くにたち蟄居日記 -51ページ目

「仙人と呼ばれた男」 

イメージ 1

 新聞の書評を読んで読む機会を得た。熊谷守一という方について、一度新聞で読んだことがあった。確か蟻の歩き方の観察という話だったと思う。すっかり忘れていたが本書を読んで思いだしたところだ。


 面白く読めたが、読後感としては、やや薄いものがあったことは否定できない。紹介される一つ一つの事象に対して、今一つ掘り下げが無いと感じた。


 例えば冒頭で熊谷が息子を無くした際に書いた絵の話が紹介される。子供を無くした画家が、その枕辺で子供の絵を描くという話は芸術家が持つ業の深さと言って良い。芥川龍之介の「地獄変」を思わせるエピソードだ。
 なぜ熊谷がかような絵を描けたのか、描かざるを得なかったのか。そこにもっと迫っていたなら、「芸術家とは」であるとか、「美とは何か」という深いテーマに持っていけると思う。但し、著者はそこを熊谷に迫らなかった。


 他にも熊谷の結婚であるとか貧困等も実に迫りがいのあるテーマのはずだ。作者も迫ろうとしていないわけではない。
 但し、彫りが薄い。それは何故なのだろうかと考えることも頭の訓練になる。


 本書で著者は多くの人に「熊谷を好きだ」と言わせている。著者自身も熊谷が大好きたったように見える。本来なら「なぜ破綻者に近い熊谷が多くの人に愛されたのか」と掘っていきたい気がする。但し、著者のかような愛情が、著者の持つスコップの切れ味を鈍らしたのではないか。そんな気がしてならない。描く主体=著者、と、掛れる客体=熊谷、との間の距離感というものは案外大事だったはずだ。その距離感が、やや近かったことで彫りという部分において少し薄くなってはいないか。それが読後感となった。

 一方、熊谷という方の絵と書はもっと見たくなった。これは本書と著者のおかげである。

「セーラー服と機関銃」 相米慎二

 相米慎二の名高い映画を漸く鑑賞する機会を得た。

 話の筋としてはとてつもなく出鱈目であり、荒唐無稽である。薬師丸ひろ子のアイドル映画という
区分で創ったのだろうが、それにしても話は徹頭徹尾ハチャメチャと言える。この映画を観て
感動したという人はいたのだろうか。
 加えてアイドル映画ということであるなら、本作での薬師丸は綺麗に撮られているのだろうか。
それも全く疑問である。アイドルを綺麗に撮影する岩井俊二であるとか、「時をかける少女」
で原田知世を撮った大林宜彦と比べても、相米が薬師丸を綺麗に撮りたいと思っていたとは思えない。

 では相米は何を撮っているのか。本作を観ている限り、長廻しであるとか、特殊な角度からの撮影
であるとか、実験映画に近いとしか思えない。若しくは、たまにはっとさせられるチンドン屋の場面
であるとか、汚さがむしろ美しく見えてしまう大久保の風景等が印象的だ。それらの場面は極めて
映画的であり、官能的とすら言える。相米は「アイドル映画」のふりをして「自主製作映画」に
近い地点に本作を引っ張っていっているように思える。

 相米は薬師丸を絞りあげたという。薬師丸も良くもかような滅茶苦茶な映画に最後まで耐えたと
思う。但し、それが彼女の出発点になったのではないかと想像することは楽しい。アイドルから
女優へと脱皮出来た薬師丸は相米に感謝しているような気がする。
 加えて、渡瀬恒彦も良く最後まで付き合ったものだ。そこは彼のプロ根性とでも言えば
良いのだろうか。

絶滅危惧種と外来種

僕は結構疑問を感じる言葉がある。最近では「絶滅危惧種」とか「外来種」だ。


 絶滅しそうな動植物を保護するという話は一見心温まる気がする。

 但し考えて見ると「地球の歴史は絶滅の歴史である」といっても過言ではないということは
ないだろうか。
 二ホンカワウソやトキに留まらず、例えば殆どの恐竜は絶滅してきた。絶滅するほうが普通だ
と考えるほうが現実的ではないだろうか。

 「外来種」という言葉にも、疑問を感じる。ブラックバスであるとかヒアリ
であるとかが言われるわけだが、そもそも日本のかなりの動植物はユーラシア大陸から
渡ってきた「外来種」ということではないかと思う。「渡り鳥の足にくっついて
日本に渡ってきた植物」と「買ってきたアリゲーターガーを川に捨てて来た」
という行為との間には 僕には余り本質的な違いを見つけられない。

 アリゲーターガーが在来種であるモロコやドジョウを食べつくして絶滅させる
という話があるわけだが、でも上に書いた通り、「普通は絶滅する」と考えると
別に大した話ではないのではないか。

