「モンテーニュの書斎」
小林秀雄の「徒然草」の中で、小林は以下の様に言っているのを読んだ。35年近い前の高校時代だ。
「兼好は誰にも似ていない。
よく引き合いに出される長明なぞには一番似ていない。
彼は、モンテエニュがやった事をやったのである。
モンテエニュが生まれる二百年も前に。モンテエニュより遥かに鋭敏に簡明に正確に」
この一文を読んだことで僕はエセーという本に興味を持ち、折に触れて断片的に読みながら、53歳を迎えた。
時が経つのは早く、その間に自分の体は衰えつつある中、精神面では進歩しないことにいささか呆れている。
徒然草の九十三段に「誰でも生を楽しまないのは死を恐れないからだ」とある。これは、正確には兼好の言葉
ではなく、「ある人」が言った言葉として紹介されている。素直とは言い難い兼好ゆえ正直には受け取り難い。
自分の言葉を「ある人」に語らせたのかもしれない。
その考え方がそのままエセーにも出ている事を教えてくれたのが本書だ。本書によるとモンテーニュは
以下を書いた。
「だから、死ぬのをいとわないことが見事にふさわしいといえるのは生きることを
愉しむ人たちだけなのである」
見事に兼好と響きあっている。小林は第九十三段にも言及しているので、上記モンテーニュの
一文を踏まえたのかもしれない。
エセーをどう読むかという本は多い。いや、正確に言うと「どう読んできたのか」を告白するような
本が多いのかもしれない。
小林が言った言葉を裏返すと、エセーとは徒然草に比べて「鋭敏ではなく、簡明ではなく、不正確」ということだ。
正確さについては分からないが、鋭敏ではなく簡明ではないという印象はややある。端的に言うと決して
読み易い本ではない。
そんな本を読む方法は散歩に似ている。どこに行くのか、どこまで行くのか、いつまで行くのか。それらが
はっきりしないで歩いていく散歩こそがエセーを読むことに似ている。本書も保苅という方が、どのように
散歩したのかという記録に過ぎない。
「過ぎない」と言ったが、本書を貶める積りはさらさらない。散歩というものが人間にとっていかに
大事なものかは例の枚挙のいとまがない。カント、国木田独歩、西田幾多郎、ルソー等、散歩で鳴らした
方も多いではないか。そんな散歩の一例が本書である。僕も僕なりにゆっくり歩いていくしかないのだ。
考えてみると高校時代から結構「歩いて」きたわけだ。
「兼好は誰にも似ていない。
よく引き合いに出される長明なぞには一番似ていない。
彼は、モンテエニュがやった事をやったのである。
モンテエニュが生まれる二百年も前に。モンテエニュより遥かに鋭敏に簡明に正確に」
この一文を読んだことで僕はエセーという本に興味を持ち、折に触れて断片的に読みながら、53歳を迎えた。
時が経つのは早く、その間に自分の体は衰えつつある中、精神面では進歩しないことにいささか呆れている。
徒然草の九十三段に「誰でも生を楽しまないのは死を恐れないからだ」とある。これは、正確には兼好の言葉
ではなく、「ある人」が言った言葉として紹介されている。素直とは言い難い兼好ゆえ正直には受け取り難い。
自分の言葉を「ある人」に語らせたのかもしれない。
その考え方がそのままエセーにも出ている事を教えてくれたのが本書だ。本書によるとモンテーニュは
以下を書いた。
「だから、死ぬのをいとわないことが見事にふさわしいといえるのは生きることを
愉しむ人たちだけなのである」
見事に兼好と響きあっている。小林は第九十三段にも言及しているので、上記モンテーニュの
一文を踏まえたのかもしれない。
エセーをどう読むかという本は多い。いや、正確に言うと「どう読んできたのか」を告白するような
本が多いのかもしれない。
小林が言った言葉を裏返すと、エセーとは徒然草に比べて「鋭敏ではなく、簡明ではなく、不正確」ということだ。
正確さについては分からないが、鋭敏ではなく簡明ではないという印象はややある。端的に言うと決して
読み易い本ではない。
そんな本を読む方法は散歩に似ている。どこに行くのか、どこまで行くのか、いつまで行くのか。それらが
はっきりしないで歩いていく散歩こそがエセーを読むことに似ている。本書も保苅という方が、どのように
