 次に思ったのは黒澤明の「羅生門」である。

 本作には結論や謎解きは無い。多くの観客は、腑に落ちないまま映画館を後にした
はずだ。それが監督の狙いであるだけにやむなしと言える。

 黒澤の「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」の映画化であるわけだが、本作に
おいても、何が真実なのかは明かされない。いくつかのヒントめいたものが点在しており、
それらを読み解くことについ気が行ってしまうかもしれない。但し、それが本作の
正しい鑑賞かどうかは覚束ない。むしろ正しくないと断言したい。


 是枝はわざと結末をあいまいにしたと言っている。日頃、映画を見るにつけ結論が
あることに慣れている僕らとして辛い。但し、実人生において、きれいな結論が
あることがどれだけあるのだろうか。結局あいまいでしか有り得ないことばかり
ではないのか。芥川が構想し、黒澤と是枝が映像化したものは、そんな「結論の
無さ」ということではないか。

 本作においても結局誰が本当に殺人を犯したのかは分からない。「分からないことに
耐える」という姿勢が本作を正しく鑑賞することではなかろうか。そう考えることで
漸く自分を納得させるしかないのだ。


 最後に。役所が刑務所の自室にて小鳥に餌をやろうとする場面がある。小鳥は
画面には現れない。現れなくても、観客は、その小鳥は役所がかつて放したカナリア
であろうと確信させられてしまう。そんな美しいエピソードだ。ノアの箱舟から
ノアが飛ばした鳩も思ってしまう。鳩はオリーブの枝を咥えて箱舟に戻って
きた。カナリアが役所のところに戻ってきたとしたら、そこにはなにがしかの意味
があるのかもしれない。本作では十字架も印象的に登場していたことも
思い出したところだ。

「極夜行」

いくつかの新聞での書評を読んだことで本書を読むきっかけを得た。非常に考えさせられた。

著者は極夜行という冒険とは人間のシステムの外に出ると定義付けている。本書から
浮かび上がるのはかかる「人間のシステム」のとてつもない大きさと強さだと
僕は読んだ。

例えば著者は人間と犬との歴史を類推している。端的に言うと、狼族の中で人間と共生し
協働することを選んだものが犬になったと言う。であるとしたら、犬自体が既に人間の
システム下に入っている動物であり、極夜行で、そのような犬を連れて行くこと自体が、
十分に人間システムの中にいると言うことは出来ないか。従い、著者が目指したシステム外に
出るということは、犬を同伴させたことで初めから失敗しているのではないか。そのような見方もできるような気がする。

そう書いていると僕が著者を批判しているようにも思われる方もいるかもしれないが、それは
誤解である。著者くらい人間のシステムの強大さを皮膚感覚で感じた人は少ないのでは
ないかということだ。最終段階で携帯電話を使って情報を集めた自身を著者はしっかりと
書いている。著者が生き残るために人間システムに頼らざるを得なかったことを明確に
記している。極めて正直な姿勢だと僕は高く評価したい。

ここで考えるべきは、人間の強さというものは何に起因しているのかという点だろう。本書を
読む限り、自らのシステムを創り上げるという強い意志を持ち、実行してきた点にあるのでは
ないか。体もそう大きくなく、力も強くない哺乳類の人間が今日のように繁栄してきたのは
システムを創り上げたからであると整理すると、本書はとても腑に落ちてくる。

赤ん坊が産道を通って初めて見る光を著者は想う。その光とは、今日では多くの場合、
人間のシステムが作っている電気によって齎された光ではないだろうか。
赤ん坊は母親の体という小さなシステムから出てくる。出てきた場所は人間のシステム
ということなのだろう。
そこから更に人間システム外を目指した著者は、自身も感じられている通り、進化した赤ん坊と言える。
それが成功したのかしなかったのか。それは読者である僕らの本書の読み方ということだろう。

早朝の江ノ島

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肌寒い四月の朝。

台形という名前のカフェ

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台形という名前だそうだ。鶏肉の赤ワイン煮がランチメニュー。

東慶寺

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新緑と深緑と小林秀雄のお墓

江ノ電

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定点観測の場所

ミルクホールという図書館

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図書館