「三度目の殺人」 是枝裕和
本作を見ていて、黒澤明の2つの作品を強く想った。
まず「天国と地獄」である。
本作ではしばしば刑務所の面会室で福山と役所がガラス板を挟んで向かいあう場面
がある。その際にガラスの中で二人の顔が重なりあう場面が多い。いうまでもなく、
「天国と地獄」での三船と山崎の面会室での場面の映像処理と同じだ。
本作では福山演じるエリート弁護士が次第に役所演じる容疑者に呑み込まれていく
ことが大きな「話の筋」といえる。福山が拘っていたペットの魚と役所が飼っていた
というカナリアというエピソードは、共にペット自身が画面に出てこないが強い印象
を与えている。加えて、お互いに娘がいるということ等を見ていても、そもそも二人は
互いにそっくりと言えないか。若しくはコインの裏表なのかもしれない。
福山は初めは優秀な職業的弁護士としてのみ役所と向き合っている。しかし、
次第に役所の「磁場」に狂わされていく。しばしば役所は「空の器」と表現される
ほど掴みどころがない人物だが、その「器」は実は近寄る人を呑み込んでいく「空間」
でもある。福山だけではなく、その父親も呑み込まれた一人に違いあるまい。
そんな福山が呑み込まれていく姿を、「天国と地獄」と同じ表現で表したのが
本作の是枝監督の狙いだと僕は思った。
次に思ったのは黒澤明の「羅生門」である。
本作には結論や謎解きは無い。多くの観客は、腑に落ちないまま映画館を後にした
はずだ。それが監督の狙いであるだけにやむなしと言える。
黒澤の「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」の映画化であるわけだが、本作に
おいても、何が真実なのかは明かされない。いくつかのヒントめいたものが点在しており、
それらを読み解くことについ気が行ってしまうかもしれない。但し、それが本作の
正しい鑑賞かどうかは覚束ない。むしろ正しくないと断言したい。
是枝はわざと結末をあいまいにしたと言っている。日頃、映画を見るにつけ結論が
あることに慣れている僕らとして辛い。但し、実人生において、きれいな結論が
あることがどれだけあるのだろうか。結局あいまいでしか有り得ないことばかり
ではないのか。芥川が構想し、黒澤と是枝が映像化したものは、そんな「結論の
無さ」ということではないか。
本作においても結局誰が本当に殺人を犯したのかは分からない。「分からないことに
耐える」という姿勢が本作を正しく鑑賞することではなかろうか。そう考えることで
漸く自分を納得させるしかないのだ。
最後に。役所が刑務所の自室にて小鳥に餌をやろうとする場面がある。小鳥は
画面には現れない。現れなくても、観客は、その小鳥は役所がかつて放したカナリア
であろうと確信させられてしまう。そんな美しいエピソードだ。ノアの箱舟から
ノアが飛ばした鳩も思ってしまう。鳩はオリーブの枝を咥えて箱舟に戻って
きた。カナリアが役所のところに戻ってきたとしたら、そこにはなにがしかの意味
があるのかもしれない。本作では十字架も印象的に登場していたことも
思い出したところだ。
まず「天国と地獄」である。
本作ではしばしば刑務所の面会室で福山と役所がガラス板を挟んで向かいあう場面
がある。その際にガラスの中で二人の顔が重なりあう場面が多い。いうまでもなく、
「天国と地獄」での三船と山崎の面会室での場面の映像処理と同じだ。
本作では福山演じるエリート弁護士が次第に役所演じる容疑者に呑み込まれていく
ことが大きな「話の筋」といえる。福山が拘っていたペットの魚と役所が飼っていた
というカナリアというエピソードは、共にペット自身が画面に出てこないが強い印象
を与えている。加えて、お互いに娘がいるということ等を見ていても、そもそも二人は
互いにそっくりと言えないか。若しくはコインの裏表なのかもしれない。
福山は初めは優秀な職業的弁護士としてのみ役所と向き合っている。しかし、
次第に役所の「磁場」に狂わされていく。しばしば役所は「空の器」と表現される
ほど掴みどころがない人物だが、その「器」は実は近寄る人を呑み込んでいく「空間」
でもある。福山だけではなく、その父親も呑み込まれた一人に違いあるまい。
そんな福山が呑み込まれていく姿を、「天国と地獄」と同じ表現で表したのが
本作の是枝監督の狙いだと僕は思った。
次に思ったのは黒澤明の「羅生門」である。
本作には結論や謎解きは無い。多くの観客は、腑に落ちないまま映画館を後にした
はずだ。それが監督の狙いであるだけにやむなしと言える。
黒澤の「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」の映画化であるわけだが、本作に
おいても、何が真実なのかは明かされない。いくつかのヒントめいたものが点在しており、
それらを読み解くことについ気が行ってしまうかもしれない。但し、それが本作の
正しい鑑賞かどうかは覚束ない。むしろ正しくないと断言したい。
是枝はわざと結末をあいまいにしたと言っている。日頃、映画を見るにつけ結論が
あることに慣れている僕らとして辛い。但し、実人生において、きれいな結論が
あることがどれだけあるのだろうか。結局あいまいでしか有り得ないことばかり
ではないのか。芥川が構想し、黒澤と是枝が映像化したものは、そんな「結論の
無さ」ということではないか。
本作においても結局誰が本当に殺人を犯したのかは分からない。「分からないことに
耐える」という姿勢が本作を正しく鑑賞することではなかろうか。そう考えることで
漸く自分を納得させるしかないのだ。
最後に。役所が刑務所の自室にて小鳥に餌をやろうとする場面がある。小鳥は
画面には現れない。現れなくても、観客は、その小鳥は役所がかつて放したカナリア
であろうと確信させられてしまう。そんな美しいエピソードだ。ノアの箱舟から
ノアが飛ばした鳩も思ってしまう。鳩はオリーブの枝を咥えて箱舟に戻って
きた。カナリアが役所のところに戻ってきたとしたら、そこにはなにがしかの意味
があるのかもしれない。本作では十字架も印象的に登場していたことも
思い出したところだ。