 そう考えてみると、「我々人間は 強く現状維持を望んでいる」ということが
その裏側にあるような気がする。

 人間にとって現在の地球は大変心地よいと言える。体や力が凄く優れているわけ
でもない人類がかように繁栄すると昔の恐竜達は思いもしなかったろう。

 そんな僥倖を得た人間が、今のこの状態を維持したいと思う事はとても自然だ

 裏を返すと人間は「変化を望んでいる」とは到底思えない。我々も
「変化への対応だ!」と、良く仕事で言ったり言われたりするわけだが、どこか
しぶしぶとしている印象が強い。

 勿論「変化を起こす」ことは仕事でも大事なのだろうとは思う。但し、それは

 ・競合相手にとって「変化」は脅威になるから。

 ・自分で変化を起こさないと競合相手が変化を起こしてくるかもしれない。


 ということであり、その根底には「人間とは変化が嫌いだ。今が一番!」という
考え方があるような気がしてならない。

深大寺の釈迦如来像

 昨年九月に国宝に昇格したと聞いた。高校時代に初めて拝観したのはもう37年前の話か。

「南方熊楠 - 日本人の可能性の極限」

イメージ 1

南方関係の本はいくつか読んできている。それらと比較すると本書には余り新しみは無い。南方の
人生を時系列的に描いているが、本書ならではの独自の知見と意見が薄い印象が強かった。但し、そもそも南方に関する研究自体が遅れているという現実がある。本書でもしばしば「今後刊行される日記の中に出てくるかもしれないが」という枕言葉が出てきている。南方の業績は、今なお、土蔵の中に埋もれていると言える。


 本書を読みながら、改めて「南方とは『閉じられたもの』なのか『開かれたもの』なのか」という
ことをしきりと考えた。


 南方に関する研究の遅延を見る限り、南方は「閉じられているもの」に見える。また、世界を駆け巡った後に和歌山に籠り続けたという人生も、ある種の「閉そく性」を感じさせなくもない。南方は粘菌研究等の彼自身の世界に籠ったとも言えよう。だからこそ南方研究が遅れているのではないか。そう考えると「閉じた南方」という
姿が浮かび上がる。

 一方、彼が目指したものを垣間見ると、とても「開かれたもの」にも見える。学際を辿りながら、大きな宇宙を構想してきた南方は、ある意味ではとてつもない射程距離を持っていたのではないか。南方研究が遅れている理由としては、そもそも南方が何者なのかが判然としないということから来ているようにも思える。つまり「南方研究」の「責任窓口」が不明ではないかということだ。

 「閉じられたもの」が実は大変豊穣であるということは珍しい話ではない。南方はそんな一例になるのではないか。そんな期待をしながら、読了したところである。

「兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実」 

イメージ 1

 年末の日本で読了したところである。

徒然草は高校以来の、いわば愛読書だ。折にふれて読み返してきたものだ。作者の
兼好法師に関しても漠然と「市井の隠賢者」というようなイメージを持っていたに過ぎない。
従い、本書で描かれる兼好像は新鮮だった。すなわち隠者どころか世俗の中に塗れて
ある種のサラリーマンともいうべき処世像である。同じくサラリーマンである僕として
親近感を覚えないわけにはいかない。

思い返してみると、小林秀雄は早い段階から、兼好の持っていた好奇心と現実感を指摘
してきている。世の中で出てきた新奇なるものも確りと見て確りと書いたと言っていた。

 そんな小林の意見には、これまた漠然と賛同してきたのだが、それを兼好に可能に
させたものには思いは及ばなかった。兼好が俗世に塗れ、のたうちまわって行く中で
兼好が獲得することが出来た「視線」というものがそこにあったに違いないのだ。

振り返って自分はどうか。

兼好と同じく俗世に塗れていることは間違いない。但し、そこから獲得されるべき「視線」
というものを僕は手に入れていることが出来ているのか。それともただの視野狭窄に堕ちているのではないか。それが本書が僕に投げつけてくるものだ。

今回の本書は、兼好の「視点」の確からしさという点で僕には大いに意義ある
一冊となった。俗世を見極めるためには俗世の中にいなくてはならない。兼好が
知のアスリートとして稀有な存在だとしたら、それは彼が俗世の内側から物事を
冷徹に見極めたからにほかならない。

箱根駅伝を見ながら

 年始に日本で駅伝をTVで観戦した。青学が優勝したわけだが、青学の
原監督の発言を興味深く聞いた。発言趣旨は以下である。

・箱根駅伝は関東の大学だけではなく日本全ての地域の大学も参加すべき。
 最早、関東だけのイベントではなく、全国区のイベントとなっている。
 今回の視聴率も30%近くなっているほどだ。