散歩したのかという記録に過ぎない。
「過ぎない」と言ったが、本書を貶める積りはさらさらない。散歩というものが人間にとっていかに
大事なものかは例の枚挙のいとまがない。カント、国木田独歩、西田幾多郎、ルソー等、散歩で鳴らした
方も多いではないか。そんな散歩の一例が本書である。僕も僕なりにゆっくり歩いていくしかないのだ。
考えてみると高校時代から結構「歩いて」きたわけだ。
「だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人」

本書で描かれるバンコクに現在(2017年11月)在住していることで本書を読むきっかけを得た。
本書で紹介される方々は、いずれも自らの居場所を日本ではなく海外に選んだ方である。海外を選んだ
理由は様々だ。日本に職場を得られなかった方もいるし、自らのジェンダーが日本で理解が得られなかった方も
いる。若しくは、自らが選んだ配偶者や家族構成によってタイに住むことになった方もいる。
そこには「選んだ」という積極性があった方もいるし、「選ばざるを得なかった」という受動的な方もいる。
但し、いずれにせよ日本では適切な居場所が見つからなかったという点では通底している。一般的に「海外に雄飛する」
ことが苦手とされがちな日本人にとって、日本に居場所が見つからないという状況は、特殊であると
僕は思う。そういう特殊性を知ることが本書の第一義的な読み方だろう。
ではなぜタイだったのか。
本書を読む限り、タイという国の持つ「包容性」というものが浮かび上がってくる。その「包容性」
とは、ジェンダーや性に対する自由度やあけっぴろげさ、ということでもあろう。若しくは、日本人
という外国人への比較的暖かい眼差しというものもあるのかもしれない。
その部分は、現在タイに住んでいる僕にしても、同感出来る部分は大きい。僕自身は日本、タイ、インドネシア
という三か国しか住んだことがないので、自分の持った印象がどこまで正しいか分からない。それでも、
日本人にとってタイは相当住み心地が良い国だろう。そんな居心地が、日本で居場所が見つからない日本人を
惹き付けることは容易に想像は付く。
勿論、タイという国は十分に複雑であり、光と影が、ある意味, 綺麗にグラデーションされている国だ。
能天気にタイを「住みやすい国だ」と言う積りも毛頭ない。但し、きちんと「光と影」が
ある方が分かり易いと言える。そんなグラデーションの確かさがタイの包容力の一部を、確実に、形成している。
最後に感じたことは、本書の登場人物達は、これからどうなっていくのだろうかという点だ。本書で
描かれる多くの方は将来の展望が描きにくい状況にあるように書かれている。そもそも著者自身も、
本書の登場人物に近い地点に立っている点も、かかる文調にスパイスを利かせている。
その点に関しては本書には結論は無い。またそれを書く事も本書は目的としていないはずだ。
繰り返しになるが、本書を読むと改めてタイという国の、「光と影」が齎す一種の「豊饒性」というもの
を感じることが出来る。それを裏返すと「光」だけを無闇に追い求めて来た日本という社会の一種の
「貧しさ」というものが読み取れるのかもしれない。ところで、いま偶然「無闇」という言葉を使い、
「闇が無い」という意味の深さに驚いた次第でもある。
本書で紹介される方々は、いずれも自らの居場所を日本ではなく海外に選んだ方である。海外を選んだ
理由は様々だ。日本に職場を得られなかった方もいるし、自らのジェンダーが日本で理解が得られなかった方も
いる。若しくは、自らが選んだ配偶者や家族構成によってタイに住むことになった方もいる。
そこには「選んだ」という積極性があった方もいるし、「選ばざるを得なかった」という受動的な方もいる。
但し、いずれにせよ日本では適切な居場所が見つからなかったという点では通底している。一般的に「海外に雄飛する」
ことが苦手とされがちな日本人にとって、日本に居場所が見つからないという状況は、特殊であると
僕は思う。そういう特殊性を知ることが本書の第一義的な読み方だろう。
ではなぜタイだったのか。
本書を読む限り、タイという国の持つ「包容性」というものが浮かび上がってくる。その「包容性」
とは、ジェンダーや性に対する自由度やあけっぴろげさ、ということでもあろう。若しくは、日本人
という外国人への比較的暖かい眼差しというものもあるのかもしれない。
その部分は、現在タイに住んでいる僕にしても、同感出来る部分は大きい。僕自身は日本、タイ、インドネシア
という三か国しか住んだことがないので、自分の持った印象がどこまで正しいか分からない。それでも、
日本人にとってタイは相当住み心地が良い国だろう。そんな居心地が、日本で居場所が見つからない日本人を
惹き付けることは容易に想像は付く。
勿論、タイという国は十分に複雑であり、光と影が、ある意味, 綺麗にグラデーションされている国だ。
能天気にタイを「住みやすい国だ」と言う積りも毛頭ない。但し、きちんと「光と影」が
ある方が分かり易いと言える。そんなグラデーションの確かさがタイの包容力の一部を、確実に、形成している。
最後に感じたことは、本書の登場人物達は、これからどうなっていくのだろうかという点だ。本書で
描かれる多くの方は将来の展望が描きにくい状況にあるように書かれている。そもそも著者自身も、
本書の登場人物に近い地点に立っている点も、かかる文調にスパイスを利かせている。
その点に関しては本書には結論は無い。またそれを書く事も本書は目的としていないはずだ。
繰り返しになるが、本書を読むと改めてタイという国の、「光と影」が齎す一種の「豊饒性」というもの
を感じることが出来る。それを裏返すと「光」だけを無闇に追い求めて来た日本という社会の一種の
「貧しさ」というものが読み取れるのかもしれない。ところで、いま偶然「無闇」という言葉を使い、
「闇が無い」という意味の深さに驚いた次第でもある。
忖度という言葉
今日の日経「春秋」に以下が出ていた。読んで違和感を感じた次第だ。
「日本の労働力人口は男性3800万人、女性2900万人。その差は年々縮まる。受賞者
の一人で国連事務次長・軍縮担当上級代表の中満泉氏は、後に続く女性たちに
「野心を持て」と呼びかけた。そのためには日々の仕事で「主張する、媚(こ)びない、
忖度(そんたく)しない」ことが大事だ、とも。女性に限らず、心にとめたい言葉だ。」
違和感は「主張する、媚びない、忖度しない」という部分だ。執筆者はそれを「大事だ」と
言っているが、そもそも、それらが出来ない理由は何なのかという点を深堀しないとやや浅い
主張に見える。特に、「忖度」という言葉は、今年の流行語大賞らしいが、かかる流行語
を使ってしまっている段階で、軽佻浮薄に見えてしまわないか。
我々は「忖度」に似た言葉をいくつか持っている。例えば「阿吽の呼吸」であるとか
「以心伝心」等だ。
僕の理解ではそれらの二つの言葉は「良い意味」で使われてきている。
平たく言うと「言葉に因らないコミュニケーション」ということだ。「言わなくても分かりあう間柄」
こそが、組織の人間関係ではある種の理想的関係であるとされた時間が永かったと思う。
もっと遡ると、禅にある「不立文字」あたりまで起源が辿れるのではないか。
そういう「日本人の源流にあるコミュニケーション観」というものがそもそも存在し、それが
どのように現代において機能不全を起こしているのかという点を、「本当に機能不全を起こして
いるのかどうか」という地点から検証するということが大事だ。
そこを怠り、一部の政治シーンで「忖度」による問題が起こったからと言って、流行語に
なってしまうことは、いかがなものかと思ってしまう。
では「忖度」はすべきかすべきではないのかと問われたら僕はどう答えるのか。
色々考えても結論は無いが、むしろ「結論は無い」という事が正しくプラクティカルな
返事と開き直る。
「主張する、媚びない、忖度しない」とは、時に大事だが、それは「時に」の、「時」の状況にも
因るだろう。
ではどのような「時」なのか。
それを考えることを日本語では「空気を読む」と言う。つまり、かかる主張は端的に言うと「空気を読むな」
というKY賛美主張になるのだ。