・自分たちの競合は東洋大や早稲田大学の陸上部ではなく、野球やサッカー
 だと思っている。競合に勝っていくことで陸上が日本でもっと盛んになれる。

 僕が面白かったのは競合設定という部分だ。自分のライバルは誰なのかと
考えることは、突き詰めると「自分とは何なのか」という定義設定に収斂
していく。

 例えば有名なケースとしてはスタンフォードという会社がある。

 スタンフォードは今でこそは「スタンフォード大学」で、その名を残して
いるだけだが、かつてアメリカの鉄道会社として最大手であり、かかる大学を
設立する程、繁栄していた会社だった。
 但し、最終的にはトラック等の鉄道以外の輸送競合に負けて、他社との再編を
強いられた歴史とのことだ。

 ここで良く言われるのは「スタンフォードは自分を『鉄道会社』と定義して
いたことで他業界に負けた。もし自分を『人や物を運ぶ会社』と定義していたら、
時代の変化に対応出来たはずだ」という話である。

 原監督も同じことを言っているような気がする。自分を「駅伝チーム」とだけ
考えるのではなく、野球やサッカーと勝負していくべき「スポーツイベンター」
だと定義しているのだろう。かかる自己定義があるからこそ、上記の
ような発言に繋がっていると思った次第だ。

 年始となり、改めて「自分とは何か」を考えているところである。
 

「ロバートキャパ 写真集」 

イメージ 1

年末に一時帰国した日本で読了した。

岩波文庫初めての写真集であるそうだ。それなりの決断と判断があったのだと思うが、なぜロバートキャパの写真集の文庫化を今という時代にやったのかを考えることが本作を読む糸口となる。そう僕は思った。

キャパの視線はとことん人に向かっている。キャパが撮ろうとしたものは戦争だったのか、戦争の下の人間だったのか。

キャパの視線が人間に向かっている以上、後者のようにも思える。但し、人間から浮かび上がって来るものは戦争自体であることも確かだ。むしろ、「その下にいる人間」を撮影することが、正しい戦争の撮影の仕方なのかもしれない。それほど戦争とは人間の所作であるからだ。

本書を見ていて、そのまま現在に通じると驚いた方も多いだろうと僕は想像する。勿論、人々の服装や、背景の事物は古色蒼然としているにしても、人々が浮かべている表情は、現在の地球の至る所で見られているものと同じだ。そう「現在に通じる」と言った意味は、世界各地でキャパがかつて撮影してきたものと基本的には同じものが、今なお、繰り広げられているということだ。

僕は、岩波が本作を世に出した理由は、その同時代性にあると思った。

キャパの写真はクラシックなものではなく、まさに現代を「撃って」いないか。
キャパが仮に現在生きていたとしたら、彼がカメラを向ける対象も容易に想像できるのではないか。
であればこそ、岩波は、いまの時代に本作を世に問うことにしたのではないか。

そんな思いにとらわれながら本書の頁を辿った次第である。

スターウォーズ

日本に帰国してスターウォーズの最新作を鑑賞した。

中学時代から同シリーズを見てきた世代にとって、とても辛い映画である。主人公達の老いは
自分の老いであり、その死は、自分にとっての青春時代の死でありまもなくおとづれるであろう
自分の死だからだ。

食事というもの

娘達に言わせると妻の作る食事は美味しいとのことだ。

別に僕に異論があるわけではない。妻は上手に食事を作ることは間違いない。但し、
考えているうちに、ある種の普遍性を感じたところだ。

『私たちの星で」という本を読んでいて、以下の一文を見つけた。

「彼女の料理には、彼女という個人と民族の歴史が映し出されてーどこにいても、そこに満ちる
光のようにーいたのですね」

ある人が作る料理には、その人自身の歴史とその人が属する民族の歴史が反映されているという
視点にはっとした。妻が作る料理には、日本人としての民族の歴史と、彼女自身の歴史が
反映されているということだ。では、その場合の「彼女自身の歴史」とは何かというと、おそらくは
彼女の母親の料理がかなりの影響を占めているだろう。

赤ん坊とは直ぐにお腹が減る生き物に見える。そんな赤ん坊にとって母親が作る食事は命綱
と言える。そんな幼少の記憶は、記憶の中には残っていないにしても、無意識に残っているのでは
ないか。それが、成長した後にも残っていて、いつになっても母親の料理は美味しいと
刷り込まれているのではないか。そんな風に考えることで、なんとなく腑に落ちたところだ。それも
やや、暖かい気持ちで。