ではKYとは何か。「そういえば かの有名な本の『失敗の本質』では空気を読んだ弊害が沢山
出てきていたな」などと考え始めると、休日が潰れてしまいそうにて、ここで止めよう。
以前の会社の上司からは「時としてKYになることはとても大事だ」とよく怒られたことも思いだした。
文章と対話
僕らの会話や対話は実にとりとめないことが多い。天気の話をしていたはずが気が付いたら、
ねじの廻し方の話になっている。そんな経験は誰にでもあるのではないか。
一方、その会話を正確に書き取って読んだとしたら、おそらくはその話の辿りのとりとめの
なさにある種の狂人を見つけるかもしれない。
この話の真実は対話ではなく、書き取って文章化したらどうかという点にある。
要は、書き言葉=文字には、脈絡が無いと意味が辿れないである一方、話には脈絡が無くても
辿れるという点にある。読書は著者との対話だと良くいうが、それはそもそも対話というものを
理解していないのではないか
本が好きなのかどうか
先日ある方に「貴方は本が好きなのですか?」と聞かれて以来、「本が好きとはどういう
ことか」を考えることが増えた。
僕の感覚では
1 本を道具、ツールとして考える
2 本自体が目的になっている
という2パターンがある。
1の場合とは「本は情報収集の為の道具である」という考え方だ。つまり読んで
しまえば 極論するとその本は不要になり、容易にブックオフに行って売ってしまう
ようなパターンである。また情報収集が目的ゆえ、本だけではなくTVやネットでも
同様に熱心に情報を集める方なのだろう。
一方2のパターンは「本を持っていることが目的だ」というものかと思う。本が身の
回りにあることがある種の快楽になっている方は案外多い。蔵書印を作って入手した本に
判を押す方もいる。僕も、ややこの部類に自分がいるような気がしている。また、本棚がある種の
インテリアである事も、飾り用の本(中身は無くカバーだけ)を売っているのを見ても
容易に理解出来る。
ここまでは簡単に思いついたのだが、だんだん第三のパターンがあるのでは
ないかと思ってきている。
「本を読む自分は好ましい」
というものである。
読書家というとなんとなくインテリでありイメージ良い。そのイメージ獲得が目的化すると
、「本好きの自分」を演出してしまうことになる。
例えば戦前は「岩波文庫が新刊を出すと、多くの人が題名も知らないままに
並んで買いに行く」ということがあったそうだ。これは明らかに「岩波文庫を
読んでいるという自分が好きだ」ということなのだろう。
この第3のパターンは結構本以外でも使える。「本」の代わりに「運動」
であるとか「ボランティア」であるとか、そのまま使える。
この第3パターンは煎じ詰めると「自分で自分に騙されている」という話にも
なっていく。我々は何かをやる際に、その自分の動機が何なのか、分かっている
ようで分かっていない。本を読むという作業一つとっても「一体なんで自分は本を読むのか」
であるとか案外分からないものだ。そういうことを突き詰めるのも結構面白い。
ということで、本に関してもは、自分も十分に第3のパターンにはまっている
点に気が付いて、やや呆れたところだ。
「突然炎のごとく」

以前から観たいと思っていた本作を漸く鑑賞することが出来た。
本作は1961年フランス製作の映画である。1964年に日本で産まれた僕が2017年に
本作を観て斬新さに唸ってしまうという事実は、僕にとっては重い。いや、本作を重いというべきでは
なかろう。軽やかな三角関係の話だからだ。
三角関係の末、二人の男女が死に一人の男が生き残る。かような物語は本来軽く出来るわけがない。
これが邦画だったとしたら、相当に情念に満ちた映画になっていくはずである。
ところが本作はそうならない。
男二人を徹頭徹尾翻弄し続けるヒロインの奔放な姿が、余りに清々しい。勿論演じたジャンヌモローが
余りに当たり役だったこともあろう。
但し、それだけではない。映像で語られる風物の美しさ、加えて もはや贅沢品とも言えるモノクロ映画
の陰影に満ちた画像というものが、清々しさを支えている。実際、いくつかの場面は溜息が出る程に美しい。
その風景が、語られる狂気譚を浄化してしまっている。
それにしても1961年の観客は本作をどのように評価したのだろうか。「若者の映画は分からない」
とでも首を振りながら映画館からの帰途についてのだろうか。それがヌーベルバーグというもの
だったのだろうか。
そんな本作も今年で56歳になったわけだ。
本作は1961年フランス製作の映画である。1964年に日本で産まれた僕が2017年に
本作を観て斬新さに唸ってしまうという事実は、僕にとっては重い。いや、本作を重いというべきでは
なかろう。軽やかな三角関係の話だからだ。
三角関係の末、二人の男女が死に一人の男が生き残る。かような物語は本来軽く出来るわけがない。
これが邦画だったとしたら、相当に情念に満ちた映画になっていくはずである。
ところが本作はそうならない。
男二人を徹頭徹尾翻弄し続けるヒロインの奔放な姿が、余りに清々しい。勿論演じたジャンヌモローが
余りに当たり役だったこともあろう。
但し、それだけではない。映像で語られる風物の美しさ、加えて もはや贅沢品とも言えるモノクロ映画
の陰影に満ちた画像というものが、清々しさを支えている。実際、いくつかの場面は溜息が出る程に美しい。
その風景が、語られる狂気譚を浄化してしまっている。
それにしても1961年の観客は本作をどのように評価したのだろうか。「若者の映画は分からない」
とでも首を振りながら映画館からの帰途についてのだろうか。それがヌーベルバーグというもの
だったのだろうか。
そんな本作も今年で56歳になったわけだ。
矮小された何かを解放することにあるのかもしれない
「私は、若いころは、見せびらかすために勉強した。
その後は、賢くなるために、少し勉強した。
いまは愉しむためにやっている。
金を儲けるためにやったことは一度だってない」
500年まえのモンテーニュの言葉である。一読して、考え込んでしまった。自分を振り返って、何の為に
勉強したのか、何に役に立っているのか、そも そも何を勉強したのかということを考えると、答えが出てこない
からだ。
僕らは(というか僕だけかもしれないが)勉強とは実用的なものである気がする。受験勉強とは、言葉通り
入学試験の為の勉強だし、社会に出てからは業務に関連するものの勉強が主体だ。
それらはそれらで、その折々に必要な勉強なのだから否定するものではなかろう。但し、「勉強」を
それだけに矮小してしまっているきらいはある。
モンテーニュを読むということは、矮小された何かを解放することにあるのかもしれない。
「東芝の悲劇」

海外在住にてキンドルで読んだ。今後は電子図書の時代になるであろうから、いまからタブレットで本を読む
訓練が必要だと思っている。本自体を愛する「愛書家」という趣味の有り方も難しくなるのかもしれない。
本書は、いままさに「旬」を迎えている東芝を扱っている。「旬を迎える」というと普通なら、慶事につかわれる
言葉かと思うが、今の東芝の状態は、東芝だけではなく今の日本全体にも通用するものであるから、どうしても
「旬」という言葉を使いたくなってくる。
本書で描かれるその時々の東芝の経営者の姿は、ある意味では斬新なものではない。昔からあり、今後もあるであろうステレオタイプな人たちである。シェイクスピアが今生きていたら戯曲にしてくれと頼んでみたいが
彼は「でも、この手の話は昔からあって、むしろ陳腐だよ」と言って断るかもしれない。それほどある意味では
「普通」の話である。
僕はむしろ世の経営者たちが本書を読んでどのように思うのかを知りたい。結構身につまされる方も多いのではないかと思う。自分は全く違う人間だと言い切れる方がどこまでいるのか。
結局、人間の「業」という話になっていく。名誉欲や、その為の権力闘争とは、人間にビルトインされている
本能の一部だと考える方が腑に落ちる。「そういうものだ」と言ってしまうと、それで終わってしまうが、
実際にはそういうものなのだと僕は思う。
では、どうすれば良いのか。本書の著者も、答えは出してきていないと思う。また、答えなどもありようが
ない。人間が今後も進化する中で「欲」が減るものでもなかろう。敢えていうなら「欲」の暴発を防止する
法律やルールという対処療法はあるかもしれないという程度だ。
但し 根本的な治療が出来ない宿疴に対しては、対処療法しかない。そう割り切って僕らは進むしかないのだろう。東芝の教訓というものがあるなら、かかる法律やルールの見直しということに収斂するしかないだろう。それが最後の読後感になった。
訓練が必要だと思っている。本自体を愛する「愛書家」という趣味の有り方も難しくなるのかもしれない。
本書は、いままさに「旬」を迎えている東芝を扱っている。「旬を迎える」というと普通なら、慶事につかわれる
言葉かと思うが、今の東芝の状態は、東芝だけではなく今の日本全体にも通用するものであるから、どうしても
「旬」という言葉を使いたくなってくる。
本書で描かれるその時々の東芝の経営者の姿は、ある意味では斬新なものではない。昔からあり、今後もあるであろうステレオタイプな人たちである。シェイクスピアが今生きていたら戯曲にしてくれと頼んでみたいが
彼は「でも、この手の話は昔からあって、むしろ陳腐だよ」と言って断るかもしれない。それほどある意味では
「普通」の話である。
僕はむしろ世の経営者たちが本書を読んでどのように思うのかを知りたい。結構身につまされる方も多いのではないかと思う。自分は全く違う人間だと言い切れる方がどこまでいるのか。
結局、人間の「業」という話になっていく。名誉欲や、その為の権力闘争とは、人間にビルトインされている
本能の一部だと考える方が腑に落ちる。「そういうものだ」と言ってしまうと、それで終わってしまうが、
実際にはそういうものなのだと僕は思う。
では、どうすれば良いのか。本書の著者も、答えは出してきていないと思う。また、答えなどもありようが
ない。人間が今後も進化する中で「欲」が減るものでもなかろう。敢えていうなら「欲」の暴発を防止する
法律やルールという対処療法はあるかもしれないという程度だ。
但し 根本的な治療が出来ない宿疴に対しては、対処療法しかない。そう割り切って僕らは進むしかないのだろう。東芝の教訓というものがあるなら、かかる法律やルールの見直しということに収斂するしかないだろう。それが最後の読後感になった。
「死よりも遠くへ」 吉岡忍
出張中に読み始めた。一気に読み終えた。
本作は人の死を取り上げた六篇のノンフィクションを集めた一巻である。
本作は人の死を取り上げた六篇のノンフィクションを集めた一巻である。
六篇は、各々別個の「死」を扱っているので、ノンフィクション集とも言えるのではないかと思う。しかし、六篇に通底する作者の眼差しと興味の有り様というものがあり、それが六篇をして一巻の物語になさしめているものがある。
著者は一つ一つの「死」に時代の終わりを見ている。一番簡単な例は最後の昭和天皇の崩御を扱った一編だ。
当たり前のことながら、そこに著者は昭和の終焉を重ねている。但し、その前に置いた五編も同様に昭和のある時代の終わりを象徴させている。それは例えば、国鉄民営化であり、学生運動の蹉跌であり、時代を画したアイドルの死であり、豊田商事の最後である。
著者はかかる五編で各々の昭和の中の小さな時代の終わりを個別に描きだし、
最後に昭和天皇の死去を持ってくることで、僕らにとって昭和とは何だったのかを総括的に
考えさせる。それが本作の構成であり、昭和を見つめる著者の視線の有り様ではないか。僕は
そう理解した。
著者は一つ一つの「死」に時代の終わりを見ている。一番簡単な例は最後の昭和天皇の崩御を扱った一編だ。
当たり前のことながら、そこに著者は昭和の終焉を重ねている。但し、その前に置いた五編も同様に昭和のある時代の終わりを象徴させている。それは例えば、国鉄民営化であり、学生運動の蹉跌であり、時代を画したアイドルの死であり、豊田商事の最後である。
著者はかかる五編で各々の昭和の中の小さな時代の終わりを個別に描きだし、
最後に昭和天皇の死去を持ってくることで、僕らにとって昭和とは何だったのかを総括的に
考えさせる。それが本作の構成であり、昭和を見つめる著者の視線の有り様ではないか。僕は
そう理解した。